第8話 雨の匂い、龍の影
『愛するシャルロッテ
元気に変わらず過ごしていますか?
城の者とは上手くやっているでしょうか?
トーマスにはよく言い聞かせてあるので、彼が首尾よく城のことはやってくれると思います。城の者は私が砦に出ることに慣れていますから。
ロッテの持たせてくれたハンカチは、実は汚さないように懐にしまってあります。先日、部下にバレてしまい笑われました。酷い部下がいたものです。
私もあなたの加護で怪我ひとつなく、国境周辺を回っています。
あなたも私の力をいつも感じてくれているといいのですが。
なるべく早く帰り、あなたの隣に滑り込むことを考えています。
あなたの守護龍 ユーリエ』
◇
ユーリ様は誤解されやすい。
愛想がない、冷たそう、堅物などと評されるけれど、実はとてもロマンティックで誠実かつ情の深い方だ。
でもそれは誰にも秘密で、教える気はない。
できることならいつまでもわたしだけのユーリ様でいてほしいから。
独り占めしたいという気持ちは愚かかしら?
教義では『幸福は分かち合うもの』とあるけれど、『愛する人』を誰かと分かち合うのは到底、無理なことだと思う。
みなしごだったわたしを見つけてくれた、たったひとりの人。
わたしの愛は、たぶん、重い。
◇
爽やかに思えた夏の始まりだったのに、曇天が続いた。今にも降りそう。
でも領地が水不足になってからでは困るので、今のうちに湖水を蓄えておいた方がいいと、城の者たちは口々に言う。
雨もまた、天からの授かり物だということ。
こんな天気の日に申し訳なく思いながら、手紙を持たせて早馬を走らせてもらう。
わたしの中に龍の、力強く神聖な力が回っているように、ユーリ様の中にもわたしの聖力が欠片でも届いているはず。
離れていても繋がっている。それが力になる。
◇
執務室には大きくて重そうな机が置かれ、たくさんの書棚、そして書類にまみれていた。
文官たちが書類の整理に当たって、黙々と仕事をしている。
ここへ来たのは、パズに領地のことを教わるためだ。
部屋の中央には大テーブルがあり、普段、作戦会議などが開かれる時に使われるらしい。
そこにパズは1枚の地図を広げた。
その地図は思ったより大きかった。
「辺境伯領は教皇様から下賜されたことはご存知と思いますが、元男爵家だった頃よりずっと大きくなり、今の領地はこの線の内側になります」
「ずいぶん広いのね」
「そう思われるかもしれませんが、なにしろ丘陵地と山岳地帯がありますから、他の領地に比べると面積に応じた作物の収穫量も、人口も少ないです。そして、残念ながら魔獣が現れる地域も含まれています」
◇
湖畔に向けて、庭園を散歩していた時のことだ。
家紋である赤い薔薇園を歩いていると、ふと違和感を覚えた。
本能的になにか恐怖のようなものを覚えて身構える。
そして、薔薇を改めてじっと見た。
念入りに手入れされているはずの薔薇の葉、その縁が黒く焼け焦げたように見える。
「これだ」と思って手を伸ばすと、チリっと小さく指が痺れた。刺繍針を間違えて刺してしまった時のように。
つい「痛い!」と言ってしまい、小さな傷だったのにシイナを驚かせてしまった。
聖女の欠点は、自分を癒すことができないこと。
指先に赤い血が、ぷつんとわざと描かれたポイントのように小さく盛り上がった。
シイナには自分は癒せないことを教え、直接触れないように気をつけながら聖力を与え魔力を取り除いた。
これが『黒化』。
小さなところから少しずつ進行する、悪い病気のようなものだ。
『黒化』は普通、魔物が運んでくる。結婚祝いのつもりなのかもしれない。
元通り、濃緑色に葉は戻り、指の傷に慌てたシイナと共に城に戻った。
◇
パズは領地の限りなく西端にある、建物の印に指をやった。
「ここが今回、ご主人様の向かわれているところです。山に入った獣撃ちの者たちから、魔獣らしきものを見たと報告が入りました。⋯⋯祝祭の日である結婚式に、すぐ砦に迎えというのは正直、むごい指示であると誰もが思いましたし、ご主人様には残ってもらうという案も出たのですが」
「いいのよ。わたしもあの方もそれが仕事なのよ」
「⋯⋯そんなふうに物事を諦めてはいけません」
パズは、なぜか彼の方が不服そうな顔をした。
言わなくても、わたしが、そしてあの方がこのことに多少の不満を持っているのは明らかであるにも関わらず。
それとも、わたしは情のない女だと思ったのかしら。24時間、休むことなくわたしたちは光の道で繋がっているにもかかわらず、こんなにもさみしいというのに。
わたしはそれを顔には出さず、言葉を発した。
「実は、庭園で初期の黒化を見つけたわ。領民に注意を呼びかけた方が良くないかしら? うっかり魔に付け込まれたら大変なことになるわ。注意し、見つけても決して近づかず、城に報告すること。
そうしたらわたしが状況を見に行くわ」
「ロッテ! それはご主人様がいない今、危険な行為でしょう! 私は認めることはできません」
思わずわたしの名を呼んだことに気づいたらしく、彼は口をぎゅっと結んだ。
「ご主人様に報告もなく、許可することはできませんから。聖女様になにかあってからでは、教会にも顔向けできません」
「大丈夫。危なかったら教皇様に報告を入れて、ほかの聖女様や司祭様をお呼びするわ。⋯⋯ユーリ様には秘密よ」
繋がっているわたしたちの間で、どれくらい秘密が守れるかは謎だ。
でも、言ったところで反対されるだろうし、彼が帰城してから行動を起こす方が妥当なのはわかる。
だけどわたしだけ城でぬくぬくと雨にも濡れず、刺繍針を進めているなんて、じっとしていられない。
「若奥様、どうか考えをお改めください。どうしてもと仰るなら、腕の立つ者をお連れください」
「もちろんよ、なんの手立てもなく泥沼に飛び込んだりはしないわ」
「⋯⋯だといいのですが。怒ると怖いんですよ、ユーリエ様は」
心底それを考えたくないという顔で彼がそう言ったので、わたしも笑ってしまった。
パズといると、教会にいた時の兄妹のような空気感に、少し緊張が解れる。これも侍従に彼をつけてくれたユーリ様のお陰だ。
◇
「まだ縫い物ですか?」
寝る前の支度をしにきたシイナが少し嫌な顔をした。
「うん。教会では寄付された着古した服でもみんな繕ってたの。これくらいなんてことないわ」
「ここは教会ではないし、着古した服もありませんよ」
その一言には苦笑するしかなかった。
「まったく目を逸らすとすぐに縫い物をしていらっしゃる。目を悪くしますよ。今までにどれくらいの刺繍をしたと思ってるんですか?」
「いいじゃない、好きなのよ。雨でなければ湖畔の草花もスケッチして図案に起こしたいところだわ」
そこでシイナは黙り込んだ。
不審に思い、わたしは彼女に声をかけた。
「どうしたの?」
「シャルロッテ様、もう湖畔に行くのはやめましょう。せめて、ご主人様が戻られるまで。薔薇の葉の黒化、忘れてませんよね? この辺りにも魔獣が来たという可能性があるってことじゃないんですか?」
シイナの心配はもっともだった。
わたしも魔獣に正面から出会ったことはないけれど、その怖さはわかる。
持っていた刺繍枠をサイドテーブルに置いた。
「黒化は魔力がそこについたという印。魔獣がそこに降り立ったというわけじゃないの。ではなぜって思うかもしれないけど、例えば枯葉のように飛ばされてきたのかもしれないし、雨のようにこぼれ落ちてきたのかもしれない。
怖いのはよくわかるわ。わたしの力は弱いし、もしもの時にあなたを守れるかわからないし。
でもグリザを持って生まれた以上、これはわたしの仕事なの。ユーリ様だって同じよ」
シイナはうつむいて押し黙っていたけれど、大きくうなずいた。
「わかりました。若奥様付きの侍女にしていただけて、わたし、本当にうれしいんです。若奥様のためならなんでもしようと決めています。どうぞ、お仕事をなさってください。協力は惜しみません」
ありがとう、と言うとシイナは部屋を下がって行った。
チクリとした、魔力の痛み⋯⋯。
わたしだって怖くないわけじゃない。
聖女の務めというよりむしろ、ユーリ様のお役に立ちたいという気持ちがわたしを突き動かす。
◇
夜の窓ガラスを、悪戯な鳥が嘴で突く音が聞こえる。
トントン、という音は最初、探るように遠慮がちに、次第に大胆になり⋯⋯わたしは窓の外を見た。
「やあ、シャルロッテ。よく休んでいたのにすまない。こんな無作法者は嫌われてしまうだろうか」
「ユーリ様、雨が降っています。風邪をひかれます」
「こんな夜に抜け出すとは誰も思わないと踏んでね。ほら、屋敷中、みな眠ってるだろう? 龍が庭に降りたというのに警戒心のない奴らだ。戻ったら少し説教をしないといけない」
窓枠からトンと軽やかに床に下りて、大きな黒い翼で覆うように⋯⋯わたしを抱きしめた。雨の匂い。
開け放したままの窓から、しとしとと止むことのない雨音が響く。
「怒ってる?」
「いいえ。お会いしたくて仕方がなかったので」
「良かった、同じ気持ちで」
「――もしもわたしが龍なら、あなたの元へと飛んで行けるのにと毎日、考えていました」
深い深い水底のような瞳で、わたしを溺れさせてしまうのではないかと思うほど、深く見つめられる。
うっとりして目が離せなくなった時、顎のラインに沿って、そっと冷たい手が触れ、唇が重なった。
喉が渇いていた時のように光のうねりが唇から注ぎ込まれて、溢れてこぼれそうになる。
息もつけず、わたしは彼の胸を押した。
「すまない。こんなに汚れたままで。でも抑えられなかったんだ」
「わたしも。⋯⋯まだ帰城はできないのですか?」
いけないと思いつつ、涙が一粒こぼれ落ちた。
彼の冷たい指がそれをすくう。
まだ冷えた唇が、再び重なる。
「ロッテ、ひとりで黒化を止めようとしたりしたらいけないよ。今日はそれを伝えに来たんだ」
「パズが?」
「ああ、連絡方法があるんだ。でも余程の時しか使わないことにしている。⋯⋯この間、右手の指先を切ったね?」
「なぜ⋯⋯」
「君の痛みは私の痛みだ」
身動きができないほど強く抱きしめられ、自分のしたことが罪深いことのように感じられた。
耳元で掠れるような小さな声が囁く。
「もう少し、2、3日で戻れると思う。長かったね」
仄暗い部屋の中で、わたしは幼女のようだった。
彼は名残惜しそうに、ベッドには滑り込まず、また窓から出て行った。
月明かりのない濡れた空を、大きな黒い龍が横切ったような気がした――。
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