第7話 心の拠り所
「若奥様、おはようございます」
ユーリ様率いる騎士団が出立して、城もすっかり静まるに違いないと思ったのはわたしの考えすぎだった。
働き者の使用人たちは、主人が不在でも、毎日が同じく続くように働く。生き生きとした空気が城中に漂い、心地よい生活感にしあわせを感じる。
ただ、目が覚めて手を伸ばすと⋯⋯ベッドの片方は冷たいまま。心のどこかにぽっかりと穴が開いた気分になる。結婚前もベッドを共にしたわけではないのに、どうしてかさみしい。
龍のせいかもしれない、なんて思う。
もうすぐ、ユーリ様が出て1週間になる。
◇
お披露目の晩餐会がなかったことで、わたしの立場は微妙に宙ぶらりんだった。
なにしろまだ18で伯爵夫人になってしまい、おまけに聖女だし、見た目にもハンデがある。
ほかの貴婦人たちはどうやって毎日を暮らしているのか、田舎の教会暮らしだったわたしには思いもよらない。
とりあえずマナーやダンス、乗馬、歴史、経済、それから法律。お陰様で神学の勉強はパスできたけど、いろんなことを一度に学ぶのは大変。
でも、教会以外で学んだことのなかったわたしにはとても刺激的で世界が広がる感じは素敵。
屋敷の使用人たちはわたしを見かけるとみんな、朗らかに挨拶をしてくれた。
「若奥様、おはようございます! なにかありましたら、なんでも申し付けてくださいね」
最初のうちは慣れなくて奇妙な反応をしてしまったけど、今はすっかり慣れて、ちょっとした話し相手になってくれる人も増えた。
普通の日にあった、普通のことを、面白おかしく毎日の仕事や生活について語ってくれた。
そんな時は変わらない日常を送っていた教会を思い出した。
でも、雑巾を握ったらやはり怒られてしまった。
みんなに好かれる『若奥様』も、そんなに悪くないな、と思うようになった。
◇
そんなある日、一通の書状が城に届いた。
執事のトーマスがそれを持って来た。
『ヴィルヘルム辺境伯夫人シャルロッテ様
この度はご結婚おめでとうございます。
ささやかではありますが、よろしければお茶の相手をさせていただけませんか? お菓子もご用意してお待ちしております。
カタリナ=カッティーナ』
丁寧に書かれた文字は少し神経質そうにも見えたけれど、初めていただいた貴婦人からの手紙に胸踊った。
「ねぇ、トーマス、この方はどんなお方?」
「大奥様のお姉様です。カッティーナ侯爵夫人でございます。気さく、とまでは参りませんが、少なくとも敬虔で落ち着いた方です」
即答が返ってきた。
大奥様、ということはお義母様の姉ということだ。⋯⋯ユーリ様抜きでお会いして、上手くやれるかわからない。
でも、折角のお誘い、断りたくない。
ひとりでも味方が欲しいし。社交界に知り合いを作りたい。
「お断りになってもそれほど問題にはならないかと。その辺はさっぱりした方ですので。いずれはお会いすることになるでしょうけど」
「⋯⋯お会いしてみようかしら? 失礼に当たらない?」
トーマスの表情が明るくなり、声も弾んだ。
「いえいえ、大歓迎されると思いますよ。正直なところ、心配していたのです。奥様が社交界の友人を作られるのは、ここ辺境ではユーリエ様もご不在で難しいでしょうし。
そもそも大奥様は首都での社交活動には熱心ですので、若奥様にも社交界への第一歩をリードしていただけるといいのですが、なにしろああいうお方ですし⋯⋯。
ユーリエ様に至っては辺境にいることを理由に、社交界にはまったくお出にならない。お出になればあれだけの器量と能力をお持ちのお方、すぐに有名になられたと思うのですが」
まぁ、確かにそれはそうよね、と思いつつ、社交界に出たらわたしではない美しい令嬢と恋に落ちていたに違いない、とつまらない考えに取り憑かれる。
「若奥様、どちらにしてもユーリエ様の奥様になる方は最初から決まっていたのですよ。自信を持ってください。私は若奥様のような謙虚でやさしい方がこの城にやってきてくださって、本当にうれしいんですから」
「ありがとう、トーマス! わたし、カッティーナ侯爵夫人にお会いしてみるわ」
「よろしいかと。夫人もお誘いくださったのですから、きっと喜んでくださると思いますよ。なにしろユーリエ様は夫人にとてもかわいがられていましたし。夫人のお嬢様たちも今は城を出て、おひとりだというお話ですから」
「そうなのね。じゃあマナーには気をつけないと。手紙の返事を書くわ」
これがカッティーナ夫人との出会いのきっかけとなった。
◇
「カッティーナ夫人、お会いできて大変光栄です。本日はご誘い、ありがとうございます」
今日は年上の方にお会いするということで、少しおとなしめのブルーのドレスをシイナと選んだ。
アクセサリーも控えめに。
やってきたばかりの夏が、ラベンダーの穂を心地よく揺らしていた。
カッティーナ夫人は、ユーリ様はもちろん、妹でいらっしゃるお義母様やユーリ様の実弟リオン様ともまったく違う、ダークブラウンの髪と瞳をしていた。
その量の多い髪を崩れることはなさそうにきっちり結い上げ、濃いグリーンのドレスを着てわたしを待っていた。
「どうぞ楽になさって。私がカタリナ=カッティーナです。本来なら私の方から伺うべきなのでしょうが、夫人もお忙しいと思いましたので」
侯爵夫人はメイドにてきぱきと指示を出し、アフタヌーンティーの美味しい、かわいらしいお菓子が庭先のテーブルに並んだ。
ガゼボの屋根は熱い日差しを遮り、心地よい風が通った。
「どれでもお召し上がって。お若い方はこういう物がお好きでしょうから」
「お気遣い、ありがとうございます」
緊張で震えそうになる。
上手く笑えているか、心配。
侯爵夫人はトーマスの言った通り、気さくな方には見えなかった。威厳のある、落ち着いた方に見えた。
「この紅茶、いつも飲むものと違った味わいがありますね。香りが濃厚で、味は少し渋みがあるけどさっぱりしていて」
夫人はクスッと微笑んだ。
「お若いのによくお気づきですね。これは北部の一部でしか栽培されていないお茶なんです。この辺では手に入らないもので、先日、ある商人から買い上げたのですが、帰りによかったらお分けしましょう」
「貴重なものではないですか?」
「貴重かもしれませんが、今日の記念にはなるでしょう。シャルロッテ様と私の親交の始まりの」
侯爵夫人は表情を変えずにそう仰ったけど、わたしはありがたくいただくことにした。
そう、確かに今日の記念になるし、ユーリ様にもお話できるもの。
「時にユーリエとはどちらでお知り合いに? あの堅物が社交の場に現れるとは思えないし、教会での出会いは男女の出会いにはあまり好ましくないように思えますし。
夫人は美しいグリザをお持ちね。ほかにも聖女様を知っていますが、これほどはっきりしたグリザはどなたもお持ちではないわ」
聖女だということが、侯爵夫人にとっては好ましくないことなのかな、とますます気持ちがしぼむ。思うように笑えない。
「どうぞ、シャルロッテとお呼びください。トーマスから、侯爵夫人はユーリエ様と関係が深いと聞いておりますので、わたしのこともグリザとは関係なく、親しく思っていただけるとうれしいのですが」
「あら、それはそうね。ユーリエは子供の頃からよく知っているから息子のようなものなのよ。そうね、息子の嫁であるなら、お名前でお呼びした方がいいかしら。では私もフランクにお呼びになって結構ですよ、シャルロッテ。
私の妹はあなたたちについてなにかしようという考えはないようですから、私を義理の母と思ってくださったらよろしいですわ」
「ありがとうございます。実は教会を通じて、こちらに招かれたんです。最初は聖女の仕事として呼ばれたのだとばかり思っていたのですが⋯⋯」
「違ったのね。あの子の心があなたを求めたのでしょう。龍とはそういう、番には情の深い生き物なのですよ」
遠く離れていても、ユーリ様はわたしを見つけてくださった。そのことが、結婚した今でもとてもうれしい。
「なるほど。黒髪の娘を求めていたのかと思っていたけれど、やはりあなたじゃないとダメだったようね。聖女様をいただくなんて、とんでもないと仰天したところですけど。
こんなに離れたところに呼びつけるなんて、レディに対するマナーに反すると思いますが、それならあなたはユーリエの伴侶であると、胸を張っていいわ。
誰かにそのことを言われたら、遠慮なく私に言ってちょうだい。こう見えても歳の分、発言力は中央でもまだあると思うので」
そう言ってカタリナ夫人は紅茶を一口、優雅に口に含んだ。そこには抑揚の少ない厳しくも聞こえる言葉と共に、笑みが浮かんでいるわけではなかった。
でも、親切で言ってくださってることは身に染みて伝わってきた。
「私もかつて、ヴィルヘルム家の一員でした。多少の発言権はまだあるでしょう。
家のことで困ることがあれば、いつでも相談に乗るわ。急用なら使用人を使って馬を走らせなさい。それが一番速いわ。真夜中でも構わない。
⋯⋯特に、ユーリエがなにかを起こした時には必ず手を尽くして助けるとお約束しましょう」
「ありがたくお言葉、頂戴いたします。今日、カタリナ様にお会いして本当に良かったと思っております。教会のことしか知らないふつつか者ですが、よかったらご指導お願いします」
「あら、なら次に社交の場に出る時にはあなたのすぐ隣にいないとね。どうせミュリエルは自分のことで忙しいでしょうし、ユーリエがパーティーでなにかの役に立つとは思えないもの。
あなたがマナー違反を起こしそうになったら、扇子でお尻を叩いて差し上げるわ」
夫人は初めて楽しそうに声を上げて笑った。
わたしも笑わずにいられなかったけど、親しみを込めて冗談を言ってくださったことに心が暖かくなった。
マナーの勉強は、夫人の名誉のためにもしっかり間違いのないようにしよう。
「また遊びにいらして。私からも行きたいけれど、もう馬車が身体に堪えるのよ。私にも娘がいるんだけど、今日からあなたもそのひとりよ。忘れないでちょうだい」
「本来は身寄りのないわたしに親切にしてくださったこと、感謝いたします。これからもどうぞ末永く、よろしくお願いします」
「もちろんよ」
◇
馬車の窓から外を見ると、夕日が大きく見えた。
まるで、懐の広いカタリナ様の心のようだと思う。
紅茶の茶葉を膝に乗せて、すっかり馴染みつつある『黒曜石の城』に馬車は進んでいた――。
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