第6話 ベッドの隣を空けること
グリザルド神聖国にかつてない、ある意味で歴史的な結婚式が行われた。
ひとりは知らない者のいない西の勇・ヴィルヘルム辺境伯ユーリエ。
その伴侶となるのは神聖国でも末席にあり、と言われた黒い髪に黒い瞳、額にグリザの赤い花を咲かせる聖女シャルロッテ。
厳かな式は粛々として進み、ふたりの結婚を教皇は祝福を持って認めた。
シャルロッテは聖女の称号を失うことなく、つまり結婚しても還俗はせず、そのまま伯爵夫人となった。
背の高い大聖堂の大きなステンドグラスから、モザイク調の光が差し込む。
黒い礼服に銀色の髪が流れる。わたしはそっと彼を見上げる。彼の青い瞳がついとわたしの目と合う。
いつの間にこんなに気持ちが通ったんだろう――?
「汝ユーリエ、汝はいかなる時でも······」
夫となるその人はしっかりした声で「誓います」と答えた。
しあわせな気持ちって暖かいんだなぁ、と噛み締めていると、彼が隣でくすっと笑った。厳粛な席なのに、意地悪だなぁと恥ずかしく思う。
(ロッテの番だよ)
「誓います!」
慌てた声は思ったより大きく響いて······せっかくやっつけで身につけてきた淑女としてのマナーは、一瞬で吹き飛んだ。
穏やかな微笑みが波が押し寄せるようにわたしたちを包んだ。
――わたしはとてもしあわせだった。
◇
「ユーリエ、シャルロッテ様、結婚おめでとう。ヴィルヘルム伯爵家の女主人として、わからないことがあったらなんでも聞いて。
聖女様をいただくなんて信仰心を疑われそうだけど、心から歓迎するわ。⋯⋯聞いたかしら? 我が家では『黒い』ことに偏見はないの。むしろ陶器のように白い肌が活きてうらやましいわ。
ユーリエは女っ気が全然ない子だから、ずっと心配していたの。堅物で頑固な子だけれど、どうぞよろしくね」
「お義母さま、ありがとうございます。どうか遠慮なくロッテとお呼びください」
わたしが微笑むと、夫人は少し不安げな顔をした。
「⋯⋯あの子のことが怖くないですか? 龍について、お聞きになったのでしょう? でも素直で真っ直ぐな子なの」
ああ、この方は辺境伯領の外の人なんだと納得する。
城を出て首都のタウンハウスに行って、もう数年になるという。魔獣から遠ざかるため、というもっともらしい理由で、ユーリ様を城に残して。
もちろんユーリ様は承諾した。
彼に聞いていた通り、わたしのお義母様となるミュリエル夫人は次男のリオン様そっくりの深い緑色の瞳をした明るいブロンドの、たっぷりした髪を新しいスタイルでアップにしていた。
お洒落な方なんだなと思う。
息子を思う母親の気持ち。龍として生まれたユーリ様を憂いつつ、愛していらっしゃるんだろう。
「シャルロッテ様。僕はヴィルヘルム家次男リオンです。兄上は誠実な方ですから、ご安心を」
母親似の明るい風貌の青年は、軽やかにそう笑った。そして「タウンハウスは屋敷こそ城に比べれば小さいけど、現代的な造りなんです。よかったらいつでもいらっしゃってくださいね」と誘われた。
そしてそっと「龍が怖いと思ったら、いつでもどうぞ。普段はおとなしい子だけど、龍は龍なのよ。意地悪で言ってるんじゃないのよ、あなたが心配なだけ」
夫人はしなやかな柳の枝のように物腰やわらかな線の細い方だったけれど、見かけによらず社交界での活動に忙しいらしい。髪型だけでなく、ドレスも流行の形で、古い城との相性は確かに良くないみたいだ。
リオン様も婚期を迎え、熱心に貴族間の交流を続けているらしい。
涼やかな顔立ちのユーリ様に比べて、華やかな顔立ちの夫人似のリオン様はかなりモテるんじゃないかなと思った。とても感じのいい男性で、話しかけられたら誰でもぽーっとなるんじゃないかなと思う。
ふたりは挨拶を済ませると、知人の貴族らしい人のところへ行ってしまった。
「すみません。母は悪気があるわけでもあなたを気に入らないわけでもないんです。ただ、田舎と、龍の血を嫌ってるんですよ」
「そんな。わたしにはユーリ様をとても大切に思われているように見えました」
「⋯⋯やさしい方ですね」
「わたしにとって、初めての本当の家族ですから」
繋いでいた手に、ギュッと力が込められた。
◇
「結婚おめでとう、シャルロッテ!」
教会の、わたしの心の家族たちが祝ってくれる。式には司祭様とエレナ、アンナが参列してくれた。
エレナがわたしをきつく抱きしめて、わたし以上に涙を流した。
「旅に出た時にはロッテがどうなるのかすごく不安で、まさか行った先で婚約者を決めてくるなんて思ってもみないじゃない。とっても心配したのよ」
「ごめんなさい、エレナ。ゆっくり手紙を書く暇がなかなかなくて」
「そうね、あまりにも急だったもの」
あの日からわたしはユーリ様の正式な婚約者となり、すぐに城を出ず、付け焼き刃の伯爵夫人としての勉強を始めた。
なにもかも初めてで、ダンスも、歴史学も、内政の授業もすべてが楽しかった。
だって、閉ざされたわたしの人生には絶対に有り得なかったことの連続で!
◇
不思議なことに、あの翌朝、わたしの髪は再び黒髪に戻っていた。
わたしより不思議な顔をして、忍んで寝起きを見にいらしたユーリ様がそっと髪を撫でた。
「もう一度、光を分け合いますか?」
わたしは彼に笑顔を見せた。
「いいんです。これがわたしですもの。
フランティア様だって黒髪になった時、お嘆きになったとは思いません。むしろ、うれしかったんじゃないかしら。
······もっとも、ユーリ様がお望みなら穢れた髪はお見せしないように更に信仰心を深めますけど」
ユーリ様はわたしのベッドに手をついて、その縁に腰を下ろした。
それだけで心臓がどこかに跳ね飛んでいっちゃうんじゃないかと喜びが心底、不安になった。
「なにを言ってるんですか? 私があなたを初めて見て、心惹かれた時、あなたは予想を裏切る美しい黒髪でしたよ」
起き抜けのキスはキラキラと清らかな流れのように心の泉に流れ込んだ。
――この人の妻になるなんて。
そんな人生が来るなんて! 神様の仰る通り、人生には思ってもみないことが起こるんだ。
窓からのやさしい光の中で、彼はふっと笑った。
目を細めて。その奥にサファイアのような瞳がのぞく。
こほん、とわたしは咳払いした。
「わたしたちの姿が今までと変わっていたら、周囲の方々が不安に思うかもしれません。あなたは辺境を守る銀の伯爵のままで、わたしは珍しい黒髪の聖女の姿のままでいましょう。その方が都合がいいのでは?」
「私の妻になる方はやはり聡明でいらっしゃる。そうですね、そうしておきましょう。ヴィルヘルム家の龍の話は代々、教皇の間では引き継がれているようですし、世間の皆さんにはそう騙されていただきましょうか」
「あの······」
わたしは自信のない声を上げた。却下されると思ったから。
「どうかしましたか? 私の聖女」
「あの······」
やわらかい微笑みに流されそうになる。龍というのは水のようなものなのかしら? だからわたしの中にずっと光が流れ込むのかしら?
「ロッテ、あなたの中に光が流れ込んでいるのではなく、私があなたから光をいただいています。しかしその流れが滞りなく繋がったことで、私たちの間には光の通り道ができたんですよ」
「もう! 勝手に心を読むのは失礼ですよ」
「あなたが悩ましい顔をなさってたから」
彼は彼の細くて長い指先に、わたしの黒髪をくるくる巻いた。
「ご心配には及びません。別に真実をほかの方にお話しても結構ですよ。特に身近な者であれば、緊急の時の対応も早いでしょうし。
あなたが気になさってる、あなたの『家族』にはわたしもご挨拶差し上げたいと思っていましたし、もちろん、すべて真実を話してくださいね。でなければ皆、私たちの突然の結婚を疑うでしょう。なにしろ辺境伯と聖女ですから」
いたずらっ子のように笑いながら、その手はわたしの背中に回り、朝の新しい光の中で彼はやさしくキスをした。
◇
結婚式の後、行われるはずだった晩餐会は持ち越しとなった。
せっかく見つけた運命の片方は、教皇の召喚で龍の本性を活かす戦いに向かわなくてはならなくなった。
黒化はわたしを呼び寄せるための口車ではなく、実際、領地を脅かしていた。
つまり、魔獣が領地内に入ろうとしているんだと彼に教わった。
わたしにできることは、と尋ねると夫は「ベッドの片方を空けておいてください」と言った。
婚礼の後、すぐの出立で、いわゆる初夜というものは先延ばしになった。
つまり、次に会う時の約束ということ。
うれしくて恥ずかしいと思いながら、一方で寂しく思う。できてしまった『隣』は、この先彼以外いないのだから。
ふたりともベッドに目を向けて、口を開けなくなってしまう。
目が合って、そして視線を逸らした。
「あの、ご武運をお祈りしております」
恥ずかしさを打ち消そうと、わたしは引き出しの中から渡せずにいた小さな包みを彼に贈った。
「開けてもよろしいですか?」
「もちろんです」
中身はお決まりのハンカチーフ。
刺繍は教会にいた頃から熱心に取り組んでいた、わたしの小さな楽しみのひとつだった。
白いハンカチに、銀糸で薔薇の家紋を刺した。あの、初めての手紙のお返しにと用意して渡せずにいたものだ。
「ロッテ、恋人からこれをもらうことがどれほどの力になるかわかりますか?」
「いいえ」
彼は刺繍をそっと指でなぞり、少しの間、口をつぐんだ。ヒバリが軽やかな歌声を上げて、窓の外を空高く舞い上がる。彼の青い目と同じ色の空を、彼は見上げた。
「きっと無傷で帰ると約束いたしましょう」
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