第2話 青いインク
教会の、小さな木製のテーブルを囲んだみんなは、同じタイミングで席を立った。そういうのが、うれしい。
「シャルロッテ! 怖い目に遭ったの!?」
エレナが走って来て、わたしの肩をがしっと掴んだ。心配そうな澄んだグリーンの瞳にわたしが映る。
「······わたし、旅に出ることに······」
アンナがスープの鍋をドカッと音を立てて置いた。
「旅? どうして? どこに?」
「······西の辺境」
「ヴィルヘルム辺境伯領のこと?」
うなずく。
これから楽しい夕食のはずなのに、空気がすっかり変わってしまった。
「聖女様は教会と伯爵様の要請により、ヴィルヘルム辺境領に向かうことになりました。おそれながらわたくし、シイナが侍女としてこれから聖女様に同行するよう、教会から仰せつかっております」
はぁ、とため息をついたのが、エレナだったのか、それともアンナだったのかわからなかった。
「西の辺境と言えば、危ない土地柄じゃないの? 魔獣が出るんだよ、魔獣! だからこそ守護者として、強い伯爵様が爵位をいただいたんでしょう?」
「えー、まぁ、そんな感じ?」
「そんな感じじゃ済まないでしょう?」
えへへ、と笑って場を濁す。得意技のひとつ。
髪が黒い分、愛想くらいはないと。
「けど、聖女ならほかにもいらっしゃるじゃない? 高名なセリーヌ様やキャロル様だって。なんでシャルロッテが? おかしくない?」
「いやー、よくわかんないけど、有名な聖女様方はお忙しいからわたしみたいなのが呼ばれたのかもしれないし、行ってみたら本当に『ちょっとした用事』なのかもしれないし」
「『初めてのおつかい』、か。ロッテも聖女であることに間違いないのだから、そういうこともあるだろう。公には初仕事だな」
司祭様がパンをちぎりながら、静かにそう仰った。物静かな司祭様は、みんなの父親そのものだった。
しーん······と静まる。
しんみりした空気が漂う。
ロウソクの炎が揺れる。
「まぁ、冷めないうちに食べましょう? ええと、シイナさんかしら? ご一緒にお夕飯はいかが?」
答える前に、わたしのお腹が鳴った。
みんなが笑った。
◇
田舎の夜空は深く暗い。
いくつものさざれ石のような星々が輝く。
わたしは教会の裏手で、その星を見ていた。
「ロッテ······ここにいたのね」
エレナがわたしの隣に腰を下ろした。
エレナはこの教会ではまだ若いのに、司祭様の次に尊敬されるシスターだった。
やさしい微笑み、慈悲深い心、誰にでも差し出される手、そういうもので彼女はできていた。
彼女こそ聖女に相応しいのに、と、幼い頃から何度も思った。
「ロッテ、なんでも言っていいのよ。相談でも、愚痴でも、八つ当たりでも」
「エレナに八つ当たりなんかしないわよ」
「そうね、ロッテは素直だから。そこが美点よ」
彼女の輪郭は、闇の中に白くぼんやり光って見えた。微笑んでいるのは辛うじて見て取れる。
「······あのね、わたし黒毛じゃない? それを置いといたとしても、聖力、全然ないじゃない? 行って、役に立つかなぁ? 向こうは『聖女』を待っているのに」
エレナは困った顔をした。
そもそも詳細を話していないので、わたしがどんな用件で求められているのか知らない。
「ロッテが教会の軒下で泣いているのを見つけた時、正直ドキッとしたわ。あなたの前に同じように置いていかれた男の子のことを思い出して」
ああ、パズくんのことかな。
わたしの前に教会に現れた黒髪の男の子。
「パズは物心ついてから、わたしよりも覚えも良くてね。教会のこともだけど、教会に来る子供たちにも好かれてて。ロッテも覚えてるかもしれないけど、いつも笑顔でね。
なのにある日、商人のヘルマンさんに連れて行かれたのよ。『雇う』って。
⋯⋯現実的には黒髪だと雇われるのは難しいでしょう? だからみんなで見送ったけど⋯⋯それから彼からの連絡はないの。そして、誰も行き先を知らないのよ」
わたしは黙った。
あるあるな話だった。
黒髪だとほかの人と同じ権利は与えられない。それが、みんなが口に出さない隠されたルールだ。
ヘルマンさんに尋ねても、彼だってもうパズの行方はわからないだろう。
「ヘルマンさんは、彼が働きを認められてほかの街で今も元気に働いてるって言ってたけど、どうなんだろうってずっと気になってて。なのにわたし、一度もちゃんと確かめようとしたことはないの。⋯⋯後悔してるの。彼を守れなかったこと」
草原を風がやさしく撫でた。
ブルっと震える。
エレナがわたしに自分のショールを掛けてくれる。
「でもね、ロッテには幸い『グリザ』がある。そこには深い意味があるのよ。神に愛された子供である印。その顕れが聖力の量かどうかは関係ないわ。もし乞われて行くのなら、意味があるのよ。
――さぁ、わたしに与えて? 『グリザ』の祝福を」
胸がズキズキするのを隠せないまま、エレナに額を差し出した。
エレナはそっと、そこにあるはずの赤いグリザの印に触れた。
「わたしは祈るわ。この祝福の力でロッテの旅路が良いものになるように。そして⋯⋯いつでも遠慮なく帰ってくるのよ。あなたの分のスープとパンは残しておくからね」
それが、エレナとの別れの良い思い出になった。
旅に出るという自覚をしっかり持って、わたしは西に向かうことにした。
◇
辺境、というのは正に辺境なので、宿から宿へ馬車を乗り継ぎ、「お城までもう少しです」と指さされた先はずいぶん高いところだった。
その麓の宿で最後の宿泊をする。
とりあえず、目的地には着きそう、と安堵する。
行く先々で、フードの奥をじっとのぞかれている気がして、いつも通り目深にしっかりかぶり、シイナの後ろをうつむいて歩いた。
シイナは「ご主人様が後ろを歩くなんて困ります。本当なら有り得ないことですよ」とブツブツ言っていたけど、それは口だけで、どこへ行っても表立ってなにかをするのはシイナがやってくれた。
「黒髪ってキレイですよねぇ。わたしの叔父も聖女様と同じで⋯⋯」
「ロッテでいいって」
「いえいえ、⋯⋯シャルロッテ様と同じで、素敵なのに黒い髪を触らせてくれなかったんです」
「叔父さんは今、どこにいるの?」
「さぁ、どこでしょうか⋯⋯。子供の頃、気がついたら叔父はいなくなってたんです。ごめんなさい、あんまりいい話じゃなかったですね」
「ううん、いいの。わたしはシイナがいてくれてうれしいし、楽しいから。田舎育ちで知らないことばかりだから、いろいろ教えてね」
ありきたりだったかな、と思いつつ、彼女の顔を見ると、うれしそうだったのでほっとする。
なにしろ、聖女だからって、前の教会でもみんなに認められてたわけじゃない。
わたしが前を通ると、見えないように指で穢れを払う呪いをする人もいたし。教会にあまり来ない子供には指さされたし。
こんなわたしでも認めてくれるシイナに、わたしは笑顔を向けた。
そして「ロッテ様、聖女っていうのはそうやって『にへら~』って笑わないです。もっと厳かに、神秘的にお願いしますよ」と怒られた。
◇
宿の夕食は川魚の焼いたもので、いよいよ山深いところへ進むんだなと思う。
食事は部屋で食べることにしていた。ほら、髪の毛がね。そもそも聖女様は人前で食事をしないでしょう、というのはシイナの持論だった。
食事を終え、ベッドに座る。
少ない荷物の入ったトランクを見つめ、考えていた。⋯⋯明日、追い返されたらなんだかみんなに申し訳ないなぁと。
と。
「シャルロッテ様! シャルロッテ様!」
雷のような素早さと勢いでシイナが部屋に飛び込んできた。まるで訳がわからない。
「シイナ、落ち着いてよ⋯⋯どうしたの?」
「シャルロッテ様、これ。これ、今届いたんですが」
わたしは水の入ったコップを渡した。
「宿の主人に呼び止められまして、来客だと仰るのでとりあえず出たのです。そしたら」
シイナの手に握られていたのは、真っ赤な薔薇と、一通の手紙だった。
赤い薔薇は、伯爵家の紋章。
薔薇の花をシイナに渡して、手紙を開けてみることにした。
『聖女シャルロッテ様
このような不躾な手紙を送り、失礼いたします。
あなたが私の領地に来るのを心待ちにしておりました。
グリザの花と同じ、赤い薔薇の城であなたに明日、お会いできるのを楽しみにしております。
どうぞ私と、私の城がお気に召しますように。
心を込めて――
ヴィルヘルム伯ユーリエ』
その手紙には流麗な文字が青いインクで綴られていた。
高級なまっさらで薄い便箋には、薔薇の透かしが入っている。『赤い薔薇の城』、それはどんなところなのかしら?
ボッと頭が沸騰して、頬が上気するのを感じる。
わたしにとって身近な男性は、父親同然の司祭様しかいなかったわけで。
男性から手紙を個人的にいただくのは初めてだった。
――ちょっと待って。よく考えて。『心待ち』!? えーと、伯爵はずいぶんロマンティックな方なのかしら?
道々聞いた話では、ストイックで実直、領民思いということだったのに。
なんだか、明日が怖い。
時間は刻々と過ぎるのに。
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