ダチじゃねぇって言ってんだろ

あわいむつめ

ダチじゃねぇって言ってんだろ


 五月初め。高校デビューにバッサリ切った髪にもようやく慣れてきた頃。

 今日は大型連休の隙間にぽつんといる登校日だ。これが中学なら迷わずサボっていたけれど、私は背筋をピンと伸ばして席についていた。

 地元から少し離れた高校を選んだおかげで、中学の私を知っている生徒はほとんどいない。勉強も交友関係も概ねうまくいっている。

 八時二〇分、教室は朝の喧騒に包まれていた。

 手元で開きっぱなしだった小説に向き直ると、図ったように担任が入ってきて朝のHRが始まる。

 担任に目くばせされて、学級委員の私が号令をかけた。

「……起立、礼、着席」

 かったるいけれど、割り振られた役割はきちんとこなす。

 高校では『まとも』になると決めたから──窓から吹き込む柔らかな風に緑の香りがした。教卓で、担任がどうでもいい連絡事項を念仏のように通達している。もちろんクラスの大半は上の空。私語にあくび、寝ている奴もいる。生温い時間が無為に過ぎていく──。

 そのとき、隣の教室で怒声が轟いた。


「いい加減にしろ!!!」


 中年の男性教師の本気の怒号。途端に、なんだなんだと教室がざわつきを増す。

 担任もこれにはおどろいたようで、とっさに声の方を向いた。

(またか)

 私は視線を落とす。こうなると、隣から声が聞こえるたびに教室がざわついて、HRなんてちっとも進まない。

「ね」

 肩をつんつんされて顔を向けると、隣の席の矢竹やたけさんが目をキラキラさせていた。

「また、あの子でしょ?」

 私が黙ったままでも、矢竹さんはお構いなしに続ける。

「金髪の」

「不良の」

「いつもむすっとしてる」

木枯こがれさんの友達の」

「──かくれまりさん」

「……しらない」

 私が目を逸らすと矢竹さんは不服そうに頬を膨らませる。

「ええー、たまに話してるじゃん。仲良さそうに」

「ね、中学でも金髪だったの?」

「窓ガラス割ったりしてた?」

「武勇伝とか聞いたことある?」

「子猫拾ったりしてた?」


「るせぇ……」

「え?」

「ダチじゃねぇって言ってんだろ」


 語気を強めて言うと、矢竹さんは目を見開いて固まった。言いすぎたかと顔を覗くと、しかしその相貌からは喜色が滲み出ている。

 

「木枯さん、ぜったい元ヤンだよね」


 はは……と私の苦笑いが場に溶け出た。


 私は木枯こがれしづ。

 高校入学を機に『まとも』になると誓って、いまのところ超優等生。

 でも実は……中学時代、地元でちょっと名が知れてるくらい不良をしていた。

 まりとはそのころから親友で、これからも、ずっと友達でいるはずだった。


 *


 まりと最初に会ったのは、中学二年の春。大型連休の初日のこと。

 市外のショッピングモールに入っている映画館まで一人で遠出して、新作を二本ハシゴした帰り。……当初は流行りの恋愛映画を観て帰るはずだったのに、いまいち楽しめなかった。なんだか損した気がして、急遽もう一本観ることにしたのだ。

 結果、予定が狂って駅でさんざん待つ羽目になる。ベンチでぼうっとして、三十分後にやっと来たのは、二両編成の普通電車。ホームにはうんざりするくらいの行列ができている。ぷしー、と扉が無感情に開いた。なんとか座席の端を確保して一息つくと、間もなく扉が閉められ、電車が走り出す。

 やたら景色がオレンジ色に染まっていて、なにかと思えば車窓に夕日が浮かんでいた。

 エモい景色とは裏腹に、混んだ車内には攪拌された人間の臭気が充満している。居心地が悪い……。自宅の最寄り駅まで二十分の道のり。手持ちぶさたに見回していると、高校生以上が主な車内で、自分と同じ中学生くらいの女子を見つける。

 扉側に張り付くように立っている黒髪の彼女は、あたしと同じように居心地悪そうに身をこわばらせていた。周囲の大人との対比でやたら背が低く見える。なんか、立ち姿だけで気弱そう。

 彼女はバッグの肩紐をぎゅっと握って、震えているようだった。人混みが苦手なのだろう。そういう印象を受ける、軟弱そうな女子だ。やわ子だな。

(しかし、あの子の隣のスーツのおっさん、やたら近いな)

 それだけの違和感だったが、あたしは席を立つ。人をかき分け、やわ子に声をかける。

 観てきた映画の二本目の方、主人公は──親にレイプされた女の子だった。

「よ、ひさしぶり」

 たったひとこと、言い終わるときにはもう、やわ子の隣にいたスーツのおっさんはどこかに消えていた。

 思わず舌打ちをして「死ねよ」と人混みを睨む。

「ぅぁう、ぅぁぁぅ」

 うめき声を出したのはやわ子だった。顔面蒼白で、唇を固く結んでいる。しかし口角は少し上がっていて、それは薄く笑っているようにも思えた。

(ああ、これは……)

 正面から見たやわ子は、校則遵守の黒髪ショートに低い身長。整った顔立ち、そのうえタレ目に泣きぼくろ。

 清楚というより、柔和で脆弱。

 いじめられても黙っていそう。

 反撃なんて発想もなさそう。

 怒鳴ればすぐに泣かせそう。

 いかにも──標的にされそう。

 やわ子はあたしを見つめたまま、固まっていた。どうすれば良いのかわからないのだろう。それとも『ひさしぶり』なんて言ったから、必死に思い出そうとしているのだろうか。

「あたし、木枯しづ、〇〇中二年」

 自己紹介すると、やわ子もそれにならった。

「わたしも、〇〇中の二年です……蔵……まり……」まりの震えはまだ続いている。「あ、あり、ありぅ……がと……ご」

 途端に、まりの微笑が崩れた。口角がすとんと落ちて、目に涙が浮かぶ。号泣しそうな勢いだったので、あたしは慌ててまりを抱く。自分の胸でまりの顔を隠して、小声で言った。

「降りたら、家近いから。それまで泣くな」

 人混みの隙間からこちらを覗いてほくそ笑んでいる悪魔を思うと、あたしはそう言うしかない。

 まりは黙って二回頷いて、それからあたしの家に着くまで、一言も喋らなかった。


 あたしの部屋でひとしきり泣いたまりは、腫れた目でぽつぽつ喋り出した。

 髪を黒く染めた帰りだったこと。──染めるの、初めてで。

 地毛が他の子に比べて明るいこと。──昔からね、目立つみたいでね。

 それを担任に注意されたこと。──先生にね、言われたから。

 それと何度も繰り返し礼を言い、頭を下げた。

 あんまりしつこいから、あたしは軽口のつもりで言った。

 

「それなら──どうせなら、うんと明るく染めちまえよ。そっちのが似合う気がするし」


 次にまりに会ったのは、大型連休明けだった。

 あたしは休み明けのガッコーなんて当たり前にサボって家で映画のDVDを観ていた。

 するとインターホンが鳴って、玄関を開けるとまりがいた。

 あたしはたいそう驚いた。まりの髪が金色に輝いていたからだ。

 教師に詰められたらしく、半べそかいていたけれど……。

 あたしが「やっぱいいじゃん」と笑うと、心底嬉しそうに笑い返してくれた。


 それから現在まで、まりは金髪を貫いている。


 *


 人けのない旧棟の、さらに奥側の階段をあがって、屋上の扉の前。

 高校に入ってすぐ、私たちはここで隠れて弁当を食べるようになった。

 原因は私の高校デビュー。

 

 ──がんばってるしづに、わたしがべたべたつるんでたら迷惑かけちゃうから。

 

 学校ではつるまないとまりが言ってきた。私がそれを拒否して、ふたりきりになれる場所を見つけた。

 

 ──あたし、『まとも』になる。ずっと友達でいるために。

 

 まりは私の『まとも』をなんのための決心だと思っているのだろう。本当になにもわかっていないから困る。

「……はぁ」

 私はぱくついていた弁当を横に置く。

 すると私の胸に顔を埋めていたまりが、きょとん? と不思議そうに見上げてきた。知り合ってからこいつはどんどん美人になっている。顔も身体も仕草も声も。きっと心も。

「だいじょうぶ?」まりは心配そうに言うが、それはこちらのセリフだった。

「今日、朝」

「……おこられた」まりは再び私の胸に沈む。

「ごめんな」助けにもいかなくて。

「うぅん」

「髪、戻してもいいんだぞ」

「ううん、しづが似合ってるって、言ってくれたから」

「私は──まりがしたいようにしてほしい」

「好みは?」まりは再び顔を上げると、上目遣いにいじわるな笑みを浮かべて訊ねてくる。

「……」

「へへ、でも戻すよ? しづが言うなら」

 まりはそう微笑んだ。

「それ、あんときも言った」

「え? あ、ズッ友宣言?」

 その通り。まりは再び私の胸に顔を伏せる。


 ──ずっと、ダチでいような。

 ──そうだね。しづが言うなら。


 あれは中三の夏だった。海辺で沈む夕日を見て──頭がバカになって気恥ずかしいことをたくさん言った気がする。

 思い出し笑いをしていると、不意にまりが私の髪に触れる。短くした黒髪は、出会った日のまりに少し似ていた。

「しづは、無理してない?」

「ああ………………変かな」

「すごいなって思うよ。なんでだろ、とは思うけど」

 なんでだろ──なんで、か。

 「んぅ」まりの髪を撫でると、ふわりとまりの匂いがする。花にもフルーツにも思えるいい香り。シャンプーなのかなんなのか知らないが、思えばあの日もまりはこれを身に纏っていた気がする。それで、かわいいつむじを見つけて心が温かくなる。

 目も、普段はつまらなそうにしているけど、私とふたりのときは輝きが増す気がする。タレ目は変わっていない、泣きぼくろもそのままだけど、質感──みたいなものが変わった。かわいらしさに艶が混じって、見つめられると血行が良くなる。綺麗だなぁといつまでも見ていられた。健康にもいい。

 続いてくちびるをみる。ぷっくりしていて、気持ちよさそう。触ったらきっとひんやり冷たいけど、ちょっと押し込むと内側に生温かさがじんわりと在る。きっとだけど、ずっと触っていたいくらい好ましい。

 私の視線が、首から鎖骨へと降りていく。まりは暑がりなのか、私の前でだけ制服のボタンを上からいくつか外す。その隙間から覗く──。

 黙っていると、「しづ?」と声をかけられる。こんな風に、まりはたまに猫なで声で私の名前を呼ぶ。ひんやりしていそうなくちびるが、発声にともなって少しだけ動く。それだけのことで私の目は釘づけになって、体の内側からキモい衝動が湧き出てくる。暑い。動悸がする。頬はもうずっと染まっている。どうしてか泣きそうになる。


 なんでだろ──と言われると、つまりそういうことだから、なんだろう。

 まりにもっと触れたい。私だけがもっと。

 隣のクラスで怒鳴り声がするといつも、心がぞわぞわして落ち着かなくなる。まりはどれだけ怖い思いをしているだろうと考えると、暴れ出しそうになる。

 なのに一方で、嬉しくてたまらない。だってあの気弱で怖がりなまりが、『大人の男に怒鳴られる』なんてこの世で一番嫌いそうな目に遭いながら髪色を変えない理由が、『しづの好みだから』なんて……。

(〜〜〜〜!!!)

 神経が昂って震える。

 もっと欲しい。おそろいの場所に入れ墨を掘りたい。私のだと名前を入れて、私にもまりの名前を入れたい。お揃いの場所にピアス穴を開けたい。涙目のまりに頼まれてしぶしぶ針を差し込みたい。身体中舐めたい。爪の間まで丹念に。まりの血の味が知りたい。

 まりとXXXXしたい。

 発作のように溢れ出るキモい欲望は、到底『まとも』と言えないものばかり。

 閉じ込めても抑え込んでも蓋をしても、一緒にいられなくなると脅しても、まりを一目見れば途端に流れ出し、しかもその勢いは日に日に増している。

 動悸も閾を超えて、血流の音がざーざー耳元で鳴っている。

 そのとき、すとん──と意識が落ちた。

 

 気づくと私は、まりにキスしていた。

 

 同意を得ずに。衝動的に。くちびるが触れ合う感覚で我に返って血の気が引いた。

(あ……おわりだ)

 まりの目が見開かれて、私のカスみたいな理性が戻ってくる。バッと体を引いた。しかし何をすればいいかわからない。脳みそはいい言い訳を考えるのに必死なくせに、私たちの関係が最悪な形で終わった事実が揺るがないことだけは理解してしまっている。

 最低だ。キモい。まりが私に懐いてくれたのは、私がまりに『キモい』を向けないからだ。私が盾で傘だから、まりは私に笑ってくれる──そういう繋がりだったのに。だからこれは裏切りだ。もうどうしようもない。

『死ねよ』

 そう言われて、我慢していた涙が溢れた。

 まりはおぞましいものを触るように、自分のくちびるに手を添えている。

「ご、ごめ……」

 何のために『まとも』を決意した?

 何のために髪を切った?

 ──『こう』ならないためじゃなかったか?

 それなのに……この期に及んで、私はキモいことばかり考えている。

 私が初めてだとか。初めてがまりだとか。

(やわらかかった……!)

 ──だとか。本当に最低。

 呆然とまりを見ていると、突然、顔が近づいてきた。

「んっ……!?」

(やわらかい!!)

 目の前にまりの顔がある。匂いがする。鼻が擦れて息づかいがわかる。

 くちびるに、感触がある。

 互いのくちびるが触れ合って数秒後、まりはゆっくりと離れた。

 もう意味がわからない。頭でドクドクドクドク、音が鳴っていた。

「はぇ? え?」

「えへ」まりが笑う。「ヤじゃなかった?」上目遣いだった。

 私はぶんぶん首を横に振る。今度は私が訊ねた。

「え、嫌? じゃなかった? ……か?」

 するとまりはふるふると否定する。そして私の背中に腕を回して、ぽす……と肩にあごをのせて、耳元で言った。

「だいすき」

「〜〜〜〜!?!?!?」

 ひっくり返るかと思った。もうほとんど抱き合うようにくっついているから、まりの顔が見えない。薄汚い天井じゃなくて、まりの顔が見たい。どんな顔をしてる? 笑ってる? 怒ってる? 赤くなってる? 泣いてる?

 パニックになったまま、どさくさに紛れてあたしはまりの背中に腕を回す。正真正銘抱き合う形になる。するとまりが深く息を吐いた。

「ぁ〜……夢みたいかも」

「あ、え、いつから……」あたしのこと、好き? と訊ねる。そんなこと知ってどうするんだろう。

「電車で助けてくれたとき」まりは吐息まじりに答えて「しづは?」と訊き返してくる。

「え、あ」あたしは困惑する。いつからだろう。まりにキモい欲望を抱くようになったのは。「わかんない、いつの、間にか? あ、でも、自覚したのがいつの間にかで、もしかしたら……最初から……好きだった、かも」

 あたしがなよなよと言い終わると、まりが「うれしい」と囁いて、耳たぶを噛んできた。

 ぐに。あたしの耳たぶにまりの犬歯が食い込むのを鮮明に感じて「ひゃっ」と情けない声が出る。恥ずかしすぎて真っ赤になったあたしの顔を、まりが覗き込んでくる。

「へへ」

「おぃ……」

 目が合う。まりも真っ赤っかになっている。頬に手を添えられる。

 一呼吸おいて、あたしたちはキスをした。今度は深く。予鈴が鳴っても、ずっと。


 *


 連休明け。嫌がらせのように朝から雨降りだ。しとしとしとしと……。強くも弱くもない雨粒が、教室の窓を撫でるように叩いていた。

 これが中学なら当然サボっていたけれど、あたしは重い体を引きずって、なんとか席についている。

 朝HRまであと三分ほど。

 急いで終わらせなければならない課題はないし、友達と喋るにしても短い。ならばと、学生鞄から読みかけの小説を取り出した。

(うわ……)

 これが、雨水でたわんでいる。まりに教えてもらった恋愛小説で、二年前に映画化されたらしい。言われてみれば聞いたことのあるタイトルだった。観に行ったような気もする。

 少しずつ読み進めて、あとはエピローグだけだったのに。

(まあいいか。読めるし)

 開き直ったところで、ちょうど担任がやってきた。

 目くばせされて、学級委員のあたしが号令をかける。

「……きりーつ、れーい、着席」

 生徒が席に着くのを確認して、担任がどうでもいい連絡と雑談を始める。あくびをかみ殺しながら右から左へ流していると──。

 目が覚めるような怒号が、隣のクラスから聞こえる。


「舐めてんのか!」


 HRの進行が止まって、しばらくざわつくだけの時間が流れる。

 そして恒例のように矢竹さんが話しかけてくる。

「うわー、またあの子だよ、たぶん」

「……そうとは限んないだろ」

「金髪だもんね、そりゃ目つけられるよ〜」

「ふん」

 矢竹さんは怒鳴られているのがまりだと決めつけているようだった。

 だが隣の担任は癇癪屋の中年男性教師で、なにもいつもまりだけが怒鳴られているわけではない。宿題を忘れたヤツとか、遅刻したヤツとか、口実を見つけていつも怒鳴っている。

 しかも当校の校則は比較的ゆるく、金髪が絶対にアウトというわけでもない。それが証拠に先輩にも金髪の人は何人かいて、毎日普通に通ってきている。

 まりも隣の担任の機嫌次第でスルーされていた。だから、まりが怒鳴られているとは限らない。

「なんで金髪やめないのか知らないの?」

「知らん」

「えー友達でしょ?」

「……だからダチじゃねぇって言ってんだろ」

「えー」

 ゴシップ大好き女を適当に流していると、再び怒鳴り声がした。


「とっとと染めてこい!」


 隣のクラスで髪色がやんちゃなのはまりだけだった。恫喝されているのは、ほぼまりで確定した。

 思考が一気に沸騰する。


(あたしの彼女に……!!! ぶっ殺してやる!!!)


 衝動的に立ち上がると、椅子が後ろの机に衝突してデカい音が鳴った。後ろの女生徒が「ぅお」とびっくりする。その声で、少し理性が戻った。

 あたしは深く息を吐いて、荷物をまとめた。今日はサボることにする。

「先生、今日は体調が悪いので早退します」

 あたしはそう言って、担任の返事も聞かずに教室から出る。

 そのまま隣の教室まですたすた歩き、扉を開けた。

 そこには死んだ顔で自分の席に座ったまま、あーだこーだと怒鳴られているまりがいる。

 急に扉を開けたからか、ぎょっとしてこちらを見た。目が合って、互いに顔が明るくなる。

 そして嫌なことに、怒鳴ってるおっさんとも目があった。私の怒りは未だふつふつと煮えているが、堪える。

「まり、帰んぞ」

「うん!」

 まりはすぐに荷物を持って、あたしの方に駆けてきた。

「おい!」とおっさんが威嚇してくるから、あたしは「あ゛?」と返す。

 するとおっさんは少し怯んで、次の言葉を探し始める。こういうタイプは不意の反撃に慣れていないと、怒鳴られ慣れているあたしは知っていた。

 それに、こいつを破滅させるのは簡単だ。戦争するなら、粛々と密告をして、最後の日に『ひさしぶり』とでも心の内で唱えてやればいい。

 おっさんが口をぱくぱくしている間に、あたしはまりと手を繋いで廊下をいく。

 外に出ると雨はいつの間にか止んでいた。遠くの空で、雲間から光が差し込んでいる。ロマンチックだけど……本当はちょっとだけ、相合傘で帰りたかった。


 *


 あたしの家の、あたしの部屋。寝具と机とクローゼットとテレビとDVDプレーヤーくらいしか置いてない殺風景な部屋に、今日は『恋人の』まりがいる。それだけで、あまり好きではない私室が輝いて見えるようだった。

 まりはあたしの足の間にすっぽり入って、あたしがまりを包むように座る。

 小さな机の上にはスナック菓子とジュースを並べた。

 学校から強行的に早退したあたしたちは、さて今からどうしようかと相談した。結果、まりが借りた映画のDVDをあたしの部屋で見ることになった。

 まりが出してきた映画は、あたしが少しずつ読み進めていたあの小説の映画版だ。

 DVDのケースにはいかにも軽薄そうな恋愛もののタイトルと、数人のアイドルの顔が載っている。

(この映画……あの時の!)

 それは紛れもなく、まりと出会った日に観た映画だった。

(あたしがリベンジにもう一本観るハメになった、クソつまんない一本目の方……!)

 あたしがドギマギしていると、まりは無邪気に笑った。

「わたし、これ初めて見るんだー。小説すきだから楽しみなの」

 え、かわいい! という声を押し殺して「そ、そうか……」とだけ返事する。

 確かに小説は面白かった。あたしは普段小説を読まないけど、良かったと思う。話もまとまっていたし、ドキドキもした。

 しかし映画の方は──おぼろげな記憶だが──つまらなかった。話の説明が少ないわりに、アイドル同士の絡みはやたらある。アイドルのファンのためだけに作られた作品なんだろうという印象だった。

(これ、まりが観たら泣くんじゃねぇか?)

 あたしの不安をよそに、まりは弾んだ様子で再生ボタンを押した。


 予想は、嬉しい方に外れたことになるだろう。

 だいたい、まりとこんな風にくっついて、映画なんてまともに観れるわけがなかったのだ。

 目の前にまりのつむじがある。まりがもたれてくれば、頬に金髪が擦れる。息を吸い込めば、嗅覚ぜんぶ、まりになる。

 左手は互いの指を絡めて、まりのお腹に置いているし。

 右手は互いにスナック菓子を『あーん』するのに忙しい。

 食べカスのついた指を舐められたり。指の腹を甘噛みされたり。ジュース用のコップは二つ用意したのに、まりは片方にしか注がず、自分が飲んだ後に「はい」と差し出してきたり。

 ……そんな具合でも、映画が濡れ場に入れば意識がそちらに向く。まりが悩ましげに目くばせしてきて、映画に合わせてキス。水音をさせながら、しばらく淡い快楽に溺れる。

 なんとか正気を保ったまま乗り切ったが、あたしの脳裏にまた一つ新たな懸念が浮かんだ。

(この映画たしか……ラストにベッドシーンがある……)

 あたし、今日ここでまりとするんだろうか。考えてしまうと、どうしてか焦燥感ばかり募っていく。どうしようどうしよう。

 都合がいいことに親はいつも夜遅くまで帰ってこない。邪魔するものは何もない。

 でもどうすればいいかわからない。まりをああだこうだする具体的な方法なんて想像もつかない。

 ただあわあわと頭を空回りさせていると、映画はついに「んっ、んっ」とラストに突入し、あっという間にエンドロールが流れ始めた。

 まりは「はぁ〜」と脱力して「おもしろかったね〜」と耳を赤く染めている。

(ウソだろ!?)と言いかけて「う、ああ」なんとか方向転換した。

「しづ……」まりはあたしを呼んで、ゆっくりとこちらに向き直った。まりは四つん這いで、真っ赤な顔面をあたしの両目に近づけてくる。


「じゃあ、しよっか」


 まりの蠱惑的な微笑み、背後に流れるエンドロールと、浮ついたアイドルソング。

 つまらない映画だと思っていたけれど、案外これも悪くはないかもしれない。

 まりに押し倒される瞬間、ぼんやりとそんなことを思った。


 (おわり)

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ダチじゃねぇって言ってんだろ あわいむつめ @awaimutsume

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