孕む

笹 慎

子宝祈願

 妻が妊娠した。


 このめでたいはずの出来事を、私は喜べずにいる。


 それは自分の子ではないからだ、とかいったことではなく、何か直感めいたものとして、「アレはのではないか」という拭えぬ不安があるのだ。


 日に日に大きくなる彼女の腹を見ては、なぜか私の頭の中は恐怖でいっぱいになった。



◆◆◆



 私と妻は大学で出会い、卒業後数年して結婚をした。妻は子を強く望んではいたが、まだ二人ともまだ若かったので、特段意識せずに二十代を過ごした。


 三十代に入ったころ、妻から不妊治療を切り出され、タイミング療法から始まり、最終的に体外授精まで行ったが、治療の甲斐もなく子を授かることはできなかった。


 三度目の流産を経験した頃から妻は塞ぎがちになり仕事を辞め、よく寝込むようになった。数ヶ月、彼女は床に臥せ、いつ見ても泣いており、その姿はとても痛ましかった。


 とはいえ、しばらくすると布団から起きる日も増え始めた。元気になってきたのかと私が安心したのも束の間、今度は子宝の石、お札や水といったスピリチュアルに傾倒しはじめ、高価なものをよく買うようになった。


 最初のうちは、流産という辛い思いをした妻を慮り、それで心の傷が癒やされるならばと許していた。


 だが、度重なる不妊治療によって私たちの貯蓄は底が見えてきており、ついに私がやんわりと彼女の散財を咎めると、妻は悲しそうな顔をしたが「わかりました」と約束をしてくれた。


 それから、一ヶ月ほど経った頃だろうか。妻は旅行パンフレットを手にして、仕事から帰ってきて夕ご飯を食べ終わった私の前に座ると、「これで最後にするから」と頭を下げた。


 私は慌てて彼女に頭をあげるように言い、その三泊四日の子宝祈願バスツアーに快く彼女を送り出したのだった。


 旅行から帰ってきた彼女はとても穏やかで以前のように明るくなり、私はとても喜んだ。そして、もう夫婦二人で仲良くこのまま年老いていこうと心に誓った。



◆◆◆



 アレが私の子ではないことは確かだ。なぜならば、私は不妊治療によってセックスがプレッシャーとなっており勃起不全だったし、EDの薬を飲むと体調が悪くなり性交どころではなくなってしまうので、もう何年も妻とはセックスレスだったから。


 ただ、そんなことはどうでもいい。正直なところ、妻が旅行で別の男と行為に至り妊娠したというのであれば、私は「妻を妊娠させる」という重責から解き放たれたことを天に感謝し、血のつながらぬ子だとしても我が子として受け入れ妊娠を喜べたであろう。


 妻は妊娠したというわりに、妊婦健診どころか産婦人科への受診も一度として、していない。これまでの彼女ならば、ありえないことだった。今までの妊娠では必要以上に心配し、事あるごとに病院へ通院していた。それでも流産という悲しい結果になったのだ。



 ただ、日に日に彼女の腹が大きくなっていくことだけが、妊娠の事実を私へ訴えてくる。一体、何が育っているのだ。私は怖くて、だんだん妻のことを見れなくなっていった。



 聖母マリアのような慈愛に満ちた表情で彼女は大きくなった腹を撫でる。


 意を決して私が「そろそろ、出産する病院を決めないか? 君も高齢出産ともいえる歳だし」と話しかけても、無言でただ微笑みを返してくるばかりだ。



 こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。



 腹の中から妻ごと別の生物へと変わっていってしまっているかのようだ。


 もう私の知っている妻ではない。一緒にいると、頭がおかしくなりそうだ。



◆◆◆



 その日、仕事から帰ると、家の電気が消えていた。妻はどこかに出かけたのであろうか。私は彼女と顔を合わせずに済むことを少しだけ喜んだ。


 玄関で靴を脱ぎ廊下の電気をつける。


 そして、居間のドアを開けると、床に何か液体がこぼれていた。私はそれを踏んでしまい、いささか靴下が濡れ、顔をしかめる。仕方なく靴下を脱ぐと、なぜか血の臭いがした。手探りで居間の電気をつけると――――――



 リビングの真ん中で大の字になって、妻は倒れていた。腹は何かが飛び出したかのように裂けて破れている。あたり一面、血の海だ。


 私は彼女の容態など、そっちのけで家中を探し回った。ひたすらに探し回った。扉という扉を開け、クローゼットから物置まで、すべてを確認する。


 妻の腹から出てきたアレが家の中に潜んでいるのではないかと、怖くて怖くて仕方がなかった。



 いない。アレはいない。どこかへ出て行ったのだ。私は安堵して、しゃくりをあげて泣いた。見ずにすんだ。知らずにすんだ。すべて終わったのだ。

 

 私は胸をなでおろし、居間へ戻る。冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、ダイニングテーブルに座った。ビールで喉を潤す。それから、十五年ぶりに自宅でタバコに火をつけると思いっきり煙を肺へ吸い込んだ。



 妻だったモノを眺めながら、すべての責任から解き放たれ、私はホッと溜め息をついた。吸い込んだ煙を天井に向かい吐き出す。



 そして、――――――



 天井にへばりついたソレと目が合った。



(完)

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孕む 笹 慎 @sasa_makoto_2022

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