防災訓練

 関東大震災からちょうど100年。その甚大な被害とそこから得た教訓を忘れまいと九月一日を防災の日と定め、あちらこちらで訓練が行われる。


 自分が通う高校でも毎年防災訓練が行われた。巨大地震の発生により家庭科室から出火。校庭に避難するという設定だった。ところが、大半の生徒が警報が鳴っても机の下になんて潜らない。「避難しろ」と指示されても団扇代わりに下敷きを忙しなくはためかせながら文句をブーブー言っている。


「暑ちぃな。」


「だりぃな。」


「面倒くせぇな。」


 緊張感の欠片もない。県立高校ながら一学年が六百人に近く、全校生が校庭に集合するのにかかった時間は予定をはるかに越えていた。そこへ拡声器を手にしたH先生が現れた。するとそれまでザワついていた空気が一瞬で凍りつく。


 やんちゃな生徒が多い高校では、特に大学時代に武道に取り組んだ若い体育教師がもてはやされ、校則を破る生徒を片っ端から取り締まっていった。その筆頭がH先生で、まるで江戸の火付け盗賊改のように容赦がなかった。


 当時は大半の高校がパーマも茶髪も御法度だったが、ある日、オレンジ色のチリチリパーマをリーゼントにしてきたやつがいる。仲間に囲まれ、得意満面でフォークのような特殊な形状のブラシで自慢の髪を整えていた。そこへ背後からH先生が忍び寄る。能面のように表情のないときほどかえって危ないことを誰もが知っている。心の中で掌を合わせた。


(南無。)


 案の定、鶏冠のようなオレンジ色の前髪を無言で鷲掴みにされ、そのまま体育館裏へと連れ込まれた。十分ほどして再び姿を現したときには自慢の頭をバリカンでまだらに刈られ、涙を浮かべていた。



 誰ひとり口を開く者などいない。グランドに二千人近い人間がいるにも関わらず、水を打ったかのように静寂に包まれていた。列の最後に並ぶ自分にはもちろんその表情ははっきりとは見えない。しかし、容易に想像はついた。怒りのオーラに思わず息を飲む。そのとき朝礼台の上に立ったH先生がおもむろに口を開いた。


「えー、こういう訓練になると、わざとダラダラダラダラするヤツがいる。」


 決して声を荒げることはない。抑揚のないぼそぼそとした語り口に誰もが背筋を伸ばし、顔をこわばらせた。スピーカー一体型のマイクロフォンでは本来声が通るわけがないのだが、それが鮮明そのものなのだ。


「そういうダラダラしているヤツに限って、実際に大地震、火災、そういう災害が起こったときに……」


 モズかヒヨドリか、のどかなはずの野鳥のさえずりがかえって緊張を際立たせた。


「生き残る。」


(ん!?)


頭の中は疑問符でいっぱいだが、それを口に出せる雰囲気では無論ない。


「そしてこういうときに真面目にやっている青白い顔をした極一握りの生徒。そんなやつに限って運悪く……」


 そこに居合わせた誰もが耳をそばだてた。


「ロッカーの下敷きになったり、煙に巻かれて死ぬ。オレはそれが何より頭に来るんだッ!」


 H先生の怒声が轟くと同時にサッとうつむいた。あまりに意外で、おかしくてならなかったからだ。しかし、吹き出したり、声をあげて笑ったりするのは言うに及ばず、ニヤけた表情すら命取りになる。


(笑ったら一巻の終わり。)


 だが、自分にそう言い聞かせれば言い聞かせるほど笑いがこみ上げてくる。自分の両腿を両手で力の限りつねって笑いをこらえた。そうやって四、五分身悶えていた。すると、しんとしていることに変わりはないが、どうもさっきまでと空気感がちがう。涙目で恐る恐る頭をもたげ周囲を見渡すと、みんな顔を伏せて必死に笑いを噛み殺している。ほぼ二千人がスマホのマナーモードのように小刻みに震えていた。






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ズレズレ草 きさらぎ @F23

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