「きさらぎ駅――」

 まさかと思いながらも、辺りを見回してみると、その景色はかつてはすみという女性が書いた書き込みとほぼ、いや全く一緒だ。それに気付くと同時に私はここが本当に、私が住む世界とは異なる世界なのだということに気付いた。

 空が黒い。

 先ほどまでに真上にあった太陽は、喫茶店から出た時点で、既に沈みかけ始めており、この世界が都市伝説のきさらぎ駅であると気付いた瞬間に、空が暗くなった。

 わかるだろうか。異様なのだ。時間の進み方が明らかにおかしいのだ。体感こそここにきて二時間ほどであるというのに、この世界では既に六時間ほどが過ぎたことになる。

 もちろん先ほどまで私が、様々な思い出に浸りながらこの世界を楽しんでいたということもあるので、体感に比べて時間の進みが早かったということもあるだろう。だが体感二時間と、六時間の差に気付かないわけがない。明らかにこの世界はまるで私を夜へと誘っているようだった。

 その瞬間聞き慣れた、空気が放出される音と同時に、何かの扉が閉まる音に気付く。暗いのに私を照らしていたもの。それは列車の室内灯であった。

 気付かないうちに、駅に列車が到着し、そして今出発した。ゆっくりと走り出していく電車の中を見ると、書き込みで読んだように、中にいる人たちは、全員眠っており、それこそ生気が感じられない。だが、それをしっかりと確認する前に列車は出発してしまい、もう駅を煌々と照らす光はなくなった。

 そこで私は手に持っていたスマホの電気をつけて、取り敢えず明かりを確保する。恐らくきさらぎ駅に――現世とあの世の境の駅とされているので、過去、数多く訪れた人はいるだろうが、こちら側で確認できるとして――初めて来たはすみさんは、携帯電話の充電切れによって、より詳細な事柄や、顛末を伝えることはできなかったが、生憎私には携帯バッテリーも、車もある。

 スマホ充電、ひいては生活に必要な電気すらも、ハイブリット車からは得ることができた。しかも、はすみさんの場合、周囲には何もない無人駅だったらしいが、私の場合は駄菓子屋も喫茶店も――なくなっている。

 行ってしまった列車を見送り、後ろを振り返ると、そこには駅舎の脇に停められた私の車と、いや、『と』じゃない。車しかない。それ以外は無限の草原だ。

 それに気づいた瞬間に、身体に絶望が走り抜けた。どういうことだ。いや、どういうことだじゃない。

 何もかも思い出せる。駄菓子屋のガムもラムネも、喫茶店のナポリタンも珈琲も。それこそポケットにはガムの包み紙と、はずれのくじが入っている。これが証拠になる。私はあの誰もいない駄菓子屋でガムを買ったと。だが目の前には何もないのだ。あったはずの多くの瓦屋根の長屋や、トタン壁の家。駄菓子屋に喫茶店。

 見えるのは「きさらぎ駅」と書かれた駅看板と無人駅、そしてもう明かりすら見えなくなりつつある遥か遠くの列車のみだ。


――シャンシャン、シャンシャン――


 そうだ。これから何が起こるかを思い出さなければならない。はすみさんはこれから数分この駅で立ち往生した後に、線路に降り、伊佐貫トンネルを目指した。その際に遠くからは鈴の音と、線路を歩いていることを咎める片足しかない男。今耳が捉えた音は、明らかに鈴の音だった。それに太鼓の音も聞こえる。


――どうする。どうするのが正解だ?――


 知らない人も多いかもしれないが、きさらぎ駅から帰る方法はいくつか不確定でありながら見つかっている。その中で一番有用な方法は火を焚くということ。

 ラッキーなことに車には、父親が使っているライターがあるはずだ。だから少なくとも帰りたくなれば、ライターを着火すればいい。それで帰れなければ何か考えないといけない。だがそれよりも考えなければならないのは、今すぐ帰るかどうか。

 私の中であるのは、今帰ってしまうと、もうこの世界には帰ってこれないのかもしれないのではないかという恐怖を打ち負かす好奇心だった。もちろんこの判断が、現世とあの世の境であるこの街で自分にどのような結果をもたらすのかは覚悟している。それこそ既にここに来てしまった時点で、帰ることができるかなんてわからない。だが少なくともあの街が無くなったこの世界で生きていくのはいささか大変そうだ、と私の頭の中は至って冷静だった。

 だからこそ確かめてしまおう。鈴を鳴らしている主も、片足の男も。それが何なのかを。なにより、果てしない恐怖に包まれたらこの車で物理的解決を謀ればいいし、ライターだって積んである。

 そんな不確かな自信に突き動かされた私は静かに車に乗り込み、エンジンが始動したとともになり始めた音楽を消した。窓を開け、鈴の音がよく聞こえるようアクセルを踏み過ぎず、ゆっくりとゆっくりと先ほどまであったはずの道路とは違い、雄大に広がっている草原をかき分けながら走り始める。


 少し走ればわかってきたのだが、鈴と太鼓の音はどうも祭囃子の音のようで、その先には行燈の様な橙のぼおっとした灯りが点々と見え始めていた。駄菓子屋、喫茶店の次は祭かと、この世界はどうも古い夏を再現しているらしく、まさに郷愁を掻き立ててくる。

 私は車を降りて、並ぶ的屋に挟まれた通りを歩き始める。空は暗く、夜であるというのに、出店にぶら下げられた裸電球と、点々と吊るされた行燈の優しい明るみに包まれているからか、先ほどまで包まれていた恐怖感というのはあっさりと消え去ってしまっていた。この状況で恐怖という警戒の感情が失われているのは良いこととは言えないのだが、私の心は日中の時の様に懐かしさを楽しもうとするその感覚に侵されている。

 ワクワクしきっている私の目に映るのは多くの出店であり、その中でまず目についたのはあんず飴だった。生来甘味より酸味が好きであった私にとって、綿あめよりあんず飴の方が私の心を躍らせた。

 水飴が手につかないようにモナカの皿の外側を丁寧に持ちながら、短く切られた割りばしについたすもものあんず飴を手に取る。もちろん札に書かれている分の金額はしっかりと脇の机においてある。

 皿にくっついて糸を引く水飴を、割り箸をくるくると巻き取るように回すことで糸を断ち切り、口元へ運べば水飴の甘味と、独特な食感が口の中で感じられる。歯が痛くなりそうな甘さであった。当時は歯医者に行きたくないという理由から痛む歯を虫歯ではないと入念に磨き、放置しており、こういった口の中で制御しきれない食べ物が虫歯に触れ、涙が出るほど痛むなんてことは多くあった。

 でもそんな痛みを吹き飛ばすくらいに、子供の頃に食べたあんず飴はおいしくて、果物が飴の中に入っていることは子供ながらにとても特別なことではないかと思っていた。

 それから舐めるのではなく、齧るようにあんず飴を頬張ると、飴に包まれたすももの頬の裏が痛くなるような酸味が口中を走り回る。この一口で二つの味を楽しめるお菓子というのが子供だからか嬉しくて、とても面白いお菓子だなぁと感動していたのを思い出す。

 それから飴の残っているモナカの皿をパリパリと食べてしまえば、あんず飴は終了で、手元には少しべたついている短い割り箸が残った。昔はこういった細かいゴミも母親がすぐに受け取ってくれたのだが、この行き場を無くした割り箸を見ると、自分も成長してしまったと何とも言えない哀愁を感じざるを得ない。

 

 甘いものを食べたら、次は塩気のあるものが食べたくなっているのはどうも性としか言いようがなく、私はやきそばと書かれている出店の元へ歩いて行った。

 もちろん出店には変わらずだれもいないのだが、やきそばを作っていたであろう鉄板には細かな野菜の切れ端や、麺の切れ端、ソースの焦げ目などが付いているのを見ると、先ほどまで誰かがここでやきそばを作っていたように思える。まるで私が来るのがわかっていたかのように、熱々のやきそばが机の上に一つ置かれており、私はやきそばを取る代わりにいくらかの小銭を机においた。

 焼かれたソースの匂いがふんわりと鼻腔を抜けていき、腹が空いていることに気付いた私は、やはりこの世界では太陽の動きと同じくらいの時間が経過していることを知った。二時間程度は私の体感でしかなく、ここでは時間の進みが速く、それと同時に自らの肉体もその速さと同じく変化していっているということだ。私の空腹感だけで結論付けるのは時期尚早な気もするが、二時間ほど前にお腹一杯になるほどナポリタンを食べたというのに、今は目の前にあるやきそばに腹が鳴っている。


 しかしこの時の私は、恐らくこの世界の魔力に惑わされていたのだろう。そんな危機を感じるべき事実に気付いたというのに、私の意識はその事実に向かず、フードパックを閉じている輪ゴムを外すことに集中していた。


 蓋を開ければしっかりとしたソースが香ってくる。我慢しきれなくなった私は割り箸を使って、そのやきそばをごっそりと取り、一気に口の中へ放り込む。ソースと少しのキャベツの香り、それと麺の食感。言ってしまえばそれだけだった。深みとか、奥深い香りとか、料理評論家が思考を凝らして書く言葉なんて全く似合わないような武骨なシンプルさ。それこそ美味しい食べ物ではないかもしれない。まずくはないという最低な感想にすらなりえるこの食べ物はまさにノスタルジーが故に美味しく感じるのだろう。

 この器を持つときに、手にじわじわと伝わってくるやきそばの温度が熱くて、持てないのだが、それが持てるようになる時にはやきそばは冷めてしまっていて、と不便でありながらも、儚さを覚えた。


 腹がいっぱいになった私は、最後にもう一度甘いものをとりんご飴と出ている出店に向かい、大玉ではなく小玉のりんご飴を手に取った。子供の時は大きいものが良いものだと勘違いし、大玉を親に強請り、結局最後まで食べられないということが多くあった。しかし大人になり経験した私は大玉は買わずに、小玉を購入する。そして飴を保護するようにつけられたビニールを取り外し、あんず飴と同じように一度舐める。水飴ほど強い甘みではないが、これもしっかりと甘みを感じた。

 ゆっくりと飴が溶けていけば、中にいるりんごが顔を出し、それに齧り付くと、じゃくっという音共に皮付きのりんごが口の中に転がり込む。大人になってわかったのだが、りんご飴に使われるりんごは美味しくない。なんというか身がシャッキリとしていないぼけたりんごに当たる確率が多い気がする。だからこそりんご飴にしているのかもしれないが、人の工夫とはすごいもので、そんなぼけたりんごだとしても周りへコーティングされた飴のおかげでそれを許すことが出来る。

 幼少期の頃好きで見ていた子供向け映画を大人になってみてみると、気付かなかった感動があったりする。それは映画や漫画だけでなく、りんご飴でも起き得る可能性があり、私は祭の出店に凝らされた工夫というものに感動を覚えていた。


 それから出店が立ち並ぶ通りを抜けると、いくらか開けた広場のようなものがそこにはあって、高くそびえる櫓の上には太鼓が置かれている。赤く光る提灯がそのてっぺんから地面へ向かって四方向へ伸びている弛んでいる紐に等間隔に吊るされていた。

 そこで私は衝撃的なことに気付いてしまった。太鼓の音がしている。今、太鼓の前に立っている人はいないのだが、確かに祭囃子の太鼓の音が今でも聞こえてきているのだ。

 どういうことか。今まで寄ってきた店全て――駄菓子屋も、喫茶店も、駅も、出店も――人がいたということだ。ただ私に見えていなかったというだけで、この世界には、この世界を構成している人たちがいる。

 その事実に気付いた時、私の目の前に盆踊りをする人々が突然現れた。

 それは盆踊りだけではなく、太鼓を叩く人も、りんご飴を売る人も、やきそばを作る人も、あんず飴を買う人も。

 この世界の存在に気付いた瞬間、世界はその本当の姿を私に見せ始めたのだ。


 この時私はギリシャ神話の一つペルセポネの神話を思い出した。死者の国の食べ物を口にしたペルセポネは一年の内、三分の一を冥界で過ごさなければならなくなり、それによって冬が生まれた。

 問題は冥界のものを口にすると、現世に帰ることが出来なくなると言うことだ。それは神話の話に過ぎないが、そんな話があると言う事実が不安を煽る。

 この時の私はどんな表情をしていたのだろうか。青ざめて、まるで絶望という言葉を張り付けたかのような顔をしていたのかもしれない。

 

 そんな時りんご飴の屋台にいたであろう男性が私に話しかけてきた。

「おうあんちゃん、映シ世ウツしヨに迷い込んだな?」

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Horror Night Nostalgia ―ホラー・ナイト・ノスタルジア― 九詰文登 @crunch

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