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車から外に出ると、風に乗った草木の香りがふわっと鼻腔を駆け抜ける。しっかりと夏だと体感できるほどに湿気はあるが、今年の夏のように不愉快なほどではなく、さらっと肌を撫でていくような空気。燦々と照る日差しは不快な痛みはなく、寧ろ心地よい。昔、幼少期の夏はこんな感じだった気がする。
三十度を越えるか否かといった気温の時だけに付けられる冷房は、なんだか夏から贈られるプレゼントのようで。でも次の日はお腹が痛くなったりなんかして。
そんな優しい夏が私は好きだった。
外で遊ぶには暑いけど、プールにずっと入ってると唇が青紫になったりしたあの夏が。
アスファルトではなく、拳大の石が敷き詰められ、一メートルほどの幅を持って伸びる鉄骨を繋ぐように等間隔につけられた木の板は列車のためのレールだと判断できる。
この線路はどこまで続いているのだろう。
私の目の前に広がるのは果てしない程、続く平原だ。青々として雄大な山に囲まれた平原。
東京にいる頃には地平線なんてものを臨むことはできなかったが、それこそ山と平原の境が見えないくらいには雄大な平原が続いていた。でも異界ともとれるこの場所も、辺りに生えている植物は、見たことのないようなものではなく、田舎に行けばどこにでも生えているようなそんな見覚えのある緑が広がっている。
そこに一本寂しく続く線路は――恐らくどこまでも、果てしなく、無限に続いて行っているのだろう。何の根拠もないが私はそう思った。
よくよく目を凝らしてみると、そのレールの先にはこじんまりとした何か、町のようなものが見えた。レールが伸びているのだから、もしかしたら列車が来てしまうかもしれない。そんなことを思った私は車に乗り込み、車の窓を開けたまま、レールを外れ、申し訳ないと思いながらも、青々と茂る植物たちを掻き分けながら、その町へと向かって車を走らせた。
このよくわからない風景に圧倒されていたためにそう判断したが、今抜けてきた伊佐貫トンネルは国道で、車道のはずだった。今考えてみれば線路が伸びていること自体おかしいのに、それよりもおかしなことを体験している私はそれに気づかない。
それこそ都市伝説好きの私はこの状況を夢のように感じ、心から湧き出る好奇心に身体を操作されているようだった。今なら車を持った状態で誰もいない世界を走って回れると。
AやBも心配であったが、長年付き添った二人の根性を知っている私は結局うまくやるだろうという結論に辿り着き、取り敢えず車の窓の外に片腕を放り出した。エアコンが必要ない程に清々しい夏のドライブは何年振りか。それこそ幼少期叔父の車で遠出したあの時以来であろうか。ただ外に出た時とは違い、車で走るこの世界は、それこそフロントガラス以外の私を囲うものが煩わしく感じた。もっと全身で、すべての五感でこの失われた夏を味わいたいと、現代の残酷な夏を知ってしまった私の体は、まさにノスタルジーな感覚に見舞われている。
車の窓から手を出し、外の空気に触れる。ああこんなにも、幻想の夏は私の心を躍らせる。もしこの夏が失われたのが、世間で囁かれているような多くの、近代文明が齎した結果であるのなら、私はタイムマシーンに乗り込み、遥か彼方の不便な心豊かな時代へと旅に出るだろう。
そんなことを考えながらも、文明の利器たるハイブリットカーを数分も走らせれば、その町へと辿り着いた。線路を外れ、ちょうどあった踏切から町の中へ入り、時速十キロ程度でその町を見て回る。
ぽつりという擬音がふさわしい小さな寂れた町。寧ろ村といった括りの方が最適か。町には木造で瓦が屋根に乗ったほとんど都会では見ることが出来ないかつての家々が別世界のように広がっている。その他にも、トタンで作られた壁を持った家など、まるで、昭和を描いた映画のセットのような街並みは、現代建築を見慣れた私には可愛いという感情が沸き上がる。
おかしな話だ。かつてはただ住むために作られたものに、可愛いなんて感情が、時代の流れが故に生まれてしまうなんて。
いつしかあの残酷な夏も、懐かしく思う日が来るのだろうか。
私は適当な広めの道の脇に車を停め、町を見て回るために車の外に出た。そしてまず道路が私のいた街と違うということに気が付いた。アスファルトではなく、砂利。もちろん歩きづらくはないが、硬く舗装された道に慣れきっていた私の足はその道に広がる砂利たちの感触に止めどなく違和感を覚えていた。夏場は街でもほとんどビーチサンダルを履いている私の足は、今日もサンダルで、たまに砂利が転がり込み、足の裏に噛み付いた。
その砂利道を少し歩くと、赤い丸い形をしたポストが目に入った。この形の旧型ポストは既に私の街では見ることが出来ず、古いものという印象があった。それを見つけた私は、この眺めていた街並みが本当に昭和の街並みを再現したようなものであるということに気付いく。
だからこそ、ここの気候は、私が望む夏の過ごしやすい清々しい空気を持っているのだろう。誰もいない世界でありながら、私はこの優し気な雰囲気を抱えた昭和の町に少し愛着が湧き始めていた。
そこからまた町を散策し、じんわりと身体を包む汗が、なんとなく薄くなりはじめ、喉の奥が気持ち悪く、口の中が寂しくなり始めた時、私の目に飛び込んできたのは懐かしさに涙すら流しそうになる程の小さな、小さな駄菓子屋だった。もう駄菓子なんてものはコンビニで買えるようになってしまい、近所にあった駄菓子屋は潰れて行ってしまった。
ああここもなくなってしまったのか、と、なんだか悲しくなるが、駄菓子屋に行かなくなったのも間違いなく私であり、その潰れた理由の一端を担っているのも私だった。
一番下の段が膝程度の高さにあることに、自らの成長を感じながら、こんなに小さかったかと驚き、その段をよく見るために視線をちょっと昔に戻してみる。ぎゅうぎゅうに詰められた十円ガムに書かれている黒猫みたいなキャラは変わらない顔で笑っていて、コーラやぶどう、オレンジなどの味のガムもたくさん並んでいる。
だが生憎、誰もいない街の駄菓子屋には温かく迎えてくれるおばあちゃんはいないようで、いつ仕入れられたかもわからない、でも新しめの駄菓子が静かに佇んでいた。
私はそのガムをいくつか手に取り、また店先に出ていた氷の入った金属のバケツの中に並んでいたラムネを一つ取り出し、尻のポケットに入れていた財布から、総額百三十円を誰かが座っていたのだろう座布団の隣に並べた。
そしてその縁側のようなおばあちゃんが座っていた場所に腰掛け、ラムネに栓をしていたビー玉を勢いよく、瓶の中に落とし込み、開ける。プシュッといい音を鳴らしビー玉が瓶の中に落ちた。
最近のインターネットは凄まじいもので、このラムネに栓をしているビー玉は、本当はエー玉というものの規格外品であることを最近知った。変な雑学が自分の中に増えていく代わりに、ラムネやビー玉の思い出がだんだんと薄れて行ってしまうような気がして私はなんだか、スマートフォンが好きにはなれなかった。
噴き出してくる泡を口に運ぶことで抑えながら、乾いていた喉にラムネを流し込んだ。ピリリと喉の奥を刺激するラムネは冷房のない駄菓子屋にいる私の暑さをあっという間に吹き飛ばしてしまう。
ラムネという飲み物は意外と奥が深い。先ほど購入したぶどう味のガムを口の中に放り込み、口の中にぶどうの風味が広がったタイミングを見計らって、もう一度ラムネを流し込む。そうするとぶどう味のラムネが楽しめる。幼少の頃よくやったラムネの楽しみ方の一つだが、幼少期は存外不器用なもので、ガムを一緒に飲んでしまい、それを友達に笑われたりした。幼少期は十円もとても高価な金額で、ほとんど楽しむことなくガムを呑み込んでしまうと、とても残念に感じていたのも懐かしい。そしてラムネに気を取られてしまい、そのまま目にしていなかったガムの包み紙とは別の紙を手に取る。
そこには可愛い絵と共にはずれと書かれていた。
十円でガムを二個貰おうなんて、人はなんて欲深い生き物なのだろうと私は思う。でもやっぱりはずれたら残念だし、当たっていたら跳ねるほどに嬉しい。たかが十円、されど十円。その十円ガムには今バイトで稼げる数万を使っても買えることのできない程、多くの思い出を私は貰った。
喉を潤した私は、意外にも少し腹が減っていることに気付き、駄菓子屋を出て、町の散策を始めた。例えば、喫茶店のような店があればと思ったのだが。すると遠くに洋風の建物が目に入った。和風建築が多いこの街の中で、ひときわ目立つ洋風建築は、その珈琲と書かれた素朴な幟から喫茶店だと判断できる。
「やっぱりあった」
そんなことを口にしながら私はうきうきとした足取りで、その喫茶店へと向かった。
焦げ茶の木の、小窓がついた扉を開けると、上部についていたベルがちりんちりんと鳴る。本当はもっと小さい時に入ったような気がするこの喫茶店の扉はなんだか小さくなったような気がする。誰もいないが故に、直接はしないが、微かに香る煙草の残り香がなんだか変な気分にさせるのも、昔と一緒だ。
茶色と白を基調とした店内は、ほとんど聞こえないジャズミュージックも相まって、お洒落でありながらもなんだか歪な印象を受ける。そんなことを思いながら店を見て回っていると、扉から入って一番奥のボックスシートに、一つの珈琲と一皿のナポリタンが置かれていた。
こんなに都合の良いことはあるだろうかと、私は怪しくも思うが、空腹の胃袋に鼻から直接突き刺さるケチャップの香りは鮮烈だ。赤みの色が強い安っぽいウインナーに少し焦げ目のついたピーマン、同じく少し焦げ目のついた玉ねぎ。これだった。駄菓子を食べ終え、このノスタルジーに浸りながら食べたいと思ったご飯はこのナポリタンだった。
私はここまで来たのならという変な覚悟と共に席に着いた。
まずは卓に乗っている硝子のコップに入った水を飲もうとすると、気付く。硝子のように見えるプラスチック製のコップだ。お洒落に見えて、こういった節々の安っぽさが私の心を楽しくさせる。本当はただの水であるのだが、この店の雰囲気や、煙草の匂い、珈琲の香りも相まって、なんだかおいしく感じたものだった。
それから私は目の前にあるナポリタンを、フォークで巻き取り食べ始める。何の工夫も凝らされていないケチャップの味だけがするナポリタンなのだが、後から来るピーマンや玉ねぎ、ウインナーの味や香りが一気に口の中に広がる。苦みが甘みが、塩気が、ケチャップの酸っぱさと絡み合い、パスタの小麦の香りと共に響く。
喫茶店のナポリタンが美味い。
そう、イタリアンでも、ファミレスでもなく喫茶店のナポリタンが一番美味い。これを発見した人に私は感謝したいくらいに、喫茶店のナポリタンは美味かった。それほどまでに美味いナポリタンを食べきるにはもちろんそんなに時間は掛からず、私は一息つき、フォークを皿の上に置いた。テーブルの脇に置いてある紙ナプキンを手に取り、口を拭うと、恥ずかしくなるくらいに赤く染まり、それを一度折り、もう一度口を拭い、赤みがつかないことを確認したら、その紙ナプキンを皿の上に載せた。
そして視界の端でちらちらと見えていた珈琲を自らの方へ寄せる。生憎猫舌である私は、ナポリタンを食べ終えるくらいの時間で覚まされた珈琲の温度が丁度良い。ブラックでは苦すぎる珈琲に、小瓶に入った角砂糖をいくつか入れ、ティースプーンでゆっくりと掻き混ぜた。するとまだ残っていた温もりが白い湯気となってじんわりと浮き上がり、空気に溶けて行く。それと同時に砂糖の解けた甘い香りと、珈琲の豊かな香りが広がる。
今一度珈琲を口に運び、ずずずと音を鳴らして飲む。先ほどまでケチャップとウインナーの脂で汚れていた口内が珈琲によって流されていき、口の中は珈琲一色に染まる。もうその頃には喫茶店の窓から橙色の灯りが差し込み始めており、昼では心許ない店の灯りが、確かに灯りとして機能し始めていた。
明らかに早すぎる日没を感じた私は、メニューを開き、ホットコーヒーとナポリタンの金額を確認した後、その分のお金をレジ横に置いて店を出た。
街の中で一度、車に戻ろうと思い、来たルートを思い出しながら道を辿るが、一つだけ気になる建物があり私はそこに向かって歩き始めた。遠目からでもわかる。木造の小さな寂れた建物。先ほど車で移動している際に辿っていたレールが行きつく先、駅だ。私はここの地名がわかるかもしれないと思い、その駅へ向かって足早に歩き始めた。
その駅は田舎の奥地でよく見ることが出来る無人駅のようだった。ただの鉄柵が突き刺さって境界を作っている改札。長い待ち時間を過ごすための待合室。町の行事ごとの報せが張られるであろう掲示板。
その駅からはなんだか優し気な柔らかな香りが漂っている。恐らくこの古びた木の香りなのだろう。生憎の都会生まれの私はこのような駅を利用するということはほとんどなかったため、先ほどの駄菓子屋のような感動はなかったが、それとは別の明らかな既視感が私には合った。
そして列車に乗るつもりもないのだが、私は興味本位でその駅の中に足を踏み入れた。単純に何という名前の駅なのだろうかという好奇心もあったのだが、それ以外に私はこの駅に心当たりがあったのだ。
伊佐貫トンネルに、抜けると広がる膨大な平原。かつてネットを騒がせた一つの都市伝説。
そして駅の看板を見てみるとそこには――。
『きさらぎ駅』
――と描かれていた。
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