Horror Night Nostalgia ―ホラー・ナイト・ノスタルジア―
九詰文登/クランチ
第一部 きさらぎ
1
上からだけでなく、アスファルトに反射して下からも熱を照り付ける太陽。肌を焼かれるようなじりじりとした痛みを感じるこんな夏に私はあの駅のことをふと思い出す。
もう見られなくなった温かみを感じさせる街並み。暑くても気持ちの良い風が吹きつける。その風は微かに草の青臭さを孕んでおり、青々と茂る夏の自然を彷彿させた。本来賑わっているはずなのに誰もいない静かな駅。あの町は今もどこかで優し気な夏を迎えているのだろう。
夏休み。外はねっとりと張り付くような空気が充満し、室内は体が悪くなりそうな程の涼やかな空気で満たされている。本来なら心地の良い暑さに、少しの汗を気にしながら縁側の柱に凭れかかるというのが風情というものなのだろうが、今年は異常とも言えるほどに、夏の暑さは残虐で、凄まじい勢いを持っていてそんな風情に現を抜かす暇なんてなかった。
既に熱中症や脱水症状で運ばれた人が百人に到達しようとしていて、身体に当たる風は瘴気の様に身を蝕んだ。スポーツ飲料というものは喉が渇いている時ほど甘みが増しているように錯覚するが、この年の夏はただひたすらにスポーツ飲料が甘かった。外で遊ぶにも暑い。海で遊ぶにも暑く、山なんてものは避暑になり得ることがなかった。そんな中でも未だ学生として遊びに呆けたい歳である私たちは、車に乗り込み、都内の某トンネルへと足を運ぼうとした。
学園の食堂でのひと時。暑いと言いながら冷房の効いた食堂の、冷えた椅子に座り、友人と暑さについての愚痴を漏らしているというのに、目の前の盆に乗っているのはらーめんやらうどんやらなのはどうも性としか言いようがない。それを箸で啜り、滴り落ちる汗を気にしながら食べるらーめんというのは鬱陶しい不快感を持っていながら、何とも言い難い味わい深さを内包していた。
そんななかで、誰かがぽつりと言ったのだろう。ど定番でありきたりな意見を。
「こんなに暑いんだし、もういっそ吹っ切れて暑い中肝試しとかしたら暑さも吹っ飛ぶんじゃねえか?」
仲の良い友人のグループで一番お調子者のAが言った。それに対し普段Aのツッコミ役であるBが「肝試しの涼しさって冷や汗とかのそれであって、結局気分の悪い汗が出ることには変わらないんだよ」と反論する。
「じゃあさじゃあさ車で行こうぜ。それなら冷房の効いた心地の良い室内で涼体験ができるじゃん?」
「車で行こうぜって、どうせ俺が出すんだろ? お前ら免許も持ってないんだからさ」
私はそう不満を漏らした。免許も持っており、家の車を自由に持ち出してよいと言われていた私は体の良い運転手であり、大体彼らと遊びに出るときは私が眠い目を擦りながらも、高速を飛ばしたものだった。
「車でどうやって肝試しをするんだよ」
「有名だろう? トンネルの真ん中で『パーッ! パーッ! パーッ!』ってやつはさ?」
と、Aは車のクラクションを鳴らす仕草をしながらそう言った。
「ああ最近話題のやつだろう?」
その年の初夏。多くの人が利用するSNSにて一つの都市伝説的な怪談が爆発的に拡散された。
東京の西。世界有数都市である東京でありながら、丁度良い田舎感と自然を堪能できる奥多摩の地にある、とあるトンネル内にて車のクラクションをリズムよく三回鳴らした後、そのトンネルを抜けると、全くの別世界に辿り着くことが出来ると。その先に何があるかというのは拡散したユーザーによってまちまちで、定番のあの世であったり、自分以外の人間がいなくなった世界であったりと。
その話については私もよく知っていた。心霊、怪談、都市伝説。その類の娯楽は私の大好物、得意分野であり、中高の修学旅行の夜、恋愛談にある程度収拾がついたら私が話題の主導権を握り、普段学内で顔を利かせている奴等を震え上がらせたものだった。だから私はこのトンネルの怪談もいち早くキャッチし、大体の知識は得ていた。
「大体の場所は調べて知ってるから、行ってみるか?」
そう言った私にAはきらきらとした目で視線を送る。大学生だ。もうすでに成人式を迎え、どこから大人? と哲学的なことを問わなければ、大人と認められた男がこれほどまでに無邪気な瞳をするかというほどに、Aの目は輝いていた。ただの避暑地を探しているというだけなのに。
「今夜はバイトもないことだし」
しぶしぶと私がこう答えると、有無を言わさず「決行!」とAは声を上げた。意外と天井の高い食堂で、彼の声は結構な大きさで響き渡り、食堂に残っている学生の視線を独り占めにした。私もAも生憎注目されることが不快ではない人間であったために、それは気にならないのだが、Bはとても居心地悪そうに肩をすくめる。言っておきたいのだが、向けられる視線において、Aは目立ちたがりで、私は気にならないということを伝えておこう。
そしていつものようにAの突拍子もない話から、なるがままに私たちの刺激的なアソビの計画が決まった。まだ夜も暑いそんな夏の日だった。
夜、吉祥寺駅北口から、東の方へ進んだガード下。そこからまた少し行ったパチンコ屋がある辺り。そこが車を出す際の私たちの集合場所であった。既に帰るサラリーマンではなく、二件目を探すサラリーマンたちで通りは溢れ、そこを狙ったキャッチや風俗のボーイがなんとかとサラリーマンたちの前に立ちはだかる。それを横目に私は、家族の共有車になっているミニバンで、音楽プレイヤーから爆音の洋楽を流していた。白だからまだいいが、もしこの車の色が黒だったらヤさんと勘違いされてもおかしくないかもしれない。
サビのところでドアを開けようものならそれなりの迷惑になる音量だ。流れている音楽は現代の若者たるA、Bの二人からしたら知らない世代の音楽だった。強いていえば音楽特番で父親世代が懐かしいなあというような洋楽たちが私のプレイリストで息づいており、少なからず初めて私の車に乗った彼らは「ノれない」だの「知らん」など愚痴をこぼしたものだった。まあ今となれば、遊んだ回数分、この音楽たちを聞いたので、二人もサビの部分を鼻歌交じりに歌っているくらいだ。
そして既に車に乗り込んだ三人のうち、私たちのリーダー的存在であるAの「出発!」という掛け声に合わせ、ハザードランプを切り、アクセルを踏み込む。
時刻はちょうど二十二時を回ったところだ。
電柱毎につけられた街灯の幅がだんだんと大きくなり、歩道を行く人も、車も見えなくなり始めた。意図的に政府が植えた街路樹ではなく、自然の森の木々が目立つようになり始めた辺りから、だいぶ私たちの気分は高まりつつあった。
夜の街というのは、最近明るいことが多いので恐怖を感じることは少なくなったが、夜の山や夜の海など、夜に巨大な自然と相対すると腰が抜けそうになるほどの何か黒いものに襲われるのは私だけだろうか。それこそ呼んでいるという表現が正しいか。
風で騒めく木々や、その隙間から香る土の匂い。微かに聞こえてくる動物の鳴き声に、虫の声。
ゆっくりと打ち寄せるさざ波。遠くに見える船の明かり。あれほどまでに綺麗な蒼を持っていたというのに、墨を垂らしたようにどす黒い水。
本来はそんな自然の育みがあるだけであるはずなのに、人間はその先にある何かを想像し、自らを恐怖に陥れる。
枝先についた葉の重みによって、垂れ下がった木々は肝試しに来ているという気分もあってかなんだか人影のように見えて仕方ない。そんなくだらない想像を捨ててしまえば肝試しなんて怖くないのだろうが、それでは本末転倒だ。涼には怖が必要だから。だからこそ、もうここまで来たからと、敢えて音楽は消し、これから行く肝試しに備えた。
「目的地は明確にわかってるんだっけ?」
ふとした時に、少し怖がりつつあるBが尋ねる。それこそ三人しかいないなかでミニバンの二列目の座席に座らされているのだから仕方ないだろう。三列シート七人乗りの車であるこのミニバンの半分以上は誰もいない暗闇に包まれているのだから。運転席、助手席とは明らかに空間が違う後部座席五つのうち、埋まっているのは一つだけ。下手に空いている隣と最後列の座席の虚無感がより一層不安を煽る。いないという事実より、いるという確信の方が安心できるように、誰もいない座席には嫌な気配を感じざるを得ない。シャンプーしている時に背後に誰かがいるような気がする、それと同じ現象だ。
「いや、ネットにある情報を色々と照らし合わせての暫定的な目的地だから明確ではないかな」
そう奥多摩のここら辺という話だけ回っており、明確な場所が明かされているわけではなかった。それこそその場所を指定してしまえば人が集まりすぎてしまうということも考慮してなのだろう。だがまとめサイトではなく、大本のオカルト掲示板にまで遡れば、ある程度のことは把握できた。ネットを子供のころから与えられていた私はこのような場合の情報収集も任されていた。
「でもその割に迷いなくハンドルきるじゃん?」
Aが薄ら笑いを浮かべながら言う。Aの目的は当初から一貫して恐怖体験ではなく避暑だ。だからかその精神は一定程度に安定しているし、怖がるような仕草も見せない。
「いやまあこういうのって勘に従って行った方が辿り着いたりするんだよ」
最も日中に説明していたように大体の場所は知っていたからこそ、方角なりなんなりを予想して、道を進めば目的地にたどり着けるだろうと言った算段だった。それも私は地図を渡されると深く考えすぎて迷ってしまうのだが、意外にも地図のない海外旅行などは大雑把な方角とたまに見える看板で目的地へと辿り着いたものだった。
「そうかなぁ?」
Bは辺りをきょろきょろと見渡しながら震えた声で呟く。この時私の頭の中にあったのは酒と恐怖は人の本性を表すだった。その直後であった。私はブレーキを踏み、車のライトをハイビームに切り替え言う。
「ほらな?」
車のハイビームですら出口まで照らすことが出来ない黒々とした口をあんぐりと開けるトンネルがそこにはあった。エンジンは止めず、サイドブレーキのみをかけ、三人は車の外に出てそのトンネルの入り口を見つめる。
「今時、中に電灯がないトンネルなんてありかよ? 一応国道だろ?」
Bは明らかに怖がっている表情で言う。Bの言葉通り、本当に一切の電灯がついていないトンネルだった。
「わっ!」
Aがトンネルに向かってそう叫ぶ。するとAの声はトンネル内の壁に反響して、見えない奥へと走っていった。突然の大声に私とBが驚いたのはいうまでもない。だが心霊スポットにしては別に肌寒くも嫌な感じもしなかった。それは三人でいるからだろうか。辺りはもう一面の草木と闇で、灯りは心許ない月明かりとビカビカとトンネルの暗闇を照らす車のハイビームのみだというのに、私の心は異常なほどの平静を保っていた。
「まあ肝試しに来てるんだからさ、いいんじゃないか?」
Aは同じように笑いながら言った。その会話を横に私はスマホの電灯でアーチ状のトンネルの入り口のてっぺんを照らした。
――伊佐貫――
「
パシャパシャとBを被写体にして写真を撮っているAを呼ぶ。トンネルの名前が書かれた看板の写真を見せて私は言った。古びれた看板はところどころが欠け、自分でもよく読めたと思うほどであった。
「名前なんてどうでもいいよ。ある程度写真はとったし、さっさと中に入ってクラクションやろうぜ!」
「伊佐貫ってどこかで聞いたことあるんだよなぁ」
そう呟いた私の声が聞こえていたのかいなかったのか、Aはそそくさと車へと乗り込み、私に運転するように促した。車に乗り込み、もう一度私はアクセルを踏む。ゆっくりと動き始めた車の中を照らす灯りはナビの光だけ。到着する前に車内灯をBが付けた時、Aに「気分が下がるだろ!」、私に「運転がしにくくなる!」と怒られたため、車の中は嫌になるほどの暗闇に侵食されつつあった。
「おい、B。後ろに変な奴が乗ってないかよく見とけよ?」
と、怖がっているBをより怖がらせようとAは笑いながら言った。少なからずバックミラーで見える景色はカーナビの光に薄らと照らされたBの顔と、トンネルの入り口まで続く果てのある闇である。
「やめろよ! ただでさえ暗くて後部座席も見えづらいんだから!」
そんなに暗いか? と私は思うが、こんな暗闇だからこそ集中して運転する。ハイビームにしてはいるが、先は一向に見えないし、壁に染みた模様が人や獣のように見えて不気味だった。しかしそれよりも一通ではないのに、車一台分の幅しかないこのトンネルで対向車が来たらどうしようかという不安の方が私は強かった。
たまにトンネルの天井からフロントガラスに滴り落ちてくる水に一瞬驚くが、それだけだった。そんなことを思いながら走っていると、Aが「もういいんじゃないか?」と呟いた。私は車を停め、クラクションを構えた。
「いいか?」
A。
「ああ」
B。
「うん」
その返事を聞いた私は強く、三回クラクションを鳴らして見せる。
『パーッ。パーッ。パーッ』
鋭く突き刺さるような音がトンネル内に鳴り響き、大きな音の後に信じられない程の静寂がトンネル全体に訪れる。まさに耳が痛くなるような静寂だった。聞こえるのは微かな呼吸音と、衣擦れの音。そして私が気付いた次の瞬間、車内にも異様な静寂が訪れた。先ほどまで聞こえていた呼吸音や衣擦れの音すらも聞こえない。
AとBが忽然と一瞬で姿を消してしまったのだ。
もし車の外に出ようものなら扉の開け閉めの音が響く。気付かないはずがない。というより、Bならまだしも横に座っていたAの動きに気づかないはずがない。万に一つと考えて一旦車外に出て姿を確認するが――いない。私を驚かせようとして、トンネルの外へ向かって走ったのだろうかと思ったが、前後を見ても二人の姿はない。隠れられるような場所もないし、それならば走ってトンネルの外へ出てしまったか、と改めて前後を確認する。
あるとすれば距離が短い方の、トンネルの奥から外に出たか。もしそうだとしても奥への距離は三、四〇〇メートルあるだろう。人の足で、気付かれずに一瞬でその距離を走り切れるだろうか。部活にも参加していない運動不足の遊び人が。人は想像もつかない出来事が起きると、なんとか現実に落とし込んで考えようとする。神隠しにあったとか、一瞬で消失したとか考えるより先に、現実的に科学的に答えを導き出そうとする。
しかしとうとう全ての可能性を出し切ってしまった私の中にあったのは、このトンネルの都市伝説だった。
――自分以外の人間がいない世界へ辿り着く――
その瞬間立てなくなるほどの恐怖が私を襲った。背後から存在しえぬものの視線を感じ、普段は聞き流す物音が何か不自然なものなのではないかと過敏に体が反応してしまう。
私はすぐさまもっとアクセルを踏み込み、トンネルの出口を目指した。
AT車はアクセルをベタ踏みにするとキックダウンによって急激な加速が起きる。それと同時に異常なほどの回転数を持つエンジンの音が鳴り響く。車で三、四百メートルなんて距離は一瞬だ。
明るい――。
出口からは太陽の光と見紛うほどの明るさが溢れている。本来の時間は二十三時を超えているはずだ。それではこの明るさはなんだ。そう考えるより先に私の身体は暗闇の中にいることを拒否する。そして伊佐貫トンネルを抜けると、そこには夏があった。
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