生還
西順
生還
目が覚めたら真っ暗だった。夜にしても暗すぎる。どうなっているのかと起き上がろうとして、頭を天井に打ち付けた。
なんだこれ? 四方を調べればどうやら私は箱の中にいるようだ。恐らくも何も、これは棺桶の中にいるのではなかろうか。となると私は死んだのか? いや、それならば天井に頭をぶつけたり、手足で箱の内部を探るなんて出来るはずが無い。
では生きたままに棺桶に入れられた事になる。どうしてこうなった? しかし記憶が曖昧でその辺の事が思い出せない。いや、棺桶以前の記憶が無い。だがこのままここに居ては駄目な事は分かる。
埋葬の仕方が火葬なのか土葬なのか分からないが、どのみちこのままでは本当に死ぬ事になってしまうからだ。
私は天井に手を付けて無理矢理押し上げるように棺桶を持ち上げた。
暗い所からいきなり明るい所ヘ出たから、一瞬目が眩んだが、それにも慣れて周囲をぐるりと見れば、黒服に身を包んだ老若男女が、驚愕の表情でこちらを見ていた。一番驚いていたのは着いたばかりの坊さんだったが。
「あなた! 生きていたのね!?」
「パパ!」
中年の女性と大学生くらいの女の子が、私に抱き着いてきたではないか。「あなた」に「パパ」と言う文言から、この二人が私の家族であると認識した。認識はしたが、何も思い出せない事に変わりは無かった。
◯ ◯ ◯
あれから一週間が経過した。私の記憶は戻らないままだが、何故記憶喪失になったのか。それ以前に何故棺桶に入れられていたのか、その理由は家族を名乗る二人の証言で判明した。
どうやら私は家族三人で登山に行き、その途中で滑落して胸を強打し、心停止となったそうだ。大学生の娘を連れて登山とは、仲の良い家族だったらしい。
「良かったわ。記憶喪失になったとはいえ、こうして生きて戻ってきてくれて」
妻は私の顔を見る度に涙ぐむ。
「パパ、またどこか行こうね! 登山は怖いから、今度は野原が良いかな!」
娘は努めて明るく振る舞ってくれた。
二人の気遣いは有り難かったが、何とも尻がムズムズして居心地が悪い。何か後ろ暗いものを感じてしまうのだ。ドラマや映画では、こうして記憶喪失になった人間と言うのは、記憶喪失前は悪人で周囲から恨みを買っている事が多い。そんな変な知識だけが私の脳にこびり着いていて、それが私を不安にさせた。
家には毎日のように、代わる代わる誰かしらが訪問してきた。そして記憶喪失になる前の私の話をしてくれるのだ。その中には外国籍の者も少なくなく、記憶喪失前の自分の交友関係の広さに驚いた。
どうやら私は昆虫学者であったらしく、私の書斎には数え切れない程の昆虫の標本が収められていた。大きな昆虫から小さな昆虫まで様々だった。
「昆虫が大好きで、子供のように駆け回っていたんですよ」
うちに訪問してくる誰もがそう言うので、そこに嘘は無いのだろう。どうやら私が今回滑落した理由も、昆虫を追っての事のようだ。馬鹿なのか私は。
記憶喪失になった私にとって、書斎の昆虫標本は最初とてもつまらないものにしか映らなかった。しかし、
「これらの標本は全て、あなた自らが採取して標本にしたんですよ」
と友人を名乗る一人に言われ、私は思い直した。これらを一匹一匹調べていけば、それは己の足跡を辿る事に繋がり、ひいては記憶を掘り起こす事になるのではないか?
こうして私の記憶を取り戻す旅が始まった。
◯ ◯ ◯
記憶喪失の私からすれば、昆虫なんてカブトムシとクワガタくらいなものだったが、そんなメジャーな昆虫はほんの一握りで、大抵は名前どころか種類も分からないのが殆どだった。
チョウにセミ、バッタにカマキリ、トンボ、コガネムシ、昆虫学者の私は、色んな昆虫に手を出していたらしく、標本の数は十万を超えていた。大抵は同じようでちょっとだけ違う昆虫だが、記憶喪失前の私は、良くこれだけ集めたものである。
しかも有り難い事に私は記録ノートをしっかり取るタイプだったらしい。まあ、学者なのだから当然と言われれば当然なのだが。ノートだったのは助かったが、古い物が多い。恐らく新しいものはパソコンに保存してあるのだろう。だが記憶喪失の私に、パソコンのアクセスキーを解除する術は無かった。
なので古いノートを探っていくのだが、まあ、北から南まで至る所へ足を運んでいる。しかも国内だけでなく海外まで足を運んでいるので、標本が十万もあるのも、外国籍の友人がいるのも納得出来た。
どうやら私は大学で講師をしていたらしいのだが、記憶喪失では何も教える事が出来ない。なので職を辞させて貰った。妻には申し訳ないと謝ったが、逆にキョトンとされてしまった。何でも記憶喪失前の私は、昆虫探しの旅に行く為に講師を辞めたいと愚痴っていたそうだ。なんて奴だ。
仕事が無ければ収入はどうしよう。と妻と話し合ったが、これはすぐに解決された。どうやら私が記憶喪失になる前に書いた昆虫に関する書籍が売れているらしく、その印税で十分暮らしていけるそうだ。ホッとした。家族がいる身だ。若くない身体で肉体労働をしてでも支えて行かねば。と思っていたからだ。
こうなってくれば、自分の記憶を取り戻す事に尽力出来ると言うもの。私はノートと照らし合わせて、いつの季節にどのような昆虫がどこにいるのか、調べては現地調査に向かう日々を繰り返す事となった。
◯ ◯ ◯
あれから三年が経った。私の記憶は未だに戻らない。医者の話では一生戻らないかも知れないし、ある日突然戻るかも知れないとの話だった。だが、今の穏やかな暮らしを考えると、何だかここに来て記憶が戻るのが怖くなってくるから不思議だ。妻の話では記憶喪失前も、私の性格はそれ程変わっていないそうだが。
娘は既に大学を卒業し、今は出版社で昆虫の図鑑を制作している。明らかに私の娘である。家族三人で登山に行った話も、今なら本当に仲が良かったからだと分かる。
大学卒業とともに娘が家を出たので、私の旅に妻が同行するようになった。私たち夫婦は、年がら年中日本を、何なら海外まで旅をしている。
いくら記憶喪失前の印税があったからって、それだけ旅が出来るのはおかしくないかとお思いだろう。当たりだ。だからと言って娘にたかっている訳では無い。私が新たに出版した昆虫に関する書籍が、昆虫好きの間でヒットし、その印税で旅をしているのだ。
私はこの三年間、己の足跡を追うように日本中を旅してきたのだが、どうにも標本やノートの内容と違う部分が出てきて困っていた。形や模様が違っていたり、生息域がズレていたり。それを昆虫仲間に話した所、それは新種だとか、温暖化で生息域が変化してきているのだとか、過去の自分では見付けられなかった新事実に辿り着き、私はこれを書籍として出版した。
これが中々のスマッシュヒットとなり、シリーズとして何冊も出版されたものだから、こうして妻を連れて今も旅を出来ている。
記憶喪失前の私よ、あなたのお陰で今の私がある。有り難う。
生還 西順 @nisijun624
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