辰巳の出征、志乃と琴音の祈り

 昭和18年10月。琴音の下宿の部屋を、いつものように訪ねていた志乃は、そこで、辰巳から、衝撃的なものを見せられる事となった。

 「こ、これは…!」

 辰巳が、卓袱台の上に置いた、一枚の紙を目にした時、そこに書かれていた文言を、志乃は最初、現実のものとして受け止められなかった。

 琴音も、しばらくの間、絶句していて、口に手を当てたまま、みるみるうちに、その顔色は蒼白となっていた。

 赤い紙が一枚置かれている。そこには、「臨時召集令状」と書かれて、辰巳の名前も書かれていた。

 「どうして…?」

 その紙を見て、言葉を失っていた琴音は、ようやく声を絞り出して、そう言った。彼女の声は震えていた。彼女は、殆ど、悲鳴に近い発声の仕方で、辰巳に尋ねた。

 「辰巳さんは、まだ学生なのに、学生は徴兵されない筈だったのに、どうして、辰巳さんのところに赤紙が…⁉こんなの…、何かの間違いじゃなくて⁉」

 琴音がそう願うのも無理はない話だった。国の未来を担う大学生は、大東亜戦争が始まってからも、ずっと、徴兵は免除されていたのだから。

 いつも、穏やかな笑みをたたえている辰巳の表情も、今日ばかりは険しく、深刻な眼差しをしていた。

 「間違いなんかじゃないよ…。これは、正真正銘、軍から僕に送られた、戦地への招待状さ…。東条首相が、兵力不足を補う為に、学徒兵の動員を行う事を決めたんだ。早ければ、来月にも…、僕は軍に入らなければならない」

 大東亜戦争が始まり、物資の不足の深刻化など、確かに、戦争拡大の影響は、志乃も感じないではなかった。しかし、まだ日本本土からは戦火は遠かったし、ラジオや新聞では戦況は、日本が優勢で進んでいると伝えるものばかりで、世間も楽観的な空気が残っていたし、心の何処かでは、この、新しい戦争の影響も、自分と琴音、辰巳の日々を壊すまでは至らない。そう思っていたし、信じこもうともしていた。

 そんな志乃の抱いていた幻想は、あっけなく、打ち砕かれた。卓袱台の上で、不気味にさえ感じられる赤い色の、たった一枚の紙きれによって。

 琴音に、ちらりと横目をやった。志乃の隣に座っていた琴音は、「来月にはもう軍に入隊しなければならない」という、衝撃的な知らせに、再び押し黙ってしまっていた。顔からは血の気が引いて、元々色白な彼女は更に蒼白となって、あたかも陶磁器のような肌の色となっている。彼女の瞼が瞬(またた)く。その瞳に…、薄い水の膜が張っていく。その膜は、次第に、自身の重さで崩れ、彼女の下瞼から零れ落ちていった。琴音は、急いでハンケチを取り、目元に当てる。

 「…万歳と、私は言わなければならないのよね…。お国の為に戦う兵士として、愛する人が選ばれたのだから。でも…、ごめんなさい。私には、そんな言葉は口に出来ない…!」

 志乃は、背を折り曲げて、嗚咽を零す琴音に寄り添って、彼女の背を摩る他になかった。かける言葉も、見つからなかった。普段、原稿用紙の上に、物語を紡ぐ時はあれ程、豊富に使いこなしている自分の語彙が、今は何の役にも立たない。目の前で、自分の大切な「お姉さま」、琴音が泣き崩れているというのに。

 彼女の涙を止めるには、志乃の持つ言葉ではあまりにも非力過ぎた。辰巳が戦地に行く事は、志乃の力でどうする事も出来ない。

 自分の無力への歯がゆさと、「兄」にも近しい印象を持って、付き合ってきた辰巳が出征する事への悲しさが合わさり、志乃まで涙が零れそうになる。

 琴音が「姉」であるなら、辰巳は「兄」だと志乃は思ってきた。早坂家は志乃が一人娘であるから、彼女は姉妹も兄弟も知らずに育ってきた。琴音に出会い、辰巳に出会って、「姉」と「兄」がもし自分にいたなら、こんな感覚だったのだろうと、志乃は思う事が出来た。

 それなのに、自分からその「兄」を奪っていこうというのか。こんな、赤い紙きれ一枚で、その命までも、彼の全てを。

 「辰巳さんは…、受け入れているんですか。兵隊さんになる事、戦地に行く事を…」

 志乃は辰巳に尋ねる。

 「…受け入れたくなくても、国がそう命じるならば、僕も戦う以外に、選べる道はないよ。徴兵を拒否して、逃亡する事は許されない。たとえ日本中逃げ回っても、密告されて、憲兵に引き渡されるだろうね。郷里の僕の家族も皆、『徴兵から逃亡するような卑怯者を出した、非国民』として吊るし上げられ、石を投げられるだろう。まだ幼い僕の妹や、弟までも」

 もしも赤紙を拒めば、どんな目に遭わされるか…、志乃も知らない訳ではなかった。本人だけでなく家族まで「非国民」として、壮絶な攻撃を受け、社会的に抹殺される事を。国は、「我が家は、家族から戦死者まで出したのに、徴兵逃れするような卑怯者は許せん」という、国民感情を操作して、絶対に徴兵から逃げられないように、がんじがらめにしていた。

 「じゃあ…逃げたら皆に非国民だと石を投げられるから、仕方ないって、戦地に行くんですか。故郷の家族も、琴音お姉さまも置いて…?生きて、帰れないかもしれないんですよ?辰巳さんには、探偵小説家として大成するっていう、夢もあるのに、その夢も、潰えてしまうかもしれないのに…!本当に、辰巳さんは、それでいいんですか…⁉」

 諦観にも近いような感情を顔に浮かべて、赤紙を受け入れようとしてしまっている、辰巳が嫌だった。探偵小説家の夢も、琴音と幸せになる未来も、こうもあっさりと、「お国の為に」と差し出してしまえるのかと。もっと辰巳に、生への執着を見せてほしかったのだ。夢や未来への執着を。

 「志乃さん…!生きて帰れないかもしれないなんて、滅多な事を、言わないで…!お願い」

 琴音に、弱々しく、セーラー服の裾を掴まれて、志乃は、自分が思わず口走った、軽率な言葉を後悔する。

 「ごめんなさい、琴音お姉さま…。でも私は、このまま、辰巳さんを兵隊さんに行かせたくなくって…!辰巳さんが、本当の気持ちを話してくれているように思えなかったものだから…」

 志乃は、卓袱台の反対側に座っている、辰巳の、その瞳を見据える。彼の中で渦巻いている葛藤。その激流が、垣間見えるようだ。きっと、物分かりの良い言葉を並べている辰巳も、本当は怖くてたまらないに決まっている。命の奪い合いをする、戦地に行く事が、怖くない人間などいるものか。

 今の彼の中にあるものは、死への恐怖。自分もまた、敵国の兵士を殺さなければならないという苦悩。そして、家族や、愛する琴音。文学という同じ夢で繋がった志乃…様々な人に別れを告げる悲しみ。そのようなところだろう。

 それを辰巳が口にしてくれないのは、ここに残していく琴音や志乃への、彼なりの優しさなのだろうという事も、志乃は分かっていた。もしも死への恐怖心やら、別れの悲しみやらを正直に言ってしまえば、きっと琴音と志乃を更に心配させるし、悲しませる事になると、彼は思っている。だから彼は、本心を隠して、潔く、お国の為に、出征を受け入れる学徒兵の姿を演じているのだろう。

 彼は何処までも優しい。だから、本心を曝け出して、琴音と志乃を余計に悲しませるくらいならば、自分の本心は押し殺して、国の望むような学徒兵らしく、潔くあろうとしているのに違いなかった。

 「今月の終わりに、動員される学徒兵への、出陣壮行式が、神宮球場で開かれるんだ。東条首相や、政府、軍のお偉いさん方も列席される式典だよ。首相の前で、僕も出陣学徒兵として行進する。どうか、琴音さんにも早坂さんにも、参列してほしい。僕の晴れ舞台を…、せめて、割れんばかりの万歳の声と共に、見送ってほしい」

 二度と、日本の土を踏めないかもしれない、戦争に行く為の晴れ舞台…。そんな晴れ舞台など、志乃は見たくなかったし、琴音にも見てほしくはなかった。まして、そこを、琴音の愛する人も兵士となって、行進するところなど。

 琴音は、ハンケチで目元を拭いながら、涙声でこう言った。

 「本当は…、物語を書くためのその手に、銃を握っている辰巳さんの姿を見る事は辛いわ…。でも…それを辰巳さんが望まれるなら、神宮球場に、見送りに行きます」

 琴音一人に、そんな辛い晴れ舞台を見届けさせる事は出来ない。志乃もそれに続いて、言った。

 「私も…琴音お姉さまにご一緒します。辰巳さんの出征するところ…、万歳なんて、言えるか分からないけれど、見届けます」

 二人の返事を聞いた辰巳は、今日、この部屋に来てからずっと、険しかった表情を、初めて、少しだけ緩ませた。

 「その言葉が、二人から聞けた事で、安心したよ…。当日は、郷里から、家族も見送りに来てくれるけれど、でも、琴音さん、それに早坂さんが見送りの場にいなければ、やっぱり寂しいから」

 壮行式が終われば、早ければ来月には正式に入隊して、部隊に配属されるのであれば、もう、辰巳と琴音、志乃が共に過ごせる時間は少ない。

 志乃は、せめて、彼が入隊する前に、三人が確かに繋がっていた事。そして、辰巳が、琴音、志乃と離れても、三人は繋がっているを、彼が何処にいても感じさせてくれる、証が欲しかった。

 残される琴音が、寂しい思いをしているところを見たくはない。志乃自身も、辰巳との繋がりが、戦争で断ち切られてしまうのは嫌だった。

 だから、辰巳の入隊前に志乃は、琴音と辰巳にある提案をした。


 辰巳の赤紙がもたらされてから数日後、志乃は、町内の、とある写真館にいた。そこには、着物姿の琴音と、黒の詰襟と学帽姿の辰巳もいた。

 「こうして、ちゃんとした写真を辰巳さんと一緒に撮るのは初めてね」

 琴音と辰巳は、意外にも、まだ写真を撮った事はなかったそうだ。

 ‐辰巳が軍に入隊してしまう前に、辰巳と琴音の二人の写真。そして、もう一つは、辰巳、琴音、志乃の3人での写真を撮りたいと、志乃は提案した。

 「これを見れば、いつでも、私達は一緒にいたんだって事を思い出せるような、形ある証が欲しいんです。それで、何がいいか考えて、写真を撮る事にしました」

 志乃は、まずは琴音と辰巳の二人から離れて、カメラらしい箱型の機械を操作する、写真館の館長さんらしい、初老の男性の後ろから、カメラの前に立つ二人を見つめた。

 「これは、べっぴんさんに、男前な学生さんで、お似合いのお二人だ」

 館長さんは、手慣れたものを感じさせる口上で、カメラの前の二人を褒めた。

 ‐本当に、お似合いだと思う。琴音お姉さまと、辰巳は。純白のバックスクリーンの前に立つ、二人の姿を見つめながら、志乃は思う。

 そうして、館長さんが機械の何やら操作を始めた矢先に、志乃は、大切に新聞紙に包んできた、ある物を持って、二人に近づく。

 「琴音お姉さま、これを、お持ちになって」

 「これは…、白の紫苑の切り花!」

 「あちこちの花屋さんを探し回って、やっと見つけたんです。本物の、白い紫苑の切り花を扱っているお店を。琴音お姉さまが一番好きで、辰巳さんも愛してる花を、どうか、その手に持っていてほしいです。願いを込めて。」

 琴音から初めて教えてもらった日から、忘れた事などなき、白の紫苑の花言葉。

 紫苑には、色を問わず共通して「遠くにあるあなたを想う」という言葉がある。

 この花を持って、写真に撮られた自分と辰巳の二人を見れば、琴音は、辰巳が遠く戦地に行っても、いつでも鮮やかに彼との日々を思い出せる。少しでも、琴音の寂しさを減らせるようにと願って、志乃から、この花を贈った。

 そして、白の紫苑に込められた願いは「どこまでも、清らかに」。

 志乃は、この言葉を、過酷な軍隊、戦地での生活の中でも、辰巳に無くさないでほしかったのだ。白の紫苑は、志乃から、二人それぞれに向けた願いがあった。

 そうした志乃の思いを聞くと、琴音は涙もろく、少し瞳を潤ませつつも「花をありがとう、志乃さん…」と言った。

 辰巳も微笑んで、「早坂さんの思い、しかと受け取ったよ。素敵な贈り物を、ありがとう」と言ってくれた。

 そうして、白の紫苑の切り花を一輪、手に持って、琴音は椅子に腰かける。その横に、帽子を取って、凛々しく引き締めた表情の辰巳が並び立つ。

 「お姉さまってさっき、あそこのべっぴんさんに話しかけていたけど、お嬢さんとあちらの方。お二人は姉妹かい?」

 「ええ。心からお慕いしているお姉さまです。そして、隣の方は、私の慕うお姉さまが、愛している人。私にとって、大事な二人を、今日は、写真におさめて頂きたくて。二人への贈り物として」

 志乃は、館長さんにそう答える。少しの嘘を滲ませて。

 琴音と自分は、実の姉妹ではない。しかし、自分の、彼女を慕う思いの強さは、世間の実の姉妹の、妹が姉に向ける気持ちよりもずっと強いと、自負している。

 「感心な妹さんだ。お姉さんと、その恋人に写真の贈り物とは。本当に、大事に思っておられるんだね。きっと、今日の写真は良い思い出となる事だろうね、あそこの二人にも」

 そう言いながら、館長さんは、機械に幕のようなものをかけている。間もなく撮影だ。

 やがて、パシャリという音と共に、眩しい光が一瞬走る。琴音と辰巳の姿は、写真におさめられた。

 そして、次は、志乃も段上に上がって、写真に撮られる番だ。琴音、辰巳と共に、今度は三人で。

 志乃は、琴音に譲ってもらった椅子に腰かける。写真に撮られる前に、今一度、自分の制服のタイが曲がっていないかなどを、志乃は微に入り、細に入り、確かめる。          今年、高等女学校5年生の志乃は、この紺のセーラー服も来年の3月までで着収めとなる。琴音と自分が、教員と教え子という関係でいられる時間も、もう半年足らずしかなかった。来年の春には、自分はもう女学生ではなくなり、もう大人としてみなされる。辰巳が入隊してから、幾度となく心細さや不安に襲われるであろう琴音を、今よりももっと、支えられる自分になれるだろうか…。ふと、そんな事を志乃は思う。

 『いいや…なれるだろうか、なんて不安になってる場合じゃない。絶対に、私はならなければならないんだ…!辰巳さんの出征で、心細い思いをしてる、琴音お姉さまを私が支えられるように』

 志乃は、思わず揺らぎそうになった自分の気持ちに対して、自ら発破をかける。

 辰巳のそれに比べれば、きっと頼りない事この上ない、細い腕に、小さな背中の自分であっても、「姉」になってくれた琴音を守り、支える。この戦争が終わって、辰巳が帰ってくるその日まで。

 ふと、志乃は自分の左肩にぽんと、手が置かれるのを感じた。細く華奢な指のそれは、振り返らずとも、志乃の左後ろに立っている琴音の手であると分かった。その手は、志乃の肩を掴んで、微かに震えていた。彼女の震える手に、そっと自分の掌を重ねて、握りしめ、すぐにでも震えを止めてあげたい気持ちを、かろうじて志乃は堪える。辰巳に心配をかけまいと、どうにか気丈に振る舞っている彼女の、その内面がどれだけ不安に満ちているか、その震えから感じ取れた。

 志乃も、心の中は不安に満ちている。しかし、今日、撮影する写真は、辰巳が戦地に行って、離れ離れになろうとも、3人の繋がりが、絆が確かにあった事を思い出せるような写真だ。その写真を辰巳が見た時に、琴音の下宿の部屋で過ごした時間などを思い出して、安らぎを覚え、そして心の励みに出来るように、笑顔で写らなければならない。

 志乃は、さっと振り返って、椅子の後ろに並び立っていた、琴音、そして辰巳に言った。

 「きっと…、ここにいる3人とも、不安でいっぱいな事だろうと思います。でも、今だけは、満面の笑顔で、写真を撮りましょう。軍隊にいる辰巳さんも、それに、琴音お姉さまも、一目、それを見れば心が温かくなるような、そんな写真になるように」

 そう言われて、辰巳と琴音は、それぞれ、笑顔をどうにか作り、その顔に貼り付けた。志乃も、どうにか口角をあげて、微笑む。

 辰巳が、志乃の言葉に応えるように言った。

 「この戦争が終わって、また3人で写真を撮る事が出来たら、その時こそは、心から笑って、また、この3人で写真を撮ろう」

 琴音も深く頷いた。

 「ええ…。勿論よ。そうしましょう…。この戦争が終わって、辰巳さんが帰ってきた暁には、必ずね」

 そうして、志乃は、写真館の館長の方に、合図を送る。館長の初老の男は、大きなカメラの傍に立ち、やがて、シャッター音と共に、一瞬、光が煌めいた。

 

 後日、写真館から、写真を受け取った志乃は、それを、琴音の下宿で待っていた、琴音と辰巳の二人へと手渡した。

 「写真、出来ました。この、琴音お姉さまと辰巳さんの二人の写真は2枚。お姉さまと辰巳さんで、それぞれ、持っていてください。そして、こっちにある3枚が、その後に3人で撮った写真です」

 そう言いながら、卓袱台の上に白黒写真を並べていく。琴音と辰巳の二人の写真を、琴音が、そして辰巳が手に取る。残された3枚は、志乃も一緒に写っている写真だ。3人とも、この、自分達を待ち受ける過酷な運命に抗うように、懸命に、笑っていた。あの時、辰巳がチラリといったように、いつか、この3人で、今度は心からの笑顔で、再び写真を撮れるような日がくれば良いと、志乃も思った。

 3枚の中の1枚を、辰巳は手にして、薄く微笑んだ。

 「僕が出征する前に、素敵な贈り物をくれてありがとう。早坂さん。この2枚の写真は、入隊の時には、大事に持って行かせてもらうよ」

 琴音も、自分と辰巳の写真。そして、辰巳、志乃と3人で撮った写真を、嬉しそうに、でも、その中に一抹の寂しさも感じさせる表情で、じっと見つめている。

 「辰巳さんが出征している間、私は、毎日、この写真の前で、辰巳さんが、無事に戦地から帰って来られることを祈るようにします。でも…、それだけでは、神様に、辰巳さんの無事を祈るには、足りないかもしれないわ。もっと…、この戦争が終わるまでの間、何か大事なものを断って、願掛けをしなければ…」

 琴音は、2枚の写真を卓袱台の上に置いて、その長い睫毛を伏せて、じっと、何やら考え込んでいた様子だった。そして、次に、瞼を開けた時、彼女の瞳は、何か、一つの決心を秘めているように志乃には見えた。

 「…決めました。戦争が終わって、辰巳さんが帰ってくるまでの間、私は…、小説をもう、書きません。辰巳さんが、ペンから銃に持ち替えて、お国の為に命がけで働いているというのに、私だけが、安全な内地で、自由気ままに小説を書く事など出来ませんから」 

 琴音が願掛けの為に断つもの‐、それは、彼女の何より好きな事で、夢であった小説を書く事を、やめる事だった。辰巳は驚き、琴音に言った。

 「そんな…、願掛けなんて、しなくていいのに!僕の為に、琴音さんが、大好きな小説を書く事をやめてしまう事の方が、僕は辛いよ」

 「いいえ…、戦地で辰巳さんが命を懸けている時に、私だけが小説に現を抜かしている事など、出来ません。辰巳さんが、軍務を終えて、この下宿に帰ってきてくれる日まで、願掛けとして、私は筆を折ります。そして、どうか、私の元に、神様が、辰巳さんを生きて、帰してくださるように、願わせてください…」

 彼女の意思は固いようだった。

 「琴音お姉さま…、本当に、小説を書くのを、もうやめてしまうんですか…?お姉さまにとって、小説は大切な夢なのに…」

 「ええ…、それで神様に、願いが届くのならば…、私は、辰巳さんが、ここに帰ってくる日まで、筆を折って、書く事をやめる。勿論、辛くないのかって聞かれたら、小説をやめる事は辛いわ。だけど、辰巳さんが、出征してから味わう苦しさを想えば、このくらいで辛いなんて言っていられないわ」

 

 志乃は、自分も、辰巳の為に何が出来るだろうと懸命に考えた。

 辰巳は志乃に、ありのままの自分でいられる居場所をくれた、大切な人だ。辰巳には、この戦争から、絶対に生きて帰ってきてほしい。

 志乃は、自分が愛している人-琴音が、彼女の愛している人-辰巳と結ばれ、幸せになるところを見たいと願っている。愛する人がどんな形であれ、幸せになるところを見届ける事に勝る、志乃の幸せはないのだから。

 琴音だけに、小説を紡ぐ筆を置かせて、志乃は好きに小説を書く事など出来ない。

 彼女が小説を書く事を自ら封じてでも、辰巳の為に願掛けをするのならば、自分も彼女に寄り添って、同じ事をしよう。

 自分は、辰巳がいない間、琴音の心を守れるように、彼女に寄り添い、支えると決めたのだから。

 「琴音お姉さまの気持ちは、よく分かりました…。それならば、お姉さまだけでなく、私にも、辰巳さんの無事を祈らせてください。祈るならば、一人よりも、二人の方が、良いでしょう?私も…お姉さまに倣って、辰巳さんが帰ってくるまでの間、小説を書く事を断ちます。より強く、神様にお姉さまと私の祈りが届くように」

 志乃の、この提案は琴音を驚かせた。辰巳も、「早坂さんまで、小説を書く事をやめる必要なんてないのに…!」と言った。

しかし、志乃はこう答えた。

 「辰巳さんと琴音お姉さま。二人がいなかったら、私の居場所は何処にもないままでした。女の人に強い好意を持つ種類の人間で、その思いを、誰にも読ませる事のない小説の中で吐き出す事しか、前の私は出来なかった。けれど、二人は、私の小説を読んでも、受け入れて、褒めてくれた。琴音お姉さまが、私と向き合って、特別な繋がりを作ってくれて…、そして、私と琴音お姉さまがそういった関係を結んで、傍にいる事も、辰巳さんは許してくれて、そのおかげで、私は、今のままでこの場所にいていいんだと思えたんです。そんな辰巳さんは、大事な人だから、どうか、私にも祈らせてください」

と。

 辰巳と琴音の二人に会えていなければ、鬱屈した思いのやり場もなく、居場所もないままに自分は生きていくしかなかっただろう。辰巳にも、感謝してもしきれない。だから、琴音に寄り添う気持ちだけでなく、辰巳への恩の気持ちから、無事を祈りたいというのも、志乃の偽らざる本音だった。

 志乃の言葉に、琴音も、それに辰巳も、志乃が気まぐれか何かで、自分も小説を書くのをやめると言っている訳ではない事は伝わったようだ。

 「そこまで、僕と琴音さんの事を、大事に思ってくれていたんだね…。僕の為に、祈ってくれてありがとう。大切な小説を書く筆を、置かせてしまうのは、心苦しいけれどね…」

 辰巳は、志乃に対して、そう礼を述べた。


 そして、10月21日。雨に霞む神宮球場で、志乃は、大勢の女学生の中に混じって、客席から球場内を行進する、まだ学生服に学帽姿の学徒兵達を見送った。軍楽隊の奏でる「陸軍分列行進曲」の、管楽器と大太鼓の音が、やけに悲壮に聞こえた。

 球場内は、各学校から集められた女学生が大勢いた。女生徒らの引率の為に、琴音もそこにいた。志乃は、そっと自然を装いつつ、琴音の傍に近寄った。和服の肩は、雨露に濡れて…そして、彼女の頬には、雨露に混じって、瞳から零れ落ちた涙が、混じっていた。

 志乃はそっと、他の女生徒らに気付かれないように、涙もろいこのお姉さまにハンケチを貸した。彼女は受け取り、雨露をふき取る風にしながら、そっと涙を拭った。

 辰巳の通う大学から、動員された学徒兵の隊列が入場してきた。皆、黒の詰襟の肩に小銃を担いでいる。その隊列の中に、遠目ではあるが、確かに、辰巳の顔を垣間見る事が出来た。ペンを持って、物語を紡いでいたその手で小銃を担いで、引き締まった表情で行進しているその姿を見て、志乃は、見慣れた辰巳の姿から、彼が早くも、変わってしまったように思われた。

 壮行式の終わりに、臨席された、東条首相の「天皇陛下万歳!」の掛け声と共に、志乃も、琴音も、そして隊列を組む若き学徒兵らも皆、一斉に万歳と叫んだ。

 琴音も、そして、志乃も、万歳と叫びつつ、泣いていた。頬が濡れている訳を、降りやまない雨のせいに出来る日で良かったと思った。

 

 そして壮行式から程なくして、辰巳は、航空隊の見習士官として軍に入隊した。


 

 

 

 

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