赤き招待状
紫苑の花が咲く季節、里宮先生は、志乃の「お姉さま」となってくれた。
自分は、里宮先生の「妹」として振る舞い、「姉」である里宮先生と、辰巳の恋を応援し、彼女の文学の夢も一番近くで支える。それが、里宮先生と、特別な結びつきを求める志乃にとって‐現状、最も、納得は出来る形の答だった。
後日、志乃は、里宮先生の下宿を久しぶりに訪れた。辰巳の姿を見つけた時は、流石にひやりとした。何を言われるだろうかと、緊張もした。しかし、久々に、里宮先生の部屋を訪れた自分を見て、彼の表情に、怒りや軽蔑の色は全くなかった。
それは、まるで、妹の粗相の成り行きを心配していた、兄の、安堵した表情だった。
「良かった…、早坂さんが、また、ここに帰ってきてくれて。その表情からすると、琴音さんと、ちゃんと話し合って、早坂さんなりの答を見つけたんだね」
辰巳の言葉に、志乃は頷く。
「はい…、今日から、このお部屋にいる間だけですが…、私は、里宮先生…。いいえ、こ…、琴音、お姉さまの、い、妹になります…!それが…「姉妹」になる事が、私と、こ、琴音お姉さまの、新しい繋がりであり、答えです…」
口に出して呼ぶのは、相当に恥ずかしかった。里宮先生…いや、琴音が、自ら許可してくれたとはいえ、下の名前で呼ぶだけでも恥ずかしいのに、「お姉さま」という呼び方をするのは。琴音の方も、顔を赤くして、照れ臭そうにしていた。
彼女の部屋着は、夏の間着ていた、涼し気な紗(しゃ)の着物から、袷(あわせ)の着物に衣替えしていた。紅葉が薄くあしらわれて、秋を感じさせる。
紅葉の鮮やかな紅にも負けない程に、「お姉さま」呼びをされた琴音の頬は色付いていた。彼女は、こんな事を言った。
「自分で、姉妹になりましょうって言っておいて、おかしいけれど…、やっぱりその呼び方、照れ臭くなる…。下の名前で、早坂さんじゃなくて、し、志乃さんって呼ぶのも、やっぱり恥ずかしくて…」
その、志乃と琴音の、お互いにまだ不慣れな様を、にこにことした表情で見つめながら、辰巳は言った。
「そうか、姉妹か…。うん、いいんじゃないかな。すごく、素敵な関係だよ。琴音さんと早坂さん。姉妹として、とても似合ってる」
直球で褒められて、志乃は、どう返したら良いか分からない。自分が、琴音の妹として釣り合っているとは、どうにも思えなかった。こんな未熟な自分が。
冷やかしのつもりではなく、彼は素直にそう言っているようだ。そして、こう続けた。
「おかえり、早坂さん。これからは、琴音さんの妹としても、よろしくね。君の小説の続きを読めて、嬉しいよ」
「う…、まだ、全然、せんせ…、ではなくて、琴音、お姉さまの妹として自分が釣り合ってるなんて思えてないですけど…、辰巳さん。改めて、これからも、よろしくお願いします」
そう言いながら、志乃は、持ってきた小説の続きの原稿を、鞄の中から取り出して、卓袱台の上に差し出す。
辰巳も、そっと原稿を志乃の方に渡してくる。彼が書いているのは、探偵小説だった。
「探偵小説なんて、トリックや、残酷さで目を引くだけで、中身はないだの、あんなの真っ当な文学じゃないだのと言っている人にも、探偵小説は文学として成り立つんだって認めさせるような物を書きたいんだ」
確かに、彼の書く探偵小説は、単に奇抜なトリックを披露して驚かせておしまい、というものとは一線を画していて、犯人という、一個人の動機や、何故、その事件は起きたのか。本当に罪に問われるべきは誰か、などの文学性を追求しているものだった。江戸川乱歩の少年少女向けの本を読んだ事がある程度で、探偵小説に造詣の深くない志乃も、ぐいぐいと引き込まれるものがあった。
辰巳の小説に、目を通す。謎解きの段階は終わって、犯人の生い立ちが明かされていく。物語に没頭すれば、志乃は、慣れない呼び方で、琴音と呼び合う事の気恥ずかしさを忘れる事が出来た。
何はともあれ、こうして、ぎこちなくも、再び、琴音の部屋に戻ってきて、志乃は、琴音、辰巳の二人と、お互いの小説を読み合い、感想を聞かせ合う、そんな関係に戻る事が出来た。
‐しかし、三人の間で何とか、波が治まった頃-昭和16年の後半、時世は、激動の時代へと向かいつつあった。
「臨時ニュースを申し上げます、臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部。午前6時発表。本12月8日未明、帝國陸海軍はハワイ、西太平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり…」
そんなニュースが、日本中の朝の茶の間に、ラジオから流れたのは、12月8日の事だった。志乃の父は、「遂にやったか!鬼畜米英共に、大和魂を思い知らせる時がきた!」と、次々と戦果を読み上げる大本営の発表を、大変に喜んでいた。母も同じ反応だった。二人は、揃って、根っからの戦争支持者だった。志乃は、最早、生活の一部と化していた戦争が、新たな、今までとは全く違う局面に突入したらしい事を悟った。
興奮した様子の両親に「今日は女学校は休め」と言われて、半ば引っ張られるように連れられ、宮城前広場に行くと、そこは既に、万歳の声が響き渡り、今朝のラジオを聞いていなければ、何かの祝賀行事でもあるかのような騒ぎとなっていた。
緑豊かな皇居の門に繋がる橋。そちらの方に向かって、人々は、手に手に、日の丸の小旗を持ち、今朝のハワイ、真珠湾での大戦果を祝しての万歳の声をあげていた。
志乃が、もっと幼い頃から、何度も見てきた、日の丸の行列に万歳の声。昔、中華民国軍が守る、南京を陸軍が攻め落とした時も万歳の声が鳴りやまず、夜は、提灯行列が続いていたのを覚えている。
しかし、遂に、アメリカ、イギリスという二大国とも戦争に突入してしまったという事実は、志乃に、この先への不安を抱かせずにはいられなかった。
志乃に、父は、そんな不安はどこ吹く風と言わんばかりに、気分の高揚した口調で、こう言い放った。
「なに、心配する事はないぞ、志乃。無敵の皇軍の前には、例えアメリカだろうと、イギリスだろうと、誰もその進軍を阻む事は出来ん。アジアに、日本を中心とした新秩序を打ち立てるのだ。今日はめでたい、アジアの夜明けの日だ。さあ、お前も一緒に、この大戦果を祝おう」
志乃の両親は、帝國陸海軍は無敵の軍隊であり、今日のような大戦果が永遠に続いて、勝ち続けられると、信じて疑わないようだった。
ラジオで、マレー半島に上陸した帝國陸軍が、英軍と激戦を繰り広げながらもシンガポールを目指して、破竹の勢いで進軍しているという、戦況を伝えるニュースがしきりに鳴っていた冬の頃。
完全に人々の心は連勝に浮かれ、この冬に始まった、米英との新たな戦争は日本に有利な方向に行くと楽観論が流れていた。
この新たな戦争の影から、志乃は逃れたかった。
その逃げられる場所は、琴音の待つ、下宿の部屋しかなかった。
「うちでは、この冬に始まった、アメリカ、イギリスとの戦争の話題ばかりで、もう嫌になります、琴音お姉さま…。両親は、すっかりラジオに貼りつくようにして、軍の戦果を聞く度に大喜びしています。私は、家ではもう、息が詰まりそうです…」
しかし、そこでも、志乃は、どうしても触れずにはおれなかった。この戦争についての話を。琴音も、辰巳も、原稿用紙を捲る手が止まり、表情が硬くなる。
「僕の大学でも、民族派の学生は戦争支持者ばかりだよ…。嫌になるさ。いつも、戦争支持の横断幕を掲げて、行進して、積極的に戦争支持をしないと、すぐに絡んできて…。僕が、この戦争をどう思うか聞かれて、支持出来ないと答えたら、あいつらは、『文弱の徒の非国民め!恥を知れ!』と、先日も囲まれて、胸倉を掴まれて罵られたばかりだよ」
非国民…。その言葉を、この戦争が、全てを破滅させるまでの間、ありとあらゆる場所で、機会で、志乃は聞き続ける事になる。
琴音も、辰巳が大学で受けた仕打ちを聞いて、沈痛な面持ちを浮かべていた。戦意が低い者と見なされれば、今後、辰巳がどんな目に遭わされるか、分からなかった。これからは、もっと酷い目に遭う事だってあり得る。
琴音が、辰巳に、たしなめるように言った。
「※特高警察もうろついて、反戦を訴える者がいないか、目を光らせていると言いますし、辰巳さんが戦争の拡大を望んでいないとはいえ、みだりに、反戦の意思を口にはしない方がいいわ…。あの人達にでも捕まれば、最悪の場合、五体満足では帰れないとさえ、聞いています…。心で思うだけにして、今は…身を守る為にも、戦争の継続を望んでいるように振る舞うしか…」
彼女も、こんな戦争を望んでいる訳ではない事は、志乃の目にも明らかだった。しかし、辰巳を守る為にも、琴音がそう口にせざるを得ない程、社会の、「反戦という言葉に逃げる、戦意のない非国民」への監視の目は強まっていた。
この、文学で繋がる三人の部屋の中にも、容赦なく、戦争の暗い影は、侵蝕を始めていた。
それでも、年が明けての、昭和17年はまだ、国内には戦争への楽観的な空気が残っていた。軍は東南アジアや南太平洋の島々の多くを未だ占領していたし、東京に小規模なドゥーリットル空襲が起きたが、幸いにして、志乃や琴音、辰巳の近辺で亡くなった者はいなかった。日本本土に、戦火はまだ遠かった。
志乃も、両親と共に、地区の防空演習に駆り出されて、その時はスカートをモンペに履き替えて、自転車を漕いで、地区に空襲が迫っている事、※時局防空必携の手引き通りに、防空の備えをするよう、各、家々に告げて回る伝令役をさせられた。
母からは、防空演習の際には口を酸っぱくしてこう言われ、激励された。
「うちは、男がいないから、お国の為に兵隊さんを出せないし、戦地でお役に立てない。だから、万一にもアメリカの空襲があったら、防空では、兵隊さんを出している家の更に、2倍も3倍も働かないといけないの。貴女もそのつもりで、銃後を守る者としての務めを死ぬ気で果たしなさい」
お国の為に戦う兵隊となれる、男手を、息子がいない早坂家は出せない‐。その負い目が、余計に両親を熱心な戦争支持者にして、防空演習などの、「銃後の守り」を固める訓練に前のめりにさせている事は、志乃にもよく伝わった。
辰巳は大学での軍事教練。志乃と琴音は地区の防空演習があったが、演習も何もない時は、この※大東亜戦争が始まる前と同じように、三人は、琴音の下宿の部屋に集まって、それぞれの小説を読み交わした。
琴音の部屋で過ごす時間だけは、志乃の、この戦時下の、暗く、色褪せたように見える日々の中で、唯一、色付いて見えた。
‐3人を待ち受ける運命が、あまりにも残酷な結末へと向かって、坂を転がり落ちるように動き出したのは、翌年、昭和18年の秋の事だった。
アッツ島での守備隊の玉砕の報に、国民は悲しみに沈んだ。この戦争への楽観論は次第に薄れ始めていた。帝國陸海軍は、アメリカを中心とした連合国軍の猛反撃を受け、「転戦」という名の撤退、退却を繰り返すようになっていた。
その年の10月、大東亜戦争開戦後も徴兵を免除されていた、大学生への動員が遂に始まった。
そして、学生の一人である辰巳も勿論、その例外ではなく、彼の元に、死への赤き招待状‐赤紙。臨時召集令状が届けられた。
※特別高等警察の略。明治44年(1911年)に設立され、社会運動、政治運動の取り締まりを長らく行っていた。昭和に入り、日本の戦争が激化すると反戦・反政府的な言論・思想の全てを取り締まりに動くようになっていった。
※時局防空必携:日本本土空襲が起きた際に、国民が行うべき行動についてまとめられた手引書。空襲から逃げ隠れする事は許されず、逃げた者には死刑まで課される強烈な法律、「防空法」もあった。
※大東亜戦争:太平洋戦争の当時の呼称。
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