導き出した答

 琴音は、胸が激しく動悸を打っていた。

 志乃と二人きりになった時から、ずっと落ち着けずにいたのは事実だった。彼女の書く、小説の内容。そして、何よりも、自分に注がれる、時に、火傷しそうな程、熱く感じる志乃の視線。志乃の感情が、年齢の近い新任教師の自分への単なる憧憬の念だけではない事は、感づいていた。

 辰巳にも相談して、彼女の秘めた感情がどんなものであっても、大人として受け止めようと思っていた。

 しかし、いざ、志乃の生々しい感情…、欲求が外に現れるのを初めて見た時、そのような冷静な大人の対応は、とても出来なかった。琴音は固まる事しか出来ず、自分に近づいて来る、まだ幼さを残しながらも、若々しい艶やかな唇を見つめているほかになかった。

 彼女が、先程何を、自分にしようとしたのかはもう、彼女に聞くまでもない事だった。

 志乃が酷く取り乱したままで、この部屋から飛び出すのと入れ替わるように、階段を、今度は一段飛ばしに、力強く鳴らして、駆け上がってくる者がいた。姿を見ずとも、足音だけで、その主が辰巳であると、琴音には分かった。

 「琴音さん⁉さっき、玄関で、早坂さんと行き違いになったんだけど、只事じゃない様子だった…。何故か分からないけど、僕の顔を見るなり、泣き出しそうな顔で、ごめんなさいって繰り返していたし…、何かあったの⁉」

 「た、辰巳さん…。その…、実はね…」

 琴音は、つい先刻、この部屋で、志乃と二人だけになった時間に、起きた出来事を、語って聞かせた。

 

 「早坂さんと、そんな事が…」

 辰巳は、顎に手を当てて、琴音の話にじっと耳を傾けていた。

 冷静な彼も、今度の志乃の思わぬ、大胆な行動には、驚いている様子だった。

 「でも本当は、さっきみたいな事になったら、私の方がきっぱり拒絶しないといけなかったのよね…。それなのに、あの子のあまりに真剣な眼差しに、一瞬だけど、飲まれそうになってしまった。咄嗟の事で、頭の中が真っ白になってしまって、体が動かなかったの…。本当は、あそこで固まったりせずに、女学生を正しい方向に導く教員として、大人として、然るべき対応をしなければ、いけなかったのに…」

 襖を荒々しい仕草で開け放ち、飛び出していく刹那、垣間見えた、志乃の、泣き出しそうな横顔が、琴音の脳裏に焼き付いていた。

 この部屋の中では、琴音と志乃は、お互いの小説の読み合いをする「友達」だ。しかし、この部屋の外に出れば、二人の関係は、教師と教え子。その間柄で、ましてや、同性同士で、志乃が先程、しようとしたような行為を、大人である自分が受け入れるなど、あってはならぬ事だ。

 『何をするの、早坂さん!急にどうしたの。馬鹿な真似はやめなさい!』

 そう強く叱って、志乃を押しのけてでも拒絶の意思を示して、その上で、「大人として、正しい事」を、彼女には言わなければならなかったのだ。教師と教え子が、それも同性の間でこのような行為をするなど、絶対に許されない事。言語道断な行為である。志乃がそのような行為に及ぼうとしたのを、万一、他者に知られでもしたら、彼女は、この先の人生までも滅ぼしてしまいかねない。

 一時の気の迷いと引き換えに、あまりに大きすぎる代償を払う事になると、厳しく、言い聞かせねばならなかったのだ。その結果、例え、可愛くて仕方のない、あの教え子を泣かせてしまったとしても…。

 そうした思いを、琴音は辰巳に吐露していた。

 然るべき対応も何も出来ずに、志乃の熱情の波に、なすがままに、さらわれてしまいそうになった自分の、教員としての非力さに、琴音は唇を噛んだ。

 琴音は、辰巳に尋ねる。

 「お怒りにならないの…?私と辰巳さんの関係を知りながらも、そういう行為に及ぼうとした早坂さんにも、咄嗟の事だったとしても、それを拒み切れなかった私にも…」

 琴音は、恐る恐る、辰巳に尋ねる。もしも、この件で、彼が志乃や、自分に怒りを募らせたならば、最悪の事態だ。

 琴音が怒られるだけで済むならまだ良い。志乃に、辰巳の怒りが向く事は、それ以上に、琴音には耐え難かった。

 ‐しかし、辰巳は、琴音の話を聞いても

 「僕は怒ってなんかいないよ、琴音さんは勿論、早坂さんにもね」

 と、穏やかにそう答えてくれた。

 「早坂さんが、自分を止める事が出来たのはきっと…琴音さんの事を、考えてくれたからだと思う。もしもあの子が、人の気持ちなんて何も考えられないような子だったなら、何も迷わずに、琴音さんから、唇を奪っただろうからね。自分の行動で、僕達3人の関係が壊れてしまっても、関係ないとばかりに。欲に身を任せて。万一、あの子がそんな暴挙に出ていたら、僕だって、あの子に怒るよ。けれど、そうしなかったのは、まだあの子は、琴音さんと僕と、今の3人の関係を続けたいと思ってくれているという事だからね」

 辰巳は、言葉通り、本当に、怒る気配などは微塵も感じさせなかった。

 終始、穏やかに、言い聞かせるように、琴音に言った。

「きっと、早坂さんも、僕と琴音さんとの3人の中で、一体、自分はどんな立ち位置にいればいいのか、本当に悩んでるんだと思うよ。きっと、それは、早坂さん一人で考えるだけじゃ、答えに辿り着けない、難しい問題だ。だから、僕ら二人が早坂さんの為に出来る事は、あの子自身も納得が出来るような、新しい関係性を、これからあの子と一緒に考えて、作っていく事。それに尽きるんじゃないかって思うよ」

 そして、

「僕も、早坂さんが、僕と琴音さんの関係に気を遣い過ぎて、自分を責めて、去ってしまうのなんて、見たくないからね…。早坂さんの事を、彼女同様に、文学が好きな、郷里の僕の妹に少し重ねて見てしまっているのも、あるかもしれないけど」

 と締めくくった。

 辰巳が兄弟愛の深い人間で、大学予科学生になる為に郷里を離れてからも、彼を慕う女学生の妹に、手紙を絶やした事がないのを、琴音はよく知っていた。

 

 しかし、志乃と話す時間はおろか、「下宿屋に来てほしい」という約束を交わす事だけでも、琴音には至難の業だった。女学校で、志乃の姿を見かけても、志乃はそそくさと、逃げるように離れていってしまう。女学校の教室では、志乃ばかりを優先する事など出来ないし、琴音は、学級の生徒らから人気があったので、常に周りには、自分に話をしにくる女生徒らが何人かいて、彼女らの向こう、教室の隅で居心地悪そうに座る志乃を、遠目に見ている事しか出来なかった。志乃は、こちらの視線に気付いても、はっきり、分かりやすく目を逸らした。ばつの悪そうな顔をして。

 「困ったわ…、全然、早坂さんに言葉をかける暇がない…。かと言って、学校に関係ある用事でもないのに、ご自宅に電話をする訳にもいかないし…」

 教員室で溜息をついて、先輩の女教員からは、「あらまあ、恋の悩み事?若いっていいわね」という、若さへの妬みとも、単純に羨んでいるともつかない言葉を受け取った。「恋」に関する悩みという点は、あながち間違いではなかった。しかし、「何か力になれるかもしれないから、話してごらんなさい」と彼女らに言われたところで、こんな相談出来る道理がなかった。そもそも、教え子の志乃と私的に、友達付き合いをしているだけでも、他の教員からは良い顔はされないだろうに、ましてや、その志乃から、口づけをされそうになっただなんて…。

 誰の力も借りられず、琴音は手塞がりというのが現状だった。

 国語の授業へと向かう為、教材を懐に抱いて、教室へと向かう。廊下の外に広がる空は、次第に夏の積乱雲は見られなくなっていき、徐々に秋の空へと変わりつつあった。夕刻の頃には、鈴虫の鳴き声が、二階の琴音の部屋にもよく聞こえるような季節になった。志乃と話せなくなってから、あっという間に、季節も変わりゆくくらいの時間が経ってしまったのに気付く。

 「辰巳さんの言った通りならば、早坂さんは、きっと、私と辰巳さんに、今もずっと罪悪感を抱いている筈…。早く、話を。せめて、何処かで話す約束だけでも…」

 気持ちばかりが、前のめりになって、急いている。

 以前は、授業中に琴音が時折、閑話休題のようにする、花言葉や、それに関連した、詩的な逸話に、志乃は聞き入ってくれて、彼女の移り変わる表情を見ているのが、琴音も密かに楽しかった。女学校という場においても、二人だけにしか伝わらない信号でも送り合っているかのように、琴音は、志乃との繋がりを感じる事が出来た。しかし、今の彼女は、琴音が教壇に出る度に、そわそわとしたような…、身の置き所がなくて仕方のないといった風情だった。

 今日は、国語が最後の時限の授業であった。結局、その日も、志乃は、琴音の授業中、ずっと俯いたままで、絶対、琴音と目が合う事がないようにしていた。

 志乃が、そうした状態になってから、琴音は、自分も大好きだった花言葉についての、閑話休題の話もしなくなっていた。時折、多感な女生徒らに「また、何か感動的な、花言葉のお話をお聞きしたいです」と琴音に話をせがまれたが、それでも、琴音は、そうした話は、する気が起きずにいた。

 志乃が聞いてくれないのなら、そうした花言葉の、抒情的な逸話や物語をしても、意味がないような気になっていたのだ。

 ‐それこそ、他の女生徒らと、志乃を既に、同列には見ていない、教員にあるまじき姿勢だとも思い、その事にもまた、琴音は苦悩していた。

 志乃は、放課後になると、さっさと椅子を押し込めて…、恐らくは、早めに琴音から距離をとる為であろうが、教室を出て行ってしまった。

 彼女の背を、「待って!早坂さん!」と、この、他の生徒も教員も大勢いる、学校内で追いすがる事は出来ない。本当に、どうしたものか…。教員室に戻る途中、廊下の窓辺に立って、ぼんやり、校門へと続く並木道を見ていた。この、木造三階建ての女学校という建物の中では、下宿のあの部屋ではあれ程近かった筈の志乃が、遠い。

 そんな寂寥に浸りながら、帰路に就く生徒らの紺のセーラーに包まれた姿を、見送った。その中に、見覚えのある横顔を‐、あの日、下宿の部屋で、間違いを犯しかけ、飛び出して行った時、泣き出しそうだった横顔を見つける。

 校庭の隅の、緑の一群の、草花もそろそろ刈り取りが必要な程度に茂っていた。

 ‐すると、そこへ、志乃が何かを見つけたように、近寄っていくのを、琴音は見つけた。

 「あれは、何かしら…?」

 琴音は、志乃の姿を追って、階段を駆け下りた。

 

 志乃はスカートが地面について、土がつくのも気にしない様子で、じっと、その草むらの中に一輪咲いた、とある花を、食い入るように見つめていた。

 今の季節‐、晩夏から秋の初めに咲く、その花の名前を、間違える筈もなかった。

 琴音が愛している花で、かつ、志乃と琴音の二人を、引き合わせてくれた花なのだから。

 志乃が、その花を摘もうと、根に手をかけた時、琴音は声をかけた。

 「早坂さん…。その花、紫苑よね」

 その瞬間、志乃は、まるで電流が走ったかのように、身を大きく、跳ね上がらせて、立ち上がった。そして、ぎこちなく、琴音の方を振り向いた。彼女の足元には、紫色の紫苑の花が一輪咲いている。何処から種が飛んできたのだろう。

 「そうです…。でも、先生の好きな色の…白い方じゃない…。紫の、悲しい意味の方の紫苑です」

 志乃の声を聞くのは、あの、未遂に終わった口づけの日以来だ。

 「今日は、私とお話、ちょっとだけでもしてくれる…?」

 ジリ…という音を立てて、志乃が少しだけ後ろに下がる。その、白桃色によく染まる頬は、更にその朱の深みを増している。そのような表情をされては、琴音も、どうしても、あの日、彼女の顔にあと数センチまで近づいた、その薄くて柔らかそうな、幼い唇に気をとられてしまう。

 「私がした事…、里宮先生は、きっと全部、辰巳さんにも話したんですよね…?辰巳さん、すごく怒ったでしょう…。それに、先生だって、私が、女性とああいう事をするのが好きな種類の人間なんだって知って、きっと、軽蔑してるんだ…」

 志乃の肩が、きゅっと握られた小さな両のこぶしが、声と共に震えていた。

 「いいえ、私は、驚きはしても、軽蔑なんて、あの時から一度もした事ないわ。それに辰巳さんだって、怒ってなんかいない。ちゃんと、貴女と、私達がどう付き合うべきか、考えてくれている。私達は、早坂さんを遠ざけたいなんて思ってないわ」

 正門に伸びる道からは、いくらか離れたところなので、さほど、下校中の生徒らに二人の話を聞かれる心配はないのは幸いだった。

 「そんなの…嘘です!私が…女色の人間だって知って、気持ち悪くない筈がない…!私みたいな人間は、琴音さんと辰巳さんのように、素晴らしい二人からは離れた方が、いいに決まってる。二人を掻きまわして、迷惑をかけてばかりだから…」

 「嘘じゃないわ…!本当よ。私も、辰巳さんも、早坂さんに近づかないでほしいなんて、思っていない…。私にとって、早坂さんは、大切なお友達で、辰巳さんも、早坂さんの、居場所に、私達3人の場がなればいいと言ってくれてる…!」

 「居場所…?」

 「そう。早坂さんが、どんな風に人を愛する人であっても、私も辰巳さんも、絶対、早坂さんとの付き合い方を変えたりしない…。確かに、この前、あ、ああいった事をされそうになったのは、びっくりしたけれど、でも、あの後、私も、辰巳さんと、ちゃんと考えたの。どうやって、早坂さんと向き合えばいいのかって。それで…、十分な答じゃないかもしれないけど、あの、早坂さんの、隠してきた心の叫びも自由に吐き出せる手段である、文学で繋がれる、私達3人の繋がりを、早坂さんの居場所にしようって…、そう思ったの」

 

 里宮先生から、「私達が、早坂さんの居場所を作る。隠してきた心の叫びも吐き出せる手段の、文学によって繋がって」と、言ってきたのは、志乃にとっては、全くの予想外の言葉だった。

 封建的な家で育ち、偶に男色、女色に走った人間の話でも聞こうものならば、「なんとまぁ汚らわしい事だ!親の顔が見てみたいね」だの「貴女は、まかり間違っても、あのような、子も残せぬような劣った性癖の人間になってはなりませんよ」だのと、激しい否定の言葉が父母からは、容赦なく飛び出した。両親が、志乃にとっては社会の大人の代表者であったし、そのまま、社会の人々の総意のように思えていた。

 だから、当然、その大人にあたる里宮先生も、辰巳も、自分の秘密を知れば、さぞかし、自分の事を軽蔑し、排除するだろうと志乃は決め込んでいた。あの下宿屋での一件以来、里宮先生の、志乃を映す瞳に、軽蔑の色が伴っていたらどうしようと、そればかり考え、彼女の目を見る事など出来なかった。

 そう思っていたのに、志乃を排除するどころか、志乃の封じられた思いを解き放てる場所として、里宮先生も辰巳も、居場所を作ると言ってくれているのだ。信じられないという思いが強かった。

 「私が…、また、あんな事をしてくるんじゃないかとは、考えないんですか…?この前の事で、もう先生も分かりましたよね。私が、里宮先生の事が好きだって言っている意味は、親愛とか尊敬とか、そういうのではない好きだって。それに、私も…、文学という夢で繋がれる事は嬉しい。だけど…恋人同士として思い、思われる仲の、里宮先生と辰巳さんの二人を目の前にして、どんな思いでいれば良いのか…、それを考えてしまいます」

 志乃は、右手で、左手の肘をぎゅっと掴む。爪が食い込む程に。里宮先生は、もう、志乃から恋心を持たれている事は、よく分かった筈だ。それなのに、思い人である辰巳と一緒に里宮先生がいる空間に、自分がいるというのは、苦痛に思える。いくら、二人が、志乃の居場所を作りたいと言ってくれても。

 「里宮先生と辰巳さんが、そこまで、私の事を受け入れてくれてる事は、嬉しいんです…。それは嘘じゃありません。でも、辰巳さんは里宮先生の、恋人でいられるけど、私には、いくら里宮先生の傍にいたところで、先生にとっては、文学で繋がっている『友達』でしかない。そう思うと、いくら、里宮先生の傍にいていいって言われても、辛いんです。辰巳さんとは違って、私には覚束ない立ち位置しかないんだって思ってしまうから。私の願いが叶うのなら、既に、辰巳さんという『恋人』が先生にはいるのだから、自分が『恋人』になるような事は、望みません。でも、それに並ぶくらいの、特別が、ほしい…」

 里宮先生、それに辰巳から、優しさを貰っても、それに飽き足らずに、更にその上を行くような要求をする、なんて我儘で、意地汚い自分なのだろう。『恋人』は諦めるけれど、それ以外の形で、里宮先生との特別な関係がほしいなんて…。

 志乃の言葉に、里宮先生も即答は出来ずに、瞼を閉じて、しばらく考え込んでいる様子だった

 『無理難題を言ってすみません、今の話は聞かなかった事にしてください』

 そんな事を言おうとした、矢先だった。彼女が何かを思いついた表情で、瞼を開き、「じゃあ、こうしましょうか」と、志乃に告げてきたのは。

 「恋人ではない、でも特別な立ち位置になりたいと強く望むなら…、早坂さん。よく、小説の中でも、先輩と後輩、二人の生徒でさせているみたいに、『姉妹の契り』をしましょう。私が姉で、早坂さんが、妹。こういうのはどうかしら?」

 彼女は、志乃が綴った小説から着想を得て、「恋人」には当たらず、しかし「友達」では収まりきらない関係として、「姉妹の契り」を提案したのに、違いなかった。志乃は、熱した頬を、少し涼しくなった秋風が撫でていくのを感じながら、「姉妹…」と呟いてみる。里宮先生が姉で、自分が妹。

 そうだ、これだと志乃は思った。「恋人」にはなれない、という事の口惜しさが癒えた訳ではない。しかし、辰巳を裏切るような事を、里宮先生にさせる訳にはいかない。「姉妹」であるなら、二人の関係は、唯一無二だ。辰巳と先生の関係に障る事も、一切ない。

 「なって、くれるんですか…。私の…『お姉さま』に」

 「ええ。早坂さんの小説の子達は、同じ学生同士だから、年の離れた「お姉さま」になってしまうけれどね」

 そう言って、少し里宮先生は苦笑した。しかし、志乃の心は、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)の思いだった。『お姉さま』という響きは、『恋人』と呼ぶのとは全く異質の、強い繋がりを思わせた。

 「じゃ、じゃあ…里宮先生の事、『お姉さま』と、お呼びしても、良いんですか…?」

 「そうね…、それは勿論良いけど、一つ約束があるわ。それは、あの下宿の、私の部屋だけでの話。女学校では、先生と普通に呼んでね。その呼び方を、聞かれてもいい人は、辰巳さんだけよ」

 「じゃあ…、ここで、最初に、呼ばせて頂きますね…、里宮せんせ…じゃ、なくって…、ええと…お姉さま。私に、居場所を与えてくださって、ありがとうございます。また…、あの下宿屋にも顔を出します。先生と辰巳さんに会う為に。辰巳さんにも、心配をかけて申し訳なかったって伝えてください」

 「お姉さま」という言葉に、志乃は力を一際強く込めた。予想以上に、それは恥ずかしいものだった。しかし、そう呼んだ時、志乃の心は鮮やかに色づいていった。

  

 足元では、紫の紫苑の花が、風に揺れていた。本当は白の紫苑を探していた。しかし、見つからず、校内で偶々咲いているのを見つけた、紫の紫苑を摘んで帰るつもりだった。その紫苑を、せめて、里宮先生だと思って見つめる自由くらいは、自分にもあると思って。

 だが、今は、里宮先生と話す機会をくれた、紫の紫苑の花も、少しだけ、前よりも好きになれそうだった。

 

 

 

 

 

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