過ちを犯して

 琴音の下宿屋を飛び出してから、志乃は後ろも振り返らずに、ひたすら走り続けていた。まるで、必死に逃げるように。

 実際、彼女は逃げていた。自分が犯してしまった、とんでもない過ちから。

 自分は、何という事をしてしまったのだろう…!そんな、後悔の念が、何度も志乃の中で駆け巡った。

 「私は、何て、馬鹿な振る舞いを…!あのような事をしそうになっては、里宮先生に、軽蔑されても仕方ないのに…!」

 

 時間はしばらく前に遡る。

 今日も、前と変わらずに、お互いの書いた小説を持ち寄って、その読み合いをして、感想を聞かせ合う日だった。

 志乃は、通学鞄の中に、茶封筒にしまった原稿用紙を入れて、いつもの通り、里宮先生の下宿を訪れた。窓辺から差し込む日差しはまだ強く、下宿を営む老夫妻の、老女がいれてくれた麦茶で、志乃は喉の渇きを潤した。

 今日も今日とて、里宮先生は、涼し気な青色の生地に、白の花びらの紫苑の花をあしらった、着物がよく似合い、美しかった。彼女のその着物を見る時、夏の青空の下に揺れて、紫苑の花が咲いている姿をいつでも、志乃は思い描く事が出来た。

 今日のこの部屋は、いつもと違う光景だった。志乃が訪れた時、里宮先生の部屋に、まだ、辰巳の姿はなかった。彼のいつも持ち歩いている鞄もない。志乃は、里宮先生に尋ねる。

 「辰巳さんは、まだお見えになっていないんですか…?」

 「辰巳さんは、今日は大学の方で、陸軍の教官の方から教練があるそうで、それが終わってから来られるって」

 大陸での戦火も治まる事を知らず、アメリカからの対日石油輸出も今年の八月から、全面禁止となった事で、「こしゃくな米英との開戦もやむなし」とする好戦的な論調が流れ出した時期だった。男子学生への軍事教練にもいよいよ、熱が入り出したと、兄が大学にいる、女学校の同級生の話などで、志乃も風の噂には聞いていた。

 嫌な気持ちが駆け巡る。戦争の話など、この部屋では考えたくなかった。

 「国を守るお勤め、ご苦労様ですと、辰巳さんにお伝えください…」

 志乃はそう言って、麦茶の注がれた湯飲みを卓袱台に置く。

 そして、しばしの沈黙が流れた。辰巳が来るまでの間、志乃は、里宮先生とこの部屋で二人きりとなる…、その事を考えだした途端に、志乃の心臓の鼓動が、少し早くなる。

 女学校でも、彼女と二人だけで話した事は幾度もある。ただ、それは授業の後や、放課後の教室であったり、或いは廊下での立ち話であったりで、このように、他人の目が一切ない部屋の中で、二人だけになってしまったのは、初めての事だった。

 下の階では、下宿屋の主人の老夫妻がこの夏の気怠い午後を過ごしてはいたが、来客がいる間は、里宮先生の部屋に入って来る事は殆どない。

 鼓動が耳の中にまで響いてくる。辰巳と、三人で過ごす時とは全く違う。女学校で彼女と話す時とも勿論違う。「里宮先生の部屋」で彼女と二人だけになる事は、何も、志乃が意図してそうなった訳ではないのに、強く、志乃に背徳の意識を感じさせて止まなかった。

 『何を、胸を高鳴らせているの、私…!この部屋で、『恋人』という形で、里宮先生と一緒に過ごしていいのは、辰巳さんだけ…。私が、このような思いを持って、先生と二人きりになるのは、許されない…!』

 そう、自分に言い聞かせる。うるさい心臓を少し、落ち着かせる為に。

 しかし、何処か落ち着けずにいるのは、志乃だけではないようだった。

 それは、里宮先生の姿に、チラリと目を向けた時の事だった。

 志乃は、彼女と視線が正面から合ってしまったのだ。彼女もまた、志乃の方に先程から、ちらちらと視線を送っていたらしい事に、その時、志乃は気付いた。

 彼女の、少し色素の薄い、焦げ茶の瞳の中に小さく映る、自分自身の姿まで、志乃は見る事が出来た。女学校でも、このように、正面から見つめ合うような形になった事は一度もない。志乃は息が止まりそうになった。彼女の瞳の中に映る自分。その自分が内に秘めている、やり場のないままに暴れ狂っている、恋情まで、見透かされてしまいそうな、現実離れした恐れを感じたのだ。

 それは、時間にすれば数秒にも満たなかったと思う。先に目を逸らしたのが、どちらなのかも、志乃には分からなかった。ただ、彼女の瞳を直視してしまった後、自分の頬に熱が集まっていくのは、はっきりと感じた。もし今、鏡を見たら、志乃はきっと白桃を思わせるような、薄紅が頬に差した自分の顔を、その中に見たに違いない。

 そして、この、言葉を交わさない、刹那の視線の交わりの後から、何処か、里宮先生も少し様子が変だった。志乃の方を、見ようとしてくれず、何処か、落ち着かない様子で、正座した膝の上で、手の先をもじもじと動かしていた。

 この、奇妙な、張り詰めた空気を打破するように、彼女は、こう切り出してきた。

 「は、早坂さん…。辰巳さんが来るまでの間、先に、私達で、小説の読み合いをまた、始めましょうか」

 「え?あ、はい…!」 

 彼女にそう言われて、志乃はようやく自分の鞄へと手を伸ばし、自分が書き続けている、小説の続きの原稿を引っ張り出す。里宮先生も、この前志乃に読ませてくれた分の、続きを渡してくれた。

 兎に角、今は、この奇妙な空気を振り払って、普段の二人に戻してくれるものは、お互いの小説しかなかった。志乃は、里宮先生が書いてきてくれた、爽やかな男女の恋物語の続きへと、目を落とした。

 二人の渡し合う感情の機微の細やかさもさることながら、愛し合う二人が見る、自然や、季節の移り変わりの描写が美しく、眩しい。

 物語の内容のみならず、志乃は、原稿に綴られた、里宮先生の文字もまた愛していた。彼女の授業中にも見た、黒板の清書のように、綺麗な字でありつつ、決して硬くて角ばった印象は与えず、女性らしい、丸みも帯びた字である。志乃は、あまり字の綺麗さには自信がないから、見比べると、恥ずかしくなる。

 『やはり、里宮先生の綴る物語は美しい…。これに比べれば、私の小説は、まだ、少女同士の、感情のぶつけ合いを殴り書きしたに過ぎない…』

 自分の物語の質の未熟さも感じさせられる。

 しかし、お互いの小説に没頭するのは、空気を変えるのには良かった。目の前の、里宮先生の文字を追う事に集中すれば、先程の、彼女の瞳も、しばし、頭から離れさせる事が出来た。

 「早坂さん。どうだったかしら。今回の部分は。何か、早坂さんの方から、私に、助言とか、こうした方がいいみたいな提案はある?」

 「とんでもありません…、私くらいの技量で、先生に助言出来る事なんて…。物語の中の二人が、綺麗な物を一緒に見ている、その光景が目の前に浮かんでくるみたいで、とっても素敵な物語です」

 そう、彼女の小説は、とても美しい。劇中の二人も、清く正しい付き合い方というべきか、模範的な愛だ。

 もし、志乃の小説にあって、里宮先生の小説にないものを挙げるとするならば、それは、身を焦がすような、狂おしいような、愛を求める情念だろう。

 模範的な、「普通の男女の愛」である、里宮先生の小説の二人は、順調に関係を深め、満たされている。一方の、志乃の小説の二人は、いくら近づこうと、親しくなろうと、決して結ばれぬ事を知っている、女同士の悲しき愛。それでも、二人は愛を欲して、決して満たされる事なく、愛を渇望し続けている。

 こうして見れば、志乃と里宮先生の描く小説は正反対の内容だと言える。満ち足りた男女の二人の愛と、身を結ばず、渇きが潤される事のないままに求めあう二人の女の愛という…。

 志乃は、それでも、里宮先生に、自分の小説を受け入れてほしいと思っている。身勝手な願いであっても。里宮先生に、小説も含めて、自分の事を好きになってほしいと願っているから。

 今日も、自分の小説の続きを読んでくれる、尊き彼女のその顔を、じっと見つめる。彼女は、決して「女同士の恋物語」だから異常だとか、否定せずに、志乃の小説を、文学として、ちゃんと読んでくれる。辰巳もそれは同じだった。この二人に会えた事は、自分の小説の中に生きる少女達にとって、何よりの幸福だったと、志乃は信じている。誰にも読まれる事のないまま、人知れず朽ちていく物語にならずに済んだから。

 「里宮先生…、感想を、聞かせてもらってもいいでしょうか…?」

 彼女に感想を聞く時は、いつも少し声が震える。

 辰巳がいる、いつもならば、里宮先生は志乃を隣に呼び寄せて、原稿の文章を指し示しながら、ここの表現が胸を打ったとか、感動したとか切なかったと、間近で聞かせてくれる。しかし、今日の彼女は志乃を呼ぶのに、少し、間があった。

 「え…?ええ…、いいわよ、ほら、こっちにおいで」

 そう言って、自分の隣に座布団をもう一枚置くと、そこに志乃を手招きした。

 しかし、その声に含まれる、いつもと違う、微かなためらい…。それは、普段ならば、卓袱台の前で二人で、原稿を覗き込んで、志乃に感想を聞かせてくれる琴音の事を見て、「何だか仲良し姉妹のようだね」と、時には辰巳が冷やかしを入れてくる事もある程、ありふれたやり取りだというのに。辰巳がまだ来ていない今日、この部屋に志乃が来てから、里宮先生は何だかずっとぎこちない。

 『里宮先生、今日は、何処かずっと、落ち着かないですけれど、何かありましたか…?』

 しかし、志乃は彼女にたったそれだけの事が聞けない。嫌な予感が胸を駆け巡るから。

 ‐まさか…、私と二人きりになって、私への先生の態度がこんなに不自然なのは、私の先生に対する恋心が、露呈したから…?

 ありえないと、必死にその可能性を打ち消す。しかし、彼女の今日の振る舞いを見ていると、頭の片隅では、その可能性を考えてしまう。

 何もおかしくない、いつも通り、と何遍も頭の中で、志乃は繰り返して、里宮先生の隣に座る。

 しかし、今日は彼女が、志乃の原稿を指さして、何か、言ってくれているが、それは、志乃の耳をほぼ素通りしてしまっていた。二人きりの環境がそうさせるのか、今日の志乃は、彼女の顔を形作る様々な部分が、やけに目に付いてしまう。

 とりわけ、薄紅色の、薄い唇。その唇の間に、ちらちらと垣間見える、白い歯は、水に濡れた真珠にさえ見える。そして時折、彼女が優美に笑む時に上がる、唇の端…。志乃の小説の感想や、良かったところを述べてくれる、彼女のその口に、目が行って仕方がない。蕾が綻び、花を咲かせるように笑みを作る、魅惑的な唇まで、数十センチの距離しかない。

 彼女の小説の中に、口づけの場面があったのを思い出す。それは決してむやみやたらに、官能を感じさせた里、蠱惑的であったりはしない。寧ろそうしたものとは一斉無縁の、抒情的で、清涼感しかない場面だった。

 ‐彼女のあの唇は…、既に辰巳との口づけを経験しているのだろうか。だから、あのような口づけの場面を描けたのだろうか。そんな推測が、志乃の頭の中を飛び交う。だから、里宮先生が声をかけてくれているのに、志乃は上の空だった。

 「早坂さん…?どうしたの?」

 風鈴の涼しい音に混じる、彼女の声は聞きとれるのに、彼女の唇に惹きつけられている志乃は、言葉を返さない。その余裕もなかった。

 心の中の悪魔が、囁いた。その囁きに、志乃は突き動かされてしまった…。

 気付けば、志乃は、里宮先生の両肩に、そっと手を乗せていた。突然の展開に、里宮先生も、唇を薄く開いたままで、固まっているのが分かった。それを良い事に、志乃の心の中の悪魔は、志乃の体を勝手に動かしていく。里宮先生の、綻びかけの薄紅の花の蕾のような、その唇に向けて、顔を近づけて…。

 里宮先生の吐息の温かささえも、顔に感じられるところまで、彼女の横から、自分の顔を近づけたところで、志乃は動きを止めた。

 里宮先生に優しく笑いかける、辰巳の顔。そして、辰巳の言葉に、花が咲いたように、微笑み返している里宮先生。あの、温かい陽だまりの真ん中に咲く二輪の花のような二人の、眩く、仲睦まじい光景が頭を過ぎっていったからだ。

 今の自分の中には、その陽だまりの中に咲く、二輪の花を踏み荒らして、そのうちの一輪を、獰猛に引き抜いて、持ち去ろうとする、悍ましい悪魔がいる。

 ‐いや。志乃をここまで、突き動かしてきたものは、得体のしれない悪魔などではない。その悪魔は、志乃と同じ顔をしていたから。このような行動に志乃を突き動かしたのは、志乃自身の中に堆積した、愛への渇望に他ならなかった。

 激しい後悔が、志乃の全身を駆け巡る。自分の行動が、自分と、里宮先生と、辰巳。3人の関係を崩壊させる事に等しい行為だと気付いて。

 我に帰った志乃は、固まっていた里宮先生の肩を手放して、自ら、後ろに飛ぶように後ずさった。その勢いで、卓上の原稿用紙が一枚、飛ばされて、宙を舞ったほどだった。

 「ご、ごめんなさい…、さ、里宮先生…!私は、何て、最低な事を…!」

 志乃は、何とかして謝罪らしき言葉を絞り出そうとするが、完全に舞い上がってしまい、言葉は支離滅裂に脳内を飛び交うばかりで、全くまとまらない。咄嗟の事に、言葉を失くしていた里宮先生が、「待って…!早坂さん!」というのも、聞き終わらぬうちに、気付いた時、志乃は、通学鞄を引っ掴むと、部屋の襖を開け放って、飛び出していた。

 よく軋む階段を、バタバタと一階へと駆け下りる。階段を降りれば、もう玄関の三和土が視界に入った…。すると、そこで、今、一番、合わせる顔のない人が立っていた。

 「ああ、こんにちは。今日は、遅くなってごめんね、早坂さん…。あれ、何処へ行くの…?」

 教練を終えて、疲れた表情の、学生帽にカッターシャツの制服の辰巳がそこに立っていた。帽子を取って、挨拶をくれた彼に、志乃は、申し訳なさで胸を圧し潰されそうで、返す言葉もなかった。

 「私は、何という、最低な事をしようとしていたのか」という、自らを責め立てる声が、自分の中で飛び交い続けていた。

 「ごめんなさい、辰巳さん…、折角来てくださったのに…、私、今日はもう、ここでおいとまします。本当に、本当にごめんなさい…!」

 ひたすら、「ごめんなさい」という言葉しか出てこなかった。辰巳は当惑した顔であったが、その横を、肩をすぼめて、志乃は玄関の引き戸を開け、外へ走り出していた。

 「え、ちょっと待って、早坂さん!ごめんなさいって、どういう事…!早坂さん…!」

 彼も驚きを隠せない声で、呼び止めてくるが、志乃は振り返らずに、そのまま、下宿屋の前の道へ飛び出して、まだ昼間の暑気の残る街の中をひた走った。

 「ごめんなさい…、ごめんなさい、里宮先生。辰巳さん。私は、何てことを…!」

 後悔の念が溢れてくる。彼女の唇に、顔を近づけようとした自分の姿を思い出しては、自分の身を引き裂きたい程の嫌悪に駆られた。

 いっそ、この、まだ強い暑気で、一過性に混乱し、おかしな気分になって、あのような振る舞いに出てしまったのだと思えれば、どれだけ良かったかしれない。しかし、先程の、琴音の唇に魅せられた時の志乃は、混乱も何もした訳ではなく、正真正銘の自分自身だった。

 里宮先生に、あのような事をして、驚かせて、一体この先、女学校でも、どんな顔をして彼女に会えば良いのか、分からなかった。


 

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