琴音と辰巳

 窓辺の風鈴の音と、蝉の鳴き声が部屋の中まで響いていた。

 里宮琴音は、志乃がこの下宿に残していった原稿を読み返していた。彼女の小説を読み返すのは、何度目になるか分からない。

 志乃が持ってきてくれた、2作目の小説だ。内容は彼女の最初の作品と同じく、女性同士の愛を描いた小説だった。 

 琴音は、自分が今着ている、夏用の、青の紗(しゃ)の着物にあしらわれた、白の紫苑の花模様に目線を落とす。白い紫苑の花をあしらった着物を、女学校で志乃に褒めてもらえた時、緊張で張り詰めていた心が、柔らかなな日差しに照らされるように、温かくなっていった感覚を、鮮烈に覚えている。

 志乃が褒めてくれた、白い紫苑の花の着物は、机の傍に畳まれて、置かれている。

 師範学校を卒業して、初めて赴任した女学校。そこで、志乃に会えてよかったと琴音は思う。

 志乃は、琴音が大切にしている、白の紫苑の花を、自分と同じように好きになってくれた。

 若さが成せる、力に満ちた、真っ直ぐな好意を志乃は琴音に向けてきた。

 国語の授業の時間には、志乃の自分に向ける表情に、琴音も自然と、意識が向くようになった。琴音が、綺麗な花言葉にまつわる話をすれば、表情はゆったりと綻び、悲しい意味の花言葉の話をすれば、心から悲しそうに眉を動かして、その幼い表情はころころと、彼女の豊かな感性を反映するように動いた。志乃は、一番熱心に、琴音の話を教室で聞いてくれていた。

 この下宿の部屋に、偶々途中で出会った辰巳と共に志乃が訪ねてきて、早いもので、4か月が過ぎた。赴任先の女学校の仕事にもどうにか慣れてきた。

 この部屋で、三人が書いた小説をそれぞれ持ち寄って、「ここはこういう風に描いたらいいかも」と助言をしたり、「ここの表現が好き」と好きなところを見つけたりして、それぞれの作品について、意見を言い合う。そんな文学談義を交わす時間は、琴音にとって楽しかった。筆が止まり、中々進まぬ時の苦悩も、完成した小説を辰巳と志乃に読んでもらい、感想を聞かせてもらえれば、その全てが報われるような心地がした。


 「里宮先生の作品…、文章が抒情的で、一文、一文が詩のように洗練されていて、素敵です。次の作品も心待ちにしてます」

 そっと、大事そうに原稿用紙を閉じる。そして志乃が、琴音の小説を読んで、瞳を輝かせ、感銘を受けたように感想をくれると、琴音の気持ちは晴れやかになった。


 ただ…自分を見つめる、志乃の目を見て。そして志乃の書いてきた小説を読んでいて、近頃、琴音は時折、心配に思う瞬間があるのだった。

 志乃のその目に籠っている感情が、年の近い新任教師に対する、単なる親愛の情だけではないように思えるから。

 「私は、里宮先生の事が好きだから…」

 初めて、二人で話した日。志乃がそう口にした、あの時から、彼女の琴音を見る目線は、変わりなく、同じ熱量を含んでいるように思える。

 下宿屋の2階。いつもの文学談義の時間。琴音が、志乃の小説を褒めた時、いつも彼女は頬を染め、熱を込めた瞳で、琴音を見つめてくる。

 その反応は可愛らしくて、ずっと見ていたいと思うくらいに愛しく感じる時もあるが、あくまで琴音のそれは、教え子に対する親愛の範疇を越えないつもりだ。

 しかし、志乃が言った「好き」と言う言葉や、瞳に籠る熱は、琴音のものと同じではないのは、明らかだった。

 ‐琴音は、自分の学生時代を思い返して、女性同士での、親愛や友情では説明のtかない「特別な関係」にはまり込んでいったという、地元の他校の、女学生の噂を聞いた事があった。その結末は悲惨な物であったらしい事も。

 そうした話を知識として知ってはいても、琴音は、自分とは関係のない、知らない世界の話だと、心の何処かでは思っていた。

 まさか、女学校も卒業して、教鞭をとるようになってから、自分が、初めての教え子の、その種の感情の渦に飲み込まれそうになるとは、思いもしなかった。

 彼女の書いた小説は、まだこれが2作目でもあり、表現力だとか、技巧に関してはまだまだ拙さが目立つ。しかし、文章の巧拙を越えて、心を揺さぶるものが、志乃の綴る物語の中にはあった。彼女が描いた、女性と女性の、強い心の結びつきと、絆の物語に。

 初めて、志乃の小説に感想を聞かせた時に、話した事は全て、噓偽りのない本心だった。

 ‐ただ、彼女の小説の、あまりにも生々しくもある感情の動きの描写を見ていると、志乃の事が心配にも思えてくるのだ。それは、志乃が持ってきた、一番最初の小説を読み終えた時から、感じずにはいられないものだった。

 志乃は、本当に女性に恋焦がれる種類の人間なのではないかと、琴音は憂いていた。

 「もしかして、早坂さんは…単に小説として書いているだけではなくて、本当に、そちら側の…女色の人間なのかしら」

 志乃の綴った文章は、読んでいると、彼女の情念が込められた一文字、一文字が、次第に原稿から浮き上がってきて、時折、その感情の激流に、自分を引き込んでいくように思われる。

 志乃の小説の原稿を捲りつつ、そうした思案に没入していた時だった。

 「琴音ちゃん。辰巳さんがおいでだよ。お通ししても良い?」

 襖が、軽く叩かれて、廊下の方から、この下宿屋を営む夫妻の、老女が声をかけてきた。女子師範学校入学の為に上京してから、ずっと世話になっているこの下宿屋の夫妻は、もうすっかり、琴音にとっては第二の両親のような存在だ。郷里の両親も、信頼のおける下宿屋に間借りするのであれば、という事で、どうにか、一人暮らしを認めてくれている。

 「ええ、お通しして」と答えて、目を通していた、志乃の小説の、原稿用紙を机の上に戻した。

 間もなく、カッターシャツ姿の辰巳が、制帽を脱いで、部屋へと入ってきた。

 「こんにちは、琴音さん。どうしたの?浮かない表情をしてるけど…」

 辰巳は、机に向かっている琴音に話しかけてきた。

 彼に、どう話したら良いのだろう。教え子から、熱い視線を感じていて、もしかしたら、愛情を向けられているかもしれない、などという話をするのは、酷くためらわれた。そもそも、自分の思い違いでしかないのかもしれないのだから。

 辰巳は、琴音が机の上に出したままにしている、志乃の小説が綴られた原稿用紙に目を向けて、悩みの種が何か、分かったようだった。

 「それは、早坂さんの、二作目の小説…?」

 志乃が渡してくれた、二作目となるこの小説も、女学校の学生同士の、愛情に近い関係を描いた物語だ。甘酸っぱく、活き活きと琴音も体験した場所である女学校の日々を描いている。

 そう。それは、生々しすぎる程に…。

 辰巳は、琴音の傍に来ると、志乃の小説の原稿を、ぱらぱらと捲って、こう言った。

 「早坂さんの小説が、女学生同士の恋物語だったのは、最初に読んだあの時、僕も驚いたな…。でも、僕も、早坂さんの書く物語には、何か、心揺さぶるものはあると思う。その、二作目の小説も読んだけれど、本当に、あの子には才能があると思うよ」

 志乃にはきっと才能がある。それは、この物語を読んで、琴音も感じている。彼女には、この才能を無駄にしてほしくはないと思う。

 ただ、志乃の描く物語の、そのあまりに生々しく、強く、女性への愛の炎を焦がし、そして、愛されたいと狂おしく願う文体は、時に、琴音には苦しくも思えるのだった。志乃が、秘めた恋心を、小説という形を借りた告白で、自分へと伝えてきているのではないかと。

 これは単なる妄想かもしれないし、辰巳に話したら、笑われるかもしれない。そういう風にも、琴音は何度か思った。これは自分の単なる深読みで、志乃が、時折、自分に向けてくる、熱を孕んだ視線も、全ては錯覚で、笑い飛ばしてしまえばいい話ではないのかとも。しかし、もしもそんな、他愛もない話ならば、琴音は、今すぐにでも、何気ない話題として、この話を辰巳に気楽に出来る筈なのに、それは出来ない。志乃の事を気にしているのを、彼に話すのは、まるで不倫の告白であるかのような、大変な勇気がいる。その事こそが、自分のこの感覚は気のせいなどではないと、暗に証明していた。

 「それで…、今、琴音さんが、そんなに眉をひそめて、困った顔をしているのは、やっぱり、早坂さんの事かな?」

 辰巳に指摘されて、琴音は、初めて、自分がそんなに困った表情をしていたらしい事に気付く。隠しきれない程に、琴音の、志乃についてのこの、扱いに困った感情は、大きな物へと膨れ上がっていたらしい。

 「もしかして、早坂さんと、何かあったの?良かったら、話してごらん。恋人の貴女に、そんな、思い悩んだ表情のままで、いてほしくはないから」

 辰巳は、柔らかな口調で、そう言った。


 琴音は、自分の気持ちについて、吐露していた。志乃の向ける視線に籠る熱量が、年の近い新任教師への、親しみを込めたものだけとは、どうしても思えなくなっている事。志乃の描く、女性同士の恋物語の内容の、時折、感情の激流に流されてしまいそうになる程の、強い、女性からの愛の渇望…。自分が志乃に感じていた事の、全てを。

 「勘違いしないでほしいのだけど、辰巳さん。私は、あの子の事が気持ち悪いだとか、まして遠ざけたいとか、そういう事は決して思っていないの。あの子は可愛い教え子で、文学っていう共通の趣味で繋がっている大事なお友達。それは本当よ。そうだけど、あの子の方の気持ちは、それだけに留まってはいないんじゃないかって…」

 辰巳は、何か、考え事をする時の癖で、卓袱台に両肘を乗せて、その両手の指の腹をピタリとくっつけて、口元のあたりを覆いながら、話を聞いていた。

 琴音の話が終わると、辰巳は、両手を互いに離して、彼女にこう言った。

 「つまりは、こうだね。早坂さんが、君に…、ただの、若く、年の近い同性の教師への親しみや憧れだけでは説明できないような気持ち…。要するに恋情を抱いてるんじゃないかって、琴音さんは思い始めてるんだね」

 「そうよ…。彼女の熱っぽい視線や、彼女の持ってくる小説の中に溢れてる、女性の愛への渇望を見ていると、どうにも、もう気のせいでは済ませられなくなってしまって…」

 「貴女は、彼女が※トーハーとか、※女色の人なのではないかとも、心配しているんだね」

 辰巳の言葉に、琴音は頷いた。もし、志乃が本当に…、そちらの人間なのだとすれば。自分は、どう彼女と向き合えば良いのだろうか。

 「早坂さんと、どう、接していけばよいか、私は、分からなくなってきたの。彼女の本心を知りたい。けれど、もし、私の心配が杞憂ではなく、本当だったとしたら、彼女は、絶対、自分からは言えないだろうし…。それに、早坂さんが向けてくる好意を私が…もしも、強く拒絶でもしたら、彼女はどれ程傷つくか分からない。どうしたらいいと思う?辰巳さん」

 志乃が本当に、世間で言うところの、トーハーだとか女色の人間であるなら、それを自分から言わせる事は、相当の苦痛を強いる筈だ。そのような事を琴音はしたくはなかったし、志乃も言おうとはしないだろう。

 「琴音さんの言う通り、これは本当に難しい問題だね…。早坂さんの気持ちを確かに僕も知りたいし、あやふやにしたままじゃ、僕達3人はきっと、何処かでおかしくなる気がするよ…」

 しばらく、考えたのち、辰巳は、付け加えて琴音に尋ねる。

 「もしも…、早坂さんが、本当に、同性を愛する女の子だったとしたら…、君はどうする?琴音さん。あの子の事を嫌いになる?」

 辰巳は、敢えて単刀直入な聞き方をして、琴音の素直な気持ちを引き出そうとしているようだった。

 辰巳の言葉に、志乃は強く、首を横に振って、彼の言葉を否定する。

 「それは…!そんな事は、ありません!早坂さんが、もしも本当に、同性が好きな女の子だったとしても…、私の小説、私の授業を好きだって言ってくれる、大事で、可愛いお友達であり、教え子でもある事に、変わりはありません。あの子の事を、嫌いになんて、絶対になりません。彼女の本心を知ったとしても…、付き合い方をまた一緒に、考えていきます。あの子と、私達とで」

 琴音は、きっぱりとそう言った。

 「琴音さんなら、そう言ってくれるって信じていたよ。やっぱり貴女は優しい女性だ。僕も、あの子が女性が好きで…、そして、もしも、琴音さんに寄せている思いが、恋情の意味で好きだったとしても、僕は、早坂さんを蔑んだり、嫌ったりなんて、絶対にしない」

 琴音の気持ちを聞いて、辰巳はそう答えた。

 「琴音さんと、早坂さんだけに、この問題を背負わせるような事はしないよ。二人の為にも、僕にもどうか、一緒に悩ませて、考えさせてほしい。これからの僕達と早坂さんがどう付き合っていくべきか」

 彼の、いつもと何ら変わるところのない、その表情や口調。ただ、純粋に、志乃の心境を案じている感情しか存在していない、辰巳の様子に、琴音は安堵したし、嬉しくもあった。

 彼の人間性は、そのような事をする人間ではない事は、十分に琴音も分かってはいた。しかし、もしも、志乃が、女性をしか、愛さない人間かもしれないという話題になった時、辰巳が、志乃が琴音と接するのを拒絶するような態度に出たらどうしようと、不安を抱えていたのだ。


 そんな話をしていた矢先‐。琴音と志乃の間で、とある事件が発生する事となるのだった。

 


 ※いずれも、昔の日本での、女性同性愛者の呼称。

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