志乃の小説
志乃は、琴音が、自分の原稿を始めて読む間、足を崩すのも忘れて、ずっと正座で、彼女の方を凝視していた。
琴音に見せる前、志乃は自分の小説を人に読ませた事がなかった。
「日本が国を挙げて、戦争をしているこんな時に、文学などという軟弱なものに現を抜かすなどけしからん」
という態度を志乃に見せる、あの、封建的な両親に、自分の小説を読ませる気はさらさらなかった。それに、女学校の同級生らに見せた事もない。
そして、それは単に、自分の未熟な小説を同級生らに読まれる事が恥ずかしかったからという理由だけではなかった。
自分の小説を見た時、あの女学校の同級生らが、どのような反応を示すのかを、想像しただけでも怖かったから。
‐志乃の書いた、「女性を愛する女性」の物語というものを、彼女らが読んだ時、彼女らは、間違いなく、志乃を拒絶すると分かっていた。
「早坂さんて、※女色の人だったの?」
「ああ、気持ちが悪い…。そんな人と、今までお話していたなんて」
そんな言葉を投げかけられるのが怖くて。
けれども、志乃は、里宮先生であれば、「自分の、素直な愛情の形を込めたこの小説を見せても、構わない」と思えた。寧ろ彼女には、今まで隠してきた、自分の本当の愛の形をはっきりと、知ってほしいと思えた。以前の自分を想えば、大胆な行動だ。
きっと、志乃をそういった思いにさせたのも、彼女への「一目惚れ」によるものだったのだろう。
だから志乃は、あの下宿屋の2階の部屋で、里宮先生に、ためらいなく、自分の原稿を渡す事が出来た。
勿論、彼女が自分の原稿用紙を捲っていく時は、心臓がえらく早く、鼓動を打っていた。
志乃の原稿に目を通しながら、里宮先生の、形の良い眉が、時折、驚いたように、ぴくりと動いた。彼女が原稿に目を通しているのを見ながら、もう志乃は、心臓が口から飛び出るのでは、と思う程に、胸の鼓動が騒がしかった。一刻でも早く、感想を聞きたいという気持ち。その一方で、万に一つでも、彼女の口から、否定的な感想が出てきたらどうしようという気持ち。彼女が、そんな感想を言う筈がないという、その杞憂を打ち消そうとする気持ち…様々な感情が、志乃の中で、大渋滞を起こしていた。
里宮先生が一息ついて、原稿用紙を机に置く。永遠に近い程、志乃は待ったように思われたが、部屋の置時計の、針の位置を見て、大した時間はまだ経っていない事を知った。人に、小説を読んでもらい、その感想を待つという事が、これ程に待ち遠しい事を、志乃は知らなかった。しかし、嫌いな感覚ではなかった。
「女の子同士の物語なのね…。読み始めてすぐに、恋物語なんだろうなっていう事は分かったけれど、主人公の女の子が恋している相手が、同性って分かった時はちょっぴり驚いたわ」
まず、彼女はそう切り出した。驚きは確かにあったようだが、少なくとも、志乃が最も恐れていた、侮蔑や、忌避の感情は、その何処からも感じられなかった事に、ひとまず胸を撫で下ろす。
「こういう恋物語は私も初めてだから…、私もどんな感想を言えばいいのか分からないけれど、でも、読んでいて、主人公は、同性だからとか、他の一切の事は気にせずに、相手の女の子の事が本当に好きなんだなって伝わってきた。早坂さんの文章を読んでいたら、相手の女の子を求める、主人公の女の子の狂おしくて、凄絶ささえ感じる感情の、激流に飲み込まれていきそうになったわ」
里宮先生は、胸の中に覚えたその感情を大事にするように、そっと、両手を重ねて胸に当てた。
彼女は、この小説に込めた、志乃の激流のような感情を汲み取ってくれていた。それは、志乃には大変喜ばしかった。
この小説には、志乃の「現実では決して在り得ない恋」への眩い憧れや、暗く、凄絶でさえある渇望。そうした、他にはやり場のない気持ちを、全て注ぎ込んだつもりだった。
ずっと、このあらゆる感情を一緒くたに押し込めたような、世界に一冊限りの、この、志乃自身だけの為に存在していた、女性同士の愛の物語。
その物語が、志乃だけのものではなくなり、里宮先生という読み手が現れた事で、初めて、志乃は、物語の中だけに、行き場のないままに滞留していた感情を、現実世界へと流す事が出来た心地がした。その感情の流れ着く先にいるのは、里宮先生、ただ一人だった‐。
しかし、この時、里宮先生の部屋にいて、志乃の、小説という媒介を経て、現実世界に溢れ出した感情に触れた人間は、里宮先生だけではなかった。
志乃の原稿を捲って、辰巳も、小説に目を通していた。
「これは…、凄いね。早坂さん。君の文章には、確かに、里宮先生の言う通り、読み手を、うかうかしていたら、あっという間に渦の中に引きずり込んでしまいそうな程の感情が迸っている。飾り気や、変に凝った言い回しで言葉を飾ってないのに、惹きつけられるものがある。僕も、早坂さんの作品は好きだな」
そう言って、志乃の原稿用紙を手に取って、捲っていたのは、辰巳だった。彼は、じっくりと時間をかけて読む里宮先生とは違って、速読のようだ。里宮先生が読み終えたのと、同じところまで読み終えると、原稿を卓袱台の上に置く。そして、いたく感服したように、感想を述べてくれた。
「僕は、もっぱら書いているのが、謎解きの要素も多い探偵小説で、理詰めでないと書けないところが結構あるから…。琴音さんからは、しばしば、『辰巳さんの文章は、あんまり理詰め過ぎて、文学というより、論文でも読んでるみたい』って、よく指摘されるんだ。人の心の、一番純粋で清い部分を、こうも鷲掴みにして、ぐらぐらと揺さぶってくるような文体は僕には書けないもので、早坂さんの強みだよ」
世の男性にありがちな、年下の、それも女性を相手とした時の、何とか格上に立とうとするような、見栄の類いは全く見られず、彼は志乃の小説に、惜しみない賛辞を贈った。
「僕も、早坂さんのような文章を書けるようになりたいね。中学の頃から探偵小説は洋の東西を問わず読み漁ったし、色々と書いてきて、郷里の妹からも褒めてもらってて、自信はある方だったんだけど、まだまだ修業が足りないな。琴音さんの心を勢いよく、感情の渦に巻き込んでいけるような、そんな小説を書かないとね」
少しおどけたように、辰巳がそう言う。
「何を仰るの、辰巳さん。辰巳さんの小説も、私は好きよ。早坂さんには早坂さんの、辰巳さんには辰巳さんの、お互いに違った良さがあるわ」
辰巳の言葉に、里宮先生はそう言って、笑い返す。その、品の良い口元に、笑みを咲かせて。
そうしたやり取りをして、時に笑い合っている、美男美女。仲睦まじいとはこの二人の為にある言葉ではないかとさえ思えてくる、辰巳と、里宮先生のやり取りを見ていると…先程、小説の感想を生まれて初めて聞かせてもらえた時は、天にも昇りそうだった気持ちがまた、暗く淀んでいくのを、志乃は感じた。
『まただ…。この、何だか嫌な気持ち…』
辰巳が、琴音の恋人であるのを知った時にも、心に溜まりかけた黒い澱。それがまた、志乃の心の水の中、降り注ぐ。
目の前の二人は、あまりに似つかわしく、その間には誰も入る事など出来ないように思われた。対等な関係で、二人は愛し合い、繋がっている。
小説を通じて、自分が、女性を愛しているという事。その狂おしい愛の発露を、二人とも否定せずに、受け入れてくれた事は嬉しかった。特に、「一目惚れ」してしまった相手と言える、里宮先生と、自分の小説を通して、如何に、自分が女性を、その美しさ、たおやかさを愛しているか、通じ合えた気がした。
しかし、結局は二人共、志乃が何故、女性への愛をここまで凄絶に描いたのかを、「お話の中の出来事」以上の意味では捉えなかったのだろうか。とりわけ、志乃の…、この許されぬ横恋慕の相手である、里宮先生には。
あまりに釣り合い過ぎていた、美しい二人の絆の前には、志乃のような浅ましい考えを抱いた人間が入る隙間など見当たらない。
『お似合いの二人』を前にして、志乃は、何も手出し出来ずに、見ている事しか出来なかった。
邪魔をしてはならない。この二人は、本当に、お互いを大事に思い合っているのだから、志乃の私的な感情で、思い合う二人の間を掻きまわす事など許される訳がない。
『分かってる…。私はあくまでも、二人の文学友達で、里宮先生とは、教員と教え子でしかない。それ以上の関係へと踏み込もうとすれば、折角、今こうして存在している、この部屋での楽しい、文学談義の時間も全部失って…、私は、里宮先生に合わせる顔も無くなってしまう』
自分の中に、不届きな考えが湧いてくる事のないように、志乃は幾度もそう自らを戒めた。
それから、文学談義と称して、里宮先生の下宿を訪ねては、自分の小説の良かった点や、改善点等を語り合う日々の中。
志乃は、目の前に一目惚れの相手の女性がいるのにも関わらず、それに指一本も触れる事は叶わず、『お似合いの二人』の姿を見せつけられながら、それでもなお、里宮先生の、尊き顔を、密かに見つめているしかないのだった。
自分の小説を読んでくれている時の、微笑ましそうに、綺麗な笑みを描く唇を。感情豊かに、物語が悲しく、遣る瀬無い方向に向かえば、悲しそうに歪む、形の良い眉を。既に、彼女が愛する人のものである、そうした所作を、ただひたすらに、志乃は一つ、一つ、目に焼き付ける程に見つめていた。瞼を閉じれば、そこに彼女の様々な表情が、ありありと浮かび上がってきそうな程に。教師から、一人の文学少女に戻ったように、志乃の小説に心を動かされている時の、彼女の表情を。
しかし、志乃が見せた、女性同士の愛の小説について、辰巳と琴音の二人は、単なる物語として受け止めているだけではなかった。
それを、志乃はやがて、知らされる事となる。
※昔の、女性同性愛者を指す表現の一つ。
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