白と紫

 昭和16年、4月。

 早坂志乃は、桜並木の下を、校舎の方に向かい、歩いていた。その春、彼女は、通っていた高等女学校の三年生に進級したばかりであった。

 校則通りに、短く切り揃えた髪の襟足の下の、露わになった項を柔らかな春風が、こそばゆく吹き抜けていった。桜の花びらが、ちらちらと風に翻っては地面に落ちていく様を見て、楽しみながら、志乃は木造の校舎へと入っていく。

 ‐里宮琴音という、女子師範学校を出たばかりの、新任の女性教師と、志乃が出会ったのは、四月の始業式の日の事だった。

 時世は既に、中国大陸での戦争が始まってから四年にも及び、日常生活のあらゆる場面において、戦争の暗い影を感じずにはいられない時だった。

 立ち並ぶ紺色のセーラー服の列の中で、志乃は校長先生の、もう何度目になるか分からない同じ内容の話を、内心では少々うんざりしつつも聞いていた。

 校長先生の「父母や国家への忠孝を第一に考え、国家の為に奮励努力し、良妻賢母を目指すように」という、耳にたこが出来そうな程、今までも聞かされてきた、修身の授業めいた話に、志乃も集中力が途切れてきた。それで、何とはなしに、講堂に並ぶ教員達の方へ視線を向けていた。

 すると、志乃は教員達の列の中に、とある、年若い女性教師の姿を見出した。

 年の頃は20代前半と思われた。年齢的に、きっと、女子高等師範学校を出たばかりの新任のように思われる。彼女はまだ、制服を着せれば、志乃達と同じ女学生だと言われても、見間違えてしまいそうな程、若く、そして何処か脆く、幼くも見えた。講堂に並んでいる女学生達よりも、余程緊張した面持ちで、彼女は、生真面目に校長の話に耳を傾けている。彼女は紋付袴を着込んで、和装、洋装が入り混じる先輩の女性教師達と、スーツ姿の男性教師らの並ぶ中に、立っているが、それは、少女が背伸びをして姉か母親の袴を着ている、と言われても違和感がないくらい、彼女のまだ幼さも残る容姿には似合わなかった。

 「きっと、緊張してらっしゃるのね。ふふっ、何だか可愛らしい人…」

 そんな事を思って、口元が緩みそうになるのを、志乃は慌てて引っ込めて、表情だけでも、校長の話を真剣に聞いている、真面目な学生になりきる。

 新任の教師の挨拶の時間になった。

 志乃にとっては、校長の話などよりも、内心はこちらがずっと、待ちに待っていた時だった。彼女の声が響いた。

 「里宮琴音です。高等女子師範学校を卒業して、この春から、この学校で教壇に立たせて頂ける事を、光栄に思います。よろしくお願いします」

 彼女は、そう言って、丁寧にお辞儀をした。その、嫋やかな身のこなしや、言葉遣いからは、育ちの良さが滲み出ている。高等女子師範学校の卒業という事は、かなりの才女である事は間違いなかった。そこは、簡単に入れるような学校ではない事は、志乃もよく知っている。しかし、教師としては、この春に、この学校で初めて教壇に立つという事なので、要領がまだよく分からないのだろう。

 お手本のような瓜実顔で、鼻筋がすっと通っていて、細面(ほそおもて)である。しかし、その手の顔の形に似合いの、大人びた切れ長の目ではなく、二重瞼で、目の大きさが目立ち、可愛らしさも感じる。

 その、整った顔立ちに、常に緊張を浮かべている。志乃は、気付けば、彼女の姿をずっと、目で追っている事に気が付いた。

 彼女の着ている紋付袴には、黄色の中心を囲んで、白く細い、繊細な花びらが放射状に広がる花の、刺繍があしらわれていた。決して、色合いや、花びらの付き方などは、派手な花ではない。しかし、彼女の着物の、帯の近くにあしらわれている、その淡い花は、志乃の心を掴んで離さぬ魅力があった。

 地味な色合いの袴や、スーツ姿が多い教師らの立ち並ぶ中で、そんな、淡い花が咲く着物を着た、若い彼女の姿は一際目を引くものだった。

 この、春の校舎に咲いた、うら若い花を見つけた、志乃の同級生らも同じ感想を抱いたようだ。

 「嬉しいわ、若くて綺麗な、華のある先生が来られると」

 「年配の先生方ばかりで、授業も退屈だったし、二言目には、国への忠孝だとか、銃後を守る女性としてだとか、説教ばかりされる生活でげんなりしていたから、新しい、優しそうな先生が来てくださって良かった」

 講堂を出て行く時、彼女らは口々にそのような事を話していた。

 里宮先生が、志乃の学級の副担任になってくれるのが分かった時には、心が浮きたった。担任は口髭を蓄えた、厳しい事で有名な男性教師であったから、里宮先生が副担任として、志乃がいる教室でまた、自己紹介をしてくれた時は「やった!」と内心では思ったものだった。

 志乃の同級生達は、花に吸い寄せられていく蜜蜂のように、彼女という花を囲んで、彼女の事を知りたがり、話をしていた。同級生達は、彼女を、新任の教員というよりは、年の離れた姉を慕うような口調で話しかけていた。

 そんな女学生らに、彼女はよく笑って、話をしてくれていた。その、上品に上がる口角、薄く淡い桃色の唇。そうしたものに、志乃は目を奪われていた。よく笑うのに、それは決して彼女の気品を損なわず、蕾が一つ、また一つと綻んで、花が咲くような印象をしか与えなかった。

 志乃の心の奥の、熱い思いが次第に大きくなり、疼いていた。

 彼女の着物にあしらわれた、あの白く、繊細な花びらを持つ花は、彼女にとてもよく似合っている。その事を伝えたいという思いに、志乃は駆られた。

 里宮先生の周りには、早速、お喋りで、好奇心旺盛な同級生らが集まって、色々な話を聞きたがっていたので、中々近づく機会に恵まれなかった。

 しかし、桜の花も、葉桜へと変わってしまった頃、ようやく、志乃に、その好機が訪れた。放課後、家路に着こうとしていた志乃は、偶々、廊下を一人で歩いていた里宮先生の姿を見つけた。勇気を奮って声をかけてみた。

 「里宮先生。こんにちは。ちょっと、よろしいでしょうか」

 志乃が、急に後ろから声をかけたものだから、彼女はびくっと肩を震わせて、振り向いた。

 「えっと…、ごめんなさいね、貴女は、確か、私の教室の生徒ね。お名前は…、確か、早坂さんだったかしら?」

 それでも、彼女は、志乃の姿を見ると、すぐに、自分の担当の教室の生徒である事は分かったようだ。まだ、話した事はなかったが、志乃の苗字も覚えてくれていた。

 彼女の声で、自分の名を呼ばれるだけでも、気持ちが舞い上がってしまいそうになる。そんな、春の嵐に舞い遊ぶ木の葉のように、ふわふわと浮き上がる気持ちを抑えて、志乃は頷き、答える。

 「私の方こそ、急にお声かけしてすみません。私は、早坂志乃と言います。先生に副担任をして頂いている学級の生徒です。その…、先生に伝えたい事があって、お声かけしました」

 勢い任せに声をかけてしまったが、ここからどう、自然に彼女と会話を繋げればよいのか、そこまでは、志乃は考えられていない。

 「伝えたい事…?質問かしら?授業で、何処か分からないところがあった?」

 志乃達の学級は、里宮先生には、国語の授業をしてもらっていた。それは、他の頭の固くて、退屈な授業ばかりする年配の教員らの授業とは違って、志乃の学級の皆にとって、癒しのような時間だった。彼女の澄んだ声は、時折、授業の内容だけでなく、花言葉など、誌的な内容を教えてくれた。多感な年代の女学生らは、教科書の内容などよりも、色とりどりの花が持って生まれてきた、詩情豊かな花言葉や、その花言葉の生まれた逸話などを、里宮先生の声で聞ける事を喜んだ。

 志乃は彼女を見上げながら、しばらく、その紋付袴にあしらわれた、白い花をじっと見つめていた。まだ、この花に込められた言葉や、意味を、志乃は聞けていない。

 上手く、伝えきれる自信なんてない。けれど、彼女の着物の花を見た時、沸き起こった自分の感情を、志乃は、どうしても里宮先生へ伝えずにはいられなかった。

 「始業式の日、初めて、先生の姿をお見掛けした時から…、ずっと言いたいなと思っていた事があって…。里宮先生の御召し物にあしらわれている、その白い花が、とても素敵で、先生に似合っていて…。先生の姿を見つけた時…、私は、一輪の花が咲いているのを、見つけたように思いました」

 急に、花のようだなどと言われて、そうした賛辞は慣れていないのか、「えっ!」と、小さく驚きの声を上げたのち、里宮先生は、頬を薄く、白桃のような色に染める。かなり初心(うぶ)な人であるようだ。

 「そんな、私が花みたいだなんて、言われた事ないわ…、恥ずかしい。私には、勿体ないような褒め言葉だわ」

 言い終えた後で、随分と大胆な事を言ってしまったものだと、志乃は思った。今日初めて、面と向かって話す彼女に、「貴女は、花のようです」などという言葉を贈るとは。

 しかし、志乃の思いは止まらなかった。里宮先生が、今日は、自分の言葉で、蕾が綻んで、花開くように、微笑んでくれるのを見たいと、志乃は強く望んだ。

 どうしてこんなに、今日初めて出会ったばかりの、彼女に対して、このように強い持ちが湧いてきて、自分を突き動かすのだろう。

 美しい花を見つけて、それに魅入られるように、志乃は、自分が、このうら若い新任の女性教員に、恋をしているらしい‐それが、志乃が行き着いた答だった。

 「勿体なくなんて、ありません。里宮先生と、あのお召し物に咲いていた、白いお花は、本当に似合っているので…、すみません、こんな事を言う為だけに、先生を呼び止めたりして」

  志乃がそう言うと、里宮先生は、嬉しそうに微笑んで、答えた。

 「ありがとう。あの時、着ていた着物は、私が教師になって、初めての学校で働く時に、母が呉服屋さんに頼んで作ってもらった、大事な服だから、早坂さんがそんなに気に入ってもらえたなら、私も嬉しいわ。着物に刺繍されていた花も、母が選んでくれたもので、紫苑っていうの」

 紫苑…。あまり、聞き覚えのない花の名前だった。彼女の、あの癒しのような国語の授業の時間。よく聞かせてくれる、花言葉についての話にも、まだ出てきていない花だ。

 「紫苑…。私の知らない花ですね。そのお花にも、先生がよくしてくださっている、花言葉がやはり、あるんでしょうか?例えば…、窓の外に咲いている、あの桜の花には、精神美。それに、優美な女性という意味があるように」

 志乃が指さした先には、校舎へと伸びる桜の並木道が見える。始業式の頃は、次々と、絶やす事なく、その雲の切れ端のような、柔らかな花びらを散らし続けていた桜の木も、すっかり深緑に覆われて、花盛りの頃の面影はもうなかった。

 「早坂さん。授業の合間に何気なく、私がした、花言葉の話も、しっかりと覚えてくれているのね。ただ、教科書の中身をなぞるだけの授業では、貴女方の年頃では、きっとつまらないだろうなと思ってした話も」

 自分の授業の内容を覚えてくれていた事に、嬉しそうに語る、彼女の表情は初々しく、可愛らしい。

 忘れる訳がない。里宮先生が花言葉について、初めて話をしてくれたのは、教室の窓から見える、桜の花を見た時だったのだから。

 『この教室からも見える、桜の花にも、持って生まれてきた言葉が、ちゃんとあるの。ここにいる皆の名前、一つ一つが、ご両親の願いを授けられて、名付けられたのと、同じようなものかしらね』

 『桜の花言葉はね。精神美。純潔。優美な女性。つまりは、美しい心や、女性的な美しさの象徴なの。大和撫子の象徴として、こんなに相応しい花はないでしょう?』

 彼女がそんな話をしてから、その詩情あふれる、花言葉の逸話を、女学生達は聞きたがり、授業の合間に、彼女はしてくれるようになった筈だ。

 「里宮先生がしてくださる、花言葉のお話は、よく覚えています。今まで、私は、桜もそうですけど、花を見ても、漠然と綺麗だなくらいにしか思った事はありませんでした。でも、先生のお話のように、どの花にも、花言葉として込められた人の思いがあるんですね」

 「そうよ。花言葉の文化は、明治の頃、英国から日本にやってきて、広まったのだけれど、まだまだ、この国では馴染み深い文化ではないわね。でも、私は凄く素敵だと思う。心に響く花言葉を持つ花を見つけたら、何だか、その花が自分の生き写しのように思えてくるから」

 花と自分を重ね合わせる事が、里宮先生は好きなようだ。始業式の日。彼女が着ていた着物にあしらわれていた、白く繊細な花びらの、紫苑の花。あの花にも、彼女は特別な思いがあるのだろう。

 「先生の着物の、紫苑のお花でしたっけ。私には…、里宮先生と、そのお花は、生き写しのように見えます。先生にとって、紫苑には特別な意味があるんですね」

 志乃がそう言うと、彼女は頷く。

 「早坂さんが言う通り、紫苑の花言葉は、私にとっては大切な物よ。それも、貴女が褒めてくれた、白の紫苑は特別。早坂さんは知っているかしら?白とか紫とかの色を問わず、紫苑に込められた花言葉を」

 日本で恐らく、最も有名な花である桜の花言葉も知らない自分が、知っている筈がない。白以外の色の紫苑がある事さえも知らなかった。志乃は「教えてください。先生」と、目の前の若く美しい新任教師に尋ねる。

 里宮先生は教えてくれた。

 「『追憶』。『貴方を忘れない』。『遠くにいる貴方の事を思っています』。これが、色を問わず、紫苑に付けられた花言葉よ」

 「え…」

 彼女が着物にもあしらう程、大切にしている花なのだから、何か美しい意味があるのだろうと思っていた。しかし、彼女の口から語られた花言葉の、あまりの遣る瀬無さに、思わず、志乃は声が漏れる。どうして、里宮先生はそのような悲しい花言葉を持つ花に、そこまで心惹かれたのだろうと、不思議に思った。

 「そんな、遣る瀬無い花言葉の花を、どうして先生は、お召し物にまで…?」

 「白ではない、紫の紫苑の花言葉を聞いたら、そう思っても、無理はないわよね。でも、私はさっき、色を問わず、と言ったでしょう。紫苑はね、色によって、込められる花言葉がまた、色々と他にも加わってくるの。多いのは紫の花だけど、白の紫苑は、また別の意味も持ってる」

 「色によって、同じ花でも、意味が変わるという事ですか…?」

 「そう。私の着物の、白い紫苑の花にはね、紫にはない、もう一つの花言葉がある…。それが、『どこまでも清らかに』。これを聞いたら、また、印象が変わってくるでしょう?」

 『どこまでも清らかに』。それが、彼女が始業式の日、着ていた着物の花に込められていた思い。その意味を知ると、紫苑という花がまとっていた、儚げな空気の中に、清冽で澄んだものが入り混じってくるように、志乃には感じられた。

 「それじゃあ、もし、紫色の紫苑だったら、どういう意味に…?」

 「紫の紫苑であれば…、悲しい意味になってしまうわね。『ごきげんよう』。去って行く人への、別れの挨拶になるわ」

 紫と白。色が違うだけでも、与えられる花言葉がこのように違うとは思わなかった。志乃は、里宮先生の好きな紫苑の花の色が、紫でなくて良かったと、心から思った。

 「どこまでも清らかに…。いい花言葉ですね。追憶とかいう意味を最初聞いた時は、何だか物悲しい花に思えたけど、白い紫苑には、そういう意味もあるんだって知ったら、また違って見えます。先生の好きな紫苑の色が、白で良かった。私も、そのお花の事が、好きになってきました」

 里宮先生が好きな物を、自分も好きになりたいと、志乃は思った。白の紫苑の花は、志乃にとっても、大切な花となった。

 「私の好きな花を、貴女も好きになってくれたら、この二人きりの授業をした甲斐もあったし、嬉しいわ。早坂さん」

 彼女の口元が緩んで、また、花が咲いたように、志乃に微笑んでくれた。そして、「早坂さん」と、その春のそよ風のように柔らかい、そして澄んだ声で名前を呼ばれただけで、一拍、志乃の心臓は大きな鼓動を打つ。

 気の迷いなどではない、一目惚れだと志乃は確信した。志乃の中に芽吹いた、鮮烈な色の恋心の芽は、みるみるうちにその丈を伸ばしていく。それは、何色の花を咲かせるのだろう。

 里宮先生に、自分の好きな事、好きな物を、好きになってほしい…。そんな願いが、志乃の中に湧いて来る。自分はただの、彼女の生徒の一人で終わりたくはない。

 「里宮先生の大切な物、私も好きになりたいと思います。それで…、私も、里宮先生に、私の大切にしている物を、好きになってほしい」

 彼女に近づきたい。他の生徒とは違う、特別な結び付きがほしかった。

 「花言葉や、詩とか…、文学がお好きである、里宮先生だからこそ、お願いしたい事があります」

 「お願いっていうと…?」

 尻込みしそうになる自分を、志乃は奮い立たせる。彼女になら、見せても良いと思えるものがあった。

 「もし、里宮先生が良ければ、私の書いた小説を、読んで頂けないでしょうか。実は、私、ずっと皆に内緒で、小説を書いているんです。先生に読んでもらって、感想を聞かせてほしくて」

 途中で途切れてしまわないように、志乃は、一息に言葉を繋げた。鼓動がうるさかった。自分が小説を書いている事は、文学中毒を毛嫌いしている、封建的な両親には勿論の事、この女学校の同級生にも口外した事はなかった。

 ‐その小説は、まかり間違っても、同級生らの目に触れさせてはならないような内容のものであったから。

 その筈なのに、会って日の浅い、里宮先生には、自分の小説を読んでほしいと、言う事が出来た。

 里宮先生にしてみれば、あまりに唐突なお願いだったろう。まさか、生徒から、自分の小説を読んでほしいなどという願いは。

 志乃は、里宮先生の反応が気になって、しばらく顔を上げられずにいた。

 言葉に、里宮先生は、「え?貴女も、小説を書いているの?」と、驚きの声を上げる。

 「貴女も、って…。先生も書かれているんですか?小説を」

 志乃もまた驚き、問い返す。里宮先生も、言うつもりはなかったのであろう。あっ、と小さく声を出して、口を手で覆う。そして、照れ臭そうに笑った。

 「そうよ。師範学校の学生の頃から、ずっと書いている。でも、驚いたわ…。まさか、貴女も私と同じで、小説を書く人だったなんてね…」

 「私もです…。でも、全然、自慢出来るような物じゃありません。表現も、筋書きも拙いし…。自分が読んだ事のある文学の、焼き直しみたいな物ばかり。それでも、先生になら、読んでほしいって思ってます」

 実は、彼女も文学を志していた女性だったとは。まさかの事実に志乃は胸が躍る。二人は、文学という同じ夢を持っていた。

 「…でも、私で大丈夫なの?他の、年の同じ同級生の子達ではなくて…」

 それは予想された答ではあった。しかし、志乃はぶんぶんと首を横に振る。彼女らに、自分の小説を読まれた日には、大変な事になる。とんでもなかった。それに、志乃は、里宮先生「で」いいのではなく、彼女にこそ、読んでほしかった。

 「里宮先生がいいんです。私は、里宮先生の事を、好きになったから、だから、里宮先生に、私の小説も含めて、好きになってほしいんです…。私の小説を見て、里宮先生に、感想を聞かせてほしいです」

 志乃の「好き」は、きっと、里宮先生には、精々が、親愛の程度の言葉での「好き」としか、伝わってはいないだろう。

 初めての学校で、教え子から、自分の小説を見てほしいという希望を言われた彼女は、少なからず困った表情を浮かべた。教え子から、好意を寄せられ、思いもしない相談を持ち掛けられ、きっと彼女は困っている事だろう。

 しかし、困っている教え子を、何とかしようという気持ちで考えてはくれている様子だった。やがて、彼女はこう言った。

 「分かったわ。じゃあ、こうしましょう。私達は、お互いの小説の読み合いをする、お友達になりましょう。私も、自分の小説を読んでくれる、お友達がいてほしいと思っていたところだから。今度、私の下宿に招いてあげるわ。お互い、原稿を見せて、読み合いをしましょう」

 友達になる…。それが、今の自分と里宮先生の、現実的な、一番の繋がりだろう。

 志乃が望む、本当の関係ではない。しかし、先生との間に出来た、特別な繋がり。

 それに、浮かれそうになっていた、その矢先だった。

 「文学を見せ合う友達が増えて、彼もきっと喜ぶわ」

 里宮先生はそんな事を口にしたのだ。

 「彼って、誰ですか?」

 「私の下宿の近くに住んでいる大学予科学生よ。彼も、将来は作家になりたいと言っていて、私にもよく小説を読ませてくれるの。三人で読み合いをするのもいいわね」

 突然、頭の後ろを殴られたかのような衝撃を、志乃は感じた。彼女は、直接的な言い回しはしなかったが、下宿に住んでいる彼女の元に足繁く訪ねてくる青年。それを快くもてなしているらしい彼女。それはつまり、「そういう」間柄ではないか。

 そうだ。何を舞い上がっていたのか。彼女は、志乃の事を「友達」としか言っていない。彼女の年齢で、かつ彼女ほどの美貌があれば、恋人の青年がいる事の方が当たり前だ。

 彼女に恋人がいても、自分に何か言う資格などはない。教師と生徒の間柄でも、友達になると言ってくれた、彼女の懐の深さに感謝こそすれ、不平を抱くなど筋違いも甚だしい。

 それなのに、胸の中に、黒く澱が溜まって、淀んでいってしまうのを、志乃は感じずにはいられなかった。

 「小説の感想を言い合える、仲間が出来て嬉しいわ。早坂さん。今度、下宿に案内してあげるわね」

 彼女の下宿に招いてもらえる‐。今はそれを、志乃は楽しみにしている他はなかった。

 

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