海の墓標に手向ける花は
わだつみ
愛しき貴女は、花となって
紺碧の海を、一隻の小船が沖に向けて走っていた。
空には、雲一つなく、降り注ぐ眩しい日差しを浴びて、海面近くを泳ぐ、熱帯魚たちの姿も、船の甲板の上からよく見えた。宝石のように色とりどりの、熱帯魚達が海中で舞い遊んでいる姿は、この海の底に、竜宮城でもあるのではないかと、錯覚させる程だった。
その船の、船尾の方で、チェアに腰掛けて、一人の日本人の女が、眩しい海面を黙って見つめていた。この、南国の楽園のような海とは、不釣り合いな着物姿で。南の海を進む船の上でくつろぐよりは、京都の路地でも歩いている方が、似合いそうな出で立ちだ。
その着物には、中心は黄色く、放射状に白く、繊細な印象を与える花びらが広がっている姿が特徴的な、花が、何輪もあしらわれていた。
ガイドの、フィリピン人の男が、彼女の傍に立っている、付き人の男に片言の英語で話しかける。付き人はすぐにそれを訳して、着物の女に伝える。
「早坂(はやさか)先生。もうすぐ、先の大戦のフィリピンの戦いで、多くの日本軍機と、アメリカの艦艇が沈んだ海域に着くそうです」
早坂先生と呼ばれた、着物の女は、「分かったわ、ありがとう」と答えると、チェアから立ち上がって、船の端に歩み寄る。フィリピン人のガイドが何かを英語で言い、それをすかさず、また、付き人兼通訳の男が聞き取って、着物の女に伝える。
「早坂先生の着物の花は、この国では見た事のない花ですが、とても綺麗ですね、と言っています。着物姿も似合っていて、大変お美しいと」
着物の女は、それを聞くと、フィリピン人のガイドに向かい、微笑んで、礼を言うように頭を下げる。
「ありがとう。でも…、この着物は、昔、私よりもずっと、似合う人が着ていたものなの。あの人が、この着物を着ていた時の、美しさ、愛らしさを、貴方達にも、見てほしかったわ。私は、あの人に比べたら、まだまだよ…」
着物の女-早坂志乃(はやさか しの)は、今年、40歳になったばかりだった。彼女は、20代の頃より、戦後の日本文学界でその名前を響かせて、今や、女流作家としての名声を不動のものとしていた。
その美貌にも関わらず、男性との浮いた噂の一つもなく、未婚である事。
更には、志乃が、最も得意とする小説の題材から、彼女はかねてより、文壇でこう噂されていた。
「あの、早坂志乃とかいう女流作家は、女同士の愛の物語ばかり書くし、自身も、全く、男の影もなく結婚する気配もない。もしかして、早坂は『そっち』の趣味の女なんじゃないか?」
と。
それに関する疑問を、志乃へと無神経にもぶつけてくる、報道陣の人間などにも幾度か会った事はある。それでも、志乃ははっきりとは言及せず、こう答えるのみだった。
「私には、生涯に一人だけ、愛した人がいます。その方とは、添い遂げる事は叶わず、既に、その方はこの世にはいません。私は、その方以外の人を今後、愛するつもりはありません」
その方とは誰なのか、やはり、噂されているように、相手も女なのか。喧しく鳴る報道陣のシャッター音と、浴びせられる質問に、志乃はそれ以上、答える事はなかった。それが、志乃の気持ちの全てだったからだ。
そのような答え方である故、志乃に関する憶測は飛び交ったし、何故か、いつも新作発表の会見の際には、白の紫苑の花をあしらった和服を、決まったように着てくるのも彼女の特徴だった。志乃をよく取材しに来る記者は、その、よく着ている和服の花から、志乃の事を「紫苑の花の女」という二つ名で呼んでいた。
日本から、切り花にして持ってきた、とある花が包まれている紙袋を、付き人の男が、「早坂先生、そろそろです。紫苑のお花をどうぞ」と、志乃に手渡した。
志乃は、包み紙を開いて、その中身を確かめる。
そこには、志乃の着物に刺繍されているものとそっくりな、白く、繊細な印象を与える花が数輪、咲いていた。
「…琴音、お姉さま…。やっと、来る事が出来ましたよ…、辰巳さんが眠る、海の墓標に」
その花に、語りかけるように、志乃は言った。
志乃の家の庭で、20年以上に亘って、秋の度に咲き続けてきた、白い紫苑の花を切り、日本から、遥々フィリピンまで持ってきたのだ。今日、果たそうとしている約束の為に。
この海の底に眠っている、ある人と、「紫苑の花になった」志乃の大切な人を引き合わせる為に。
「辰巳さん、ごめんなさい…。こんなに、訪ねるのが遅くなって。やっと、会いに来られました。ここに…、琴音お姉さまも、ちゃんと一緒にいますから。今日は、貴方が眠るこの、青い海に、花を手向けに来ました」
紫苑の花束を 、紺碧の海面に向かって、見せるようにして、志乃は呟く。
海面は、さざ波すら立たずに、何処までも穏やかだった。
20数年前、この海で日米の激戦が行われた、その面影も、今はない。
フィリピン人のガイドが海面に向かって、海に沈んでいった戦死者達を悼むように、十字を切った。彼も幼少の頃、海の方から、アメリカ軍の激しい砲火が鳴っているのを聞いたそうだ。そして、アメリカ軍を迎え撃つ為に、多くの日本兵が集まっているのも見たと、戦争中の体験談を志乃と付き人兼通訳の男に聞かせた。
志乃は、荷物の中から、とある写真を取り出した。古ぼけた、白黒写真だ。
‐撮影されたのは昭和18年の秋。太平洋戦争真っ只中の頃だった。今から四半世紀は昔に撮った写真になる。
そこに写っている、3人の姿を、食い入るように、志乃は見つめる。
高等女学校時代の、セーラーの制服の志乃が椅子に座って、こちらを見つめ返している。垢抜けない、校則通りに短く切り揃えた髪型をしていた。
その両脇に、一組の男女が立ち並び、まるで家族写真のような絵図を形作っている。
志乃が座る椅子の、左に立つ男は、大学予科の、黒の詰襟の制服に身を包んだ男子学生だった。
そして、もう一人‐、志乃の右隣に立って、写真慣れしていないらしく、ぎこちない表情を浮かべている、着物姿の女がいた。
二人共、絵になる美男と美女だった。この二人が仲睦まじく共に写っている、写真を見れば、誰もが「お似合いの、恋人同士のお二人だ」と、すぐにその関係性を察して、賛辞を贈る事だろう。
志乃が、人生で唯一愛した女と、その女が愛していた男。
その二人と共に撮った写真だ。
二人と、志乃が共にあった事を、写真という形で残したのは、後にも先にも、この時、一度きりだった。
女の名前は、里宮琴音(さとみや ことね)。
男の名前は、山城辰巳(やましろ たつみ)。
この写真に写る3人で、四半世紀前のあの戦争‐太平洋戦争を生き延びる事が出来たのは、志乃一人だけだった。志乃の両隣に並ぶ二人はもう、現世の何処にもいない。
二人共、志乃をこの世に遺して、水面へと散っていった。
辰巳は、敵艦を道連れにして、操縦していた戦闘機と共に、この紺碧色の海の底へ消えて行った。
琴音は、街を焼き尽くす空襲の炎に照らされ、赤く染まった川の中で、命を散らした。
あの戦争が終わってからも、長らくは、海や川といった水辺には、苦しくなるので、一切近寄れなかった事を、志乃は思い出す。特に、夕陽が水面を、紅に染める時間帯には。
この南国を訪れてからも、志乃は、ホテルの部屋から見える、マニラ湾の海面が、炎を宙に、絵筆で刷けたような鮮やかな夕焼けの下で、赤く染まる時刻になると、完全に海が夜の闇に沈むまで、カーテンを閉ざして過ごした。
マニラ湾の、燃えるような夕焼けは、多くの、この南国を訪れる観光客らの目を楽しませていた。しかし、志乃は、他の観光客らの集団が、ヤシの木が立ち並ぶ海岸を、夕陽の見物目的に散策する時間帯になっても、彼らの中に混ざる事は決してなかった。
夕焼けに染まる水面。それは、あの大空襲の夜、志乃の目の前で琴音が息絶えた時に、二人の傍を流れて、燃え盛る街の紅蓮の火に、煌々と照らされていた、川の水面の色を彷彿とさせた。
死の間際、あの川辺で琴音が志乃に遺してくれた言葉が、マニラ湾の夕焼けに染まる水面を見ていると、より鮮明に蘇ってくる心地がした。
『志乃は、どうか、辰巳さんと、私の叶えられなかった分まで、未来に、文学という夢を繋いでいってほしい。貴女の小説を、待っている人達がきっといる筈だから』
『私は、貴女の小説の、最初の読者にはもうなれない。けれど、貴女の傍で、私の魂はずっと生き続けてる。この身は滅んでしまっても』
志乃は、今日まで、琴音がくれたこの言葉を抱いて、小説を書き続けてきた。
「私がかつて愛した人の魂は、今も、滅びる事なく、私の傍で生き続けています。だから、私は新しく、誰かを好きになる事はもう、ありません」
新作発表の会見の度に、カメラが放つ眩しい光を無神経にこちらに投射して、人の色恋事情を詮索してくる、あの報道陣に、そう答えたら、どんな反応をするだろう。志乃はふと、そんな事を考えてみる。志乃にとっては、それこそが嘘偽りのない、今後の人生での、恋という物に対する思いなのだが、彼らはきっと、志乃が、奇怪な、心霊学的な思想にでも憑りつかれたとでも思うだろう。
しかし、志乃には今も、間違いなく、琴音の魂は傍で生き続けていると、信じるに足る「証拠」があった。その「証拠」は、今、志乃が手に抱える包み紙の中に咲いている。
その白く、淡い色の花-、紫苑の花びらを、優しく、指先で撫でながら、志乃は、船が目的地の海域にまで辿り着くのを待った。
今回の志乃の洋行を世話してくれている、付き人の男が、志乃に尋ねる。彼は、志乃が今の大手出版社の文芸雑誌で書かせてもらうようになってから、長い付き合いとなった編集部の人間だ。志乃が、琴音や、辰巳との間にあった事。太平洋戦争中の、自身の経験を話せているのは、長く世話になっている今の出版社の中でも、彼だけだった。
「『琴音さんの花』も、今日は何処か嬉しそうに、私にも見えます。こうして、琴音さんの大事な人であった、早坂先生の手で、琴音さんが愛していた人が散った海に、連れてきてもらえて」
付き人の男は、まだ強い10月のフィリピンの日差しに、眼鏡の奥の目を細めた後、志乃の手に握られている、白い紫苑を見て、そう言った。彼は、その柔和な面立ちに、人畜無害そうな表情を常に浮かべているが、時折見せる、物の真実や、本質を見抜く、その慧眼(けいがん)には、侮れぬものがあった。
志乃が、自宅の庭で大切に、20年以上に亘って、育てている紫苑の花。そして、その花に志乃が向ける、ひとかたならぬ愛情の量。
そこから、彼は、志乃とこの花の間にある特別な関係をすぐに見抜いたし、彼の優しくも、全てを見通しているようなその瞳を見ていると、志乃も、不思議と彼にならば、この花に秘められた「真実」を打ち明けても良いと思えたのだ。
「貴方は、私の話を、妄想だとか作り話だとか、一切否定はせずに受け入れてくれたわね…。私が家で育てている、この白の紫苑にまつわる話を聞いても。愛しい、琴音お姉さまが、この花に生まれ変わって、帰ってきてくれたんだ、なんて、夢物語みたいな話を聞いたのに」
「早坂先生は、全てを話してくださりはしないけど、決して、意味のない作り話をされるような方ではないと信じていますから。それに、庭で、紫苑の白い花が開く、今の季節の頃の、庭先を見る先生の瞳は、いつも輝いておられる。今年も、また愛しい人が帰ってくれたと言わんばかりに。紫苑の花が開くのを見る時の、早坂先生の瞳はいつも、恋をしている少女の清く、澄んだ瞳に戻っておられますね」
文筆家さながらの、豊富な語彙を巧みに扱う男である。彼の観察眼は、時折、「そんな細かいところまで、気付かれていたのか」と、志乃も驚かされる程だ。
「清く、澄んだ瞳、ね…。貴方が言う通りに、今も、私の瞳が、濁りなく、清らかなままなのであれば、私は、この花の…、琴音お姉さまも辰巳さんも愛してやまなかった、白の紫苑の花言葉の通りに生きられている事になるわね」
「花言葉…ですか。確か、生前の里宮琴音さんが、文学と並んで、愛していたものですよね。先生が、戦争中に書かれていた、あの『花日記』も、確かその琴音さんから教わったと…」
彼は、一度聞いた話も決して忘れない、地獄耳を持つ男だ。琴音が、花言葉という文化をこよなく愛し、志乃に教えてくれていたという話も、以前に一度したきりだというのに、彼はすぐに記憶の引き出しから、それを引っ張り出す。
「貴方の記憶力は本当に凄いわね。一度しか話した事はないのに。…そうよ。文学だけでなく、琴音お姉さまは、私に沢山の花言葉を教えてくれた。どの花にも、背負って生まれてきた、意味があるんだって。それを私に語る時の、お姉さまの目は活き活きとして、あどけなさも感じて…」
走馬灯のように、志乃の脳裏を駆け抜けたのは、戦争中の日々の記憶だった。
軍需工場での勤務に明け暮れる狭間で、手帳の片隅に写生していた、季節の野花達。
描いた花を見せに行くと、すぐに名前を当てて、そして、花の意味や、逸話を教えてくれる彼女。
日本家屋の2階の、小さな部屋で、窓から差し込む夕陽を背に、志乃に、花言葉について語る時だけは、どんなに生活が苦しい中でも、彼女の表情は、束の間の輝きを取り戻していた。彼女の唇は緩やかに綻んで、微笑みの花を咲かせてくれた。
‐冷たく、陰鬱で、世界からあらゆる色が褪せてしまったような、戦争中の日々の記憶の中で、琴音と話せる時間だけが、今も温かくて、色鮮やかな思い出として残っていた。あの時間を思い出すだけでも、今も目頭が熱くなる。落ち着いて、当時の事を話せるようになるまでには、かなりの年数を要した。
「白の紫苑の花言葉、何か、貴方は知っているかしら?」
志乃がそう尋ねると、男は、首を横に振る。
「私も、文学の話ならば兎も角、花言葉の知識は、あいにく専門外ですので…」
「…昔、琴音お姉さまに、同じ質問をされた時は、私も、今の貴方と同じような反応しか出来なかったわ。紫苑で、一番よく見かけるのは、紫の紫苑だと思うけど、私が育てている、白の紫苑と、紫の紫苑では、色が違えば意味もまた違ってくるのよ」
彼の反応を見ながら、志乃は、四半世紀近く昔、初めて、高等女学校で、琴音と会話を交わした日の事を思い出していた。
あの日とは変わって、今度は自分が、琴音の愛した花について、話す番だった。
「確か、紫苑の花言葉は、ひどく切ない物だったというのは、何となく見覚えがあるのですが…」
「それは正しいわ。でも、白の場合はね、それに加えて、花に新しい意味が生まれるの。白の紫苑に込められた意味はね…」
男へと、白と紫の紫苑。その二つの花の意味の違いを話しているうちに、志乃の記憶は、太平洋戦争の開戦直前の年‐、高等女学校3年生に進級した、春の日へと飛んでいた。
今は、志乃が着ている、この白の紫苑をあしらった着物。
これを着て、講堂で、新任教員として挨拶をしている、琴音の姿を見つけたのが、全ての始まりだった。
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