あなたのデートのために

うたた寝

第1話


「今日デートなんですよ!」

「へー」

 向かいの席に座っている後輩の彼女が身を乗り出しながら彼に楽しそうに伝えてくる。仕事の作業指示を彼女に伝える時でさえ、これほど前のめりになったことなど無いだろう。

 このクソ暑い歴史的猛暑だ何だと言われている夏真っ只中、最近彼女には個人的に春がやってきたらしい。とはいえ、結構前からお互い良い雰囲気であったらしいが。どっちかの告白待ち、という雰囲気の中、最近遂に向こうから交際を申し込まれたらしい。

 というのを、最近作業指示をする際、『そんなことより聞いてくださいよっ!』と作業指示を押しのけられて彼女から説明された。それほど急ぎの作業指示では無かったし、仕事中に雑談するな、なんて堅苦しいことを言う気も無い彼は『ふーん』と大人しく話を聞いていた。

 俗に言う恋バナ、と言うのだろうか? 『好きな人が居るんですよ~』なんて話は大分前から聞いていた。彼から聞くと下手すればセクハラになるかもしれないが、向こうから積極的に話してくるのだから仕方がなかろう。黙れ、なんて言ったら、それはそれでパワハラになるかもしれない。彼としてはそれっぽく相槌を打ち続けるしかないのである。

 女性とはそういう生き物なのか、それとも彼女がそういう性格なのか、自分の恋愛事情を誰かに聞いてもらいたくて仕方がないタイプらしい。飲みの席や仕事の場で、まー下手すれば仕事の話の時間より長く彼女の恋バナを聞いているかもしれない。

 職場内には女性の先輩社員も居るにも関わらず、年の離れた男性の先輩社員である彼に積極的に話してくるのが不思議と言えば不思議であるが、どうやら彼女の意中の男性が彼と同じくらいの年齢らしい。世代が近い、ということもあって、色々意見を参考にしたいらしかった。

 参考にしたい、とは言われてもだ。会社に在籍している社歴や仕事の経験値はともかく、恋愛経験においては『年齢=彼女居ない歴』の彼よりも、彼女の方が経験豊富な可能性さえあるのだが、『参考にしたい』は恐らく言っているだけ、本心としてはただ『聞いてほしい』だけなのだろう。

 ただ聞いてくれる、ということに関して言うと、彼はとても重宝されただろう。何せ何を言っても基本的には肯定の頷きだけを返してくれるのだから。自分の言う話を全肯定してくれる、というのは気持ちのいいもので、彼女にとって彼は話しやすい先輩、となっていた。そのおかげで、彼女に気になる人ができたから交際して初デート、までの一連の流れを彼は知ることとなった。

 ここで恋バナが終わってくれることを彼としては望んでいる。このまま初キスだ、初エッチだの話まで聞かされては彼も付き合いきれない。まぁ、プロポーズされました、くらいなら良かったねー、と相槌を打ってやってもいいが。

 退勤時間が迫る。それは彼女のデートも迫るということ。既にウキウキで仕事どころではないらしい彼女は退勤の準備を進めている。

 まぁ、デートに水を差すのもあれだし、作業指示は明日でいいか、と彼が諦めていると、

「ちょっといい?」

 上司がやってきて彼女に声を掛けた。デートが迫っている高揚感もあってか、いつも以上に笑顔と明るい声で、

「はい?」

 と返事をした彼女だが、すぐにみるみるその表情が曇っていった。

「きょ、今日中……、ですか……?」

 どうやら納期が今日中の仕事を頼まれたらしい。そんなの退勤時間直前に持ってくるなよ、と彼なんかは思う。

「うん、お願いね」

 そうとだけ言い残し、上司は去って行った。あの態度、彼としては如何なものかと思う。せめてもう少し申し訳なさそうにするポーズくらいできないものなのだろうか?

 仕事を頼んできたのが彼であれば、彼女も断っていたのかもしれないが、彼女も断っていい先輩といけない先輩の区別程度はつくらしい。特に文句も言わず、いや言えず仕事を受け取って自分の席へと座り放心状態になっている。

 やがて、デートに行けない、という現実を理解し始めたらしく、彼女の目が分かりやすく涙目になり始めた。あれだけ楽しみにしていたのだから、気持ちは分からないでもない。

 彼は席を立って彼女の席へと向かうと、彼女が受け取った仕事を見る。定時内に終わらせるのはまず無理な内容である。それどころか、今から着手したのでは、終電に間に合うかも怪しい内容だ。

 デートはキャンセルするしかないだろう。

 彼女がやるのなら、だが。

「はぁ……」

 彼はため息を吐くと、彼女が机に置いた仕事の束を受け取る。

「えっ?」

 彼女が涙を拭いながら彼を見上げてくる。彼はその顔は見ないようにして、

「やっとく。デート行ってきなよ」

 顔は見ないようにした彼だが、何となく喜んでいそうな雰囲気は伝わってきた。だがすぐに、

「いやっ、でもっ、それはっ」

 デートに行ける喜びと先輩に仕事を押し付ける申し訳なさがぶつかり合っているらしい。デートに行くのと、仕事をするの、どっちがいいかなどと聞かれれば答えは分かり切っているのだから、素直に先輩の言葉に甘えればいいのに。面倒な後輩である。

「じゃあ今度お昼ご飯でも奢ってよ。それでチャラで」

 彼がそう言ってもなお彼女は少し悩んだようであったが、

「……ありがとうございますっ! 何でも奢りますっ!!」

 何でもって言ったな? 何奢ってもらおうかな。とは言いつつも、きっと彼に本当に奢ってもらうつもりなどないのであろう。何のこと? としらばっくれる彼の様子が目に浮かぶようだった。



 彼以外一人も居なくなった事務所内。明かりも彼の所以外全て落としている。

 日付が変わりそうになっている時計を見て、彼はキーボードを打つ手を止めて天を仰ぐ。

 誰も居ない空間のせいか、ふと彼は我に返った。何でこんなことをしているのだろう、と。

 後輩の仕事を受け取って、代わりに残業をしていること、に対してではない。先輩として、後輩が残業しなくても済むよう、ある程度フォローするのは当たり前だと彼は思っている。

 では、『こんなこと』とは一体何を指しているのだろうか?

 普段ならまず言えないし、顔にも出せないが、今であれば、誰も聞いていないし、誰も見ていない。この状況であればいいか、と。彼は誰も見ていない、聞いていない空間にも関わらず、彼以外聞き取れないであろうとても小さな声でポツリと本音を零した。

「何で俺、好きな子のデートのために残業してるんだろうな……」

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