推しに土下座する件


 床がひんやりと冷たい。

 風邪を引いたときにつけるひやピタのような温度を、額に感じた。



「――何卒ご容赦を。ご容赦をくださいませ」



 先日きたカラオケ店にふたたび訪れた俺は、今しばらくこの扉を開く彼女を、低姿勢で待ち構えていた。謝罪の言葉を噛んで失礼を致さないように、こうして練習していた。

 数分後――かちゃり。

 扉が開いた。

 低姿勢から見える、ほどよい肉付きの美脚と濃いデニールのストッキング。淑女のような上品な印象と子猫のような愛らしさがバランス良く両立したキュトンヒール。――その時点で間違いなく『彼女』だと察したが、念のため、上目遣いでちらっと上半身も確認した。軽そうな黒い生地の、大人びた印象があるトップス。それに包まれたこもりと丸い膨らみ。

 全体的に収縮色たる黒色でまとめられたコーデ。

 うっとりと見惚れてしまい、反応がすこし遅れる。



「真守くん……なにやっているのですか?」



 なにも言わず地面に伏す俺の姿をみて、彼女、胡桃沢は引いたような声をだした。綺麗な彼女に見惚れていた俺はその声で気を引き締めた。

 ――ガンっ。と、

 床に額を強く叩きつけた。



「何卒ご容赦ください胡桃沢さまぁ! せめてブロック解除を! ブロック解除をぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!」

「なっ……!」



 涙でぐちゃぐちゃになった醜い顔。愚男のようなさもしい言動。恥も外聞も捨てた謝罪を披露した俺の姿に、彼女は引き攣った顔でただ短くそう反応した。追撃するように、足元にすがった。すると「きゃっ」と短い悲鳴を上げられて顔を蹴られた。「うげっ」と痛む鼻をさする俺。反射的な行動だったのか「あっごめんなさい!」と胡桃沢はハッとした顔で言った。

 蹲る俺を尻目に、バタンと、部屋の扉を閉めた。

 胡桃沢は呆れ果てたようにはぁと溜息を吐いた。



「なにをやってるんですか。真守くん」

「うぅ。ご容赦を……」



 飽きもせず繰り返して言うと、彼女はまた見せつけるように溜息を吐いた。

 謝意を全力で見せつけてなんとかご機嫌を取れないものかと案出してこのような行動をとったが……下等な生き物を見下すようなその氷のような眼差しをみるかぎり、その企てはどうやら失敗した様子。

 次の手だ。なんでもいい。

 どうにか説得してブロックを解除してもらわないと。

 立ち上がり、俺とルナちゃんを別離させた元凶を見据えた。ブロックという名の権限を

理不尽に用いて俺達を引き離した胡桃沢は、もはや、織姫と彦星を引き離した神様のごとき存在。神様たる彼女を説得しないと、クロバナと微忘ルナの繋がりはこのまま途絶えてしまう。だから、神様と交渉できる立場にいる、俺が頑張らないと。



「足を舐めさせてください。胡桃沢さま」

「やめてください」



 真面目な顔で言う俺に、胡桃沢もまた真面目な顔で返した。交渉は難航しそうだ。


    ☆


 結局あの後、何度も謝罪メッセージを送ったが既読スルーされた。当然ブロックもされたまま。

 ようやくメッセージを返されたのは翌々日のこと。――【来週の土曜日、また会いませんか? そうしたら、その日のわたしのご機嫌次第で、ブロック解除してさし上げてもかまいせんよ】という内容。むろん俺は即座にオッケーした。

 そして、今日がその約束の土曜日だった。



「ふー。作戦は失敗したか。全力で誠意を見せたら、機嫌を直してくれると思ったんだけどなぁ」

「……誠意じゃなくて、全力で痴態を見せられた気分なんですけど。百年の恋すら冷めかける最悪な瞬間だったんですけど」



 胡桃沢はむくれた。溜息交じりに、反感を訴えるような眼差しを向けられた。

 椅子にゆっくりと腰を下ろして落ち着いたところで、



「さて」



 胡桃沢は切りだす。



「ブロック、解除してあげます」

「えっ? いいの」

「はい」



 胡桃沢はこくりと頷いた。

 思ったよりあっさりと事が運びきょとんとした。まあいい。俺はよっしゃあとガッツポーズした。服を汚して額を痛めつけてまで土下座した甲斐があったってものだ。――「いや違いますから。土下座をみて決めたわけじゃないですから」と、胡桃沢は内心を見通したかのように補足した。



「もともと数日経てばブロック解除する予定でした。ほんの悪戯と、意趣返し……あと、少し気まずさがあったから、一時的にブロックしただけですし」

「そうなの? てっきり『ブロック解除してほしかったら付き合え』って脅迫されてるものかと……」

「言いませんよ。さすがに、そんなこと」



 呆れたように溜息を吐かれた。

 まあとにかく。 ブロック解除される、と聞いて安心した。

 一昨日以降。腐った死体みたいな最悪な気分だったから……推しに嫌われたかもしれない、と不安に思うたび、脳味噌に蛆が湧いてうぎゃあと半狂乱に叫んでいた。そんで、アカウントを鍵垢化してアイコンを真っ黒にして【最悪だぁ】【もう死ぬしかない】みたいな鬱ツイートを呟きまくったり。

 胸に溜まった二日分のフラストレーションを吐き出すみたいに、肺腑を洗浄させるような深く長い息を吐いた。



「はい。どうぞ」



 胡桃沢はテーブルにスマホを置いた。

 その液晶には『ブロック解除しますか?』と表示されていた。あたかも釣り針の餌のようなそれを見て……ごくり、と息を呑んだ。飢えた動物のような血走った眼差しと震える指先で『はい』を押そうとした。だが――。



「んー。やっぱり、まだいいかな?」

「ええっ? そんなぁ!」



 胡桃沢は意地悪くその赤く美しい唇を歪ませて、無情にそう言い、押される直前にテーブルに置いたスマホをとった。絶望して顔を顰める俺。悪戯心が刺激されてクスクスと微笑む胡桃沢――。

 胡桃沢は中指と親指でつまむようにスマホを持ち、俺の手が届かない場所でこれ見よがしに、ほれほれ、とブロック解除画面をズームアップさせた。白魚のような細く美しい人差し指。それを用いて、拡大された『はい』に撫でるようにタップした。しかし、ぎりぎり反応しない。今度は勢いよく押そうとしたが、寸でのところでピタッと指がとまった。焦らすようなその仕草。俺は「あぁ……ルナちゃ……」と切なげな声を漏らした。



「うぅ。なんで、こんな意地悪を……」

「ふふっ。ごめんなさい。真守くんの反応、面白くて、つい」

「ひどい。ひどすぎる」

「あと、それに……」



 桃色に染まる頬を両掌で隠した。



「すこし、嬉しくて」

「嬉しい?」

「だって、ブロックされた事にここまで一喜一憂してくれる、ってことは……それだけわたしの価値が貴方のなかで大きい、ってことですよね?」

「まあ、そうなのかな」



 明確に言えば胡桃沢ではなく、微忘ルナの価値だ。紅潮した頬を隠したまま上機嫌に微笑む。面倒臭いからあえて訂正しなかった。

 床を蹴るように胡桃沢は立ち上がった。



「安心してください。ブロックは今日中に解除はしますから」

「……ほんとに?」

「はい。でもそれは……」



 立ち上がった勢いのまま俺のもとまで行き、強引に手を繋がれた。女性らしい柔らかさと温かさ。それを感じてどきりと心臓が脈打った。尻込みして言葉を呑む。

 動揺する俺に追撃するように、胡桃沢は愛らしい上目遣いを向けて、



「――デートした後のお楽しみ、ということで」



 と言った。

 重度のVtuberオタクである俺は当然その言葉に馴染みがないわけで「で、デート?」とまるで宇宙言語を聞いたみたいにこてんと首を傾げた。その様子をみて、胡桃沢はおかしそうに微笑んだ。部屋をでて部屋代を精算する。小時間居ただけなので料金は数百円程度。精算機にお金を流し込んだ後「じゃあ行きましょうか」と、ふたたび手を握られた。



「ど、どこ行くつもりですか?」

「適当に、どこでも」

「え、ええ」



 行き当たりばったりすぎる。

 ……まあでも、抵抗しない。今日はこのあと特に予定ないし。

 風に靡く木葉のように受身な俺は、暴風のようなその押しの強さに流されてふわりと運ばれてしまう。風に乗った心地。不思議と軽い足歩取りで、奈幌市の市街をつき進んだ。



「真守くん。お願いがあります」

「なに?」



 暴風のような彼女。

 胡桃沢は美しく艶めく黒髪を靡かせて、ふと振り向いた。



「今日一日。いえ『月が浮かぶ間まで』で構いません。でもどうか、その短い間だけは、この『わたし』に意識を傾けてくださいませんか? そして、あわよくば……」



 息を呑む音が聞こえた。



「今日の最後に、改めて、告白の返事をください」

「それは……」

「お願いします」



 逡巡して口を結んだ。微忘ルナの健全なリスナーで在りたい俺としては、胡桃沢心音はあまり見ていたくない、知覚を避けたい存在だ。だから真摯に回答するなら「それはできない」と拒否すべきだと思う。しかし、さすがにそれは失礼だろう、と感じる自制心もあった。ううむ。どうするべきか……。

 いや。はっきりと言おう。

 息を吸い込み、揺るがぬ思いをきっぱり告げる。



「……わかりました。でも、俺の想いは変わりませんよ。絶対に」



 胡桃沢も真摯な眼差しとともに、こくり、と頷いた。

 納得したうえで――「では行きましょう。真守くん」と、ふたたび手を引かれた。リアルの推しの体温をまた感じて、悶々とした思いが胸に宿り血液を送る鼓動が早まる。でも、このくらいじゃあ微忘ルナへの想いは濁らない。胡桃沢心音と微忘ルナを同一視する事はない。

 ただ、やはり。

 何度も言うがバーチャルはバーチャル、リアルはリアルなわけで……。

 掌の生暖かさ、風の靡きとともに運ばれる髪の匂い。それらを感じるたびに、胡桃沢のことを『一人の女性』として意識してしまう自分もいた。街頭を二人で歩いている最中。男性が隣を通りすぎて胡桃沢のことをチラ見するたびに。いま俺この子とデートしてるんだな、と微かな優越感が胸に広がる。

 この体験はリアルだから得られるもの。

 バーチャルじゃあ、ルナちゃんじゃあ、このドキドキは味わえない。

 ……くっ。でも負けない!



「俺の想いは変わりませんよ。ぜったいに」

「なんで、また言ったんですか?」

「……べつに?」



 負けない。ぜったいに。

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