黄昏の盗人

沢田こあき

黄昏の盗人

 私が初めてヨシダ君の窃盗現場を見たのは、五月のある日、学校からの帰り道でのことだった。

 クラスメイトのヨシダ君は特にめだつところのない人だった。だけど私は、なぜかいつも彼のことを目で追っていた。どこか他人と交わりきらない空気感と、雨が降る前の曇り空を映すような物憂げな瞳に、知らず知らずのうち惹きつけられていたのかもしれない。

 いつも通り川沿いの土手を歩いて帰っていると、少し先の方でヨシダ君を見つけた。ヨシダ君は片手に小瓶を持ち、土手の上で立っていた。何をしているんだろう。声をかけようとしたけれど躊躇い、駆け出しそうになった足を止めた。

 向こう側の土手の後ろを、さざ波の立つ川の表面に白い光を散らしながら、夕日がゆっくりと沈んでいった。辺りの景色にだんだんと薄墨色が滲む。

 彼はすっと腕を上げて掌を開くと、涼やかな風が運んできた太陽の残光を掴んだ。蕾がほころびそうな花を摘むみたいにして、そっと。彼の指の間から幾筋もの光が漏れた。それを小瓶に落とし、きゅっと蓋をする。

 閉じ込められた残光が、小瓶をかかげて微笑む彼の顔を、うっすらと照らし出す。まるで公園で駆け回る犬を眺めるような、揺りかごの中の赤ちゃんを見守るような、優しく柔らかな笑みだった。私はその表情に感動にも似た胸の高鳴りを覚え、しばらく声が出てこなかった。

 ──ヨシダ君。

 ようやく彼の名前を呼んだ。彼が振り向く。私は深く息を吸う。初夏の夜の匂いが鼻腔をくすぐった。

 ──何してるの?

 彼は私に笑いかけて、明るく言った。

 ──黄昏を盗んだんだ。

 初めて聞くその言葉に、私は目をしばたいた。口の中でもう一度、ヨシダ君のセリフを繰り返す。黄昏を盗んだ。そう言った?

 ──こういうの、いつもやってるの?

 ──たまにね。ほら、見てごらん。

 彼は近づいてきて、小瓶を私の鼻先に寄せた。ガラスの内側で、線香花火のようなオレンジ色の『黄昏』が瞬いている。私は小さな吐息と共に、きれい、と呟いた。

 ──いつかまるごと盗むんだ。

 彼の瞳は、小瓶の中の光をしっかりと捉えていた。


 それからたまに『黄昏』を見せてもらうようになった。『黄昏』は、夕日を背にしたとき前方に伸びる影だった。桃色にたなびく雲の一部だった。そうかと思えば、川を滑るように飛ぶサギの羽ばたきの音でもあった。

 私以外に、彼は盗んだ『黄昏』を誰の目にも触れさせていないようだった。それは他の人たちが、彼がまるでその場にいないように振る舞ったり、とげのある言葉を投げつけていたからかもしれない。彼は孤独だった。

 私は役にも立たない同情と戸惑い、そして彼の隣にただ一人いられることに少しばかりの優越感を抱き、ふわふわと足が浮いて、落ち着きなく漂うような日々を過ごしていた。

 土手下に立つ桜木のそばに『黄昏』は集められていた。木の根もとには夕暮れの光を閉じ込めた瓶が転がり、枝には川上から吹く風が吊るされていた。茂みに隠された鳥籠の中には、遠くに霞むビルのシルエットが、使いふるしのペンケースには、まだぼんやりとした一番星が入っている。

 私のお気に入りは、豚の貯金箱に貯められた夕方の電車の音だ。豚のお腹に耳を当てると、町の中央駅から出発した電車が、がたん、と鳴る。すると今度は、海沿いを走る電車が、ごとん。耳の近くでがたん。貯金箱の奥でごとん。

 ──君はどの時間が好き?

 あるときふいに、ヨシダ君が訊いてきた。

 私たちは桜木の下に並んで座って、夕暮れの影に染まった川の水が、岸辺のボートを揺する様子を眺めていた。

 私は自分の両手に視線を落とした。

 そんなの決まってる。決まってるじゃない。こうして夕日が見えなくなるまで、あなたと一緒にいられるこの時間が──

 ──朝かな。

 ──どうして?

 どうしてだろう。少しの間考えて、最初に思いついた理由を口にした。

 ──まだ一日がたくさん残っているような気がするから。

 たしかに、と言って彼は笑った。


 夏休みが始まるちょうど二週間前。ヨシダ君はいつか言っていたように、『黄昏』をまるごと盗んで、いなくなってしまった。

 その日から『黄昏』は、一日の中からすっぽり抜けた。太陽が傾いて、傾いて、沈みそうになると、すぐに辺りが暗くなり、突然、虹色の輪を纏った月が現れた。

 みんな、いきなり『黄昏』が消えてしまったことに焦り、慌てていた。 私は『黄昏』があの桜木の下にあるだろうことを知っていたけれど、誰にも話さなかった。『黄昏』が消えてしまったのは自分たちのせいでしょ、と私は心の中で叫んだ。今さら騒いでも遅いのに。手遅れなのに。

 ヨシダ君が本当に『黄昏』を全部盗むなんて思っていなかった。私は、私だけは、彼の孤独を分かっているつもりだった。私は自分を恨んだ。他のクラスメイトたちを、担任の先生を、彼の家族を恨んだ。

 とりわけ、何も言わずに『黄昏』をまるごと盗んだヨシダ君を、強く恨んでいた。

 本当は『黄昏』をずっと、桜木の下に隠されたままにしておきたかった。だけどみんながあんまり騒ぎ立てるものだから、仕方なく戻してあげることにした。

 胸の中で渦を巻く、どろりとした黒い何かを呑み込んで。

 私は川原にやって来て、順番に『黄昏』を取り出していった。瓶の蓋を、籠の扉を開けた。本に挟んであった虫の音を逃がし、紙袋を逆さにして、どこかの家庭で作る夕食の匂いを振り落とした。

 ヨシダ君が大切にしまっていた『時間の隙間』も、風に流してしまった。一瞬、私の周りはしんと静まりかえる。何もかもが呼吸を止めて、川も波音をたてなくなる。一秒にも満たないその瞬間が過ぎると、また全て動き出した。

 最後に盗まれた『黄昏』は、段ボール箱の中に押し込まれていた。蓋を開けると、ぎゅうぎゅうに潰されていた夕日が箱の縁から溢れ、『黄昏』は世界へ戻っていった。先に逃がした残光が、水辺の風が、生き物のたてる微かな音が、パズルのピースが合わさるように、それにぴたりとはまった。

 誰もが私に『黄昏』をどこで見つけたのか訊いてきた。ヨシダ君は、あの場所を他の人に明かしてしまってもいいと思うだろうか。思うかもしれない。だけど私は言いたくなかった。このまま私だけの秘密にしておきたかった。

 彼らには違う場所を教えた。みんな納得して頷き、いつしか『黄昏』の抜けていた日々を、ただの記憶の欠片にしてしまった。


 一人で土手を歩く帰り道、黄昏が川の水面に揺蕩っているのを目にすると、私は決まって、段ボール箱から漏れた夕日のことを考える。瓶の中の残光のことを考える。

 ヨシダ君のことを考える。




















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黄昏の盗人 沢田こあき @SAWATAKOAKI

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