おっぱいを文学する

 私は悩んでいた。先生に諭されて、ふと文学的おっぱいの可能性が頭を過ぎったのだ。

 おっぱい。その一言で完結する。

 おっぱい。その一言に無限の可能性がある。

 おっぱい。その一言には抗う事のできない魅力がある。

 しかし、仮におっぱいにそのような魅力があるのならば誰かに書かれているはずだ。文意は異なるが、プーシキンの長編物語詩『エウゲニー・オネーギン』は、オシップ・ブリークがかつて冗談めかして語ったように、プーシキンその人がいなくとも、書かれていただろう、というのと同じような皮肉として。

 もちろん、私が知らないだけでおっぱいについて書かれた小説は無数にある。小説以外もそうだ。おっぱいを題材にした歌は多数にあり、例えばあいみょんの『おっぱい』という歌がある。

 つまり、おっぱいは文学的な題材としてすでに認知されている。問題は私の文学感にこそあるのだ。

 私の文学感。それは形式主義だ。物語そのものに魅力を感じていると問われると否定する。つまり実際に話されている内容ではなく、言語の構造に関心を持っている。私にとって、SF、ファンタジー、ミステリー、ノワール、恋愛小説などといったジャンルに意味はない。そこに惹かれる事は少なく、あらゆるジャンルの物を節操なく読む。他方、詩小説に代表されるような独特な表現技法のジャンルには食指が動く。

 私は典型的なフォルマリストだ。形式を内容の表現とみず、内容は形式を選ぶ際の「動機付け」にすぎない。つまり、具体的にどのような形式を実践するかを決める契機ないし方便として物語を消費する。

 では、私は文学の何処に関心を抱いているのかと言えば、やはりその技法、言葉使いと呼んでもいいが、それが私と作者の異なる視点を浮き上がらせる。普段、私が使う言葉使いとは異なる使用方法を提示されることで、私の中の日常言語が歪められる。他人の文学的技法によって、日常言語は、緊密になり、濃密になり、捻じ曲がり、圧縮され、引き伸ばされ、転倒される。日常世界が突如として見慣れぬものとなる。この感覚を文学に求めているのだ。

 一方、私の型にはまった多くの言葉達は味気無く感じてしまう。現実に対する私の認識と反応は陳腐なものに、鈍感に、あるいはフォルマリストならこういうだろう、「自動化した automatized」ものになる。

 私は膿んでいた。その点は自覚している。濁った私の言葉を幾ら吐き出した所で、何ら価値を見い出せない。しかし、唯一の例外がおっぱいだった。日常言語でありながらも、決して色褪せる事が無い言葉。それがおっぱいだった。

「おっぱい」

 と、思わず口から出た。ここ数ヶ月、何度も繰り返した独り言。


 先輩、本格的に病院に行くことをオススメしますよ。


 と、翔子が横で言った。いつの間にか隣に座っていた。


 先輩は自分が最近なんて呼ばれているか知っていますか?まあ、どうせご存知ないでしょ。他人に関心のない人でなしですからね。優しい私が特別に教えて上げます。

 おっぱい狂人って呼ばれているんですよ。滑稽ですね。まあ、仕方無いですよね。だって、おっぱいおっぱいって独り言を言っている変態なんですから。あぁ可哀想に。私以外の人からはほとんど見捨てられていますよ。同情します。可哀想に。


 むしろ、君は何で僕から離れないんだ?


 えっ?それもわからないんですか。教えてあげても良いですけど、少しはおっぱい以外の事も考えたらどうですか?


 わからない。本当にわからないんだ。


 仕方無いですよね。ほら、あなたの好きなおっぱいですよ~。


 と、翔子は腕を大きく広げて胸を突き出している。白いワイシャツに包まれたあの乳房が目の前に広がっている。

 私はこれに抗えないのだ。これからも。

 吸い込まれるように翔子の胸に顔を埋める。ワイシャツのボタンが顔に刺さって痛い。


 私が先輩から離れないのは、先輩の事が好きだからですよ。


 翔子が囁やく。

 俺も……

 と、口に出してみたが伝わったかわからない。

 私は今もこのおっぱいの事ばかり考えていた。他の事に関心が向かないほどに。

 布越しに伝わる柔らかな感触に包まれながら、これを表す言葉を頭の中で探す。片鱗たりともみつからなかった。

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文学はおっぱいに勝てるのか〜あるいは、おっぱいから学ぶ文学理論 あきかん @Gomibako

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