後編・宝物と狂気
人生がどうしようもないと気づいたのは、物心ついた頃だった。
お母さんは怒る。私のせいでお父さんが出て行ったから。
先生は呆れる。私のせいで授業が遅れるから。
みんなはからかう。私のせいで輪が乱れるから。
だけど、どうしようもなかったの。私の『生きる』がみんなの『生きる』とは違うことはわかったけど、みんなのように生きるにはどうすればいいのかわからない。
変、おかしい、狂ってる、イカれてる。いろいろ言われたけれど、どんな風にすれば正しくなるのかは教えてもらえなかった。
だから、どうしようもない。この世界は、どうしようもない。
「いる?」
人間未満の私は、人一倍、人間に憧れていて。同い年で大活躍しているくーちゃんのことも、当然知っていて。だからまさか、声を掛けてくれるなんて思いもしなくって。
そんか彼女が――
生まれて初めて与えられた期待が、世界を彩った。同時に、確信する。
この世界にくーちゃん以外の色はいらない。
だから見つめた。ずっと見ていた。出会ってから一日だって見ない日はない。
彼女が所属しているスクールが投稿している動画を繰り返し閲覧して、その全てを真似た。ひたすらに見て、体に覚えさせた。
優秀な指導者も高額な装備もない。ウェアもシューズもタダ同然のもらいもの。
ラケットは――くーちゃんがくれたこの一振りがあればいい。
そしたらね、知りたくなったの。
努力でどこまでいけるだろう、って。
才能も環境も持ち合わせていない人間が、本当にあなたに並べるのか。
普通のやり方で挑もうなんて思ってないよ。
だって何も持ってない
全部、全部捨てた。親の期待、教師の評価、友人と過ごす青春、全部全部蔑ろにして練習した。体力、筋力、動体視力、足りないものだらけの私は、ひたすらに時間を注ぎ込んで途方もない夢に向き合った。
何回気絶したか覚えていない。肉離れも熱中症も一生分した気がする。
そしたらね、前よりもっと狂ってるって言われ始めたよ。そんなに頑張ったって何にもなれないし何にもないのに馬鹿だって。
それでも。
くーちゃんが教えてくれたんだよ、ゴミだって、宝物になれる。だから
なる。
約束を、果たす。
転んだって痛みなんてない。膝がいくら擦りむいたって構わない。筋肉が千切れても肺が裂けても心臓が破れてもいい。
私はくーちゃんに――並ぶ。
×
「アドバンテージ
あり得ない。なんで? どうして? こんな格下に、こんな接戦になってどうする。
ざわめくなよ鬱陶しいな
どうして……どうしてあの角度で落としたドロップが拾われる。完璧に通したはずのパスが遮られる!
崩して、落として、刺す。プレイの組み合わせが……何ひとつ上手くいかない。サーブも、レシーブも、ボレーもドロップもスマッシュも、全てにおいて私が上回っているはずなのに。私が格上なのに!
私は葛城空子。日本の女子テニス界を背負って立つ女。人柄は品行方正。スタイルは疾風迅雷。スポンサーの広告塔として経済を回し、数多のプレイヤーを見下し、誰かの幸せの為にラケットを振り続ける。
そういう風に育てられた。そうやって造られた。
どいつもこいつも私に押し付けて! 私に叶えさせるな。あんたらの希望なんて知らない。重たいだけ暑苦しいだけ鬱陶しいだけ。
わからなくなる。必死に築き上げてきたものが崩れていく。なんなんだ。私の今まではなんだったんだ!
「くっ……!」
――しまった。
私の甘いショットを咎める岡島のカウンター。体勢は崩れ、カスのような返球。決められる、そう確信した。だのに。
「〜〜〜〜!!!!」
この後に及んで
なんとか追いつき股抜きショットで返すと、いつの間にか増えていたギャラリーから歓声と拍手が湧く。
ああ、うるさい。うるさいうるさいうるさい! そんなものいらない! 本来あってはならないんだ。そんなもの。
「ッ!」
今度こそ完全に逆を突いた。反応に体が追いつかなかった岡島は盛大に転がり、手足はおろか頬も擦り剥いている。
「はは、全然痛くない。どうしよう楽しくて仕方ないよ」
それでも立ち上がり、そんな傷はないかのように笑みを浮かべ、構え、私のサーブを待つ。
その細身のどこからその
「…………落ち着け」
あらゆるゲームは相手を苛つかせた方が勝つ。冷静さを欠けば格下相手にも容易く首を掻っ切られる。
私の方が強い。私の方が恵まれている。私の方が美しく、私の方が鮮烈だ。
だけど――認めるよ。あんたの方が狂ってる。ただその一点のみで、あんたは私と対等かそれ以上の実力を発揮してる。
異次元のスタミナ。 超鋭敏な動体視力。 驚異的メンタル。それらと掛け合わされ十全に引き出す反射神経。今まで同年代の相手では感じたことのないプレッシャーすら放っている。
このままじゃ……押し切られる。
ならば、どうするか。
現状……岡島との差は……。
そうか、私も笑ってやればいい。今されているように、余裕の笑みを見せてプレッシャーを圧し付けてやればいい。
でも、あれ、なんだ、笑うってどうやってやるんだ。試合中は当然、練習中も、どころかテニスに関連している時間で笑ったことなんて一度もない。
焦るな。冷静に。何事も順序。遠い言葉から手繰り寄せろ。笑うなんて簡単だ。私は勝つ。私が勝つ!
「ぅ、うぅぅぁあああ、あ、はは、あはははは、はははははははは!!」
「……くーちゃん、」
引いた? でもあんたにそんな権利――
「やっと笑ってくれたね。楽しい?」
――楽しい?
ああ、これ、そういうことか。
「ねぇ、くーちゃん。テニスって楽しいね、楽しいって苦しいね、苦しいって気持ちいいね! ねぇ! くーちゃんもそう思うでしょう!?」
――うん、今なら、わかるよ。
全力を超えた先にある、全部がどうでもよくなる感覚。
理性も計算も未来も人生も、全部が全部どうでもいい。どうやったらあんたが潰れるか、それだけが脳を埋め尽くし、そのために心臓が鼓動し、そのために全身へ酸素が行き渡る。
私という存在が私でいられるのは、今、この場だけだったんだ。
同時に理解した。人間は狂ってる時が一番気持ち良いんだ。
脳裏に張り巡らされた理性を本能が突き破る瞬間の快楽に、何一つ勝てやしない。
不摂生も違法薬物も岡島とのテニスも全部一緒だ。
もっと。
もっと私を狂わせてよ岡島真幸!!
×
「ゲーム,ウォンバイ
あーあ。
終わっちゃった。
普通に、負けちゃった。体、変だ。指一本も動かない。握手、しにいかなくちゃいけないのに。コートで寝転がってたら、怒られちゃうのに。
「岡島」
ただ、息をすることしかできないでいると、くーちゃんは私のすぐ傍に来てくれた。
「ごめんね、くーちゃん。私……約束、守れなかった。こんなに弱いんじゃ……ダメだよね、私やっぱり……全然……」
「勝手に降りるな」
「……へ?」
降り注がれた言葉の意味が理解できないでいると、くーちゃんは声を張り上げるように言う。
「私は無理難題と戦い続ける。だから岡島も……いや、なんでもな——「私も!」
ここまで来て……くーちゃんがここまで言ってくれて、なんでもないで終わるなんて嫌だ。
「私も戦い続けて、いいの……?」
「あんたの自由だよ。でも私は……待ってる」
なんでだろう。涙が、溢れてくる。もう、カラカラなはずなのに。どんどんどんどん、込み上げてきて、止まらない。
今までどんなことがあっても、どれだけ存在を否定されても、どれだけ蔑ろにされても、どれだけぞんざいに扱われてもへっちゃらだったのに。
「ねぇ岡島、こんなこと言うの……おかしいかもしれないけど」
くーちゃんはしゃがみ込むと、私の右手を握った。見た目からは想像もできない程ごつごつしていて、火傷しそうなほど、熱い。
「なぁに?」
すごい、今この瞬間、この体温を味わっているの、この世界で私一人だけなんだ。
「狂ってくれて、ありがとう」
「っ」
「できることなら、また、私を狂わせて」
「うん……うん! また絶対、くーちゃんの前に立ってみせるよ。くーちゃんがもう嫌だって言っても、何度だって、絶対!」
「約束だからね」
「約束!」
良かった。私……おかしくって良かったんだ。
やがて握手は形を変え、小指同士を結び合う。あの時できなかった指切り。私は……ようやく、約束を本気にしてもらえたんだ。
これまでの日々、全部に、ようやく、意味が生まれたんだ。
「次の選手来たから、コート空けるよ」
「うん」
ああ、もう離れないといけないなんて。ずっとこのままでいたいのに……。
でも、もう大丈夫。迷いなんてない。
この景色を再び見るために、この体温をまた味わうために——くーちゃんにもう一度触れるために。
限界も常識も関係ない。
努力でどこまでも突き進んで――いつか、本物の宝物に、なってみせるよ。
狂っていたって構わない。私はきっと、そのために生まれてきた。
この庭でキミと狂えば 燈外町 猶 @Toutoma
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