この庭でキミと狂えば

燈外町 猶

前編・ゴミと約束

 人生がしょうもないと気づいたのは、小学五年生の頃だった。

 上には上がいて、下には下がいる。勝ち続けなければ意味がないのに、負けるタイミングが必ず訪れるの。

 そして負けるとはらわたが煮えくり返る程悔しいのに、勝ったところで相手のミスばかり目がいってしょうもなさが溢れてくる。

「いる?」

「……くれるの?」

 その日も、そんなしょうもなさからしょうもないことをしてしまっただけだ。

 父から次々と最新のラケットを与えられていた私は、余っていたその内の一本を、たまたますれ違った少女に分け与えていた。

「いらないから」

「ホントに……? 本当にもらっていいの?」

「いいよ。もうゴミだし」

 彼女についての情報は極わずか。私の父が建てた一軒家の隣にある、オンボロアパートの一室に母と二人で暮らしていること、同じ小学校の別のクラスにいること、そしてそのクラスでは浮いていることくらいしか知らない。

「そうなんだ」

 いつもうつむき加減でトボトボと、猫背気味に歩く姿しか見ていなかったから、まさかこんな風に、ひまわりが咲くように笑うなんて思わなかった。

「ゴミだって宝物になれるんだね」

 そう言うと彼女は大粒の涙をボロボロ零しながら、使い古された私のラケットを抱きしめる。見た目より強い力を込めていたらしく軋んだ音が軽く鳴った。慌てて緩めてから私を見て、彼女は続ける。

「でも……私……何もお返しできないよ、どうしよう」

 それはそうだろう。私と彼女の家庭の経済状況に大きな差があるのは一目瞭然だ。

「いいよ。何もいらない」

 私の場合、必要なものは全て親が用意してくれる。物も、場所も、時間も。

「その代わり――」

 別に、深い意味を込めたわけじゃない。しょうもない社会に嫌気が差したから、しょうもないストレス発散をしたかっただけ。

「私のライバルになってよ」

「らい、ばる?」

「そう。私と同い年で私よりも強い人、今のところいないの。だから……つまらなくて」

 同い年。同じ時期に生まれて、同じレベルの人間がいて欲しい、漠然とそう考えていたから、そんな言葉がすっと零れたのだろう。

「わかった。なる」

「簡単に言うね」

「なるよ。絶対なる!」

 何も知らないであろう彼女が大言壮語を吠えるように誓うから、私は思わず吹き出してしまった。

「……変なこと、言った?」

「ううん。……じゃあ信じる。名前、教えて」

真幸まゆき

「名字は?」

「岡島!」

「そう。私は葛城かつらぎ空子くうこ

「空子ちゃん……くーちゃんだね!」

「呼び方はなんでもいいけど。じゃあね岡島。約束だから」

 指切りはしなかった。だって、単なる憂さ晴らしだ。一流の学習を受けるためには高額な教材や塾を使用するのが効率的であるように、一流の選手になるためには高額な備品や指導が求められる。

 岡島の家庭環境でそれは無理だろうと、小学五年生でも理解していた。自分ですらその意地の悪さに反吐が出る。

 私が父や世間から勝ち続けろと無理難題を押し付けられたように、彼女にも無理難題を押し付けてやろうと思ったのだ。

「約束。くーちゃんとの、約束」

「……ばいばい」

 だから私は気にしなかった。

 約束、約束、と、繰り返し繰り返し呟きながら、私を見つめる岡島の瞳の色が深く濃く強く鈍く輝いていく最中、さっさと背を向けて家路に着いた。


×


 それからしばらく、朝の挨拶くらいは交わす関係になったものの、私が県外の中高一貫校に入学してからは一切の音沙汰が途絶えた。

 私と約束をしてみせた岡島は――彼女の境遇を考えれば当たり前だが――地元のテニススクールに入ることすらもできなかったようだ。

 しかし誰に教わったのか、毎日欠かさずアパートの前で素振りをしていたことは、自室の窓から見えていたから知っている。それにスイングや動きは、存外悪くない。一流の指導者がいれば、一流の環境があれば、あるいは私の願望は本当に叶ったかもしれない。そう思うほどに――彼女の動きは気迫を纏っていた。


×


「久しぶり、くーちゃん」

 全国大会の準決勝。

 四年ぶりに逢った彼女は見違える程背丈が伸びていたが、肉付きが追いついていない。薄く、細い。枯れ木の幽霊みたい。だから――彼女以外誰も使わない――その呼び名で声を掛けられるまで岡島だと気づけなかった。

「岡島……」

「約束、守りに来たよ」

 その言葉を聞いた瞬間――全身の毛が逆立つように怒りが湧き上がった。

「……」

 私の憂さ晴らしで、意地悪で、気まぐれでなんとなくテニスを始めた人間が、まるで本当にライバルになりましたみたいな顔をして眼の前にいる。

 馬鹿にするな。何を私と並んだつもりになっている。

 私が今に至るまでどれほどの地獄を味わったか。栄光浴に溺れた父親の道具としてどれだけ不自由な日々を過ごしてきたか。

 今私の目の前に立っているということは確かにあんたも努力したんだろう。それでも、それだけだ。私とあんたは、程遠い。あんたが抜いたのは頭一つ分の身長だけだ。

 あぁ、私はなんてしょうもないことをしてしまったのだろう。

「……それ、まだ使ってたの」

「うん! 流石にガットは切れちゃったけどね。でも同じガットで張り替えてるから、ほとんどもらった時と同じ状態だよ」

 岡島の手には、私が与えたラケットが握られている。見れば振動止めはおろかグリップすら当時のままだ。すり減って薄汚れて、ほとんどグリップの意味を成していないだろう。

「負け惜しみは聞かないから」

 使い古しの道具を使ってたから勝てなかったなんて口にしたら、そのラケットで頭をかち割ってやる。

「え……?」

 私の反応が存外冷たかったからか、岡島はさっきから額に焦りを滲ませている。

「やろう。時間もったいない」

「うん!」

 ごめんなさい、岡島真幸。ちゃんと責任をとって終わらせてあげるから。

 あんたは何もできない。何も成し得ない。何者にもなれない。それでいいでしょう。それの何が不満なの。元々がそうなのだからそれでいいでしょう。

 背負わされることがどれだけのプレッシャーか、どれほどのストレスなのかわかりもしないで私に焦がれてついてこないで。

 貧乏人のまま大人になって普通の人と恋して普通に生きて普通に幸せになって。私に――期待させないで。

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