第36話 酒を酌み交わせる義理の息子がほしい

「はぁ……」


 雲一つない青空の下、ため息が落ちる。

 染め物工場で働くリットは悩んでいた。


 王城の侍女長として働くリモーゼと、結婚を前提とした交際を始めたリット。

 交際自体はそれなりに上手くいっているのだが、問題が一つあった。

 それは、まだリモーゼの父親に挨拶ができていないということ。

 王城の侍女は良家の子女ばかり。侍女長のリモーゼも当然良いところのお嬢さんだ。

 リットは市井の人間で、父親も彼と同じ染め物職人だった。

 端的に言えば、リモーゼと釣り合わないのである。


「リット、どうしたんだ? ため息なんかついて」


 今は昼の休憩時間。肩にタオルをかけ、背を丸めてベンチに座るリットに、後ろから声を掛ける者がいた。

 リットはちらりと後ろを振り返る。


「お館様……」

「なんだなんだその覇気のない声は?」


 リットの視線の先には、雇い主である侯爵の姿があった。白髪が混じる栗色の髪と髭、青空を映したような瞳が特徴的な老紳士は、リットの隣に腰掛ける。

 今日、侯爵がここにくる予定はなかった。

 何かのついでにふらりとやってきたのだろう。


「……実は結婚を考えている相手がいるんですけど」

「おおっ! お前にもやっと春が来たか! ……で、相手は誰なんだ?」


 侯爵は膝に手をつくと、ずいっと身を乗り出す。


「……相手は王城で働く侍女さんで、良いところのお嬢さんなんです」

「王城侍女! いいじゃないか。身元がはっきりしていて」

「ええ、良い相手ですけど、問題がありまして……」


 侯爵に話してもどうしようもないと思いつつも、リットは事情を話す。

 

「俺、市井の人間なんで……。彼女のお父さんに結婚を許してもらえないんじゃないかって」


 リットは遠い親戚にも貴族がいない。市井の中の市井の人間だ。特別学があるわけでも、容姿が優れているわけでもない。ただの三十代半ばの冴えない男だ。

 おまけに顔には吹き出物がびっちりできている。一目見ただけで、リモーゼの父親から結婚を反対されるのではないかとリットは心配していた。


「……それにこんな顔をしていますし」

「逆にいいんじゃないか?」


 また視線を地面に落とすリットだったが、侯爵の言葉に顔を上げる。


「娘が連れてきた男が美形なら心配するだろうが、リットはそうじゃない。娘はちゃんと相手の内面を見て気に入ったのだろうと逆に安心すると思うぞ?」


 娘が連れてきた男が美形なら──その台詞に、リットは副団長の顔を思い浮かべる。

 この侯爵は、副団長の義理の父親に当たる。


「……はぁ、しかしお前の相手の父親が羨ましいな。私もリットのような義理の息子が欲しかったよ」

「何を仰るんですか、お館様。旦那がいるじゃないですか」


 リットの言葉に、侯爵の顔があきらかに曇った。

 眉間にぎゅっと皺を寄せ、口をへの字に曲げている。


「……あいつの話題はするな」

「何でです?」

「……なんでもだ」


 侯爵が副団長のことをよく思っていないことは、侯爵領の人間なら誰でも知っている。

 だが、侯爵が副団長を厭う具体的な理由についてはあまり知られてはいない。

 侯爵は若い頃から、小柄で冴えない男だった。すらりとした美形である副団長に嫉妬しているだけではないかという憶測が領民たちの間で流れている。


「……私も若い頃は、娘の婿について色々考えていたよ。良家の息子がいいとか、侯爵家の利益になる男がいいとか。だがな、この歳になると思うんだ……」


 侯爵は背を丸めると、指先を弄りながらつぶやく。


「……酒を酌み交わせる義理の息子がほしい」

「お館様……」

「ははっ……なんてなァ……」


 侯爵の乾いた笑い声が、染め物工場の裏手に響く。


「別に旦那と酒を酌み交したらいいんじゃないですか? 俺、この間旦那と二人で呑みましたよ。めっちゃ楽しかったです」


 リットは副団長と二人で呑みに行ったことを思い出す。一人では絶対に入れないようなハイクラスのおしゃれなバー。酒もつまみも絶品で、素晴らしいひとときを過ごせた。

 夢のような体験だったとリットが語ると、侯爵の眉間の皺がよりいっそう深くなった。


「……一服盛られそうで怖い」

「そんなことありませんよ」

「……リット、お前は知らないだろうが、あいつは私に恨みがある」


 侯爵の顔に影が落ちる。そして、侯爵はふっと小さく笑い声を洩らした。


「……もしも私が物語の登場人物ならば、あいつとの和解場面が入った後、殺されるだろう。だから私はあいつと和解しない。恨まれたままでいる」

「あー……ありがちですよね。嫌なキャラの良エピソードが入った後、その後無惨に死ぬって展開」

「そう、それだ。だから私は一生義理の息子と酒を酌み交わすことはないのだよ……死亡フラグになるから」


(いったい何の話をしてるんだろう……俺)


 リットは空を見上げる。

 会話の展開は明後日の方向に飛んでしまったが、先ほどまで感じていた絶望感はかなり薄れていた。


「ありがとうございます、お館様。俺、頑張ってみます!」

「うむ。お前は良い男だ。自信を持っていけ」


 ◆


 リットと侯爵、この二人を物陰からじっと見つめる人間がいた。


(リット……ティンエルジュ侯……)


 灰色の詰襟服の上から、生成り色の外套を羽織った男──副団長がそこにいた。

 副団長は今日、テレジアの代わりに染め物工場に妻と共に視察に来ている。

 ついでにリットにも声をかけようと、染め物工場の裏手に足を運んだところ、何やら語り合っているリットと侯爵に遭遇したのだ。


(酒を酌み交わせる義理の息子がほしいって……)


 思いがけず、義父の本音を聞いてしまった副団長は戸惑う。


(……そんなキャラじゃなくないか?)


 副団長が知っている侯爵は、自領の繁栄のためなら実の娘でさえ犠牲にするトンデモ毒父である。

 義理の息子と酒を呑みたいと願うような、そんな好々爺ではない。

 歳をとって丸くなったのだろうかと一瞬考えたが、この狡猾爺に限ってあり得ないだろうと副団長は思い直す。


(ティンエルジュ侯にはいびりにいびられ倒されたからなぁ……)


 結婚当初は、妻と別れるようにと露骨に圧力をかけられたことさえある。


(若い頃はなんて嫌なクソ爺だと思ったが……)


 三十代も後半になった今、侯爵の事情も分からなくもないと副団長は考えている。

 侯爵は自領を守ろうと必死だったのだろう。副団長は半分移民の血を引いていて、しかも婚外子だ。生まれに難がある上に、騎士とはいえ、物騒な仕事をしている男に自領を任せたくないと思う気持ちは分からないでもない。


(……それに今更、ティンエルジュ侯に復讐したいとは思わない)


 やられたことを許した、とか、妻や子ども達のため、とかではない。

 田舎の領で寂しく暮らす老人に手を下すなど、騎士のすることではないと思うのだ。

 侯爵の言うとおり恨みは確かにあるが、わざわざ晴そうとは考えない。


「旦那様〜」


 背後から妻がやってきた。

 副団長は唇の前で人差し指を立てる。


「なんですか? あ、お父様とリット……?」


 状況を察したらしい妻も、副団長と共に物陰に隠れる。

 副団長は口だけぱくぱく動かして、見聞きしたことを妻に話した。


「…… 酒を酌み交わせる義理の息子がほしい? お父様が? 嘘でしょう?」


 妻も口だけ動かして会話する。

 胡乱げな顔をする妻に、副団長は告げる。


「信じられないが、本当だ」

「お父様……病気とかかしら。だから、気弱になっているとか?」

「それならすでに俺達に報告があるだろう」

「もしかしたら、付き合いのある家のご当主様が、お婿さんと仲が良いのかもしれませんね。それで、羨ましくなったとか?」

「うむ……」


 なぜ侯爵がリットに「酒を酌み交わせる義理の息子がほしい」と言ったのかは分かりかねるが、心にもないことを侯爵が口にするとは考えづらい。


「……まあ、ここは義父上ちちうえに挨拶だけしておくか」

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王の護衛官に任命されたので、可愛い三人娘と城で楽しく暮らそうと思います 野地マルテ @nojimaru_tin

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