こうしゅうぜん

わたくし

たいへいてんごく

 中学二年の三学期、期末テストも終わって、あと数日で終業式がやって来るある日、教室内にはロスタイムの様な雰囲気が流れていた。

 社会科の授業で教師が黒板にチョークで板書する。生徒達は板書をノートへ書き写す。


「では、『太平天国の乱』の首謀者は誰か?」

 教師は生徒達へ質問を投げかける。

「あの人」が手を挙げる。教師が指名し「あの人」が立ち上がり答える。


「洪秀全です」

「よろしい」


 ああ、この声だ……

 わたくしは心酔していた。

 わたくしはこの声が好きなんだ……


 最初にこの声を聞いたのは何時だったのか?

 確か中学一年の時、初めて参加した放送委員会の会合で自己紹介をした時だ。別のクラスだった「あの人」の声は、清らかで美しい声をしていた。

 美しい声が認められて、「あの人」はお昼の放送を担当する様になった。

「あの人」の声を聴きながら食べる昼飯はとても美味しかった。


 文化祭の舞台で演劇部の「あの人」は主役を務めていた。

 舞台上から講堂の隅から隅まで「あの人」の美しい声が響き渡っていた。

 わたくしは暗い観客席から明るい舞台上の「あの人」を、恍惚の表情で眺めていた。


 中学二年になり、わたくしは「あの人」と同じクラスになった。

 教室内で友達と話をしながら鈴を転がすような声で笑う「あの人」の声を聞く事が、わたくしにとって至福の一時であった。


 同じクラスなのにわたくしは、「あの人」に話しかける事が出来なかった。わたくしにとって、要件も無いのに女子に話しかける事は、とても勇気がいる行為だった。

 クラスメイトの他の男子達は「あの人」を普通の女子として対応していた。「あの人」に対して特別な感情を持っているのは、わたくしだけであった。

「あの人」がわたくしに事務的な事で話しかけて会話をした日は、興奮して夜も眠れなかった。


 今、「あの人」の「洪秀全です」の声を聞いてわたくしは確信した。

 何気ないただの歴史的事実の言葉なのに「あの人」が言った事で、わたくしの心の中に深く刻み込んでしまった。

 もう一生、「洪秀全」を忘れないだろう……

「こうしゅうぜん」この言葉は、「あの人」の声で永遠に再生され続けるのだろう……


 やっとわたくしは気付いた。

 わたくしは「あの人」の声だけでは無く、全てが好きだったのだ!

「あの人」の容姿

「あの人」の表情

「あの人」の性格

「あの人」の行動

 そして、「あの人」の声……

 その全てがわたくしの心を捕らえて離さないのだ。


「あの人」がわたくしの為だけに

 姿を見せて欲しい!

 見つめて欲しい!

 優しくして欲しい!

 隣りにいて欲しい!

 名前を呼んで欲しい!

 わたくしは思いを成就する為に行動を開始する。

 先ずは勇気を出して、「あの人」に話しかけなければ……




 努力の甲斐が実って、この二人は十年後に結婚します。

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こうしゅうぜん わたくし @watakushi-bun

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