春子と天秤

しーしい

春子と天秤

「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。

 それはそうと全裸で寒そうだ。

 私は、ゴアテックス製の防寒具を脱ぐと、彼女に着せた。

「三回って?」

 今度は私が凍える。口を震わせながら聞いた。

 急激に温暖化したとは言え、一月の東京は寒い。

「私、少し失敗してしまいました」

「あー、海に落ちた」

 湯島辺りだと水深八十メートルはある。突き立っているのは病院二棟ぐらいだ。近辺にも廃墟はあるが、泳ぎ着くのは並大抵のことではない。

「落ちたのは間違いないですが、失敗はまた別です」

「どっちでもいいや」

 作業に失敗して、海に落ちたのだろう。

「助けていただいて、有り難うございます。お名前は?」

 鈴虫が鳴くような声で、彼女は問う。

「名前?」

 私は佐藤 春子。近くにある大学のポスドクだ。

 人間関係に失敗したまま、なんとなく学校に残ってしまった。

 実家がある目白から本郷まで、モーターボートで出勤する途中だ。うつ伏せに漂っている土左衛門を轢きそうになって、助けたのが彼女だ。

「私の名前はピア、銀河系中心部、降着円盤付近の惑星から来ました」

 私の自己紹介に満足したのか、彼女も名乗った。

「あー、X線怖くない?」

 他には宇宙ジェットも怖い。

「驚かないのですか」

 ピアは、むくれて不満を示す。ジェスチャーは地球準拠なのだろうか。

 彼女の背中には詳細不明な虹色のラインがあり、人間ではないことは分かっていた。

「地球外生命体ってところにはね。それより湯島で漂っている方が驚き」

 海進で沈んだビルは絶好の魚礁だ。それを狙って、様々な種類のサメが入り込んでいる。

「取りあえず大学に来てよ。専用の部屋はないけど、実質一人だから」

 私が通う大学は日本一の矜持を捨てられなかったのか、本郷にメガフロートを作ってキャンパスとした。水中建築の分野では進展があったが、通勤が大変で他の専門にとっては迷惑極まりない。そのせいで研究者が居着かなくなり、微細工学研究室は過疎が進行している。

「行かないと、いけません」

 ピアは空を見上げると呟いた。

「どこに?」

「準回帰軌道です」

「あー、軌道から落ちたのね」

 宇宙船の墜落だろうか。近辺の水深だと引き揚げるには少し手間だ。

「いえ、そういうわけではないのですが」

「お迎えないと行けないでしょ。体調も悪そうだし」

「そうですね、だいたい三十パーセントぐらいです」

 ピアも同意したので、私は充電式モータボートの電源を入れる。

 二〇四〇年、人類は化石燃料から脱却した。多分、遅かったのだ。世界は海に沈んだ。

 メガフロート西側にモーターボートを泊めると、防潮堤の陸閘りくこうを通る。大学は浮体構造物としては規模が小さいが、効果的な揺動抑制装置により揺れを感じることは少ない。

 濡れそぼった少女を連れているにも関わらず、門衛は見て見ぬ振りをした。今の時分、海難事故は良くある。

 通勤後、最初に行うのはシャワーだ。海風にさらされた髪は絡まり合い、赤く脱色する。

 ピアを覆うゴアテックスコートを剥ぐと、シャワー室に押し込んだ。

「お湯の出し方が、分かりません」

「あー、出してあげるよ」

 二人を隔てるシャワーカーテンを無理矢理除けると、レバーを引いた。

 私は前の使用者が残した大量のコンディショナーに足を滑らせ、ピアの個室に突っ込む。驚いた彼女は私を抱きかかえたが、支えきれずに一緒に転倒した。たも網でたぐり寄せた時は、その重さで分からなかったが、ピアは妙に慣性質量が少ない。

「いたぁ、大丈夫?」

「はい。それより、春子さんは大丈夫ですか」

 いきなり名前呼び。この娘は距離の詰め方が積極的だ。

「それより、ピアちゃん、軽くない?」

「比重は〇.八です」

 ならば三十五キロぐらいだろうか。

「お姫様抱っこできそう。やらせて」

 逃げる彼女を捕まえて、持ち上げたが再び転んでしまった。


「ごめん。本当にごめん」

 学食で一緒に中華丼を食べながら、平謝りする。

 ピアには私服のワンピースを着せた。ミニ丈だが身長が低いので、膝下まで届く。

「あれは、何のジェスジャーですか」

 ピアは咀嚼しながら、スプーンで私を指す。お姫様抱っこのことだ。

 非常に答えにくい質問だ。一般的に男性が異性に対して、力強さを示す示威行為だ。

「あー、家族間の親愛かな」

 あからさまな嘘に、胸が痛む。

「裸で行うものなのですか」

「いや、違う」

 滑る可能性を勘案すると、浴場でやるべきではない。

「母親が子を抱くのと……」

「あー、それ美味しい?」

 これでは針の筵だ。私は無理矢理、話題を変える。

「特徴的です。これが人類の食べ物ですか」

「いや、日本独特の食べ物」

 名前に反して、中華丼は日本料理だ。

「日本は山がちですから、中華丼は残るかも知れません」

 ピアは料理を食べきってしまう。

 食後のコーヒーを嗜むと、共同研究室に彼女を連れ込んだ。

 メガフロートなのだから回転すればいいのに、海洋建築研究室は常識に囚われている。だから、この部屋はずっと北向きだ。

「今も人が住んでいる建物に入るのは初めてです」

「疲れたでしょ、そこの簡易寝台で寝ていて。私は研究の残りをしているから」

 簡易と言うには大きなベッドを彼女に示す。

 私はくたびれたリクライニングチェアに身体を沈めた。そのまま寝ることも多い。

 ピアはワンピースを捲り上げないよう上半身から横になった。

「春子さん、自らの行動が世界を滅ぼすとすればどうしますか?」

 仰向けになったピアは、私の背中に問う。

「もう滅びかけているし、いいかな」

「そうですか……」

 それから私は研究レポートを書いた。テーマは金属錯体超分子における自己組織化だ。現段階では何の役にも立たない。

 途中で寝落ちしてしまったので、彼女がいつ休んだのかは知らない。

 色々なことがあったので、今日は疲れている。

 私は自分の枕を寝台に突っ込むと、ピアの横で寝た。


「佐藤君、佐藤君。あの少女は誰かね」

 教授にピアのことが見つかった。

 工学研究棟でばったり会った教授は、私に説明を求める。

「教授、地球外生命体です」

 間違ってはいない。

「ここは微細工学研究室だよ」

「それが、彼女はナノマシンの集合体です」

 これはでまかせだ。

「事案にならないように、ほどほどにね」

 あきれた教授は、自室に戻っていく。

 ピアを助けてから、既に一ヶ月が経っていた。

 共同研究室に戻ると彼女を起こす。

「ピア、学食が開いたので、ご飯食べに行こう」

 ゆっくりと起き上がったピアは、寝間着を脱ぐと少女用のワンピースに着替えた。

 メガフロート中心部の中庭を抜けて、福利厚生棟に向かう。

 朝食としては、同じ棟にあるスターブックスの方が美味しいのだが、今は二人分負担しなければならない。ポスドクの給料で居候を養うのは苦しいため、もっぱら学食を利用している。

 ビッフェで好きな惣菜を取ると、ロールパンを焼いた。

 机を縫うように歩いて、いつもの席に座る。南向き窓の向こうは新東京湾だ。遠くに見える山塊は、房総丘陵。他の多くが沈んでしまったので、千葉周辺が臨海地域として開発されている。

 誰かが電源を入れたのだろうか。近くのテレビが喋り始めた。

 ニュースの話題は、南極にあるロス棚氷のことだ。根元から五つに割れ、氷山として漂っている。

 人類に科された真綿の枷は、またきつくなった。

「春子、あれは私のせいです。棚氷を破壊しました」

「そう」

 特に驚くまでもなく、冷え切ったオムレツを食べる。

「うっかり氷山と一緒に落ちて、損傷しました。目標を完全に達成できなかったので部分的成功です」

 最初会った時、三十パーセントと言っていたのは文字通り稼働状況だったわけだ。ならば彼女はサイボーグかアンドロイドとなる。

「どうやって日本まで流れ着いたの」

「推力不足で黒潮の中に墜落しました」

 大きく開口した新東京湾に、黒潮は入り放題だ。

「それから?」

 今さらの告白には、続きがあるのだ。悪い予感がする。

「そろそろ、次の作業を始めなくてはなりません」

「出ていくの? さみしくなる」

 思いもかけず、目尻に涙がたまる。

「春子、もっと泣いてください。これで、お別れです」

 ピアはその細い指を、私の手に絡ませた。

「いつまでも続くとは、思っていなかったけど」

 そうでなくとも、いずれ警察案件になる。

「私はパカリという集合意識生命体の利益に従って、行動しています。言わばパカリフォーミングを目的に地球を改造しています」

「パカリは地球に住むの?」

「いえ、漁業の拠点です。気候に人間が耐えられるならば、関与はしません」

 侵略者の文脈から外れた、失礼な行為だ。

「旅立つ前に、部屋に寄ってよ。渡したいものがあるから」

 二つの盆を返却口に返すと、工学研究棟に帰る。人前ではやらなかったが、この期におよんで遠慮することはない。私はピアと手を繋いだ。

 部屋に戻り自分の机を開けると、ラッピングされた箱を取りだす。

「チョコですか。有り難うございます」

 貪欲に日本文化を吸収したピアには、これぐらいお見通しだ。

「ちょっと早いけどね」

「持ち運べないので、今ここで食べます」

 丁寧に包装のシールを剥がして、ピアは箱を開けた。

 桜の花を封入したホワイトチョコが二枚だ。

 一枚をピアが、もう一枚を私が食べた。

「じゃあ、お別れだ、ピア」

「はい、さようなら、春子」

 ピアはワンピースを脱ぐと、背中の器官を玉虫色に光らせる。

 窓を開けて桟に足をかけると、そのまま飛び出した。逆向きの放物線を描くと、彼女は空を駆け上る。


 その晩、私は久しぶりに実家に帰った。

 目白の集合住宅群は、海底の断崖にパイルを打ち込んで、その上に立っている。二十五階建で見晴らしは良いが、海ばかりですぐに飽きる。

 十分な防潮堤も庭もない、これらの建物は脆弱で湿気に満ちている。

 それでも東京というブランドに拘る人には重宝されている。

「春子、ご飯は」

「食べてきた」

 母親と交わす言葉は少ない。

 女子高生だった頃、親友を連れ込んでいることがばれて、大騒ぎになった。それ以来、気まずい関係がずっと続いている。

 実際、ピアのために一ヶ月、研究室に泊まり込んだが、何も言われなかった。

 時が止まったかのような自室に入ると、引き出しの奥に隠した二人の写真を取りだす。

 それを胸に抱いて、ベッドに倒れ込んだ。

 ゲームセンターで撮る加工した写真だ。接近禁止命令が出て、スマートフォンの写真は消去されたが、このプリだけは死守した。

「今度はがまんしたよ、美香。ピアは旅立っていった」

 今はショートメッセージも繋がらない、親友に語りかける。


 一週間後の夕方、ピアは帰ってきた。

 シベリアの泥炭が燃え始めたと、ニュースが大騒ぎしている最中だ。

「ピア、どうして」

 共同研究室の窓に降り立ったピアは泣いている。

 動転しながら、私は彼女を抱きとめた。

「春子、私、成功してしまいました」

 ピアは私をきつく締め付けると、号泣した。

 取りあえずキムタオルで彼女の涙を拭くと、スターブックスからコーヒーを取り寄せる。

 ピアは泣いては、熱いコーヒーを啜るのを、何回か繰り返した後、ポツリポツリと話し始めた。

「今回は、目標を完全に達成してしまいました」

「ピア、成功したのに何故泣くの?」

 彼女は地球を水没させる役目を負った地球外生命体だ。それを応援するのも変な話だが、私はもう立派な共犯者だ。

「成功でも失敗でもなく、部分的成功を続けなければならないのです」

 ピアは首の後ろに手を伸ばすと金色の卵に見える物体を取りだす。

「それは何?」

「作業に使うエネルギーカートリッジです。後二個あります」

 氷河を崩壊させ、泥炭に放火する力だから、極めて高密度なエネルギーに違いない。

「あー、反物質?」

「陽電子です」

 それでも海面を直接上昇させるには足りない。

 彼女が行う面倒な作業は、効果を最大化させるための手順なのだろう。

「もしかして、地球を破滅させるのは本意でない?」

 有り難いが、既に手遅れな部分も多い。

「もう少し複雑なのですが、その通りです」

「やめちゃうのはどう?」

 それが無責任な言葉であることは、自覚していた。

「やめても、失敗続きでも、更迭されてカートリッジは奪われます」 

「部分的成功を繰り返して地球を救っても、後任が来たら同じだよ」

 地球が魅力的な物件ならば、集合意識生命体は追加投資を惜しまないだろう。

「カートリッジは高価な機材です。パカリは埋没費用サンクコストに囚われません」

 コンコルド誤謬とも言われる心理現象だ。投下した資本が成功に結びつかなかった場合でも、それを惜しんで追加投資する誤った判断を言う。集合意識はそのような錯誤とは無縁なのかもしれない。

「そう。でも、ピアに全てを負わしている」

 私は何もできない。

「これはパカリの罪です」

 ピアは少し冷めたコーヒーに、目を落とした。

「疲れたでしょ、先に寝ていて。仕事はすぐに終わらせるから」

 かける言葉もなく、私は話題を切り替える。

「泥炭に燻されてしまって、身体が匂います」

「シャワーを浴びてからだね」

 工学研究棟一階にあるシャワー室に向かう。

 今度転んだのは、ピアの方だった。排水口にたまった毛髪に足を滑らせると、カーテンを押しのけて仰向けに倒れた。

 大きな音に、私は個室から飛びでる。

 ピアは四肢をばたつかせて、かえって立ち上がれないでいた。

「ピア、ピア!」

 私はあばれる彼女を、両手で抱き起こす。

「えへ、お姫様抱っこ」

 ピアは嬉しそうに笑う。どこまで理解しているのだろう。

 それよりも、重大なことを発見した。

「ピア、体重が軽くなっている」

 出会った頃と比べると、顕著に軽い。

「ばれましたか。後で、説明します」

「うん」

 沈んだ気持ちでシャワーを使い終わると、更衣室でコーヒー牛乳を飲んだ。

「エネルギーカートリッジの使用は、体内ナノマシンを消耗させます」

 ピアは説明する。高密度エネルギーを放射して、ただで済むはずがない。

「まさか、カートリッジを使い切ったら」

「捨て駒ですから」

 ピアは抑揚なく答えた。

 私は頭を抱える。

 美香もピアも生きていると思うからこそ、送り出した。

 失うと分かっているなら、話が違う。

「ピア、逃げよう。地球を滅ぼした大悪人と言われようが、ついて行く」

「春子、有り難うございます。でも決めたことです」

 今度は私が泣く番だった。

 泣いて、泣いて、泣きはらした。

 執着が溶け落ち、諦念ていねんが溢れる、その時まで。


 山頂から見た、新東京湾は一面の海だ。所々に高層ビルの廃墟があるが、名前は良く知らない。全て生まれる前に沈んだ。

 西に見えるのは富士山と箱根の山々、東は筑波山がポツリと海に浮かんでいる。北は霞んで見えない。

 世界の人口は三十分の一にまで減った。隣にいる少女が行ったことだ。

 私はピアと一緒に、房総丘陵にある鋸山のこぎりやまに来ている。早朝なのでほぼ貸し切りだ。

 麓までモーターボートで来たが、かつて港と山頂を繋いでいたロープウェイは残骸しかない。

 しかたがなく登山道を登る。ピアは楽々山道を駆けるが、運動不足の私は息を切らさないよう、ゆっくり登った。

 大仏や寺の伽藍を通り過ぎ、頂上にいたる。

 山頂の展望台をまだ寒い春風が駆け抜け、スカートを揺らす。少し海の匂いがした。

 私は大きな欠伸をする。眠気も疲労も全てが心地よい。

 展望台の椅子に、身を寄せながら座る。

「ピア、次は何するの」

 手を繋いで、ピアに甘える。

「手順はさておいて、ヴィクトリア湖、ボストーク湖を消滅させます。中途半端に」

 ヴィクトリア湖はアフリカの大地溝帯付近に位置する。大地溝帯は地殻が薄いので穴を開ければマントル上部から熱が放出される。結果、水深が浅いヴィクトリア湖は消滅する。

 ボストーク湖は南極中央にある氷底湖で、表面が氷で覆われている。蓋をしている氷を破壊すれば、水が溢れ出す。

「火と水の合わせ技か、ボケモンみたい」

「身体が持つか分からないので、一度に二つ行います」

「どんな結果も受け入れる。だからピアが望む通りにして」

 ピアの死を看取る覚悟はできている。

「春子に会えて良かったです」

 髪が風にはためく中、彼女は満身の笑みを浮かべた。

「ねえ、ピアはなんで地球に来たの?」

 彼女の存在を当たり前のように受け入れていたので、疑問も湧かなかった。

「私はパカリフォーミングに異を唱えて、集合意識から切り離された思想犯です。これは刑罰です」

「そう」

 集合意識生命体が繋がりを断たれること自体、残酷なことだと思う。

「だから、せめて信念は貫きたいのです」

 しばらく、山頂の展望台で風を楽しむと、地獄のぞきという採石穴を見下ろす展望台まで降りた。

 穴の底は暗く、風が渦巻いて甲高い音を奏でる。

「今度こそ、さようなら、ピア。好きだよ」

「春子に、祝福がありますように」

 私はピアが脱いだワンピースを受け取った。全裸になった彼女は穴に身を投じる。背中が光ると落下速度が落ち、その加速度のまま天に登って、雲間に消えていった。

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