37 太陽と月

「応援旗の赤いカラスとクラスTシャツの白い兎、これはつまり〈白兎赤烏はくとせきう〉のことを表している。白兎が月、赤烏が太陽で、時間や歳月を表す四字熟語だ。同じ意味を持つ言葉に〈金烏玉兎きんうぎょくと〉がある」

「金烏……」

 須賀が小声で呟く。

「そう、烏山高校の金烏祭。山中さんは金烏祭に相応しいデザインを考えていた。金烏も赤烏も中国の伝説がもとになっていて、これは太陽にいるという三本足のからすのことだ」

 目を瞠った須賀が、咄嗟に山中を振り返る。山中が肩を震わせた。

「須賀さんたちが間違って描いたと思った三本足の赤い鳥が、山中さんが描きたかった本物の赤烏なんだ。クラスTシャツの白兎と合わせて太陽と月、金烏祭に相応しい〈金烏玉兎〉を表現するために」

 体育館に沈黙が落ちる。山中がゆっくりと両手で顔を覆った。

「応援旗を描き直したあとも、山中さんはどうしても諦められなかった。体育祭の応援中は描き直した方の旗を使ったけれど、最後の表彰式には自分が描きたかった本当の絵を飾りたい。だから大事にしまってあった応援旗を持ち出して、展示されていたものと交換したんだ。ただ、その時にちょっとしたトラブルが起きた」

「トラブル?」

 鈴川の声に頷く。

「二年八組の応援旗は大賞だった。大賞の作品は舞台上に展示される。これは舞台の天井から下がっている棒に吊り下げて、上の機械室にある昇降装置で操作して持ち上げているんですよね?」

 高坂が頷いた。

「ええ。その棒は正確には美術バトンや吊りバトンと呼ばれています。作品を広げて展示するために他の旗は壁にとめてありますが、舞台にはとめておく壁がありませんので」

 舞台の上、応援旗を吊り下げている棒を見上げる。俺が背伸びをしても少し足りないくらいには高い。航一が背伸びをしてやっと届くくらいだろう。

「山中さんは応援旗を入れ替える時、昇降装置を使って展示されていた旗を下ろした。それから大事にしまっていた応援旗と取り替えて、もう一度舞台の真ん中に展示するために昇降装置を動かして持ち上げようとした。その時、展示用に設置されていたプレートの台に旗が引っかかってしまった」

「プレートの台に?」

 鈴川の問いに応援旗の下に置かれている台を指差す。〈二年八組〉と書かれているプレートの、その端。

「台の端から釘が出ています。旗を持ち上げる時に、この釘が旗にかかってしまった。でも山中さんは上の機械室にいたから気付かない。そのまま持ち上げられた旗は釘に引き裂かれてしまった。舞台に降りてきた山中さんは驚いたはずだ。咄嗟に取り替えた方の応援旗を機械室に隠した。機械室にある袋は山中さんのものだよね? そうしているうちに、須賀さんたちが来て切り裂かれた応援旗を見つけたんだ」

 何もいわずに高坂が舞台袖の階段に向かった。しばらくして白い袋を手に戻ってくる。袋から出てきたのは、美しく翼を広げた赤い鳥の応援旗だった。

「どうして」

 須賀が絞り出すようにこぼした。

「描き直したくないってんなら、なんでいってくれなかったのよ」

 体育館中に響き渡る声をあげて山中を睨みつける。

「いえばよかったじゃない。三本足のカラスが正解だって。アンタの勘違いだっていえばよかったでしょ? なに? バカにしてんの? そんなことも知らないやつに説明する必要もないってこと? ふざけんじゃないわよ!」

「違う!」

 山中が顔を上げた。涙に濡れた目を須賀に向ける。

「美和子が心配してくれて、文化祭の準備とかも忙しかったのに新しい布まで用意してくれて。私、すぐに違うよっていえなくて。よかったね、これで間に合うからってみんなにいわれて、もういい出せなくなっちゃって。でも、もう一度描き直した旗だって、ちゃんと描いて、みんなも褒めてくれて。もうこれでいいって思ったんだけど、どうしても諦められなくて。最後の表彰式だけは描きたかった旗を飾りたいって思ったの」

 山中の目に涙が溢れ出す。

「ああそう。つまりはその程度の話もできないくらいに信用がないってことよね。いっつもだんまりで自分の主張とかしなくて。沙織、アンタ私といても楽しくないんでしょ? だったら無理に付き合ってくれることもないのよ。はっきり離れてくれた方が清々するわ」

 舌打ちをして須賀が山中から目を背ける。山中が肩を震わせて俯いた。

 須賀と山中の関係は俺にはわからない。どちらかが無理をして合わせていることもあるんだろう。友人といえど、心のうちの全てをさらけ出す必要もない。

 けれど、山中はたぶん。

「楽しくないってことはないんじゃないか」

 航一が静かに声をあげた。

「そりゃお互いに腹の立つことはあるだろうが、嫌々一緒にいるわけじゃないだろう」

 須賀が冷めた目を向ける。

「アンタに何がわかるっていうのよ」

「何も知らん。興味もないしな」

 航一が肩をすくめる。

「だが、この旗に込められた意味はわかる」

 そういうと、航一は応援旗を裏返した。旗の裏に書かれた〈匆匆の日を刻んで〉の文字が現れる。

「これは烏兎匆匆うとそうそうのことだろ」

 須賀が首を傾げた。鈴川が相変わらずの軽い笑みを浮かべて説明する。

「烏兎匆匆。月日が慌ただしく過ぎていくことをさす言葉だよ。烏兎は赤いカラスと白い兎で太陽と月、つまり歳月や時間のことだ。匆匆は慌ただしく過ぎるという意味がある。しかし、そうかそうか、なるほどね」

 鈴川が満面の笑みで掲げられた応援旗を見上げた。

「匆匆の日を刻んで。過ぎゆく高校生活への思いが込められた旗ということか。これはまさに金烏祭の最後を飾る大賞に相応しい作品だね」

 唇をかるく噛んで、須賀が応援旗を見上げる。

「こんな文字を書くやつが、友人と過ごす毎日を嫌々付き合ってるってことはないだろう」

 いつも通りの冷静な口調で航一が呟いた。

 須賀はしばらく立ちすくんでいたが、やがて何もいわずに体育館を出ていった。山中が泣き崩れ、残された二人の女子がその背中を慰める。

 後味は悪いが、この先は彼女たちの問題だ。部外者があれこれいうことじゃないし、いうべきじゃない。

 気付くと、隣に高森が立っていた。俺の手を取り真剣な表情でまっすぐに見つめてくる。

「矢口さん、私が逃げ出そうとしたら、掴んでいてもらってもいいですか?」

 そういうと、高森は俺の手を引いて体育館の外へ歩き出した。

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