30 やわらかな箱庭
自転車を走らせる。
雨は上がり、空には低く灰色と黒が溶けて流れていた。
コンビニで単四電池とゼリーを買い、近くの公園に自転車をとめてベンチに腰を下ろす。高森がくれたケーキの箱を開けると、チョコレートケーキは少しだけつぶれていた。コンビニの袋からスプーンを取り出してケーキを一口すくう。
あの日、教室から走り去った村沢がクラスに戻ることはなかった。しばらく保健室への登校が続いていたが、二学期の終わりには学校へ来ることもなくなり、三学期のはじめに別の中学へ転校することが担任からクラスへ伝えられた。
転校の日、村沢は学校へ来た。休み時間の教室に現れ、自分の机やロッカーに入っていたものをまとめて鞄に押し込んでいく。クラス中が驚くなかで黙々と私物を片付ける村沢を見て、教室の大半は遠巻きに囁き合い、何人かは大丈夫かと声をかけた。
荷物を全て片付け終えた後、村沢は教室にいた全員に向けていい放った。
「俺がここを出ていくのはお前たちのせいだ。どうせお前たちは、自分がしたことも、俺のことも、都合が悪いことは全部忘れて笑いながら生きていくんだろ。お前らが忘れても、俺は覚えてる。絶対に忘れない。お前らが不幸になることを願い続けている人間が、少なくともこの世に一人はいることを忘れるな」
どこにも視点の定まらない無感情な顔と声でそういうと、村沢は教室を出ていった。混乱と困惑で騒然となる教室を飛び出して、俺は村沢の後を追った。昇降口で村沢を呼び止め、震える口で謝罪する。自分の間違いを認め、許して欲しいと頭を下げた。
そんな俺を見て、村沢は嗤った。
「傷つけた側のくせに、反省したから許せってか。結局傲慢なんだよ。他人を傷つけた奴は、一生頭を下げて詫び続けながら生きていけ」
自分の思い上がった行為がそれだけ村沢を傷つけていたことを知った。
知らなかったじゃ済まされない。俺自身の言動のせいで、傷つき、この場所を離れなければならなかった人間がいたという事実に耐えられなかった。
もう二度と同じ思いはしたくない。
できるだけ他人とは距離を置こうとした。深く関わらないように、当たり障りのない言葉だけを選ぶように気を遣った。余計なことはいわないように、不要なことはしないように。
村沢がいなくなった教室には歪んだ空気が漂っていた。誰も口にはしなかったが、村沢をいじめていたのは自分じゃないと思っていたし、思い込もうとしていた。緩やかに柔らかく、俺たちのクラスは崩れていった。
その時になってようやく、村沢が笑いながら教室に来ていたことの理由を考えた。意地と反発心と対抗心と、それから、これ以上クラスの雰囲気を壊さないようにと精一杯のプライドで作った笑顔だった。
それに気付いた時、教室の中の雑音が耳につくようになった。雑音は日増しに大きくなり、常に頭に響いて苛々が募る。
雑音を少しでも消すためにヘッドフォンをつけた。ボリュームを上げて音楽で耳を塞いでしまえば、この繭の中までは雑音は届かない。
耳を塞ぐことができるなら、曲はなんでもよかった。兄のCDを片っ端から聴き続けた。
世界の音を遮断するために、俺には繭が必要だった。
久しぶりに食べるチョコレートケーキは、記憶よりも甘かった。スプーンでは少し食べづらい。フォークをもらってくるべきだった。半分食べたところで少し胸やけがしたが、構わずに全て食べ尽くした。
ぐるぐるとした気持ちが腹の中で渦を巻く。
胸のあたりに何かがつかえるような違和感が残るのは、多分チョコレートを食べ過ぎたせいだ。
「でも私は、あの時の矢口さんにも謝りたいんです」
そういって頭を下げた高森を思い出す。
高森さん。
俺、高森さんのことを尊敬するよ。
君の優しさを心から尊敬する。
過ぎた日の中に置き去りにされて、本人ですら忘れてしまった傷であっても、丁寧に拾ってくれた君はとても優しい人だと思う。
優しさは強さだ。
そんな風に、俺もなりたかった。
ヘッドフォンで耳を塞ぎ目を閉じる。プレイヤーのないヘッドフォンからは何の曲も流れてはこない。
村沢が去り、俺が雑音に耳を塞ぐようになってしばらく経った頃。兄が買ってきた何枚かのCDの中に、高森に聴かせた曲があった。
俺がはじめて好きだと思った音楽。
あの頃、俺を支えて立ち上がる力をくれたはずなのに、いつの間にか逃げ場所にしてしまった。
崩れていく柔らかな箱庭の中、居心地のいい繭に閉じ籠ったままで、自分の大切なものを胸を張って好きだといえるはずもなかったのに。
見上げると重たい雲が空いっぱいに広がっていた。今にもこぼれ落ちそうな水を含んだまま、ゆっくりと両手を伸ばして世界を包み込んでいく。
雨が降るといい。
全てを洗い流した後に光が差したら、きっときれいな虹がかかるから。
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