20 花うつろい
高幡不動尊を出て駅の改札まで戻る。
改札の前を少し過ぎると、通路の窓の下に京王線の車両基地が広がっている。
小学校に上がる前くらいの幼い子が、通路の手すりの前で母親に抱っこをせがむ。母親が抱いてやると、窓の下の電車を指差して嬉しそうに笑った。線路にずらりと並んだ車両は電車好きな子にはたまらなく魅力的だろう。
隣を見ると、高森が真剣な表情で電車を見つめていた。唇を軽く噛み締め、野良猫のような目で眼下に広がる景色を睨みつけている。
新宿行きの車両がホームに止まる。ドアが開き発車ベルがあたりに響いた。
電車が走り去ると、高森は長い息をはいた。
「大丈夫か?」
「はい。少し緊張しましたが、怖くありません」
にこりと微笑む。
「今日の修行はクリアです」
電車を見に行こうといい出したのは高森だった。
「地元はわりと平気なんですが、この場所は少し苦手なんです」
手すりを背に高森がぽつりと呟いた。
「ここからホームへ降りるまでにはたくさんの人の中を行かなくてはいけなくて。朝は特に多いんです。近くにいくつか大学があるので、モノレールやバスに乗り換える大学生がたくさんいます」
高森の視線の先に多摩モノレールの駅が見えた。高いレールの上を車両がゆっくりと走って行く。
「毎日、家から駅へ向かっていて、必ずこの通路で足が止まるんです。ここから先は人がたくさんいて、これから電車に乗って学校へ行かなきゃいけないと思うと、怖くて、すぐに帰りたくて。電車が好きになれば怖くなくなるかもしれないと思って、鉄道雑誌を読んで勉強して、京王レールランドにも行きました。あんまり効果はなかったんですけど」
高森が笑う。こちらに向き直り、深々と頭を下げた。
「矢口さんのおかげで、明日からは安心してこの道を歩けそうです。今日は本当にありがとうございました」
電車の音を聞きつつ、改札を通る人の流れを眺める。買い物袋を下げている人や部活帰りと思われる学生が行き交い、賑やかな活気にあふれている。小さな子が母親に手をひかれている姿や杖をついた老人がゆっくりと歩いている様子は、喧騒の中にも日常の穏やかさがあった。
ふと高森を見ると、改札前の柱へチラチラと視線を送っている。俺の視線に気付くと柱の前に立つ老婦人を指して照れたような笑みを浮かべた。
「あの方が持っている紙袋、駅前にあるケーキ屋さんのものなんです。すごく美味しくて、家族もみんな大好きなんです」
目が輝いている。余程好きらしい。
「へえ、高森家御用達なわけだ」
「はい。駅の近くには他にもたくさんありますよ。線路の側にある喫茶店のパンケーキもとっても美味しいです。さっき通った参道の天ぷら屋さんも。あ、参道から少し入ったところにあるお蕎麦屋さんも絶品です」
早口で地元のおすすめ店を紹介した後、はたと動きを止めて恥ずかしそうに俯く。
「すみません、食べ物の話ばかりでつまらないですね」
「いや、そんなことないよ」
高森は何もいわなかったが、今はもう店へ食べに行くことはないのだろう。外で食事をするということは、今の高森には宇宙旅行と同じくらいに難しいことなのかもしれない。
少しだけ悲しそうな目でケーキの紙袋を見つめていた高森が、俺を見上げてにこりとした。
「矢口さんはケーキお好きですか?」
「嫌いじゃないけど、自分で買おうとは思わないかな。小さい頃は誕生日には母親がケーキを買ってきてくれてたけど。毎回必ず新宿伊勢丹の地下にあるチョコレートケーキ」
バースデープレートを兄に奪われて泣いたのは小学一年の時だった気がする。
「なるほど、矢口家御用達だったんですね」
熱心に頷く高森に苦笑がもれる。
「中学に上がる頃にはバースデーケーキって気恥ずかしくて断ってたから、もう何年も食べてない。小さな頃はすごく贅沢で豪華なご馳走だと思っていたけど、今もし目の前にあったら、普通のケーキに見えるかもしれないな」
「思い出の味ですからきっと美味しいですよ」
と笑う高森に、そうだなと返す。少しだけ肩の力が抜けていくのを感じた。
「それで、ケーキの他にまだ気になるものがあるのか?」
高森が驚いたという顔をした。
「なぜわかったんですか?」
「見ればわかるよ」
それだけそわそわと視線を送っていれば。
「矢口さん、時間が経つと色が変わる花というものがあるんでしょうか?」
は?
俺を見上げて首を傾げる高森に、思わずこちらも首を傾げる。
「いや、聞いたことないけど」
「私もあり得ないと思いますが、アレキサンドライトやベキリーブルーガーネットの例もありますし。光によって色が変わる石があるというのは、はじめて知った時は驚きました」
確かに。赤からオレンジ程度の変化ならわからないでもないが、赤から緑や青からピンクに変わるのは結構衝撃的だった。
「それで、花の色がどうしたの?」
「向こうの柱の前で立っている男性が見えますか?」
高森が指した先には、薄手のジャケットに黒いジーンズをはいた若い男性が立っていた。おそらく二十代半ばくらいだろうか、手には小さめの花束を抱えている。
「先ほどからああして立っているのですが、私が矢口さんとの待ち合わせ場所へ向かう時にこの改札の前を通った時にもあの場所にいらっしゃいました。その時持っていたのはピンクのガーベラです。でも今はオレンジのガーベラを持っています。色が変わるガーベラの話は聞いたことがありませんが、新種でしょうか」
口元に手を当てながら不思議そうに考え込んでいる。
「見間違いとか記憶違いじゃなくて?」
「いいえ、間違いないです。これでも両目は二.〇ですし、記憶力には自信があります」
高森が自信たっぷりに頷いた。我が校の学年トップがそう仰るなら間違いないんだろう。
「駅の近くには花屋があるよな?」
「はい。ロータリーからすぐの場所に三軒あります」
高森が頷く。
「他に気付いたことはあるか?」
俺の質問に少し考えて高森は答えた。
「私が矢口さんとの待ち合わせ前に見かけた時から、もう二時間は経っています。あの様子を見るにおそらく待ち合わせだと思いますが、かなり根気強い方です。それと、とてもお洒落な人ですね」
「お洒落?」
「はい。先ほど指輪をはずして、別の指輪に付け替えていました。一日に何度もアクセサリーを変えるのはお洒落に気を使う方だと思います」
なるほど。
高森が見ている柱の奥には細い通路があった。通路の端、エスカレーターの上に横たわる手すりを指して訊ねる。
「ちなみに向こうの女性に見覚えはある?」
俺が指す先には、長い茶色の髪の女性が立っていた。手すりに身を寄せ、柱の側に立つ男性を険しい顔で見つめている。
高森が首を振った。
「いいえ。矢口さんのお知り合いですか?」
「いや、ならいいんだ」
俺が返事をしたのと同時に男性が片手を上げた。手を振る先、改札の向こうから、短い黒髪の女性が近付いてくる。
「高森さん、ここを離れようか。ちょっと騒がしくなりそうだ」
怪訝な顔をする高森を駅の出口へ誘導する。視線の隅で茶髪の女性が動くのが見えた。男性と黒髪の女性の方へつかつかと近付き、右手を振り上げて男性の顔を平手で打った。ばしっという音が響き、通行人が何事かと振り返る。
ふざけんなと罵る茶髪の女性と、何よアンタと叫ぶ黒髪の女性の声を背に、俺たちはその場を離れた。
駅を出て住宅街を歩く。浅川の方へ向かいながら、高森が大きくため息をついた。
「びっくりしました」
胸に手を当てて瞬きを繰り返す。深呼吸をして俺を見上げた。
「矢口さん、つまり、先ほどのあれは」
「うん。二人の女性と交互にデートをしていたらしいね」
高森の問いに頷き返す。
「俺が改札を通った時、あの茶髪の女性が誰かと話しているのを見た。相手は柱の陰で見えなかったけど、多分さっきの男性だったんだろうね。高森さんが見たピンクのガーベラはこの時に茶髪の女性へプレゼントされた」
俺たちが高幡不動尊の散策をしている間、茶髪の女性と平手打ちをくらった男性は、二人仲良くデートをしていたのだろう。
「デートが終わって茶髪の女性と別れた後、男性は花屋でオレンジ色のガーベラを買って、また改札に戻ってきたんだ。今度は黒髪の女性へプレゼントするために。指輪はそれぞれの女性とのペアリングだから付け替えたんだろうね」
デートのダブルブッキング。俗にいう二股だ。贅沢な話だが、あまり羨ましくはない。二人の女性を相手にして同じ日に同じ場所でデートをこなすとは恐れ入る。
「改札前にいる人には色々と事情があるんですね」
高森がしみじみと呟いた。
「以前、改札前で顔見知りの方をお見かけしたので、ご挨拶しようと声をかけたことがあるのですが、すごく叱られてしまったことがあって。理由はわかりませんが、おそらく何か事情があったのですね。迂闊に声をかけてはいけないと勉強になりました。以後気をつけます」
真面目な顔で頷いている。人に声をかけられたくないようなやましい理由を持っているのは本人に問題があるのだから、こちらがあまり気にしてやる必要はないと思うけど。
隣を歩く高森を横目で見下ろす。電車の中で声をかけた俺を睨みつけた目も、教室で突き飛ばした拒絶の手も、今の高森からは感じられない。
前言撤回。
確かに高森のいう通りだ。人にはそれぞれ事情があるし、それは他人が外から見ただけじゃわからない。傷付け合うことのない距離感を保つ配慮も、一種の思いやりかもしれない。
浅川にかかるふれあい橋の上で立ち止まる。太陽の光が水面に反射して、川は眩しいくらいに輝いていた。暖かな陽射しを浴びて、あたりは穏やかな空気につつまれている。
高森が振り返った。両手をそろえて深々と頭を下げる。
「矢口さん、今日はありがとうございました」
慌ててお辞儀を返す。
「いや、こちらこそ」
顔を上げた高森が嬉しそうに笑った。背中までのびた髪が風になびく。水面の反射が高森の顔を照らした。
「また電話します。来週、楽しみにしていますね」
高森の背を見送りながら、俺は深いため息をついた。必要以上の気疲れに身体は重いが、思ったより気分はいい。
橋の欄干に身を預けて浅川を見下ろす。ヘッドフォンを取り出して音楽プレイヤーのスイッチを入れる。聴き慣れた音楽に自然と笑みがこぼれた。
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