21 タイムマシン、もしも

 五月の最終日。

 土曜午後の駅はたくさんの人で賑わっていた。小田急多摩センター駅で電車を降り、パルテノン大通りをまっすぐに進む。ゆるやかに続く坂道を歩いていると額に汗がにじんだ。

 暑い。先週よりだいぶ気温が上がっている。

 待ち合わせ場所のカフェの前には高森が先に着いていた。半袖のワンピースに薄手のカーディガンを羽織っている。顔色がやや青白いのはこの暑さのせいだけではないのだろう。

 片手を上げた俺に気付き、高森が会釈する。

「今日は暑いな」

「はい。予報では三十度を超えるそうです」

「暑いはずだ。上着はいらなかったな」

「映画館は寒いですから、ちょうどいいですよ」

 そんな会話をしつつカフェに入る。注文の列に並ぶと、高森の背中が緊張していくのがわかった。千円札を握りしめた手が小さく震えている。

 レジの順番が回ってきた。店員が「ご注文は?」とさわやかな笑顔を向ける。高森がか細い声で答えた。

「カフェモカをお願いします」

「カフェモカですね。ホットかアイスをお選びください」

「アイスでお願いします」

「かしこまりました。追加でキャラメルソースやホイップクリームはいかがですか?」

 高森の顔から血の気が引いていく。

 黙り込んでしまった客を相手に、店員は満点のスマイルを見せた。さすがプロだ。

「ミルクを豆乳に変更することもできますが……」

 にこやかに接客を続ける店員に、高森が勢いよく右手を上げた。持っていた千円をレジのトレーに置き、早口でまくしたてる。

「あの、そのままで結構です。何もなしで。私、自然体な、ありのままのカフェモカが大好きなので!」


「そんなに笑うことはないじゃないですか」

 ストローを回しながら高森が拗ねたような顔で俯いた。

「ごめん、悪気はないんだけど、ちょっとツボに入って」

 抑えようとしても声が震えてしまう。

「ありのままのカフェモカって、なんかおかしくて」

 屋外のカフェスペース。無事に会計を済ませて一番端のテーブル席についた途端、湧き上がる笑いの波に耐えられず吹き出してしまった。

 ひとしきり笑い終えた後、真面目な顔を作って高森に訊ねる。

「それで、調子はどう?」

「体調は問題ありませんが、心に深い傷を負いました」

「いや、ごめん。もう笑わない」

 両手を上げて反省を示すと、高森は上目遣いにちらりと睨んで頷いた。ひとまず許してくれるらしい。

「矢口さんがあんまり笑うので、恥ずかしくて発作どころじゃありません」

 拗ねた口調の後、カフェモカに口をつけて高森がくすりと笑う。

「おかげさまで助かりました」

「そりゃ何よりだ」

 向かい合ってコーヒーをかき混ぜながら、午後の喧騒に耳を傾ける。赤レンガの歩道を小さな子どもの足音と笑い声が駆け抜けていった。並木が作る木陰が風に揺れ、特に会話もないまま時間だけが過ぎていく。

 コーヒーを飲み干してひと息つく。

 さて。ここは前回学んだことを活かさなくてはならない。何もしないままでは、沈黙の中でまた居心地の悪い思いをする羽目になる。というより、現在進行形ですでに居たたまれない。女子と二人、カフェテラスで向かい合ったままの無言の時間。つらい。

 ゼロから会話は生まれない。話を繋げるにはトークテーマが必要だ。

 咳払いを一つ。

「この前、クラスの友達と夏にぴったりな歌の話になってさ」

 唐突な印象は否めないが、自然に話題を振る技術など持ち合わせていない。

「高森さんはなにか思いつく? 夏の歌」

 流行りの音楽などはよく知らないが、とりあえず場をつなぐことはできるだろう。

 口元に手を当てて高森が首を傾げた。

「そうですね、すぐに思い浮かぶのは〈春すぎて夏来にけらし白妙の〉とかでしょうか」

 うん、なるほど。〈衣ほすてふ天の香具山〉ね。

「私は〈夏来たるらしの〉の方も響きが好きです」

「まさに代表的な夏の歌だね」

 予想外の変化球に会話のキャッチボールがままならない。外角高めのスライダーを要求したのに、内角ギリギリにジャイロボールを放ってくる。

 いや、ストライクゾーンからは外れていない。まだ望みはあるはずだ。

 気を取り直して話を続ける。

「音楽の歌の方は何かある?」

 少し考えて、手拍子付きで披露してくれた。

「なーつもちーかづーくはーちじゅうはーちーやー」

 茶摘み、かあ。

「……初夏を感じるね」

「はい、よい歌です」

 今の季節にぴったりですねと高森はにこりと笑った。

 飲み干したグラスの底を意味もなく見つめる。

 諦めよう。俺に話術の才能はない。


 高森が選んだのは国民的人気キャラクターのアニメ映画だった。未来から来たロボットと少年の、少し不思議な日常と冒険のファンタジーだ。

 館内の照明が落ち映画の予告が始まると、高森は両手を胸の前で強く握りしめた。血の気の引いた白い顔をして、時々手の甲に爪をたてながら必死に画面を睨みつけている。

 スクリーンの中で繰り広げられる大冒険。強大な敵と戦う未来から来たロボットに、心の中で語りかける。

 頼むよ、君の未来の道具で助けてやってくれよ。

 高森の爪の先が強く肌を引っ掻く。恐怖に逃げ出したくなる心と身体を、痛みで誤魔化しているんだろう。左腕の内側にかすかに血が滲んだ。

 とっさに伸ばそうとした手を止め、ゆっくりと引き戻す。膝の上で強く握りしめた。

 スクリーンへ視線を戻す。映画の中では、主人公の少年たちが過去の自分を救うためにタイムマシンに乗り込むところだった。


 映画が終わり、アイドルグループが歌う主題歌が流れる。エンディングロールの途中で高森を促し席を立つ。館内に人はまばらだったが、ぐずぐずしていると帰りの人波にのまれてしまうかもしれない。

 映画館を出て駅と反対の方へ向かう。大通りの正面にある階段を登った先、大きな池のある公園は親子連れで賑わっていた。公園の隅の並木道で日陰を探し腰を下ろす。

 高森が深く頭を下げた。

「今日はありがとうございました。すみません、最後まで観られなくて」

「いいよ。具合はどうだ?」

「はい。おかげさまで大丈夫です」

 顔色はあまりよくないが、平気そうだ。

 左腕につけられた赤い傷跡から目を逸らす。

 高森が大きく息をはき出した。背筋を伸ばしまっすぐに前を向く。木漏れ日が高森の頬を照らしていた。

「私、映画を観ました」

 前を向いたまま高森の視線は遠くを見つめていた。

「今日、映画を観ました。映画館で。ちゃんとお話の終わりまで」

 噛みしめるようにゆっくりとこぼす言葉が、地面に落ちる影の中へ静かに吸い込まれていく。陽の光があたりを穏やかな空気で包んでいる。ほんの少し汗ばむ肌を風が撫でていった。

 目を閉じた高森が静かに言葉を続ける。

「矢口さん、私、諦めなくてよかった。怖くて身体が動かないなんて、他人が聞けば理解不能で馬鹿馬鹿しい悩みでも、私にとっては生きる意味が見えなくなるくらいの絶望でした。いうことを聞かない身体を捨ててはじめからやり直すべきじゃないかと何度も思いました。不安と恐怖を自分で受け止めることができなくて、イライラしてまわりに八つ当たりして、そんな自分が本当に嫌いで。こんなにダメになってしまった私は、もう取り返しがつかないくらいに失敗してしまったんだと思うと、夜も眠れなくて。寝ないと体調を崩してしまうから、そうしたらまた怖さが大きくなって全てが嫌になってしまうから、無理やりに寝ようとしても、喉が渇いて仕方なくて、眠ることもできなくて」

 立ち上がった高森が俺の前でゆっくりと頭を下げる。

「同じことばかり繰り返してすみません。でも、何度でもいわせてください。矢口さんは、私に未来への希望をくれました。どれだけ感謝しているか、私の言葉では足りなくて伝えきることができません」

 ワンピースの裾が風に揺れた。

「矢口さん。あの時、私に声をかけてくださって、本当にありがとうございました」


 高森と別れて電車に乗る。座席の端に立ち、揺れる車内から窓の外の景色を眺める。

 ふと、今日観た映画を思い出す。もしも過去に戻れたら。俺はあの日の自分に何かしてやれただろうか。

 タイムマシン、もしも。

 自分勝手な想像に苦笑がもれる。考えても仕方がない。たらればをいったところで現実はどうしようもないのだ。

 高森の言葉がよみがえる。ありがとうと笑った目には涙が浮かんでいた。今は、それだけでもう十分だと思える。これ以上を求めるのは強欲で傲慢だろう。

 窓から差し込む陽が車内に濃い影を落とす。心地よい電車の揺れを感じながら俺は目を閉じた。

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