第2章 てのひらの理由
19 宇宙旅行
休日に電車に乗るのは久しぶりだ。通学以外の移動は基本的に自転車なので、私服のまま電車に揺られているのは少し新鮮だった。
家から高幡不動駅までは自転車で行けない距離ではないが、不安克服のヒントはないかと電車を使うことにした。
前日に高森から電話があり、高幡不動尊参道の鳥居前で待ち合わせることになっている。
ホームの階段を上がって改札へ歩きながら、左右どちらに向かうべきかとあたりを見回す。
改札の外には予想より多くの人が行き交っていた。大きな柱の横で長い髪を茶色に染めた女性が「なにそれキザすぎない?」と楽しそうに笑う声を聞きながら、エスカレーターへと向かう。
エスカレーターを降りてすぐ、赤色の鳥居の前に高森がいた。白いブラウスに水色のフレアスカートがよく似合っている。俺に気付くと小走りでかけ寄ってきた。
「お待たせしました」
「いや、俺のセリフじゃないかな、それは」
「はい。あ、いいえ、じゃなくて、そうですね。すみません、間違えました」
慌てた様子で顔の前で右手を振ると恥ずかしそうに俯く。
「高校の知り合いと地元で待ち合わせるのは初めてなので、ちょっと緊張してしまって」
緊張の理由はそれだけではないのだろう。けして広くはない参道だが、人の波は途切れることなく行き交っている。
「今日は来て頂いてありがとうございます。あの、矢口さんは最寄駅はどちらなんですか?」
「俺は府中」
「そうですか」
妙な間があく。なんと返せばいいかわからない。
「……とりあえず、歩こうか」
「はい。よろしくお願いします」
横に並び無言で歩く。今日はよく晴れていて日差しも暖かい。外へ出るにはちょうどいい天気だ。
「いい天気ですね」
「そうだね」
「今日は洗濯日和ですね」
「そうだね」
「せっかくなのでお布団も干したいですね」
「そうだね」
「私、お日様のにおいがする布団大好きです」
「そっか」
「はい」
……気まずい。
考えてみれば女子と二人でまともに会話したことなどほとんどない。日直や委員会といった用事があれば別だが、それ以外での雑談など小学五年生の記憶が最後だ。
なんてこった。
会話のキャッチボールどころか、多分、投げるべきボールを持っていない。肩AだろうがコントロールSだろうが、ボールがなければ話にならない。いや、そう、まさに話にならない、会話だけに。
「あの、矢口さん」
現実逃避にくだらないことを考えていた頭が、高森の声で引き戻される。
「せっかくなので、お参りに行きませんか?」
二人並んで高幡不動の本尊に手を合わせる。
こんな場所でこんなふうに高森と参拝することになろうとは、先週までは想像もできなかった。不思議な縁もあるものだ。
「今年のお正月は初詣に行けなかったんです」
やっとお参りできましたと高森が笑った。
参拝の後に五重塔まで移動する。地元なだけあって勝手知ったるとばかりに高森はすいすいと進んで行く。俯いてばかりの校内とはまるで別人だ。
少し距離を置いて石段に腰掛け、ペットボトルのお茶でひと息つく。できるだけ視線を合わせないように前を向いたまま話を切り出す。
「とりあえず、これからの計画を立てようか」
「はい。修行計画ですね」
高森がメモ帳とペンを取り出しながら熱心に頷いた。
「人混みが苦手とか電車が怖いとかはいったん置いといてさ。まずはやりたいことを考えるってのはどうかな?」
「やりたいことですか?」
高森が首を傾げる。
「電車とか人が怖いことは確かに問題だけど、それ以上に恐怖心のせいでやりたいことができないってのが一番の悩みなんだろ?」
だったら、やりたいことができるようになればいい。極端な話、やりたいことさえ自由にできているなら電車に乗れなくたっていいわけだ。それはさすがに極論としても、とにかく気楽に動き回れるようになるのが不安に立ち向かう第一歩になる。
「苦手意識を克服するのが最終目標として、まずは行動の自由度を広げていくイメージを持てばいいと思うんだ。高森さんのやりたいことに合わせて、具体的に何ができるようになればいいか考えよう」
「なるほど、確かに一理あります。やりたいことですね。考えます」
しばらくして高森が書いたやりたいことリストはこんな内容だった。
・宇宙旅行
・寝台列車に乗る
・スカイダイビング
・キャンピングカーで日本一周
・オーロラを見る
・滝行
・バク転
・逆上がり
……いや、わかるよ。行ってみたいよね、宇宙。
真剣な顔で考えている高森に何もいうことはできない。
俺の視線に気付いてはっとした高森が恥ずかしそうに俯いた。
「あの、違います。とにかく思いついたままに書いているだけで、全てをやろうとしているわけでは」
「いや、わかってる。大丈夫だ。宇宙旅行は人類の夢だから」
我ながらよくわからないフォローをする。とりあえずリストの最後にある逆上がりは触れないでおこう。
真面目な顔で続きを書く高森の邪魔をしないように、隣からそっとのぞき見る。
・教室で授業を受けられるようになる。
・図書館でゆっくり本を読む。
・部活に参加する。
・ケーキ屋さんの喫茶室でケーキを食べる。
・美容院で髪を切る。
・スーパーでカゴいっぱいに買い物する。
・映画を見る。
・電車に乗って新宿まで行く。
・友だちと昼休みにご飯を食べる。
高森の事情は知っていた。知ってはいたが、普通の日常生活が難しいのだということを改めて認識する。高校生活の中でやりたくても我慢してきたことが、これまでもたくさんあったのだろう。
「できました。これでだいたい書けたと思います」
高森が嬉しそうに微笑んだ。
「これが全部叶ったら夢みたいですね」
「叶うよ、必ず」
宇宙旅行は、未来の技術に期待しよう。
「それじゃ、どれからやってみようか」
あ、と思いついた顔をした。
「髪を切りに行きたいです」
「髪?」
「はい。だいぶ放っておいたので、のばしっぱなしで。美容院は長い時間動くことができないので、どうしても苦手なんです」
「よし、行こうか」
リストに丸印をつける。
「店にこだわりはないか。行きつけの美容院とか」
「はい。特には」
「他は?」
うーんと唸りながら考える。
「全部やりたいので、優先順位を決めるのが難しいですね」
嬉しそうにリストを見つめながら、高森が笑った。
「矢口さんのおすすめはありますか?」
高森が差し出したリストを受け取る。今の高森の状態から考えて、負担が重過ぎず軽過ぎず、万が一失敗しても回復が早そうな場所。
「俺だったら、まずは映画館だな」
「映画ですか?」
高森がきょとんとした顔をする。
「暗くてまわりが見えにくいし、音もでかいから必要以上に周囲に気を使うこともない。観客はスクリーンに集中してるから最低限のマナーさえ守っていれば、よほど暴れたりしない限りは多少大目に見てくれるはずだ」
映画館なら仮に発作が起きて苦手意識が強くなったとしても、普段の生活からは少し距離がある。焦らずにやり直せばいい。
「公開日から日が経っているタイトルなら観客も少ないだろうし、出口に近い席にしておけば途中で具合が悪くなってもすぐに出られる」
「なるほど、いわれてみれば確かにそうです。なんだか映画館は大丈夫だという気がしてきました」
高森がパチンと両手を合わせた。
「では、私がチケットを用意します。矢口さんの好きな映画のジャンルはなんですか?」
「え、俺?」
「はい。それと、シートにこだわりはありますか? 二階席がいいとか」
「俺も観るの?」
高森が俺の目を覗き込んだ。慌てて視線をはずす。
「観ないんですか?」
「いや、ロビーで待ってるつもりだったんだけど」
はっとした顔で瞬きを繰り返した高森の頭が徐々に下がっていく。
「すみません、図々しかったですね。一緒に観られるとばかり。ごめんなさい。忘れてください」
あからさまに項垂れている。
「いや、観るよ。最近映画館行ってなかったし」
高森の目がこちらを向いた。上目遣いの視線が「本当ですか?」といっている。
「いや、映画は久しぶりだ。楽しみだなあ」
慌てて答える。棒読みになってしまうのは喋るのが下手なだけで、行きたくないわけでは決してない。女子と二時間以上同じ空間で過ごすという状況に頭がくらりとした気がするが、嫌なわけでは決してない。
高谷や航一には偉そうにあれこれと話したが、よく考えたら女子と出かけるなんて俺には高過ぎるハードルだった。
高森が嬉しそうに笑った。
「はい。ありがとうございます」
両手を胸の前で組み、安心したように息をつく。
……こんなに喜んでくれるなら、俺も少しくらいは頑張ってみよう。
とりあえず、帰りに胃薬は買っておこうと心に決めた。
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