18 よろしく
「高森にそんな事情があったのか」
話を聞き終えたあと高谷はため息をついてバツが悪そうに頭をかいた。
説明なしに携帯電話を拝借した上に授業をエスケープした身としては、迷惑をかけた理由を話さないわけにはいかない。
昼休み。いつもの北棟外階段。
高森には事前に了承をもらい、詳しい事情や経緯は省きつつ話をする。高谷と粟國は途中で遮ることなく最後まで聞いてくれた。
「知らんかったとはいえ〈保健室の高森さん〉とか悪いこといったな」
高谷がしおらしくしている姿は珍しい。にやついている俺の顔を高谷が睨んだ。
「なんだよ」
「いや、素直に反省できるのは高谷くんのいいところだと思って」
小学校だったら帰りのホームルームで発表されそうだ。
急な頼みに二つ返事で電話を貸してくれた高谷には感謝している。
「高谷くんには俺から〈いいところカード〉を送ろう」
「なんだそりゃ」
「それで、具体的には何を手伝うことにしたんだ?」
黙って考え込んでいた粟國が口を開いた。
「精神的な恐怖なんだろ。本人がどうしようもないものを他人がどうやって手助けできるんだ」
粟國のいう通りだ。高森本人が理解できない恐怖を、他人の俺がなんとかしてやれるとは思えない。
「とりあえず、怖くないことを脳に伝えてやればいいと思うんだ。安心できると脳が判断すれば身体は動くようになると思う」
だからこそ高森は一人で修行していたわけだ。教室にいても大丈夫だと思えるように。
「安心できる場所や状況を安全基地として、少しずつ行動可能な範囲を広げていけばいいんじゃないかな」
確証はないがやってみる価値はある。ただし、問題は失敗した時のリカバリーだ。行動を広げていく途中で発作が起きた場合、かえって症状が悪化する恐れがある。不要な悪いイメージはパニック障害には大敵だ。より不安になりそうだから怖くて症状を調べることもできないと高森はいっていたが、自己防衛という意味では正解だったかもしれない。パニック障害の具体的な症状に関する知識は不安の種になるだろう。
「行動範囲を広げるためにはまず動いて少しずつ安心を確かめる必要があるんだけど、何かが起きた時に一人で対処しないといけないと思うと、それが不安の原因になる。いずれは一人で行動するとして、はじめは誰かが近くでサポートしてやればいい。だから、まずは俺と出かけるところから試してみればいいと思って。近くの公園とか、買い物とか」
広場恐怖の元となっている不安の原因は、頼れるものが近くにないことからくる恐れなのだろう。何かあればすぐに帰ることができる公園は大丈夫だろうし、いざという時に誰かが会計を交代できるならレジに並ぶ負担も少ないはずだ。
いずれは閉鎖空間も克服しなくてはならないが、図書館やプラネタリウムみたいに静かに過ごさなくてはならない場所は不安が大きくなるとインターネットにも書いてあった。まずは騒がしくしても違和感のないゲームセンターや映画館から徐々に慣れていくのがいい。
「最終的には無理しない状態のまま外で食事ができれば……」
大丈夫だと思うと続けようとして、あたりに違和感を感じる。なんだか妙に静かだ。
後ろを振り返ると粟國が不自然に明後日の方を向いている。
隣で目を閉じて腕組みをしていた高谷がぼそりと呟いた。
「いや、それデートやん」
は?
その後ろで粟國がサンドイッチを口に放り込んだ。いつも通りのクールな表情だが、目だけは笑っている。
え、なに?
「それもうデートやーん」
高谷が天を仰いだ。
「なにがだよ、違うって」
「公園行って買い物して、ゲーセンで遊んで映画観て、図書館で勉強会してプラネタリウムで手を繋ぎながら、同じ星座みつけたいねとかいっちゃうのはどう考えてもデートやろがい!」
「なんの話だよ、手なんか繋ぐか」
「うるせぇよ、どうせミルキーウェイが降りてきちゃうんだろ? ちくしょう、羨ましい!」
「違うっつってんだろ!」
否定しつつも頭の片隅で「確かにデートプランだな」と理解している自分がいた。パニック障害をどう克服するかしか考えていなかったから、それがどう見られるのか判断できていなかった。しまった、急にすごく恥ずかしくなってきた。
「どうしよう、急に変なこといい出して、高森さんに怖がられてたりしたら」
あり得る。電話の向こうで引き攣った顔をしている高森を想像して血の気が引いた。
「今さら何いってんだよ、嫌なら嫌だってちゃんと断るって。矢口は妙に度胸あるくせに、変なとこ卑屈だよなあ」
呆れたように高谷が笑った。
「突然の話で度肝抜かれたけど、応援してるぜ」
屈託のない笑顔に少しだけ肩の力が抜ける。
心の中で〈いいところカード〉をもう一枚追加した。
「突然の話といえば」
サンドイッチを手にした粟國が視線を戻した。僅かに間を置いて続ける。
「俺の名前はアワクニじゃないんだ」
驚いて粟國を見ると、当の本人は涼しい顔で食パンをかじっている。
高谷が眉間に皺を寄せて訊ねた。
「何だよ急に。まさか隠し名があるとかいい出すんじゃないだろうな」
そんな厨二病のようなことを粟國がいうとは思えないけれど。小野じゃあるまいし。
「いや、そういうんじゃない」
「隠し名じゃないなら、忌み名か? 真名か? 名前をいってはいけないあの人的な」
「誰がヴォルデモート卿だ」
高谷の悪ふざけに粟國がつっこむ。いつも通りの呆れ顔だ。
「字は同じだが、読み方が違う。粟に旧字体の國で、アグニと読むんだ」
予想もしていなかった粟國の言葉に思わず隣を見ると、高谷も同じように驚いた顔でこっちを見ていた。
丸くなった高谷の目が何度か瞬きを繰り返し、それから徐々につり上がっていく。どうやら俺と同じ意見らしい。
高谷が粟國に詰め寄った。
「なんだよそれ、なんで今までいわなかったんだ」
「いうタイミングを逃した」
粟國は淡々と答える。
「今が何月だと思ってんだよ。もうすぐ六月だぞ。それじゃ何か、俺たちは今までお前の名前を間違って呼び続けてたってのか? 矢口なんか、アワクニくーんって慕ってたんだぞ。見ろ、矢口を。恥ずかしさのあまりお前の顔が見られねえって、前髪で顔を隠してんじゃねえか」
「アワクニくーんとは言ってない」
あと、ついでとばかりに前髪を茶化すな。……確かに、最近切ってないけれど。
高谷を睨みつけていると、粟國が吹き出した。
「やっぱり怒るんだな、お前らも。悪かったよ、本当に」
ごめんと粟國が頭を下げた。素直な謝罪に毒気を抜かれる。
「今さら謝ったって許してあげないんだからねっ」
「いいけどさ、なんだってアワクニって呼ばれてるんだ。去年のクラスメイトもそう呼んでるよな? あだ名か?」
ツンデレごっこを始めた高谷は無視して話を進める。粟國は、別にたいした話じゃないんだがと前置きして説明してくれた。
「去年の四月、最初のホームルームで、担任が読み方を間違えてアワクニと呼んだんだ。いちいち訂正するのも面倒だと思って放っておいたら、いつの間にかクラスでアワクニと呼ばれるようになっていた。それだけだ」
粟國が少し大袈裟に肩をすくめて見せた。外国人のような仕草も粟國がやると不思議と様になる。
粟國はあまり物事に頓着しない。名前のこともあまり関心がなかったのだろう。粟國らしいといえば粟國らしい。
けれど、少しだけ引っかかった。
「粟國くんさ、もしかしてアグニって名前あまり好きじゃない?」
サンドイッチの袋をくしゃくしゃに丸めていた粟國がぴたりと動きを止めた。一度視線を落として、それからまっすぐに俺を見る。無表情のような顔がなんとなく作りものめいて見えた。
もしかしなくても余計なことをいったかもしれない。気を悪くさせてしまったかも。全く、どうしてこう考えなしに喋るんだ俺は。
「そうなのか? アグニって響きかっこいいと思うけど。強そうだし」
謝罪しようと口を開けた俺を遮るように、高谷があっけらかんとした声をあげた。
「高谷とか苗字か名前かわかんない響きだしさ。しかも俺の親、はじめは俺の名前を貴也にして〈タカヤタカヤ〉にしようとしてたらしいんだよな。面白そうとかいってさ、息子の名前で遊ぶなってんだよ」
口を尖らせる高谷に粟國がおかしそうに笑った。
「いいんじゃないか? 印象的な自己紹介ができそうだけどな」
苦笑して前髪をかき上げる。
「確かにアグニって名前はそんなに好きじゃない。アワクニが好きってわけでもないけどな。呼ばれ方にこだわりはないんだ、あんまり気にしないでくれ」
「それじゃ、ミスターバスケットマンとかでもいいか?」
「それは嫌だ」
高谷がふざけて粟國が冷静に返す。
いつも通りのやり取りに安堵する。
気を抜いてはいけない。口は災いの元だ。
しかし、これから粟國を呼ぶ時にはなんと声をかけたらいいだろうか。急にアグニと呼ぶのも違和感があるし。
「それじゃ、これからは
高谷が指を鳴らして賛成した。
「そうだな、今さらアワクニとは呼べないしな」
「好きに呼んでくれ」といいながら、粟國が片手をひらひらとさせた。
「よろしく、航一くん」
俺の言葉に高谷が「初々しい彼女か」と嬉しそうに笑った。
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