第1章 夏の初めの少年

1 はじまりの朝

 駅のホームには生活の匂いがあふれている。

 シャンプーや整髪料、香水と柔軟剤、弁当のおかず、ファストフードの袋からただよう嗅ぎ慣れた香ばしい匂い。

 人が動くたびに混ざり合い、やがては薄く空気に溶けて消えてゆく。

 袖振り合うも多生の縁というが、匂いが触れた程度では縁は生じないのだろうか。匂いは物体でなく目には見えないが、わりと主張の強い存在だと思うんだけれど。

 満員電車の吊り革にもたれながら、とりとめなくそんなことを考えてしまったのは、多分、あたりに漂うこの柔軟剤の匂いのせいだろう。

 「キュートな甘さが一日中あなたを包み込む」の謳い文句で近頃よく宣伝されている話題の商品だが、とにかく匂いが強い。母親が宣伝女優のファンだったため、ものは試しと買ってきたが、我が家では一度使われただけで脱衣所の棚の奥に追いやられている。まだ捨てられてはいないが使われることは二度とないだろう。

 東京の西。八王子から新宿までをつなぐ京王線は、東京23区外で生活する市民にとって交通の要である。

 朝の通勤時間。上りの準特急は人がつぶされるように次々と車両に押し込まれていく。「鮨詰」という言葉がこれほど当てはまる光景もないだろうというほどの超満員だ。

 そんな満員電車の中に満ちる強烈な柔軟剤の匂い。おそらく俺の目の前に座る女性が匂いの元なのだろうが、本人は至って普通の顔をして携帯電話を眺めている。あまりの刺激臭に嗅覚が麻痺しているんだろう。

 他人の匂いをあれこれ言うのは失礼だと承知しているが、さすがにこれはきつい。場合によっては次の停車駅で降りることも検討した方がいいかもしれない。

 車内のドア上に表示されている電光掲示板に目をやると、次の停車駅には「調布」が示されていた。日直と委員会の雑務を片付けるために早く家を出たため、まだ遅刻するような時間ではない。申し訳ないが、ここは一時撤退だ。

 吊り革を握る手に力を込め、できるだけ匂いを気にしないようにドアの向こうへ目を向ける。

 いつの間にか電車は地下へもぐっていた。

 トンネルに入ると窓には車内の景色がはっきりと映し出される。

 ふと、ドアの前にいたセーラー服の女生徒が目に留まった。

 ドアの正面に立ち、両手を胸の前で強く握りしめている。額をガラスにぶつけそうなほどに近づけて瞼をふるわせながら目を閉じる様子は、何かに耐えているようだった。

 すぐさま痴漢の文字が頭に浮かぶ。

 しかし周りをよく見渡しても、それらしい動きをしている不審な人物は見当たらない。

 もう一度、女生徒の様子を観察する。手は小さく震え、下唇を噛み締めた顔は青白い。これは、おそらく具合が悪いのだろう。彼女もこの柔軟剤の強烈な匂いに体調を崩したのかもしれない。

 電車はスピードを落とし調布駅のホームで停止する。

 女生徒が立つ方とは反対のドアが開き、大量の人が乗り込んできた。せまい車内にぎゅうぎゅうと押し込まれてくる。

 突然、俺の前に座っていた女性が立ち上がった。「降ります、降ります」と言いながら詰め込まれた人をかき分けて降りていく。車内に流れ込んでいた人の波がわずかにとまった。

 どうしようか。

 緩んでいた人波が押し寄せてくる。

 一瞬の躊躇いの後、俺はドアに押し潰されそうになっている女生徒に声をかけた。

「あの、ここあいてますよ」

 女生徒は目を強く閉じたまま身動きしない。

 迷ったが、軽く指先で肩に触れる。女生徒の身体が大きく跳ね、勢いよく振り向いた目がこっちを向いた。

「具合が悪いんですよね。よかったら席に、」

 座りませんかと続けようとした言葉がとまる。

 大きく見開かれた目には涙があふれていた。

 涙がこぼれる直前、女生徒は下唇を噛み締めて俯き肩を震わせる。

 「イヤ」という声が聞こえた気がした。

「え?」

 聞き返した俺を女生徒が思い切り睨みつける。あまりの剣幕に思わず身を引いた。

「さいてい」

 女生徒は俺を睨みつけたまま吐き捨てると、人波にぶつかるようにして電車を降りていった。

 ドアが閉まり電車が動き出す。

 俺は呆然と立ちつくしていた。

 何が起きたのかよく理解できない。わかっているのは、あの女生徒を怒らせてしまったことだけだ。でも、なんで?

 痴漢やナンパと間違えられただろうか。肩を触ったのがまずかったか?

 放心状態のまま頭の中がぐるぐると回る。

 電車は次の停車駅に近付いていた。

 席を譲られたことが不快だったとも考えにくい。時々、年寄り扱いされたと怒る老人がいるらしいと聞いたことはあるが、女子高生がそんなことを気にするだろうか。

 そうだ、女子高生だ。

 わけもわからず嫌われてしまったが、一つだけわかっていることがある。

 見覚えのあるセーラー服に胸元につけられた2年の学年章。

 あの女生徒は俺が通う烏山高校の生徒で、同じ2年生だ。

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