2 烏山高校

 京王線千歳烏山ちとせからすやま駅をおりて徒歩十五分。線路沿いから商店街を抜けてバス通りを進んだ先に、都立烏山からすやま高校はある。各学年八クラス。それぞれ学科ごとに総合科四クラス、特進科三クラス、特選科一クラスに分かれ、様々な分野を幅広く学べる環境と落ち着いた校風で地域の評判は高い。

 正門を通って目の前に見えるのは、北棟と呼ばれる旧校舎だ。建物はかなり古く、ところどころ壁がひび割れているが、耐用年数を考えるとまだぎりぎり現役らしい。北棟前の中庭をはさんで左右に広がるのが、新校舎の東棟と西棟。西棟と比べて東棟の方がやや広く、全体的にはアンバランスだが、これは一般教室が全て東棟におさまっているためだ。

 昇降口でスニーカーを履き替えて階段を上る。東棟四階、一般教室の端に、俺が所属する二年七組の教室がある。廊下に並ぶ個人ロッカーに鞄を放り込んで席に着くと、ポケットから文庫本を取り出して開いた。

 ――まったく集中できない。

 朝の電車で聞いた「さいてい」の声が頭の中で繰り返される。

 最低って、なんで? 俺そんなに悪いことした?

 いかにも根暗な男子高校生に声をかけられたのが、そんなに気持ち悪かっただろうか。いや違う、声をかけただけじゃない、肩に触ってしまった。そうか、そりゃそうだ。そんなの気持ち悪いに決まってる。お節介なんて有難迷惑だったんだ。ああ、ちくしょう、調子に乗って余計なことをしなきゃよかった。そもそも、声をかけるべきじゃなかったんだ。

 舌禍ぜっか舌禍ぜっかと心の中で呟く。なんて一日の始まりだ。最悪の気分だ。

 一人悶々もんもんとしている俺の肩に、そっとのせられる手があった。振り向いた瞬間、人差し指で頬をつつかれる。クラスメイトの高谷貴文が笑顔で手を振っていた。

「おはよう、素敵な朝だね」

「おはよう高谷たかやくん。何? 今の残念な感じに気が抜ける挨拶」

「うそやん、好感度アップ間違いなしのモテ女子仕草って雑誌にあったのに」

「いや間違いだらけだろ。好感度ダダ下がりだよ」

 あちゃーと言いながらもまるで反省した様子はなく、高谷は隣の席に腰掛けた。文庫本を閉じて高谷に向き直る。

「モテ女子になってどうするんだよ」

「時代はかわいい系だよ、矢口やぐちくん。男女問わず、いずれはかわいいが世界を制する」

 人差し指を振りながら得意気な顔で高谷が頷く。別に異論もないが、確か先週までの高谷は、時代は筋肉だと騒いでいなかっただろうか。

 教室の後ろから背の高い男子が入ってくるのが見えた。あくびをしながら近付いてくると、俺の後ろの席に座る。

「おはよう粟國あわくにくん」

 俺の挨拶に、粟國が片手を上げて応える。すかさず高谷が人差し指で粟國の頬をつついた。

「どうだ粟國、モテ女子仕草の魅力は」

「絶妙に鬱陶しい」

 ばさりと切り捨てる粟國に、高谷は不満気に口をとがらせた。


 高谷たかや貴文たかふみ粟國あわくに航一こういちの二人とは二年で同じクラスになった。

 単なるクラスメイト以上の接点はなかったが、妙に縁があったのと思いのほか気が合ったので何となくつるむようになった。

 四月。進級後はじめての化学の授業で実験班の振り分けがあった。振り分けといっても中学までのように教師が指示するわけではなく、適当な実験テーマに合わせて各自で班を作る。クラスメイトが次々と班を決めていくなか、俺と高谷と粟國は、教室の端に突っ立ったままだった。

 はやい話が三人ともあぶれ者だったわけだ。

 身動きしない俺たちを見かねたのか、化学教師の神谷が近付いてきて三人を順番に指差した。それから親指で後ろの席を示して「そこ」とだけ言って立ち去る。さっさとまとめられた俺たちはのそのそと隅の席に移動して、どうもどうもと情けない挨拶を交わした。

 その後も体育の陸上競技の選択だなんだと一緒になる機会があり、よく話をするようになった。

 だからといって打ち解けたわけでもない。数ヶ月前までは顔も知らない他人同士だったのだから当然だ。軽口を叩きながらも気を遣い合う距離感は、俺にとってそんなに悪くはない。

「寝る。時間になったら起こしてくれ」

 粟國が机に突っ伏して片手をひらひらさせる。

「了解」

 高谷が嬉しそうに雑誌を取り出した。

「モテ女子のモーニングコールを期待しててくれよな」

「矢口、頼んだ」

 なんでだよ俺にも頼めよと騒ぐ高谷の声を聞きながら、電車で会った女生徒を思い出す。

 彼女はちゃんと学校まで来られただろうか。

 今頃は二年のどこかの教室で、こんなふうに友達と笑っているかもしれない。

 少しだけ気持ちが落ち込む。

 余計なことはしない。余計なことは言わない。

 そう決めていたはずなのに、余計なお節介をしてしまった。小さな親切、大きなお世話だ。

 ポケットの中に手を入れる。指先に触れた機械の冷たさを握りしめた。小型の音楽プレイヤーの表面を親指でなぞる。

 良かれと思ってしたことが必ずしも誰かのためになるとは限らない。

 現実の世界には、ヒーローなんていないのだから。

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