第23話 お内儀の過去4

「どうしたい、漬け物石みてぇな顔して」

「漬け物石みたいな顔は生まれつきだ」

 今日はお昼時を少々ずらしてきているので弍斗壱蕎麦の客は栄吉の他にもう一人五十半ばの爺さんがいるだけだ。

「それにしても天神屋さん、えらいことになったなぁ。あの噂は本当なのかねぇ」

「あの噂ってのは?」

 弐斗壱がどこまで知っているか語らせた方が手っ取り早い。

「若旦那が女中を孕ませたって話」

「ああ、なんかちょっと聞いたな」

 本当は一から百まで全部知っている栄吉だが、ここは敢えて知らないふりをする。弐斗壱は他に客がいないのをいいことに、自分の茶を持ってこっちの方へ出て来た。

「お内儀さんが子どもが産めねえってんで、若旦那が女中に産ませようとしたらしいな。多分おりんちゃんだよ。あの子、最近随分腹が大きかったからな。だけどお内儀さんの悋気が大爆発して、おりんちゃんは手代とくっつけられた上に追い出されたとか。だけどもし男の子が生まれたら、天神屋の跡取りとして奪い取るつもりらしい」

 大筋は合っているが、噂というのはいろいろ省略されたり大袈裟になったりするものだ。

 栄吉はもう少し突っ込んで聞いてみることにした。

「へぇ、天神屋さんがねぇ。こないだ彦左衛門さんが馘になったばっかりだってのに、大丈夫なのかねぇ」

「それがさ、噂が立ち始めてから奉公人が少しずつ辞めて行ってるようだよ。件の女中みたいになったら嫌だろうからねぇ」

「それにしてもお内儀さんが子供の産めない体だと知らずに所帯を持ったのかね」

「さあねぇ。あの若旦那のことだ、たいして気にしてなかったんじゃないのかね」

「もし内緒にして所帯を持ったら、あとでバレたときに叩き出されたりすることもあるだろう?」

 その時、もう一人の客が口を開いた。

「あすこの若旦那は、お華が不妊だって知ってて所帯を持ったんだ」

「なんだい太助さんは詳しいのかい?」

 弐斗壱に太助と呼ばれたその客は栄吉の方を向いた。

 痩せているというよりは痩せさらばえていると言った方が近い。目は落ち窪み、下瞼は黒く隈が浮いて垂れ下がっている。手の甲には染みが目立ち、細い腕には血管が青く浮き上がっていて、さながら即身仏のようである。

「俺は以前柏華楼で釜焚きやってたんだ。天神屋のお内儀さん――お華って言うんだが、あれがまだ柏華楼にいたころを知ってんだ」

「えっ? 天神屋のお内儀さんは柏華楼の遊女だったのかい?」

 栄吉は彦左衛門から聞いて知っていたものの、弐斗壱は初耳だったのだろう。

「ああ、そうだ。売れねえ遊女だった」

「へえ」

「十一年前だな、全然パッとしねぇお華を身請けしたいと言って若旦那がやって来た。多分そのお金は先代が稼いだんだろう。それまでもお華のところに足しげく通っていて、俺なんかは『なんでお華なんだろうな』なんて思ってたがよ。まあ、蓼食う虫も好き好きって言うからな」

 天神屋のお内儀、蓼呼ばわりされている。随分な釜焚き男だ。

「お華は名前と違って本当に華のない子でな。逆に華のある生活に憧れてたな。いつか私も花開く時が来る、つってな」

 確かにあまり器量良しではなかったかもしれない。だが若旦那はそれを気に入ったのだ。

「身請けの時はな、何から何まで綺麗さっぱり申告するんだ。柏華楼とお得意様との信頼関係の問題だからな。そこでお華は自分が子供の産めない体だってことをきちんと申告した。それでも若旦那はいいと言ったね」

「なんでお華さんは産めない体になっちまったんだい? 生まれつきかい?」

 太助は栄吉の問いに「いや」ときっぱり首を横に振った。

「生まれつきじゃねえ。ちょっとした事故があってよ」

「どんな?」

 太助は腕を組んで栄吉の顔をじっと見た。

「少々ややこしい話になる。聞く気あるか?」

「もちろん」

 太助は「しょうがねえな」というと残りの蕎麦をズゾゾゾっと啜った。

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