かごめ、かごめ

瀬戸安人

かごめ、かごめ

 揺らめく蝋燭の炎が圧倒的な力を持つ夜の闇になけなしの力で抗って、ほんのわずかの明かりで閉め切った室内を照らし出す。

 部屋の中では十数人の男達が車座になって重苦しく沈んだ顔を突き合わせていた。

「――では、選ぼう」

 男の一人が歯切れ悪く言った。他の者達は誰もが目を合わせないまま、黙って頷いた。

「では――」

 初めに口を開いた男が輪の真ん中に置かれていた小さな麻袋に手を伸ばした。そして、袋の中に手を差し入れると、ゆっくりと中から一枚の木片を取り出した。一同の視線が一斉に男の持つ木片に集まる。

 男は木片の表面に目を向けた。周りにいる誰もが、そこに書かれている文字が読み上げられるのを固唾を飲んで見守る。

 男はごくりと唾を飲み下すと、ようやく口を開いた。

「かごめ、だ」

 次の瞬間、皆がふぅ、と溜め息を洩らした。

「決まったな」

「ああ」

 口々に呟く声は安堵や気まずさや様々な感情が複雑に入り混じったものだった。

 そして、夜は更けていった。


「お外、出たいな」

 ぽつり、と少女が呟きを洩らした。

「お日様、見たいな」

 座敷牢の奥で、力なく方を落とす少女は名をかごめと言った。

 かごめが座敷牢に閉じ込められてから、既に一ヶ月近くになろうとしていた。

 山間の小さな村に古くから続く風習。

 山神を畏れ崇め、数年に一度、生贄として少女を一人捧げる。

 豊穣と平和を祈り、祟りを恐れ、祭を執り行い、村の娘を山神へ嫁がせる。

 何の事はない。娘一人を売り渡して、自分達の安全を買おうという、ただ、それだけの事だ。

 生贄に選ばれた娘は、祭の一ヶ月前から外へ出る事を禁じられる。外界との関わりを断ち、山神の花嫁に相応しいように身を清めるためだ。――というのが建前。言葉を取り繕っているだけで、生贄が逃げ出さないように幽閉しているだけの事に過ぎない。

 生贄は年頃の生娘の中から選ばれる。そして、かごめが選ばれた。

「父さん、母さん、どうしてるかな……」

 今頃、両親はどうしているだろう、とかごめは何度となく繰り返してきた思いを胸によぎらせた。

 およそ一ヶ月前、この座敷牢へ入れられて以来、身の回りの世話をしたり、食事を運んでくる役目の老女の他には、誰一人としてかごめに会いに来る者はいなかった。生贄の娘には祭の日まで誰も会ってはならないしきたりなのだから、当然の事なのだが。

 牢に入れられた最初の頃は、かごめはいつも泣きじゃくっていた。悲しくて、寂しくて、やり切れなくて、この先の事や家族の事、友達の事を思うと、辛くてたまらなくて、ひたすら泣いた。

 しかし、徐々に泣く事も少なくなっていった。

 泣く事に疲れてしまったのだ。どうする事も出来ないという諦めの気持ちが胸を蝕み、かごめの心にぼんやりとした靄のようなものをかけてしまったようだった。

 今のかごめは、一日中、ぼうっとしているばかりで、何かを深く考えるという事さえ出来なくなっていた。両親の事を思うのも、半ば無意識の内に行う習慣的な作業のようなもので、真剣にその事に思いを巡らすのも億劫になっていた。両親と引き離されてから、ほんの一ヶ月にも満たないはずなのに、十三年間ずっと一緒に暮らしていた父母の顔さえ何だかぼんやりとしか思い出せなくなっていた。

 すうっ、と静かに襖が開いた。

 膳を運んできた老女は深々と頭を下げると、牢の錠を開けた。老女は無言のままで、かごめのいる牢の中へ膳を差し入れた。

 相手は老女一人。若いかごめがその気になれば、老女を突き飛ばして外へ飛び出すくらいの事は出来るだろう。

 しかし、無駄だ。外には見張りがいるはずだ。すぐに捕まって連れ戻されるのが落ちだろう。それに、かごめにはそんな気力はなかった。絶望と諦念に魅入られ、まともに物を考える事さえ放棄する事でようやく正気を保とうとしているかごめには、どこにもそんな覇気は残ってはいなかった。

 老女は再び錠を掛けると、入って来た時のように深く頭を下げて出て行った。結局、老女は最初から最後まで一言も言葉を発さなかった。

 かごめはちらりと膳に目をやると、のろのろと箸に手を伸ばした。裕福と言うほどではない村なりには、手を尽くした食事と言えるだろう。しかし、かごめは機械的にぼそぼそと箸を口に運ぶだけだった。そして、半分ほど量を減らした所で箸を置いた。食欲もなければ、口に入る物の味も感じない。ただ、何となく取らなくてはいけないと思って食べているに過ぎない。

 丁重に扱われていると言ってもいいのだろうか。食事も着る物も、今までよりもずっと良い物だ。世話係の老女も丁寧に面倒を見てくれる。

 しかし、虜囚の身である事には変わりはない。これから山で野垂れ死ぬ娘に、せめて最後くらいはましな思いをさせてやろうとでも言うのだろうか。そんなものは周りの人間が良心をごまかすための傲慢で身勝手な言い草だ。

 もはや、恨み言を零す気にさえならない。もう、何もかもどうでもいい、すっかりそんな思いに取り憑かれてしまっていた。

 それから、かごめはずっとぼんやりしていた。

 老女が膳を下げるためにやって来たが、それも別に気にもせず、部屋の隅で何をするでもなく、ただ、じっとしていた。


 いつの間にか日も暮れていた。夕食も運ばれて来たのだろうが、かごめがそれに気付かずに手をつけないでいる間に下げられてしまっていた。

 りぃん、りぃん、とどこかで鈴虫が鳴いていた。かごめは虫の声を聞きながら、どこで鳴いているのかなあ、などと取りとめもなく考えていた。

「――かごめ」

 かごめは自分の名を呼ぶ声にも初めの内は気が付かなかった。

「――かごめ!」

 何回か呼ばれてから、ようやくかごめは声のする方へ目をやった。

「……与助さん……?」

 ぼうっとした目に映った少年の姿に向かって少し首を傾げながら、かごめは消え入るような声を洩らした。

 座敷牢の格子に食い入るようにして張りついているのは、与助という名の少年だ。かごめよりも三つ年上で、小さな頃から良く一緒に遊んでもらっていた。

「かごめ、ちょっと待ってろ。今すぐ出してやるから」

 そう言って与助は手にした鉈を錠に叩きつけた。重い鉈の刃はあっさりと錠を打ち壊し、与助は牢をこじ開けて中へと入り込んだ。

「大丈夫か? かごめ」

 決死の思い、といった顔つきの与助の様子だったが、かごめはまだぼんやりしていて、目の前の出来事がはっきりと認識出来ていなかった。

 依然として意識には靄がかかったようで、すぐ目の前で起きている事が、ひどく遠い場所で起きている事のように思えていた。

「かごめ……」

 与助の手がかごめの手にふれた。

 ぴくり、とかごめ目蓋が震えた。

「お前、やつれたな……」

 光の射さない座敷牢に閉じ込められて一ヶ月近く、かごめの肌はすっかり青白く、痩せた体は前に与助が会った時よりも一回り小さく見えた。

 かごめの手を握る与助の手に力が込もる。与助はかごめの体を引き寄せると、そのままぎゅっと抱き締めた。痩せたかごめの体は折れてしまいそうにか細かった。

「与助…さん……」

 自分の体をきつく抱き締める与助の腕が少し痛い。しかし、その痛みと確かに伝わる体温が、かごめの頭にかかっていた靄のようなものを払っていった。

 正気と狂気の狭間をたゆたいながら、幻想の中に逃げ込んでいたかごめを、与助の無骨な抱擁の温かさが現実へ引き戻す。

 怖さや悲しさ、辛さや寂しさ、色々なものが急にあふれ出す。

「あ……」

 つぅ、と一筋の涙が伝う。

「あ、あたし……、あたし……」

 ガタガタと体が震える。麻痺していた感情が急激に荒れ狂い、とても抑えられない。頭の中が錯乱して、さっきまでとは違う意味で、まともにものが考えられない。

「かごめ、大丈夫だ。心配すんな」

 与助がかごめの髪をそっと撫でた。

「もう、大丈夫だから、心配すんな。俺が連れ出してやるから。な?」

 与助がにかっと笑った。

 少し年上で、ほのかな憧れのような淡い想いを寄せていた少年の抱擁に、かごめは徐々に落ち着きを取り戻していった。

「うん……」

 かごめは小さく頷いた。

「……ありがとう、与助さん」

 ぎゅっとしがみついてくるかごめの頭をもう一度軽く撫でると、与助はかごめの手を引いて立ち上がらせた。

「さあ、ぐずぐずしてらんねぇぞ。見つかる前に逃げ出さなきゃ」

 でも、与助はそれでいいのか、と問おうとして、かごめはその言葉を飲み下した。与助の手にしている鉈には血がついていた。

「もう、後戻りは出来ないんだ。急ぐぞ」

 与助はかごめに向かってだけでなく、自分自身にも言い聞かせるように言った。かごめは言葉には出さずに、しっかりと頷く事でそれに答えた。


 暗い夜道。かごめは与助に手を引かれて一心に走った。

 かごめは走りながら激しく息を切らせている。軟禁生活で弱り切った体には、余りにも過酷な仕打ちだった。

 与助もその事はわかってはいたが、それでも足を止める訳にはいかなかった。

「あっちだ! いたぞ!」

「追え! 取っ捕まえろ!」

 後ろの方で荒々しく叫ぶ声が聞こえる。走りながら振り向けば、遠くに幾つもの松明の炎が揺らめくのが見えた。

 二人を焦りと緊張が襲う。

「かごめ、頑張れ! もうひと踏ん張りだからな」

「う、うん」

 かごめは励ましてくれる与助に必死に答えた。心臓は破裂しそうに激しく脈打ち、肺は空気を求めて喘ぎ、足は少しでも気を抜けば崩れ落ちてしまいそうだ。もし、一瞬でも足を止めてしまえば、そのまま倒れて二度と起き上がれそうにない。

 それでも必死に走った。このまま走り続ければ、きっと何もかも切り抜けて、何もかも上手くいく。そんな希望に縋りついて。

「大丈夫だ、山を越えちまえば、何とかなるさ」

 与助が力づけるように言うのに、かごめはぎゅっと手を握り返して答えた。

 今、ここを乗り切ってしまえば、何もかも上手くいく。また、明るい太陽の下で幸せに暮らしていける。そう信じて。

 ドスッ。

 何か重い音がした。

「――え?」

 かごめの目の前で与助の体がぐらりと揺らいだ。その背中からは木の棒が突き出している。否、それは狩猟用の槍の柄だ。背中から入った槍は与助の胸を突き破り、銀色の穂先を深紅に染め上げていた。

 与助はぱくぱくと口を動かすが、血の泡が噴き出すばかりで言葉にならない。

 そのまま、与助は糸の切れた操り人形のように、ぱたんと倒れた。

「……嘘」

 かごめが膝を折った。与助が倒れた瞬間、かごめはか細い希望の糸がぷつりと切れる音を確かに聞いた。

 追手が足音も荒く追いついて来た。口々に何か怒鳴り散らしている。

 しかし、かごめの耳には何も入らなかった。かごめの目には広がっていく血溜まりの他には何も映らなかった。

 儚い一瞬の夢は、余りにも儚く、一瞬の夢のままで潰え、跡形もなく消え去った。


「――かーごめぇ、かーごめぇ、かーごのなーかの、とーりぃはぁ」

 祭の晩。

 山の奥深く、山神を奉るやしろにかごめの姿があった。花嫁衣裳に身を包み、ただ一人で取り残されて。

 その手足は縄で縛められていたが、そんな縛めなどなくとも、かごめはその場を逃げ出す事などしなかっただろう。

「いーつぅ、いーつぅ、でーやぁるぅ」

 抑揚のないか細い声で歌い続けるかごめの腐った魚のような濁った目には、わずかな正気の輝きさえも残っていなかった。

「よーあーけーの、ばーんにぃ、つーると、かーめが、すーべったぁ」

 餓えた山犬の遠吠えが響いていた。恐らくは間もなくその牙と爪をもってかごめを引き裂くであろう獣の声だ。しかし、かごめの耳にはその声も届いてはいなかった。

「うしろのしょうめん、だぁれ」

 空は暗く、月は蒼白く、風もない夜。

 ただ、ゆっくりと夜は更けていった。


 次の朝、社の傍には血痕だけが残っていた。


 半年後、豪雨による土砂崩れで麓の村は土の下に沈んだ。そこにはもう、暮らす人もおらず、村も社も、何も残ってはいない。

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かごめ、かごめ 瀬戸安人 @deichtine

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