一人の傘

月井 忠

一話完結

 杖をつきながら窓に近づき、外を見る。

 かつて校庭だった広場は、外側から雑草の侵入を受け、今では見る影もない。


 まさか、母校の校舎にも先立たれるとは思わなかった。


 改めて教室を見回す。


 私が女子児童としてこの小学校に入学してから、どれだけの時間が経っただろう。

 ちょうど同い年ぐらいになるこの校舎もついに取り壊しとなった。


 三年三組。


 この教室で私は初恋をした。


 もう相手の男子の顔も名前も覚えていない。

 けれど、その事実だけは覚えている。


 それから色んな恋をした。


 夫とは大学時代に付き合いだして、互いに社会人として稼げるようになってから結婚した。

 娘と息子を育てながら、事務として働くことになる。


 危険な恋もした。


 相手は妻子ある上司の人で、燃え上がるような恋だった。


 けれど、いつも苦しかった。


 きっと夫への当てつけだったと思う。


 そんな夫も二人の子供の結婚を見届けると、あっけなく逝ってしまった。


 なぜ、こんなにも過去を思い起こすのだろう。

 一週間後になくなってしまうこの校舎が、そうさせるのだろうか。


 トントン。


 控えめに教室の引き戸をノックする音がした。


 ガラガラと音がして腰の曲がった老人が顔を出す。


「トシエさん」

 コウイチさんだった。


「はい。今、行きます」

 私が答えると、彼はニコッと笑って先に行く。


 彼とはこの教室で会った。


 十年ほど前にこの小学校は廃校となり、空いてしまった校舎を民間で活用しようということになった。

 その一つにデイサービス施設があった。


 機能訓練の一環としてのレクリエーション。

 輪を作って男女で踊る場面があった。


 コウイチさんはそっぽを向いて、私に手を差し出した。

 私が手を取ると、横を向いたまま少しだけ耳を赤くしていたことを今でも覚えている。


 かわいい人だと思った。


 先に行ってしまったコウイチさんを追うように、私は杖をつきながら教室を横切る。


 途中、黒板の下にあるチョークに目が行った。


 私は黒板の隅っこに相合い傘を書く。

 ちょっとした気まぐれだった。


 右側に私の名前を書いて、手が止まる。


 しばらく考えた。


 結局、左側には名前を書かずに教室を後にする。


 廊下の先にはコウイチさんが待っていて、こちらを見ていた。

 今この時ならコウイチさんの名前を書くべきだったのかもしれない。


 けれど、郷愁を胸に抱いたままの私は、それが適切でないような気もした。


 私には愛した人が多くいた。


 きっと、あの傘には入り切らない。

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