コインランドリーにて

ゆず

コインランドリーにて

 冬だった。その日は静かな雨が霙になって降り出し、アスファルトの上にほろりと落ちては消えた。

 大学の授業とバイトを終え、課題のレポートを少し進めて、時刻は十一時を少し過ぎたあたり。私は風呂から上がって、髪の毛を乾かしていた。これから洗濯物を持って傘を差しながら、コインランドリーまで歩かなければならないから、湯冷めをしないように入念に乾かす。コインランドリーへは、夏だと毎日、冬だと二日に一回行く。地元からの仕送りもあまり多くはないし、節約しなければいけないが、洗濯だけは仕方ない。

 私は寝巻きを着ると、上に紺のパーカー、それから中学から来ている紺色のダッフルコートを羽織った。これだけ着れば大丈夫だろう。洗濯物を詰め込んだ大きめのビニールの袋を肩にかけ、靴を履いてから右手に傘を掴んだ。あれ、鍵がない。ああそうだ机に置いたままだった。私は一人ですこし笑って、一度靴も脱いでビニール袋も置いた。教科書とレポート用紙と食べ終わったレトルトのパスタの容器でちらかった机から鍵を探し当て、それを左ポケットにしまった。

 アパートの重い金属の扉を開けると、冷たい空気が私の頬を刺した。ドアノブはとても冷たくて、触れた瞬間、腕から背筋にかけて何かの生き物が這っていった。

 私は歩きながら、傘を差したが、正直差さなくてもいいくらいに霙は弱まっていた。でも気まぐれに来る風をよけるにはちょうどいいから差しておいた。

 街灯からの白い光が黒のビニール傘越しに薄ぼんやりと見えた。

 遠くの方で消防車か、救急車かがサイレンを鳴らしながら通り過ぎていくのが聞こえた。でもすぐに静かになった。私は橙色の光が洩れる住宅街を一人で歩いた。

 十分ぐらい歩くとコインランドリーに着く。ここのコインランドリーは新しいわけでもなく、むしろかなり古い。がらがらと扉を開けるとひんやりとした中の空気が肌にはりついた。ドラム式のが四つ正方形に積まれていて、あと縦型のが二つある。特にドラム式のは全体の縁が錆びていた。

 椅子と机があって、それは両方ともパイプだったが、それも背もたれとかの布のところ以外は錆びていた。もちろん背もたれも破けている。

 私はドラム式洗濯機の蓋を開け、ビニールから洗濯物を流し入れた。それから洗剤を振りかけ、蓋を閉じてから硬貨を入れた。

 洗濯機は最初ゆっくりと一回転すると止まり、そしてまた回り出すと次第に勢いを速めていった。私はパイプ椅子に座ると、それをしばらく見ていた。

 ふとスマホを見ると、LINEには母からの通知が一件あった。それとなく読み始めた。

「洋介、元気でやっていますか。最近連絡していないけど、たまには帰って来てね。連絡もよこしてください。

そっちはどうですか、こっちはまだとても寒くて、雪も降ったりしています。今年は東京でも雪は降るでしょうか。分かりませんが、こっちは相変わらずです。

ところで、仕送りは足りていますか?来月の分は送っておいたから、あまり無駄遣いはしないでね。足りないものがあったら言ってください。

昨日夜ご飯を食べながら、お父さんとあなたのことを話しました。お父さんも、口では言わないけど寂しいみたいね。もうすぐ年度が変わって、休みができるでしょうから、忙しいとは思うけど帰ってきてね。」

 外を見ると、霙は止んだらしかった。でもまたすぐに降り出すかもしれない。明日は確か雪の予報だった。明日こそ降るかもしれない。返事は家に帰ってから書くことに決めた。

 そうして外を見ていたら、霙は確かにまたすぐ降り出した。母には、霙が降っていると書こう。

 羽音がしたのでふと上を見ると、裸電球に二匹の蠅が集っていた。蠅は電球にぶつかると弾き返され、また同じような軌跡で電球に体当りした。あの二匹の蠅はいずれ電球のガラスを破って、きっとフィラメントに触れることが出来るだろうと思った。

 おもむろにコインランドリーの扉が開いた。見ると、IKEAの青い袋を提げた女性が、折りたたみの傘を閉じながら入ってきた。その人は短い髪に円縁の眼鏡をかけていた。すらりとしていたが、私と同じく、寝巻きであろう上下の灰色のパーカーに茶色のトレンチコートを羽織っていて、可笑しい感じだった。その髪というのはしっかり手入れされていて、艷があり、少し茶色に染めているらしかった。円縁の眼鏡も、普段はコンタクトの人がプライベートでかけているのような黒く縁の大きな眼鏡だった。

 私が軽く頭を下げて会釈すると、その人も軽く頭を下げた。

 私はスマホを見る傍らで、その人を見ていた。陶器のように白い手が見えた。裸電球の光に照らされて、それは光った。私はとてもきれいだと思った。

 その人が急に慌てて青い袋の中を覗きはじめた。私はなんだろうと思っていたが、スマホから目を離さずにいた。

 するとその人がこちらに近づいてきて、ためらいがちに私の肩をつついた。

「あの、すみません、洗剤を少し分けてももらえませんか……」

 私は俄に胸が高まり始めるのを感じた。

「ええ、いいですよ。」

「ありがとうございます。」

「いえいえ。」

 私は洗濯物だけ入ったドラム式洗濯機の中に洗剤を測り入れた。それからその人が蓋を閉じて、硬貨を入れた。その人は私の方を振り向いて少し頭を下げ、ありがとうございますと言った。そして少し笑った。前髪をピンで止め、丸みを帯びた顔は愛嬌があった。少し細い目は笑うとさらに引き伸ばされて一本の線のようになった。

 私の洗濯機の隣で、その人の回した洗濯機は回り始めていた。

 洗濯が終わるまでの間、私とその人は錆びたパイプ椅子に座って話をした。

「寒いですね。」と私が言った。

「寒いですねぇ。」とその人も答えた。

「ああ、僕、ヨウスケっていいます。えーと、タイヘイヨウのヨウに、カイゴのカイ。」

「うーん、そうだな、わたしはカオリっていいます。コウスイのコウに、トヨダショッキのショ。」

「ああー、なるほどね。え、でもトヨダショッキって、なんで?」私は笑った。

「いいじゃない、べつに。思いつかなかったんだから。」その人も笑った。

 その人の洗濯が終わるまで話し続けて、そうしてできるだけゆっくりと洗濯物を取り出した。

「僕こっちなんですけど。」

「ああ、わたしもそっちです。」

「え。あ、じゃあいきますか。」

 私たちは互いに傘をさし、くだらないことを、くだらないと分かっていながら、そのくだらなさを慈しむように話し続けた。歩き過ぎる街灯と家の明かりが、私たちを包む気がした。

 別れ際、道を右と左で別れた。私は十歩数えて振り返ると、「また明日、あそこで待ってる。」と少し大きな声で言った。その人も振り返っていた。袋を持っていない左腕を掲げると、その人の腕は街灯の白い光を浴びてそれを弾いた。

 思い切り大きなグーサインを作ったらしかった。私は笑った。白い吐息が洩れる。あっちも笑うのが聞こえた。

 一人で歩きながら、白く光る霙を見ながら、ふと傘から手を伸ばし、それに触れた。霙は、私に触れると跡かたもなく消えていった。

 

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コインランドリーにて ゆず @yunokimasanosuke

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