第8話 大切だからこそ
「危ない!」
後ろから声が飛んできて、ぐいっと腕を引かれ抱き留められた。その直後、手に持っていた書類がばさばさと散らばって落ちていく。
(……階段があったのね)
あのまま歩いていたら、踏み外して転落していたかもしれない。図書館へ続くこの道は何度も通った事があるのに、全然気づけないだなんて。
「良かった、間に合った」
「ありがとうございます……良く気付かれましたね」
「いえいえ。階段を下りるにしては頭の位置が変わらないな、と思って気づいただけですので」
ラリマール様ははにかみながらおっしゃるが、それで気づける人は少ないだろう。そういう着眼点や発想の違いが、研究には必要なのだろうか。
「お疲れですか? 王女様ともなると忙しそうですものね」
「スケジュールはそうでもないです。夜も、休んではいるのですが……」
書類を拾い集めながら、質問へは曖昧に答える。少し離れた場所に行ってしまった書類を拾って来て下さった彼は、分かりやすく眉根を寄せた。
「その割には顔色が良くありませんね。食事は取れていますか?」
「一応……残したらシェフに申し訳ないですし」
シェフもメイドも、王女様のためにと言って毎日一生懸命ベッドメイクや料理をしてくれているのだ。彼らの仕事を無下にするような事、雇用している側である自分が出来る筈もない。
「……そう言えば、インカローズ様がご婚約を発表されましたね」
ボリュームを落とした彼の言葉に、ぴしりと背筋が凍った。何とか不自然に見えないように表情を作って、彼の方を向く。
「そう、ですね」
「あの時は後ろ姿しか見えませんでしたが、発表時の様子を見る限りでは真面目そうな青年でしたね」
「そうですね」
「彼は男爵家の嫡男ですから、王女を娶るには身分がって意見もあるそうですけど……単なる僻みでしょうし、気にする事はないと思います」
「……ええ。両親はそれを分かった上で許可を出したのでしょうし」
だんだん上手く答えられなくなって、出てくる言葉が全て硬い物になってしまう。とうとう表情まで取り繕えなくなってしまい、せめて見られないようにと俯いてしまった。
「王女様」
「……何でしょう?」
「今からお時間ありますか?」
「ええ……はい」
「それならば、少しだけお付き合い頂けますか?」
彼の言葉を受けて、少しだけ視線を上げる。目の前にあるブルーは、労わるような優しい光を湛えていた。
***
ラリマール様に連れてこられたのは、彼が日常使っている大学院内の研究室だった。部屋が余っているからという理由で、学生の彼にも一室割り当ててもらったらしい。
「お口に合えば良いのですが」
「温かくて美味しいです……ほっとします」
「そうですか。それなら良かった」
にこにこしているラリマール様の顔から視線を外して、紅茶をもう一口含む。ゆっくりと飲み込むと、感情が渦巻いていた胸中が少しだけ楽になった気がした。
「市販品ですけど、クッキーもありますよ」
「頂いても?」
「大丈夫です。プレーンとチョコとベリーとチーズとオレンジがありますが」
「では、チョコを」
「かしこまりました」
そう言ったラリマール様の手で、皿の上にチョコクッキーが盛られていく。どうしてそんなに沢山あるのかと尋ねると、研究室用の予算で大容量袋をまとめ買いしているのだという答えが返ってきた。
「俺には兄が二人いるという話はしましたっけ」
「はい。医学に興味を持ったきっかけをお聞きした際に、お話されていました」
「そうでしたね。ええと、俺は長男の方を上兄さん、次男の方を下兄さんと呼んでいるのですけれど、今度上兄さんの家族に初子が産まれる予定なんです」
上の兄に初めての子。それ自体は何らおかしい事ではないのだが……確か、彼の長兄は今年三十になるのではなかっただろうか。貴族同士の結婚は早い事が多いから、十代後半の夫婦に子供がいる事も珍しくない。それを考えると、いささか遅い気もする。
そんな疑問が顔に出てしまっていたのだろう。私を見たラリマール様の口から、一般的な家庭よりも遅いとは思いますよという言葉が返ってきた。
「それでも、個人的には思ったより早かったなという印象でした」
「どうしてですか?」
「上兄さんと上義姉さんは二十歳と十六歳で結婚しているので、結婚そのものはそこまで遅くなかったんです。ですが、上義姉さんは体が強くなくて……式を挙げた時点では病後だったというのもあり、彼女の心身が十分に回復するまで子供は作らないって決めていたらしいんです」
その回答に驚いて、思わず彼の顔を凝視してしまった。貴族の結婚の第一義は跡継ぎを得る事だ……勿論それ以外にも細々様々な理由はあるだろうが、それが一番の理由だからこそ若いうちからの結婚が奨励されているのである。
「ご夫婦の中ではそれで問題なくとも……他の親族等は反対しなかったのですか?」
「していましたよ。エスペランサ家をこの代で潰すつもりか、個人の感情よりも家の存続を優先しろと言う人もいましたし……子供も産めないような女を嫡男の妻にするなんて、とか、妾を作るつもりなんだろう、それなら是非私の娘を……とか、口さがなく言う奴らもいました」
「……胸糞悪い話ですね」
思いっきり眉をしかめながら答えると、何故かラリマール様は目を丸くした。今の返答のどこに、驚くような要素があったと言うのか。そのままの表情で視線を向けると、彼はばつが悪そうな顔になった。
「申し訳ありません。王家ならば、そういうものと割り切っている方の方が多いのだろうと勝手に思っておりました」
「ああ……確かにそうでしょうね。歴代の王の中には正妃の他に側妃を複数持っていた方もいるみたいですし、直系の血筋の跡継ぎというのをどこの家よりも重んじているのは確かだと思います」
「それでも、王女様は今の話を胸糞悪いと一蹴なさるのですね。それは素直に嬉しいですよ、俺も糞くらえと思いましたので」
「そ、それはどうも……」
私がそう思うのは、父さまと母さまの影響だろう。父さまは、側妃を持たずに正妃である母さまだけを溺愛しているから。置かれた状況によっては必要に駆られる事があるだろうと理解は出来るが、やっぱり、夫となる方には自分だけを見ていて欲しいと思う。
「上義姉さんの体や持病の話は、結婚前から上兄さんも知っていたんです。それでも、小さい頃から婚約者として一緒に過ごしてきて見知っている相手だし、今更彼女以外を相手に出来る筈もないと言って押し切った」
「……一途なお方なのですね」
「ええ。特に、上兄さんの性格を考えれば上義姉さん以上の相手はいなかっただろうと思います。ですが……上兄さんの思いの外、親戚達の上義姉さんへの当たりが強かったそうで。結婚五年後位から、流石に色々悩むようになったとか」
なるほど、彼の長兄は自身の感情を元に動きやすくて、あまり物事を深刻に捉えるタイプではないのだろう。そんな彼が悩んだくらいだ、余程露骨で目に余る状況だったと言う事か。
「少し年が離れている俺ですら上兄さんが悩んでいると知っていたくらいですから、上兄さんと年子の下兄さんは当然知っていました。双子のように育った二人だからこそ、下兄さんは上兄さんの悩みを自分事のように思っていた。だから、何かあったらいつでも相談してくれ、全力で兄さんの力になる……実家に帰ってくる度にそう言っていた」
「兄弟の仲も良いのですね。そんな風に親身になってくれる弟がいたなら、さぞかしお兄さまは心強かったでしょう」
「心強かったとは思いますよ。けれど、上兄さんは、一度だって下兄さんに相談しないまま、親戚を説き伏せ上義姉さんの回復に尽力し、今回の出産にこぎつけました」
「……どうして」
そんな風に申し出てくれているなら、頼ったって良いだろうに。もしや内心では信用していなかったのか、と疑われても仕方ないのではないだろうか。
「その頃の下兄さんは、陸軍学校を卒業して軍に入隊したばかりでした。実践的な訓練や任務もあったでしょうし、宿舎生活だったので気軽に帰省出来るような状況ではなかったんです。上兄さんとしては、頼りにしているけれど今は忙しい時期だろうし、自分の事を優先してほしい、という理由で相談しなかったんだと思います」
「それは、気遣いかもしれませんが……でも……」
二の句が継げなくて、持っていたカップを机の上に戻し視線を落とす。そんな私を一瞥した後で、ラリマール様は言葉を続けた。
「貴女も、下兄さんと同じなんじゃないかと思って」
「下兄さまと、同じ……」
「ええ。あの時の下兄さんも、気にしなくて良かったのに、実家に帰る事は出来なくとも手紙なり電話なりで協力出来た、外ならぬ兄さまのためなのだから、そうしたかった……そう言って落ち込んでいました」
「……」
大切に思っている、身近な兄弟或いは姉妹に頼りにされなかった……その悲しさは、寂しさは、今の私には痛いくらいに良く分かる。どうして、公式に発表するまで私に黙っていたの、婚約を決めるまでに相談してくれなかったの……そんな思いが脳裏で渦巻いていて、ずっと落ち込んだままだったから。
「さて、そんな兄二人なのですが」
「なのですが?」
「今は元通り仲良しに戻っているのです。だから、その方法もお伝え出来ればなと思いまして」
「……どうやって?」
恐る恐る聞いて、彼の言葉を待つ。私の視線を感じたらしいラリマール様は、一回だけ口を結んだ後に再び話し始めた。
「二人だけでミニパーティーをしていました」
「ミニパーティー?」
「どちらか一方の寝室に集まってお酒とかつまみとかを持ち寄り、一緒に過ごしながらお互いに腹を割って話して、話して、それぞれの言い分に耳を傾けて。翌朝は二人で仲良く二日酔いになっていましたが、雰囲気は晴れやかでしたよ」
「……腹を割って話す」
姉さまと二人きりで、お互いが納得するまで夜通し話す。言葉にすれば簡単だが、私は上手く姉さまを誘えるだろうか……姉さまは、応じてくれるだろうか。
「せっかく同じ日の同じ時間に、一緒に生まれてきた無二の姉妹なんです。気まずいままで疎遠になるのは、あまりにも寂しいと思います」
彼のブルーがまっすぐに私を捉えた。その誠実な光が、私の中の恐怖をゆっくり溶かしていく。
「俺に出来る協力はします。だから、インカローズ様とお話してみてはどうでしょうか」
「……はい」
本当は少しだけ、怖気つく気持ちがあるけれど。それでも、姉さまを大切と、何よりも幸せを願うというのならば、勇気を出して前に進まないといけないと思うから。
やせ我慢も含みつつの返事だったが、ラリマール様はにっこりと頷いて下さった。
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