我儘

牧田紗矢乃

我儘

 わしの些末な動き一つが、どれほどお前を傷つけることだろう。

 それをわかってもなお、わしはやめることができないのだ。


 ――恨むなら、恨めばいい。




 ざらついた舌先が、カルラの頬のかすり傷をなぞった。

 できかけていたかさぶたが剥がれ、じわりと血が滲みはじめる。


 唾液と混ざる赤い液体を見て焦ったのか、凶器のような舌は全てを拭い取ろうと何度も何度も頬を往復した。

 そのたびに傷は開き、紅よりも赤い血の色が広がった。


「……ん」


 小さく呻いて、死んだように眠っていたカルラがゆっくりと目を開いた。

 彼女の体を覆い尽くしても余りある影の持ち主を見つめ、傷の開いてしまった頬に手を触れる。


「血が……」


 心配そうに顔を近づけ、満月のような金色の瞳がカルラを見下ろしている。

 カルラはそれを見て自分の身に起こったことが夢ではないのだと実感した。

 目の前にいるのは人間のように服を着た、身の丈三メートルはあろうかという巨大な猫だった。


「ありがとう。大丈夫よ」


 カルラは巨大な猫を抱きしめ、柔らかな声で告げた。

 猫は申し訳なさそうに俯いて、ヒゲをもぞもぞと動かしている。


 少女がこの大きな猫と出会ったのは、ほんの少し前のことだった。




 カルラは町へ売られる予定だった。

 不作の年が続き、家族の生活のためにはそうする他なかったのだ。

 まだ十歳の彼女にも、そのことは痛いほどよくわかっていた。


 町へ向かう荷馬車には、同じような年頃の娘たちが何人か乗っていた。

 幌のかけられた荷台は、隣に座るものの顔を判別することも困難なほどに暗い。


 皆一様に無言で、張り詰めた空気はそのまま未来への不安感を表しているようだった。


 その道中で、馬が大きくいなないて止まった。

 町に着くにはまだ早いし、休憩だろうか? と荷台の中の少女たちが顔を見合わせた。


 しかし、その想像は誤りであったことがすぐに明らかになる。

 怯えた馬の鳴き声と、早く馬を走らせようと焦った御者の怒声。

 それと、低い獣の唸り声。


 それぞれが三つ巴を描くように入れ替わり立ち替わり響き、時おり荷馬車にも衝撃が襲いかかった。


 馬がひときわ大きく嘶いたかと思うと、蹄の音が遠ざかっていく。

 御者が荷台を切り捨てて逃げたようだ。


 しかし、まだ獣の唸り声は聞こえている。

 荷台の中の少女たちは誰一人として声を上げることもできず、ただ身を寄せ合って震えていた。




 どれほどの時間が経っただろう。

 それまで石像のように身を固くしていた少女の一人が、意を決して幌を細く持ち上げた。

 光が差し込み、新鮮な空気が流れ込んでくる。


 この瞬間を外で待ち構えていた獣が襲いかかってくるかもしれない。

 荷台の中の緊張感は一気に膨らみ、カルラも体を小さくして身構えた。


 ……静かだ。

 獣は去ったのだろうか。


 少女たちが安堵に包まれかけたその時。

 息の詰まるような空間を、光が切り裂いた。


 まばゆい光の中に、大きなシルエットが浮かぶ。

 ずんぐりとした巨体に、丸く毛むくじゃらな顔、頭には二つの山のような形をした耳があった。


 ――熊ほどはあろうかという、大きな猫だった。


 二本足で歩くその猫は、服を着ていた。

 しかも、フードの付いた旅装だ。

 武器のようなものこそ持っていないが、その手に光る爪はナイフより鋭い。


 誰もが、目の前にいる猫こそ荷馬車を襲った張本人であると直感した。


「ヒッ……」


 どこからともなく、悲鳴が漏れる。

 小柄な少女が、猫のわきをすり抜けて走り去った。

 そのあとに続いて、一人、また一人と荷台から逃げ出していく。


 カルラも震える足に喝を入れ、前を行く少女の背中を追った。

 ところが、何歩も進まないうちに足がもつれてバランスを崩してしまった。


 木の枝が頬をこすり、焼けるような痛みが襲った。

 反射的に頬に手が伸びる。

 地面にぶつかる、と恐怖から目を瞑ったが、叩きつけられる衝撃の代わりに柔らかな感触に包まれた。


 薄く目を開けてみると、間近に巨大な猫の顔があった。

 猫の鼻面が、カルラの体に押し付けられる。

 驚き硬直する少女の隣で、猫は大きく口を開いた。




 ショックのあまり、気を失っていたようだ。

 気が付けば少女は猫に抱えられて森の奥へ連れ込まれていた。

 もがいて猫の腕から逃れようとしたが、射すくめるような眼差しにカルラは暴れるのをやめた。


「猫さん、私をどうするつもり?」

「……さあ、知らぬな」


 返事など返ってこないだろうと思ってかけた言葉だったので、カルラはいたく驚いた。

 心なしか生臭い息を浴びながら、彼女は間近で猫を凝視した。


 猫は歩むのをやめ、少女を木の葉のクッションの上におろした。

 服を着ているせいもあるのだろうが、所作の一つ一つが人間のような、不思議な猫だった。


「猫さんは私のことを助けてくれたの?」

「どうだろうな。このまま取って食うかもしれんぞ?」


 吊り上った双眸が、カルラの体をなめ回すかのように動く。


「大丈夫よ。猫さんはきっと、私を食べたりなんてしないわ」

「どうしてそんなことが言える?」

「だって、食べるなら抵抗しそうな今じゃなくて気絶してる間にさっさと食べてしまえばいいんだもの」


 カルラの言葉を聞いて、猫は満足そうにくくっと笑い声を漏らした。


「お前のような者に会うのは久方ぶりだ。ひとつ、お前の願いを叶えてやろう」


 試すように見つめられて、少女は一瞬たじろいだ。

 口の周りをぐるりとなめたその舌先は、カルラの血で赤く染まっている。


「わ、私の願いは……」


 声が震える。

 つばを飲み込んで気持ちを落ち着かせようと試みたが、口の中はカラカラに干上がっていた。

 怯える少女を見て、猫は楽しそうに目を細めた。


「遠慮せずに言うがいい。何を言ったって取って食いはせぬ」

「うちに、帰りたい」

「よかろう。生まれはどこだ、道を教えてやろう」

「嫌。一緒に来て」


 カルラは、猫の服を掴んだ。

 じっと猫を見据える瞳には、不安の色がありありと見て取れる。


「わしが怖くないのか」

「……怖い。けど、一人はもっと怖い」


 いつ追手が来るともわからない。

 野生の獣に襲われるかもしれない。


 猫が一緒にいてくれるのならば、少しは安心できる気がした。

 うつむき加減に唇を噛みしめるカルラを見た猫が、くくっと笑い声を漏らした。


「ついてくるといい」


 言うが早いか、猫はカルラに背を向けて歩き出した。




 それから、一人と一匹は無言で歩き続けた。


 馬で半日かかった距離だ。

 歩けばどれだけかかるかわからない。


「猫さん、ここは歩きにくいわ。街道みちに出ない?」


 カルラは何度目かの問いかけをした。

 猫の答えは決まっている。

「否」だ。


 猫はよほど人間を嫌っているのか、街道に出ることを嫌がりひたすらに山の中を分け入った。

 歩けど歩けど変わらない景色の中、猫という話し相手がいることだけがカルラの心の支えになっていた。


 夜は木の根元にたまった落ち葉の布団で、体を寄せ合って眠る。

 猫の厚い毛皮のおかげで、カルラは寒さに凍える心配はしなくて済んだ。


 そして、猫との旅は三度目の夜を迎えた。

 故郷まではあどどのくらいだろう。

 明日には着くだろうか。


 見慣れた街並みが目の前に現れる瞬間を想像した時、カルラの心はなぜか喜びより切なさで押し潰されそうになっていた。


「私、猫さんと会えてよかった」


 カルラがぎゅっと抱きつくと、猫は驚きでのどを小さく鳴らした。

 身を固くして、ごくり、と生唾を飲み込むのが聞こえる。

 毛皮の厚さも、普段よりも三割増しになっているようだった。


 初めの時は自分から抱きしめてきたのに、私が抱きつくと緊張するのね、とカルラは笑った。


「私ね、猫さんとずっと一緒にいたい」


 甘えた声で囁く少女の頭を猫は優しく撫でる。

 それが住む世界の違う猫にできる最大限の答えなのだとカルラにはわかっていた。


 水と食べ物だけはどこをどう探しても見当たらず、飢えと渇きで眠ることができないカルラだが心だけは満たされていた。




 歩き始めて四日の夕方、カルラはついに力尽きた。

 きっと、もっと前から身体は限界だった。


 カルラの足を前へ進めていたのはわずかに残っていた気力だけだったのだ。

 その気力もついに、底をついてしまった。


 猫はぐったりと倒れこんだ少女を見下ろし、悲しそうに一声啼いた。

 カルラにはもう目を開ける力さえ残っていない。

 今はかすかに続いている呼吸もじきに止まるだろう。


 猫は小さな体を抱き上げると、神への供物のように高くへと掲げ、懺悔する。


「ああ、哀れな少女よ。許しておくれ。わしはお前をだましたのだ」


 猫の視線の先には、少し開けた集落があった。

 カルラが探し求めた故郷である。


 背の低いカルラは知らなかった。

 けれど、猫にはずっと見えていた。

 わかっていてなお、カルラを離したくはないがために集落の周りをぐるぐるとまわり続けた。


 食糧だって、少しそれた所へ行けばいくらでもある。

 わざと何もない所を進んでいたのだ。


 カルラがそのことに気付けば彼女の勝ち。

 猫は大人しく少女を開放するつもりでいた。もし気付かずに息絶えてしまえば……。


「これからわしは、もっと酷いことをする」


 少女の死体に向けて、猫は爪を振り上げた。

 少女の服を切り裂くと、大きく口を開き右腕を口に収める。


 ガリ、ゴリ、と骨を砕く音が周囲に響き、猫は右腕を嚥下した。


 続いて左手、右足、左足、胴体と次々に噛み千切っては腹に収めていく。

 そして、最後に頭を飲み込んだ。


「恨むなら、恨めばいい」


 わしだってこんなことはしたくないんだ、と呟いて、猫は森の奥へと姿を消した。

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我儘 牧田紗矢乃 @makita_sayano

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