第6話.杞憂

 朝ごはんを食べ部屋に戻った俺は、改めて今の状況について考えてみることにした。


 まず、最も可能性の高い明晰夢だが、おそらく、時間が経って現実の俺が目覚めたり、こちらの俺が寝たりすれば覚めるのではないかと考えている。以前、テレビかネットでそんなことを目にした。


 また、現実と夢の見分け方は、確か空間がねじ曲がっているような所があるとか、現実ではありえないことが起きているとか、そんなだったと記憶している。


 とりあえず、手っ取り早く寝てみればいいのだが、さすがに起きたばかりですぐには眠れそうにはない。仕方ないので、まずは周囲を確認してみることにした。


 ざっと部屋の中と窓の外を見回す。壁や柱が曲がっていたり、空や木の色がおかしかったり、ブラックホールのような穴が空いていたりなどはない。全てが鮮明で普通である。


 特に変わった所はないが、外に出てもう少し調べてみよう。せっかくの明晰夢だし、色々見てみたいというのもあった。



 一階に降りてきた俺は玄関の前で立ち尽くしている。いくつか靴はあるが、自分のだと思われるものが見当たらない。どうしたものかと思案していると、私服姿の女の子が居間から出てきた。


 この顔は……、姉ちゃん?


「賢治、なにやってるの?」


 この声はやはり姉だ。


「あっ、えっと、靴がね、見つからなくって……」


 そう俺が言うと、夢の中の姉は手を顎に添えてうーんっと考えている。


「あんたはいつも裏から入ってるじゃない。裏にあるんでしょ。それとも、昨日は前から入ったの?」


 そうか、裏か。


 裏とは勝手口のこと。俺は昔、勝手口から出入りすることが多かった。


「そうだね、確かに。ありがとう」


 お礼を言って勝手口の方に行こうとすると、夢の中の姉は怪訝な顔をした。


「ありがとう?」


「ん?」


「あんたにしては素直にありがとうって珍しいね」


 そんなこと当然だろうと思ったが、そういえば昔、俺は照れくさくて素直に「ありがとう」と言えない時期があった気がする。そして、そのことを母と姉に、何度か咎められたことがあった。思春期特有の面倒くさい少年だったのだ。


「フフッ、中学生にもなると変わるもんだね」


 中学生? あっ、そうか。この坊主頭、俺は中学生か。平成元年の四月だから……、十二歳。入学したばかりなのかな。


「まあね」


 俺は夢の中の姉を適当にあしらい勝手口に向かった。



 勝手口から外を眺めると、前世とは異なる風景が広がっている。


 あー、まだ駐車場ができる前なのか……。


 前世では俺が十六歳の時に、車を持った姉と兄のために勝手口の先に駐車場が建てられた。そして今はそこには何もなく、ただ草に覆われた土地がぽっかりと広がっているだけ。なんとなく、駐車場が建つ前はこんなんだった気がする。


 俺は勝手口で自分のだと思われる靴を見つけると、それを履き外に出た。ざっと見渡すと、相変わらず見慣れたような見慣れないような光景が広がっている。


『ニャーー!』


 不意に聞こえてきた猫の鳴き声。その声に振り返ると、勝手口の前に茶トラの猫が座ってじっとこちらを見ている。


 あれは……、『チャーコ』かな?


 昔うちで飼っていた猫だ。うちの家族は割と猫好きで、常に一、二匹の猫を飼っていた。そして名前はたいていミーかチャーコのどちらか。


 あれはきっと二代目くらいのチャーコだろう。朝の巡回が終わって家に入りたいようだ。


 俺が勝手口の引き戸を少し開けると、どうもと言わんばかりにヴニャと短く鳴きながら家の中に勢いよく入っていった。


 猫までもがリアルに再現されているのか……、なるほどなるほど。


 その後、家の周りを散策したが、全てがなんとなく懐かしいだけでおかしな所はどこにもなかった。


 さて、どうしよう。俺は縁側に腰掛けた。とりあえず、おかしな所はない。じゃあ、現実ではありえない事が起きていないだろうか。


 まぁ、そういう意味ではすでに起こっている。時間が過去に戻っているということ。これ以上ないくらい現実ではありえないことだ。


 となると、やはり現在の状況は明晰夢で決まりとなるわけだが……、なんとなく違う気もしている。


 あまり憶えていないが、明晰夢を見た時は、視点が主体的であり俯瞰的だった気がする。つまり、自分の目で見ているけど、その自分をまるでモニター越しに見ているような感じだった。まぁ、見た時によって違うのかもしれないが。


 なんにしても、夢の中でこれが夢であると、何の根拠もなく認識できていたことは憶えている。それに比べ、どうも今の状態はこれが夢だとはっきり断言できない。



 ひとまず明晰夢は置いておいて、別の可能性を考えてみよう。実はこれが現実で、四十七歳まで生きた人生が夢だったのではないだろうか。


 ただこれは、ないだろうなぁと思っている。何故なら、ここ数日の記憶がないからだ。昨日、何をしたか、何を食べたか、など全く思い出せない。


 もちろん、この時期の記憶は多少はある。


 小学校の卒業式の後に泣いている先生に対し、「もう帰ってもいいですか?」と場違いなことを訊いたことだ。我ながら、なんて空気の読めない冷めた子供だったのだろうと、大人になってから思ったものだ。


 記憶喪失で昨日までのことを忘れてしまったという線も残るが、そうすると先ほどの卒業式の記憶があるのは不自然だ。記憶がないと言うより、時間が経って薄れている感じである。


 なので、四十七歳まで生きた人生が夢だったというのは違う気がした。まぁ、なんとなく、あの人生が夢だったと認めたくないところもある。



 ということで、今のところあとはタイムリープしか残されていないわけだが、あくまで状況証拠だけでいうとこれの可能性が高い。


 まぁ、ありえないとは思うが、明晰夢と完全には分離できないが割と簡単に検証はできたはず。それは、十二歳の自分では知り得ないはずの情報が、実際この世界に存在するか確認すればいい。


 なにがいいだろう。例えば、智子と住んでいたアパートはどうだろうか。俺は十二歳当時、東北のあの街には行ったことはないので、あのアパートが存在すればこれがタイムリープの可能性は高くなる。


 しかし冷静に考えてみると、智子と住んでいたアパートは平成元年にはまだない。三十五年も経った、おんぼろのアパートではなかった。


 また、確認しに行きたくても、十二歳の俺ではあの街に行くのは難しいだろう。


 車は論外として、電車だと特急を使っても最低でも片道五時間はかかるだろうし、お金も往復三万は必要になると思う。ケチって特急なしで行ったら、何時間かかるか分かったもんじゃない。同じように、一人暮らしをしていた遠く離れた大学も同じだ。


 考えてみれば、なにもそんなに遠い必要はないのかもしれない。十二歳当時に行ったことがない所ならどこでもいいはず。


 デートで行った公園やレストラン、よく行った古着屋、通っていた高校、近場だとこれくらいだろうか。これらが俺の記憶と同じならタイムリープの可能性は高くなる。


 別に場所だけでなく人でもいいはずだ。場所は単に忘れている可能性もあるが、人ではその可能性は低くなるだろう。例えば、大学時代の友人に十二歳の時に会っているなんてありえない。


 近場だと……、高校時代に仲が良かった福原がいいだろう。同じこの水良町みずよしまちに住んでいるが、中学が違うため出会ったのは高校に入学してからだった。確か、彼の家はここから自転車で二十分くらいで行けたはず。


 ただ、何度か遊びに行ったが、家の場所をはっきりと憶えていない。近くまで行けば思い出すだろうか。そもそも、彼に会えるのか怪しい。


 これから行ってみようかどうしようか悩んでいると、不意に玄関の扉が開けられた。


「あれ? あんた出かけたんじゃないの?」


 現れたのは夢の中の姉。先程とは服装が違う。


「いや、天気もいいし、ちょっとプラプラとね」


「ふーん。もう明日の入学式の準備はできてるの?」


 ん? 入学式? 明日?


「明日って入学式なの?」


 すると夢の中の姉は渋い顔でハーっとため息をついた。


「あんた、休み過ぎて忘れちゃってんの? 入学式、明日でしょ? まったく。やっぱりあんた抜けてるよね。鞄にちゃんと明日持っていく物が揃ってるか確認しておきなね!」


 そう捲し立てると、夢の中の姉は自転車に跨り颯爽と走り去っていった。


 なるほど。明日って入学式なのか。ということは、今日は春休みの最終日ということになる。



 部屋に戻り机に置いてあった鞄を開くと、いくつか書類が入っていた。その一つに目を通すと、確かに明日四月七日の金曜日は中学校の入学式のようだ。憶えていないが、三十五年前もそうだったのだろうか。


 中学校の入学式の記憶などもちろん全くないが、何組で先生は誰だったかは憶えている。一年一組、桃田先生だ。


 顔もよく憶えている。男性で眼鏡を掛けていて、特徴的なのはそのヘアースタイル。まだ三十代だというのに思いっきりハゲていた。よくそのハゲをネタに笑いを取っていた陽気な先生だ。とても懐かしい。最後にお会いしたのは二十歳の時なので、二十七年前だろうか。


 なんとなく目処が立ったので俺は少し安堵した。明日になれば、ある程度ははっきりするだろう。もちろん、もしタイムリープだったら智子のことは確認しないといけない。


 とはいえ、寝て起きたら普通に病院のベッドの上じゃないかと今は思っている。まぁ、色々と考えたがおそらく杞憂に終わるだろう。

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