第2章.それぞれの人生 平成元年(1989年)

第4話.幼い少年

 ――ハッと目が覚めた。


 寝起きだというのに息が荒い。なにか悪い夢でも見ていた気分だ。


 ん? ここはどこだ?


 周囲を目だけで確認する。どうやら薄暗い部屋の中で、普通に布団を掛けられ横たわっているようだ。


 えっと……、なんだったっけ?


 今ここで寝ていることが、いつものことなのか、それともおかしなことなのかが分からない。


 えっと、えっと……。


 必死に寝る前のことを思い出そうとする。


 そうだ! 事故ったんだ!!


 ガバッと起き上がり周囲を見ると、見慣れないような見たことがあるような光景が広がっていた。とりあえず車の中ではないし、明らかに病院という雰囲気でもない。


 あれ? 事故ったのは……、夢?


 キョロキョロと周囲を見回したが智子の姿はない。


 まるで時間が止まったかのような静けさの中で、カーテンの隙間から差し込む光でキラキラと光る埃だけが、時間ときが進んでいることを示しているようだった。


 しばらく部屋を見回していると、少しずつ意識がはっきりとしてきた。


 そうだ……、ここは実家のかつての自分の部屋だ。


 高校を卒業し実家を出たのは十八の時。この部屋に入るのは約三十年ぶりになる。


 見ると、かつて俺が使っていた机やタンス、そして今寝ているベッドも大昔のもの。実家を出た時に家具は全て運び出したし、それにこのベッドや机は捨てたはず。どこかで保管していたのだろうか。なんにしても、父と兄がそれらをわざわざこの部屋に戻す理由が思いつかなかった。


 そもそも、なぜ俺は実家にいるのだろう……。


 事故で怪我をして、実家で療養させることにしたのか。智子も怪我をして看病できないので、仕方なく父と兄が引き取った。そして、看病しやすいように、この部屋に家具を戻して俺を寝かせた……。


 うーん、一応それなら辻褄が合わなくもない。長年眠っていて突然今日、目覚めたとかないよなぁ……。いや、もしそうなら普通は上体を起こせないと思う。せいぜい事故から一週間程度だろう。


 何にしても、父と兄には変な借りを作ってしまった。ちなみに母は二年前に亡くなっていて、現在実家には父と兄しかいない。


 とりあえず自分を納得させたら、智子のことが心配になった。怪我の具合もそうだが、もしかしたら死んでいるかもしれない。不安で仕方なくなり、すぐに確認したくなった。


 時計を見ると、六時半を少し過ぎたあたり。光の差し込み具合からすると、朝の六時半だろう。父と兄はまだ寝ているかもしれないが、まずは下に降りてみることにした。



 部屋を出て階段の前まで来ると、一階の電灯の光が漏れてきている。誰かが起きていて、一階の台所にいるようだ。


 おそらく父だろう。この前実家に帰った時、兄の起きる時間が遅いと父はぼやいていたので、この時間に兄が起きているとは考えにくい。


 ゆっくりと階段を途中まで降りると、水道やコンロを使う音が聞こえてきた。父が朝飯を作っているのか、いや、姉の可能性もある。


 姉は結婚して、数年前に実家のすぐ近くに家を建てた。姉のことだ、俺の看病のため実家の炊事などを手伝ってくれているのかもしれない。


 階段の途中で少し屈むと、台所のシンクの前で小柄な女性が料理をしているのが見えた。やはり姉か。ちょっと違う感じがするが、しばらく会っていなかったからだろう。


 階段を下まで降りきると、その女性は俺に気づいたようで上半身だけこちらに振り向いた。


「あれ? 賢治! 起きたの?」


「えっ!? 誰?」


 振り向いた女性は姉ではない。俺は見知らぬ女性に身構えた。


「誰って、なに言ってるの? 寝ぼけてるの?」


 その女性は顔をしかめている。よく見ると、なんとなく見覚えがある。話し方と声もだ。


「あっ! えっ!? もしかして……、えっ!? か、か、母ちゃん!?」


 俺の頭はフル回転していた。


 死んだはずの母ちゃんが生きてて、それに……、若い? どういうことだ!?


 その母と思われる女性は、驚いた顔をして固まっている俺に不安そうに訊ねてきた。


「あんた、母ちゃんて……。本当に大丈夫? なにか変な夢でも見た?」


 頭のフル回転は止まらない。目覚めてから目にしたものや現在の状況から、ある可能性を導き出した。


 これは夢だ。きっとそうだ。いわゆる明晰夢というやつだ。


 俺は思い込むように心の中でそう呟いた。明晰夢は数年に一度たまに見る。


 俺はぐるりと台所を見回した。それにしてもこのリアル感、本当に夢だと思えないほど。でも待てよ。実はこれは現実で、2024年の四十七歳の人生が夢だった可能性もある。


 俺はどっちなのかすぐには判断できなかったので、とりあえずこの場は適当につくろうことにした。


「い、いや、なんでもないよ。よく見えてなくて少しビックリしただけ。ビックリして……、えっと、お母さんと姉、いや、お姉ちゃんが、一緒になっちゃった。アハハ……」


 頭の後ろをかいて照れ隠しを装う。アドリブにしては、もっともらしい返しができたと思うが……、どうだろう。


「そうなの? ならいいけど……。朝ごはん、もう食べちゃう?」


 どうやら大丈夫そうだ。


「あー、うん。お願いします」


「ん?」


「あっ、食べる」


「……そう」


 なにか息子のいつもと違う様子を感じ取っているようだ。まぁ、「お願いします」なんて、大人になってからしか言っていないと思う。



 俺は一人になりたくトイレへ向かった。一人でゆっくり今の状況を考えたかった。まぁ、実際に用を足したいというのもある。


 途中、洗面台の前を通ると、一瞬鏡に自分の姿が映った。足を止めて見ると、そこには坊主頭の幼い少年。どうやらこれが夢の中の俺のようだ。まぁ、母が若かったのだから、俺もたぶん若いのだろうと予想はしていた。


 俺って昔はこんな顔をしてたんだな……。


 しばらくの間、鏡に映った顔を近づけてみたり頭を撫でたりしていると、不意に後ろから声をかけられた。


「早いな。どうした? まだ坊主頭に見慣れないのか?」


 振り向くと見覚えるある顔……、父だ。こちらも若い。先ほどの母で一度驚いているので、そこまでじゃないがそれなりにビックリする。俺が何も答えないと父は近づいてきた。


「お父さん使うからどいてくれ」


「あ、ああ、ごめん。どうぞ」


 避けるように場所を譲ると、父は整髪料を手に取り髪をいじり始めた。整髪料の匂い。父は昔こんな匂いをさせていたなぁと思い出す。



 トイレに入り便器に座るとフーっと息を吐いた。怒涛の展開になんだか疲れた。一息ついたところで、今の状況について改めて考えてみる。


 事故のことは、はっきりと思い出せる。あれが夢だったとは思えない。とすると、やはり事故は現実に起こって、これはまだ目が覚めない中で見ている夢なのか。


 ところで、今現実で寝ている俺は車の中なのか、それとも救急搬送された病院なのか、家という可能性もある。雨が降っていたので、最低でも病院ではあってほしい。いや、そんなことよりも、とりあえず智子が無事なのか心配だ。


 あれこれ考えていたところ、不意にトイレのドアがノックされた。ビクッとする。


「賢治! いるの? ご飯もう出来てるわよ」


 ずっとトイレに籠っている俺を心配した母が様子を見に来たようだ。


「あっ、ごめん。すぐに行くよ」


 夢だからまともに返す必要はないのだが、母の声に条件反射のように答えてしまう。傍若無人な態度を取り切れないのは、このリアル過ぎる感じのせいだ。



 トイレから出て台所に戻ると、テーブルの上に朝食が用意されていた。もう二度と食べられないと思っていた母の手料理。


「い、いただきます」


「はい、どうぞ」


 恐る恐る味噌汁を手に取った。具は俺の好きな大根と油揚げ。一口すする……。


 あぁ、この味だ。


 母は亡くなる数年前から病気のせいで味覚がおかしくなっており、亡くなる少し前に実家で頂いた味噌汁は正直美味しくはなかった。数年ぶりの母の味に目頭が熱くなる。


 朝ごはんを食べていると、向かいの壁にカレンダーが掛かっていることに気づいた。よくある大きめのもので、毎月めくっていくタイプ。


 そして今、めくられているのは……、昭和六十四年四月。朝ごはんを食べ終え、テレビのニュースで日付を確認した。


 どうやら夢の中の今日は1989年、つまり平成元年四月六日の木曜日であるらしい。

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