第3話.避難
高台にある智子の実家に向けて車を走らせた。いつもは少し気が重いが、今はそんなことは言っていられない。
ワイパーを全開にしても、次から次へと降り注ぐ雨粒で視界が遮られる。台風のような叩きつける暴風雨ではなく、真っ直ぐ天から水の糸が無数に垂れ下がっているような感じだ。周囲は空気より雨粒の方が多いんじゃないかと思えるほど。
「うん、あと三十分くらいで着くと思う。……うん、……うん、……大丈夫だから」
彼女が事前に実家に電話をかけてくれている。彼女の実家とは良好な関係なので、急に行くと言っても快く受け入れてくれるだろう。
「うんうん、ご飯は食べてない。一応、食べられる物は持ってきてる。あっ、ちょっと待って」
「賢治。お母さんが夕飯どうって? いいよね?」
「うん、むしろありがたいよ」
「もしもし。あっ、じゃあ、お願いします。すぐに着くから。……うん、ありがとう。はい、じゃあね」
彼女は母親の声を聞いて少し落ち着いたよう。
「お母さん、夕飯とすぐに入れるようにお風呂を用意して待ってるって。布団も敷いてくれてるみたい」
「なんか申し訳ないな」
お義母さんはいつも俺に過剰に気を遣ってくれる。不妊治療中、お義母さんと二人きりになった時、「ごめんなさいね、ごめんなさいね、――」と何度も頭を下げられたことがあった。きっと、不妊に産んだ娘と結婚した俺に、申し訳ない気持ちでいっぱいなのだろう。
「なんか無事に来れるよう、神棚にお願いしておいたってさ」
「ハハッ、ご利益があるといいけどな」
信心深いお義母さんは、毎年、年始に俺たちのために、御札を近所の神社からもらってきて神棚に祀ってくれている。ただ、当の本人(俺)は無神論者だが。
郊外ということもあり交通量はかなり少ない。助手席にいる智子は、心配そうに窓の外をキョロキョロと見回していた。
◇◇◇◇
別に智子に不満はない。
いや、細かいことを言えば、デートや旅行プランはいつも俺任せだとか、嫌いな酢の物を食卓に出してくるとかあるが、酒の席で同僚に愚痴る程度のこと。
――そう、ちょっと愚痴る程度のこと。
大学卒業後、地元に戻り就職した会社は五年であっけなく倒産した。
倒産直前の会社というものは凄まじく、リストラや急な配置転換は当たり前で、勝手な給料カットやサービス残業の強要など、よく聞くブラック企業のような感じだった。
そんなことがあり、たまたま募集していた東北にある電機会社に再就職した。白河の関を越えることに少し抵抗はあったが、選んでいる余裕はなかった。
再就職した今の会社は業績は悪くないが、どうもコストと納期重視なところがあり、検討不足による仕様の漏れや不具合が多い。前職で一通り設計をしていた俺は、そういった問題のある製品にテコ入れという形で応援に入り、どうにか軌道に乗せるのが主な仕事になった。
そんな俺のことをスーパーサブなんてカッコいい呼び方をするやつもいるが、自分では汚れ仕事の請負人だと思っている。ただ、ありがたいことに会社も同僚も俺を高く評価してくれている。
上司からすれば使い勝手がよく、同僚からすると救世主に見えるらしい。そんな大層なものじゃないと思うが、切羽詰まった側からしたら誰でも救世主に見えるのは分かる気がする。
仕事は連日深夜まで及び、帰宅時間は夜の十二時前後が多い。でも、家に帰ると智子は必ず起きて待ってくれている。こういう時、結婚してよかったなぁと思う。
智子とは合コンの席で出会った。あの大震災の数ヶ月後、会社の後輩がセッティングしてくれたものだった。
「初めまして。
そう挨拶する彼女は、他の
とにかく、アラフォーにもなって婚活をしているのが不思議なくらい素敵な人だと思った。
その後、俺から誘って何度かデートを重ねた。聞けば、十数年ぶりに東京から帰郷したとのこと。それを聞いて、なんとなくピンと来た。おそらく離婚か長年の同棲を解消した、そのあたりだろう。
デート終わりに意を決して尋ねてみれば予想は的中、バツイチだった。本気で交際を考えていたので、この時は結構へこんだ。
前の前の前の彼女もバツイチだった。いや、前の前の前の前だったかもしれない。
自分以外の男性を本気で愛し結婚を決意したことが、交際中ずっと引っ掛かっていた。もちろん、俺の器が小さいだけなのだが、理解してくれる人はいると思う。
そんな俺の気持ちを察したのか、最後は浮気されて別れた。この時の経験から、バツイチと交際する気にはなれなかった。
それから一ヶ月後、母方の祖母が亡くなり、葬儀で帰省したついでに小学校からの友達のリョウちゃんこと『
「で、最近彼女とかはどうなん?」
「ん? うーん、この間までデートしてた人がいたんだけど。三つ年上で、真面目で落ち着いた感じの人でさ。いいなぁと思ったんだけどバツイチでね。それ聞いてげんなり」
「あー、前の前の前の前の彼女だっけ? バツイチで浮気された」
「前の前の前だよ。いや、前の前の前の前で合ってるかな……。まぁ、その辺はどうでもいいとして、あれは最後、本当に酷かった。浮気相手から別れてくれって電話が来るし、マジでまいったよ」
「アハハッ、そうだったな。でもさ、昔の彼女とその年上の人は別人だろ? 同じように浮気されるとは限らねえじゃん」
「分かっちゃいるんだけどさ。浮気云々とか、それだけじゃないんだわ。色々と気持ちがね」
「まぁ、細けえこと気にしてねえで、とりあえず告白してみろよ」
リョウちゃんは告白するのが趣味という変わった性癖を持つ男だ。告白している状況に興奮するらしい。しかも、答えはどっちでもいいとのこと。もう、なんのために告白するのか意味が分からない。とはいえ、本人はすでに妻子持ちなので、もっぱら独身の友人に告白させようとする。
「ただ単にお前は俺に告白させたいだけだろ! その手には乗んねぇよ」
そう言って俺が渋い顔をすると、彼はいつになく真剣な表情になった。
「
彼はたまにいいことを言う。本当にたまにだ。
「まぁ、確かにな……。うーん、とりあえず付き合ってみるか? その前に、オーケーがもらえるか分からんけどな」
「よっしゃー!! そうと決まれば、どうやって告白するか決めようぜ! いつどこでする? 告白の言葉は考えてんの? いくつかおすすめがあるんだよ」
やっぱりお前、ただ俺に告白させたかっただけじゃん……。
悪友にけしかけられ、交際を申し込むべく久しぶりに彼女と連絡を取ることに。一ヶ月も放ったらかしにしたので嫌われたと思っていたが、意外にもすぐに返事が来た。
連絡をした週末、久々に会った彼女は怒っている様子はない。少し洒落た居酒屋で食事と酒を楽しんだ後、帰り道で俺は交際を申し込んだ。すると、彼女は困った表情で小さくため息をつく。その様子に、これはダメっぽいなと思った。まぁ、振られることには割と慣れている。
ところが答えは意外にもオーケー。こうして俺と智子は付き合うことになり、そして、その一年後には入籍した。
実際に一緒に住んでみると、生活習慣や考え方の違いで戸惑うこともあったが、俺にとって初めての新婚生活はそれなりに楽しかった。
平日は起きて仕事に行って深夜に帰宅しやって寝るのルーティーンだが、週末は出かけることが多く食べ歩きや旅行を楽しんだ。忙しい合間を縫って海外旅行も何度か行った。
彼女の笑顔を見るのはもちろん嬉しいことだけど、なにより思い出を共有できる相手がいることに俺は幸せを感じていた。
そして結婚して一年後、突然彼女から不妊治療をしたいと告げられた。毎回、いや、毎日のように中出ししているにもかかわらず、妊娠しない彼女を見ておかしいなぁと思い始めていた頃だった。
連れてこられた病院で検査を受け、見知らぬ医者から説明を受けた。どうやら彼女は俺の知らない間に、何度かこの医者の診察を受けていたよう。まぁ、女性の身体の問題なので、あまり知られたくなかったことは理解できる。
その医者から伝えられたのは、不妊治療は身体的にも精神的にも辛いらしいし、その上、絶対妊娠するわけではないとのことだった。結構お金もかかるとのこと。
そして説明の最後に医者から尋ねられた。不妊治療をやりますかと。
俺は突然のことで頭の整理がついていなかった。隣を見ると、彼女は申し訳なさそうにしゅんと小さくなっている。俺は彼女に意思を確認した。
「智子は子供が欲しい?」
彼女は力強く「うん」とうなずく。これから始まる辛い治療をすでに決意しているようで、その表情が逆に俺だけ置いてけぼりにされている気分だった。
もし俺が治療を拒否したら大喧嘩に発展し、そのまま離婚なんてことになるかもしれない。
結局、この時の俺に選択権はなかった。事前に相談もされず、仕組まれたかのような状況にやるせなさもあったが、俺は不妊治療に同意することに。もちろん俺だって智子との子供が欲しいと思った。ちなみに、検査の結果、俺に異常はなかった。
そして治療を始めて四年近くが経った。その日、俺は朝早くから客先のところに出張に行っていた。
「おかえりなさい。早く帰れてよかったね」
早く帰れたといっても夜の九時。
「ただいま。お客さんがもっとごねると思ったんだけど、あっさりオーケーでね。あの手この手の資料は無駄になったけど……、まぁ、よかったよ」
「そうなんだ。……ところで報告があります」
意味深な彼女の言い方に、もしかして子供が出来たのかと思った。しかし、なぜか彼女の表情は硬い。ドッキリ的な感じなのかもしれない。期待と不安が入り交じる。
「えっとね、今日先生にね……、もう今月でやめますって言ってきたの」
ドッキリではなかった。俺は何か気の抜けたというか、緊張の糸が切れたというか、とにかく頭の中が真っ白だった。
何か言わないと……。
落ち着くために小さく息を吐いた。
「……そっか」
「私、今月で四十三じゃない。いつまでもだらだらとやり続けるわけにもいかないし、元々四十三でやめようと思っていたの。顕微授精も今月ので十一回目でしょ? お金もかなり使っちゃったしね。でも、やめること、勝手に決めちゃってごめんなさい」
彼女は申し訳なさそうに理由を話した。
治療法を変えても一向に妊娠する気配がないのを見て、正直、俺も数ヶ月前からこれは出来ないんじゃないかと思い始めていた。そして、いつかは終わりにしないといけないとも。
彼女は我慢と努力を重ね、そして俺は一生懸命働き金でそれを支えた。彼女とはある意味戦友だった。敗戦という結果に終わったし、嫌なこともたくさんあったのも事実。ただ、振り返り焼野原を眺める心には、悔いの気持ちはなかった。
「とりあえず、お疲れ様でした。よく頑張ったね」
彼女は堰を切ったかのように泣き出した。平気そうな顔をしていたが、やはり辛かったのだろう。
「あ、ありがとう……。賢治もお疲れ様でした」
この時、俺はどうしても訊きたいことがあった。この先のことを。
「うん。……で、これからどうする感じ?」
「どうするって? うーん、どうだろう。これから二人で楽しく生きていきましょう……、だよね?」
……。
「……うん、そだね」
彼女の答えを聞いてホッとしたような残念なような、両極端の気持ちが俺の中にあった。
彼女は二人での未来を語った。俺は一体どうしたいのか、今でも何故か答えは出ていない。
◇◇◇◇
水没した道をどうにか避けながら進んでいき、ようやく実家の住宅地へと続く上り坂までたどり着いた。この長い坂道を登り切れば実家はすぐそこ。坂道といってもそう急ではないので、崖崩れなどは心配ないだろう。
雨水が流れ落ちる道路や斜面は、さながらウォータースライダーのよう。車が浸水しやしないか不安だが、今は多少無理をしてでも進むしかない。
「ここまで来れば、大丈夫だよね?」
「うん、まぁ、大丈夫じゃないかな。さすがにここまでは水は上がらないだろ」
「そうだよね」
彼女はフーと息を吐くと、安心したのかシートに深くもたれた。
いくつかカーブを抜け、坂道の中頃まできた。あと三回ほどカーブを抜ければ頂上。緩い左カーブを抜けると次は急な右カーブ、何度も通っている道なのでよく分かっている。
そして、それは右カーブに入る直前だった。どこからともなく、白いものが突然目の前に現れた。
驚いて咄嗟にブレーキを踏む。ヘッドライトなのか強烈な光が俺の目を射った。ほとんど視界がない中、その白いものは、大きさと色から工事関係者がよく使う大きなワンボックスカーのように見えた。
スピードを出し過ぎたのか、雨でスリップしたのか、そのワンボックスカーだと思われるものは大きく対向車線にはみ出している。異常な大きさとスピードで、それはまるで俺たちの車に空中からのし掛かってきているように感じた。
――これはやばい!
咄嗟にハンドルを左に切り顔を逸した。逸した先に見えた彼女は、突っ込んでくる白い光から逃げるように、目をつむり身を守るような体勢でドアの方にうずくまっている。
意図した通りに車が横を向いた。俺の右側から大きく強烈な白い光が迫る。恐怖で目を開けていられない。
そして衝突の瞬間、今まで経験したことがない衝撃が体中を走った。潰されるような
智子の「キャー!」っという叫び声の他に、語りかけてくるような誰かの声が聴こえてきた気がした。走馬灯というやつだったのだろうか。
俺は薄れる意識の中で、智子が無事なのか、そのことだけが……。
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