第2話.豪雨

 今日は土曜日、予報通り昨夜から雨。


 いつもなら夫婦揃って休みだけど、賢治は新たに担当になった仕事の進捗がよくないようで、豪雨予報だというのに朝から会社に行った。


 雨は昼過ぎから強くなり、三時頃にはアスファルトを打つ雨の音でテレビの音が聞き取りづらいほどに。


 テレビはどの局も通常の放送を中止し、特別番組で各地の雨量などの状況を伝えている。中継先では、もういくつかの川で水があふれ浸水した家があるようだ。


 中継の画面が切り替わると、なんとなく見たことのある風景が映し出された。


 あっ! うちの近くの川!


 すぐ近くを流れる川の水位はかなり高く、流れる茶色の泥水がまるで生き物のよう。その異様な光景に恐怖心が湧く。


 賢治、早く帰ってきて……。


 夕方五時、突然けたたましくスマホが鳴った。見ると、大雨洪水警報でこの地域に避難指示が出たようだ。


 避難すべきだということは分かっている。けれど、どうしたらいいのか判断ができない。オロオロしているところに再度スマホが鳴った。賢治からだ! 私は助けを求めるように電話を取った。


「もしもし賢治?」


「あっ! 智子? 避難指示が出たね。すぐにお義父さんのところに避難しよう」


「う、うん、そうだね。どうすればいい?」


「じゃあ、一旦うちの会社に来てくれない? 俺を拾って実家に行く感じ。俺の車は会社に置いていくよ。来る時に、バッグに下着と部屋着とタオル、あと何か食べるものがあれば入れて持ってきて」


 彼はまるで事前に訓練でもしたかのように、テキパキと指示を出した。私の方が年上なのに情けない。


「了解です! すぐに支度して出るよ。三十分後にはそっちに行けると思う」


「お願いします。来る時に気をつけてね! こっちは会社にいる分には安全だから、智子は自分の安全第一で」


「うん、ありがとう。じゃまた後で!」


 手早く身支度を整え、指示された通りに下着などをバッグに詰めた。そうしている間にも、雨は更に強くなっている気がする。


 長靴を履いて外に出ると周囲は雨で煙っている。私は土砂降りの中を車まで走った。


 駐車場を出てすぐ、裏の用水路はあと少しで溢れそう。


 脇道から国道に出ると、そこそこ車の通りがあった。他の車も避難するため急いでいるのか、大雨で見通しが悪いというのに結構なスピードを出している。対向車が巻き上げた水しぶきで何度も視界が遮られた。


 私は慎重に運転するため、ハンドルを握る手を強めた。


◇◇◇◇


 賢治とは再婚だった。


 前の夫とは交際期間を含めると十年以上一緒にいたのに、その間の記憶はあまりない。離婚した時に写真などは全て処分したので、最近では顔も朧げ。まぁ、会えば気づくとは思う……、たぶん。


 結婚してからはほとんどないけど、交際している時はよく賢治に前の結婚のことを尋ねられた。気になるのは分かるけど本当に憶えていないし、それに訊かれたことでいちいち思い出してしまうことが面倒。私は早く記憶から消し去りたかった。


 私には人生で大きな後悔が二つある。その一つが、前の夫との結婚だ。



 東北の地方都市から上京した私は専門学校を卒業後、そのまま東京で金融関係の会社に就職した。その就職した会社の先輩、それが前の夫である。私の教育係になった彼に、なんとなく優しくされ、なんとなく交際に発展し、そして、なんとなく結婚した。


 ところが、結婚生活はすぐに破綻した。彼は平日は同僚や友人と飲み歩いては毎日のように深夜に帰宅し、また、独身時代の風俗通いがやめられないようで休日はいつも一人で外出。


 そうなると、当然夜の営みもほとんどなかった。まぁ、一度性病を伝染うつされた後、私が拒否していたのもある。


 もちろん、そんな人と結婚し、だらだらと何年も結婚生活を続けてしまった私にも問題があったことはよく分かっている。でも、それを差し引いたとしても、貴重な二十代を浪費したことは代償として大き過ぎるものだった。


 ただ、私にとって幸運だったのは、賢治と出会えたことだ。



 あの大震災から数ヶ月後、賢治とは合コンの席で出会った。当時三十七歳アラフォーの私より、三つも年下の彼の第一印象は正直あまりよくなかった。


平井ひらい 賢治けんじです。よろしくお願いします」


 そう挨拶する彼は、色が白く少しつり上がった目、本当に何も興味がなさそうな冷めた表情で、出会いの場なのに人を遠ざけているよう。ところが、見た目に反し口調は柔らかく性格も温厚で、そのギャップもあって逆に興味が湧いた。


 その後、何度かデートを重ね、少し疎遠になった時もあったけど、秋がくる頃に彼から交際を申し込まれ付き合うことになった。


 男性とお付き合いするのは二人目だし、また十六年ぶりだったので、この時は年甲斐もなくテンションが上がった。


 そして、その一年後にはプロポーズされ、私はそれを受け入れた。


 プロポーズを受け入れたものの、一度失敗している身としては正直心配していたところもあった。でも、彼は前の夫とは違い、結婚後も本当に私のことを大切にしてくれた。


 お互い出かけるのが好きで、桜や紅葉などの季節ものから最近話題のスポット、美味しいものを求めて食べ歩きにもよく行った。長期の休みを利用して、温泉や海外旅行も何度か連れていってくれた。


 私の夢や希望を叶えてくれることはもちろん嬉しいけど、それ以上に私と一緒にいること自体を彼が喜んでいることがなにより嬉しかった。



 そうして彼と結婚して一年、避妊していないにもかかわらず、私が妊娠する気配は全くなかった。そのため私は彼に伝えた。不妊治療を始めたいと。


 私は前の夫との結婚で、子供が授かりにくい体であることは分かっていた。もちろん、以前も不妊治療は行った。


 不妊治療は思っている以上に身体的、精神的に辛く、そして、かなりお金もかかる。結局、前回は私の気力が続かず、一年も経たずに断念してしまった。お金がかかることに前の夫が否定的で、また、協力的ではなかったところもあるかもしれない。


 しかし、よくよく考えてみると、私自身、前の夫との子供が欲しかったのかは疑問だった。人並みに結婚し子供をもうけて育てていくことを、ただ望んでいただけだったのだと思う。


 でも、今回は違った。賢治との子供が欲しい、純粋にそう思った。



 二度目の不妊治療は以前に比べると余裕があった。相変わらず薬や注射により体調は悪いものの、改良されているのか前回ほどではない。賢治も協力的で、仕事で疲れているにもかかわらず積極的に家事をしてくれた。


 また、残業代を含め彼の給料はよく金銭的な心配もない。むしろ、毎日深夜まで働いている彼の体調の方が心配だった。


 高齢出産になるなど不安はあったけど、余裕があったせいか何の根拠もなく子供が出来るような気がしていた。おそらく、彼も同じであったのだと思う。


 ――ところが、現実はそう甘くはなかった。



「おかえりなさい。早く帰れてよかったね」


 早く帰ってきたといっても夜の九時。


「ただいま。お客さんがもっとごねると思ったんだけど、あっさりオーケーでね。あの手この手の資料は無駄になったけど……、まぁ、良かったよ」


「そうなんだ。……ところで報告があります」


 そう切り出して、しまったと思った。これではまるでいい報告がありそうな言い方。恐る恐る彼を見ると、やはりなにか期待をしている顔。


「えっとね、今日先生にね……、もう今月でやめますって言ってきたの」


 彼は私の言葉を理解するのに時間が必要なのか、目をぱちくりしながら固まっている。しばらくして、ため息混じりに小さく言った。


「……そっか」


「私、今月で四十三じゃない。いつまでもだらだらとやり続けるわけにもいかないし、元々四十三でやめようと思っていたの。顕微授精も今月ので十一回目でしょ? お金もかなり使っちゃったしね。でも、やめること、勝手に決めちゃってごめんなさい」


 静かに私の話を聞いていた彼は優しく微笑んだ。


「とりあえず、お疲れ様でした。よく頑張ったね」


 子供が出来なかった私を彼は頑張ったと言ってくれた。そのことが嬉しくて、でも申し訳なくて、色々な感情が混ざり合って涙が抑えられない。彼の言葉で、私は自分の中で区切りを付けることができた気がした。


「あ、ありがとう……。賢治もお疲れ様でした」


「うん。……で、これからどうする感じ?」


 ん?


「どうするって? うーん、どうだろう。これから二人で楽しく生きていきましょう……、だよね?」


 少しの間の後、彼はぽつりと言う。


「……うん、そだね」


 微笑みながらも遠い目をしていた彼の表情が、頭から離れなかった。


 あれから七年、私たちは変わらず仲良くやっている。でも、私はあの時の彼の表情をずっと忘れられずにいた。


 私には人生で大きな後悔が二つある。もう一つは、賢治と離婚してあげなかったことだ。


◇◇◇◇


 大きな水溜りにハンドルを取られながらも、どうにか賢治の会社にたどり着いた。


 とりあえず、正門前に来たけど、ここでよかったのだろうか。社員用の通用門はいくつかあるようだけど、彼が普段どこを使っているのかが分からない。


 電話しようとスマホを手にしたところで、門から傘をさして走って来る人影が見えた。


 賢治!


 心細かった気持ちがふわっと和らぐ。まるで迷子の子供が親を見つけた時のよう。


「無事に来れてよかった。来てくれてありがとう。運転代わるよ」


「うん、お願いします」


 私が助手席にスライドすると、すぐに彼が運転席に乗り込んだ。彼は素早くシートとバックミラーを調整している。


「あっ、もしかしたら雨で通行止めとかあるかもしれないから、道は分かってるけどスマホでナビってくれない?」


 さすが賢治。やはりただのあしではない。そんなこと、私は全く思いつかなかった。


「了解。ちょっと待ってね」


 すぐに地図アプリを起動する。見ると、市内のいくつかの道路は渋滞なのか赤くなっていた。彼の言うように通行止めもあるようだ。私は実家までのルートを検索した。


「えーっと、今のところいつもの道で大丈夫そう。変化があったらすぐに言うね」


「了解。お願いします」


 そう返事をすると、彼は車を走らせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る