第1章.想いを抱えて 令和六年(2024年)
第1話.ただの葦
『問題です! 古事記や源氏物語の研究で知られる、江戸時代の国学者は?』
『チッ、チッ、チッ、チッ、――』
『も、
『……正解です!!』
八月末、金曜日の夕飯後、いつものように夫婦揃ってテレビを観ている。最近の夜の番組は、どのテレビ局も投稿動画を扱ったスペシャル番組で似たり寄ったりだ。気軽に観れる投稿動画も悪くないがさすがに飽きてきたので、特別好きというわけではないがこのクイズ番組を観ているわけである。
「誰だよ本居宣長って。全く聞いたことないんだけど」
俺はテレビに向かって文句を言う。あまりの初耳加減に、真面目に答えを考えていた自分が馬鹿らしくなった。もちろん、身勝手な考えだということは分かっている。
「私は何となく聞いたことあるよ」
そんな俺をチラリと見ながら妻が言った。
「マジで!? さすが文系! 高校の歴史で習うんじゃない?」
俺は理系で妻は文系だ。私立理系コースだったので、高校で日本史は全くやっていない……、と記憶している。
「どうだったろ。中学のような気がするけど」
「いや! 絶対ないって! スーパー初耳だもん」
「そこまでじゃないでしょ?
彼女はジト目で俺を見た。
「そう言われると耳が痛いけどさ……」
次の問題が始まる。
『問題です! 母国語の話者が最も多い言語は?』
『チッ、チッ、チッ、チッ、――』
「英語じゃないの?」
同意を求めてくるように彼女が言う。でも俺は違うと思った。普通は世界共通語の英語だと思うが、そんな簡単に分かる問題ではないだろう。単純な話者であれば英語かもしれないが、母国語となると……。
「いや、中国語じゃない? まぁ、北京語と広東語を分けられちゃうと怪しいけど……、でも、それでもそのどっちかかなぁ」
『えっと……、英語!!』
『……ざんねん。正解は中国語です』
半分当てずっぽうで言ったが正解だった。ちょっと嬉しい。
「おー! すごい。よく分かったね」
「ほとんど感だよ。でもまぁ、中国の人口って十四億くらいじゃない。アメリカだって、三億か四億くらいでしょ? 中国が圧倒的だよね。インドも十四億くらいだけど、昔インド人の何人かと一緒に仕事したことがあって、彼ら母国語ではお互い通じないって言ってたんだよね。基本はヒンドゥー語なんだろうけどさ。まぁ、だからかな」
「へー、賢治は色んなことを考えてるね」
「いや、何も考えてないって。俺は何も考えてない
「それじゃ、ただの
そう言うと彼女は高らかにアハハと笑った。
俺が色んなことを考えているのかどうかは分からないが、学力的な知識、要は学校の勉強はそれほど良かったわけではない。中高大学を通して、平均点……、いや、平均点の少し上くらいであった。まぁ、よく言われる中の上、上の下だ。
「
「私だってそんなに勉強してないよ。もっとやっとけばよかったって、思ってるくらいなんだから」
地域で一番の高校に行った彼女でもそう思うようだ。じゃあ、俺は相当やってないことになるな。
『もっと勉強しておけばよかった』、誰しも一度は思うことではないだろうか。とはいえ、いつから勉強しておけばよかったのだろう。
大学か? いや、いい大学に入るにはいい高校でないと。そうなると、さすがに小学校からやり直すのは辛いから中学からだろうか。
俺が通った高校は、進学校とはいえ大学に行けるギリギリのレベルの学校だった。七割は大学、残りの三割は専門学校という感じだ。
その七割もほとんどは地方の無名私立大学で、俺はその中でも首都圏にある総合大学にどうにか合格することができた。レベル的には偏差値五十程度なので、地方の無名私立大学とそう変わりはないが。
今の職場には、普通に旧帝大がゴロゴロいるのでかなり肩身が狭い。もちろん、仕事ができるかどうかはまた別の話ではあるが、感覚的にはやはりいい大学出身者ほど仕事ができるやつが多い気がする。まぁ、そうでないと会社としては困るんだけど。
学力とは関係ないが、俺の高校は男子校だった。異性とほとんど触れ合うこともなく、また中学の苦い経験から部活動もやっていなかったので、青春というものをほとんど経験することなく過ぎてしまった。
自分の人生の中で、この高校時代は結構後悔している。あの頃の俺は目標もなく、また向上心もなかったため、その時の成績で行ける高校を受けたに過ぎなかった。
「もし戻れるとしたら智子はいつからやり直したい? 専門学校? 高校? 中学?」
彼女はしかめっ面でうーんっと唸っている。色々と昔のことを思い出しているのだろう。
「高校かなぁ、高一。私、本当は大学に行きたかったんだよね。実家はあまりお金がなかったから仕方なく専門学校に行ったけど、国公立なら大丈夫だったんじゃないかな。まぁ、そこまでの学力もなかったんで、勉強を頑張って大学に行きたいね。賢治は?」
「俺は中学だな。中一」
「戻り過ぎ。そこからやり直す気力は私にはないよ」
彼女はまたアハハと笑った。彼女の言い方と態度にちょっとムッとする。
「智子は地域で一番頭のいい高校に行けただろうけど、俺は進学校とはいえ大学に行けるギリギリのレベルの学校だよ。しかも男子校だし」
「うわっ。また始まったエロが」
「うっせ」
彼女はやれやれといった感じだが、異性が同じ教室にいるかいないかは大きい。まぁ、いたらいたで面倒なこともあるんだろうけど。
そんなやり取りをしている間に、クイズ番組は終わっていた。優勝はいつもの赤い人のようだ。
夜の十一時過ぎ。いつも金曜日は少し夜更かしをすることが多いが、今日は早めに寝る必要がある。明日の土曜日は休日だが仕事に行く予定だ。
急な仕様変更が入った製品に、先週から応援で入ることになった。平日は会議や問い合わせで時間がなかなか取れないので、休日に腰を据えて仕様変更に対する影響と再設計をするつもりでいる。細かいのは若い子に任せるとしても、どうにかメジャーな所は明日のうちに検証しておきたい。
しかし、今日の金曜日はノー残業デーで強制的に退社させられたが、その次の日に休出なんて本末転倒な気がする。まぁ、そうでもしないと金曜に深夜まで残業して土曜に休出するという、ゴールデンコンボになってしまうのだが。
ただ、文句も言っていられない。ここで少しは進めておかないと、来月のお客さんとの検証会でまともな報告ができなくなる。客先に遅れを報告すると挽回策を考えさせられる羽目になり、結局余計な仕事が増えてしまうのだ。それだけはどうにか回避しないと。
先に歯を磨き布団に入ってスマホを見ていた彼女が心配そうに呟いた。
「明日、すごい大雨の可能性があるって……」
夕方のニュースでそのことは知っていた。『経験したことのない程の大雨の可能性』と報じていたが、最近はそのフレーズが多い。
このアパートの周辺は川と用水路に囲まれており、大雨の際は水が上がり易い地域に指定されている。その為、そのニュースのことは気にしていた。
「らしいね。ニュースで言ってた。明日は様子を見ながら最悪避難することも考えておこう」
「そうだね。実家は高台だから避難するならそこかな」
明日はこまめに連絡し合うことを確認すると、俺はいつものように彼女の布団に潜り込んだ。
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