嘘でも本当でも

@ueda-akihito

嘘でも本当でも

 *

朝露の中に居たはずが、いつの間にか夜霧を生きていて

秋のはじめに立っていたはずが、いつの間にか冬を越えていて

青春を謳歌していたはずが、いつの間にか社会の一員になっていて

そうやって俺は、ずっといつの間にかを生きてきた気がする

それを今更になって、こんなことになってはじめて、じっとり思い返しているのだから

都合が良すぎて笑ってしまう

勿体ないと思うくらいなら、もっとちゃんとすればよかったのに

それでも俺は

例えもう一度、生まれた時からやり直せるチャンスがあっても

きっと同じように生きるのだろう

それが自分の本質なのだと

性分なのだと

そう思って納得するのは、別に悪いことではないと

少なくともあの時までは、そう思っていた

そう、思っていたのだ


 *

「ガン、っすか……?」

自分でも随分と間抜けた声が出たものだなと真(ま)宏(ひろ)は思った。目の前に座る医師は、心情の読めない顔をして、

「胃ガンは、自覚症状がない人がほとんどなんです」

そう付け加えた。

発覚は会社の健康診断。

大手とはいかないが、そこそこのシステム会社にプログラマーとして勤務し、早五年。

毎年行われる健康診断で、はじめて再検査の通知を受けた。

最近疲れが取れにくいなぁ、とは思っていた。けれどその程度だ。

だからなんの構えもなく、再検査の結果を受け取りに来た。なんの構えもなく。

(……ガン……)

ガンって漢字、どう書いたっけなぁ

現実逃避なのか、なんなのか、真宏の心は変な方向に飛んだ。医師がなにやら説明をしている風であったが、どうしたっても耳はその音を拾ってはくれなかった。

(動揺、してる、んだろうなぁ、俺は……)

ボーっとしていたら、どうやら説明は終わったらしい。ポイッと診察室を出されて、真宏は待合室のソファーに深く腰掛けた。

天井を見上げる。

一面真っ白で、そして天は高かった。

広い、総合病院だ。

再検査の折り、こんな大層な病院でしなくても良いだろうにと思っていた。けれど今、その大きさが、妙に心強く感じられている。

(死ぬのかねぇ、俺は……)

そういう説明だけでも、ちゃんと聞いておけば良かったなぁと思った。まるで他人事だ。

(なんか、結構な量の書類を貰ったから)

たぶんそれになにか書いてあるのだろう。死ぬとか死なないとか、そういう何かが。

「カミナガマヒロさん、カミナガマヒロさん、三番窓口へどうぞ」

クルクルと思考を巡らせていたものだから、真宏は発された音が自分の名前だと暫く気が付かなかった。

「あー、はい、はい。すんません」

受付の看護婦さんが怪訝な声色で四度目のアナウンスをしようとした所で、真宏は慌てて窓口へ駆け寄った。

「入院の手続きについてですが……」

「え、入院、ですか……?」

「……担当医からの説明を、まだ受けていらっしゃいませんか?」

「あ、いえ。受けたと、思います。すんません」

「では、ご家族への連絡は……」

「あ、やっぱそういうの、したほうが良いっすかね?」

「……やはりもう一度、担当医からの説明を……」

「いやぁ、あはは」

真宏は笑って誤魔化して、チグハグな会話の中から組み立てる。

(なるほど、俺は入院が必要で、それを家族に連絡した方が良い状況なわけだ)

ああ、それって結構なことなんじゃないだろうか。

(ワーオ……)

真宏はもう一度、病院の高く白い天井を見上げたのだった。


 *

入院の手続きは、全部母親が済ませてしまった。良いと言っているのに入院費までポンと出されたものだから、真宏はなんとも居心地の悪い気分を味わった。

「まったく、三十路も近い息子にこんな苦労かけられるなんてねぇ」

「だから、金も別に自分で払えるし……わざわざ母さんが来なくても大丈夫だったってば」

「そういうわけにはいかないでしょうが。馬鹿な子ねぇ」

真宏の母、雪代(ゆきよ)は、良く言えば大らかな性格だ。悪くいえば、考えなし。あっけらかんとしていて、裏表はないけれど、考えも浅いタイプである。

父親も含め、真宏の家族は基本的に自由な人間の集まりだった。

そんな母が、わざわざこうして成人を越えた息子の面倒を看ようと乗り出している。

「あ、父さんも明日お見舞いくるって言ってたよ。あんまり心配かけないでよねぇ〜まったく〜」

真宏は、母が買ってきた真新しいパジャマに袖を通しながらうなだれる。

(一人っ子の定めか……)

入院する部屋は大部屋だ。

先ほどから周囲のベッドからの視線が痛い気がする。

良い歳をした男がなにからなにまで親に世話を焼かれている姿は、どう贔屓目に見ても滑稽に映ることだろう。

(まぁ、いいけどさぁー)

それだけ心配をかけているということを、わかっている。両親とも、態度にこそ出してはいないけれど。

真宏は、そういう意味でも、もう大人の考えを持っていた。

「カミナガさ〜ん、検査のお時間で〜す」

パジャマのボタンを全部留め終わった所で、看護婦さんがやたらと明るい声を出しながら部屋に入ってきた。

「あら、お母様がいらっしゃっていたんですね〜」

「ど〜も、お世話になります〜」

ベッドに腰掛けている真宏を余所に、二人は水飲み鳥のように交互にペコペコとした。

真宏はやれやれとため息をつくしかない。

放っておいたら何時間でもペコペコしていそうだったので、会話を斬るようにして割って入った。

「あの、検査って、なにするんすか?」

「真宏、あんたもうちょっと利口そうなしゃべり方できないの?」

「……すんません」

なにせ社会人といってもプログラマーの畑でやってきた。男ばっかりの、ある種のオタク集団である。上下関係はあるものの、そんなにしっかりしたものでもない。態度や言葉遣いは関係なかった。

頭のいい奴と要領のいい奴が上にいく。年齢さえも意味を持たない。

「今日は採血と、それから午後に内視鏡の検査をしますので〜」

「それ、この間もやったんすけど……」

「今度はより詳しく検査することになるんですよ〜」

看護婦さんは始終ニコニコと笑って言った。

(この人、看護婦……あ、今は看護師って言うんだっけ……まぁ、いいや……この仕事、ほんとに楽しいのかねぇ……)

心から仕事が楽しくて笑っているのか、それとも笑うべきだと思って笑っているのか、それとも、もう笑うのが癖になっているのだろうか。

「さ、行きましょう。歩けますか?」

「ああ、はい。歩けます。全然、大丈夫っす」

「真宏、母さんも一緒に行こうか?」

「結構です。いろいろ助かったけどさ。もう大丈夫だから」

帰って良いよ、と真宏は言おうとした。けれど、その言い方はなんだか冷たすぎる気がしたから。それ以上はなにも言わなかった。なにも言えなかった。

 *

せっかく着たパジャマから検査着に着替えて。広くて白い廊下を看護婦さんと検査室へ歩きながら。真宏はぼんやりと考えていた。

仕事のことだ。

(一応今やってる案件は、先輩に引継ぎしたし……今はそんなに人手不足ってわけでもないし……あー、あの最近入ったバイトの子……なんかすぐ辞めそうなニオイしてたなー……ダイジョブかなぁー)

「カミナガさん、今、なに考えています?」

「え」

「ずいぶんと、難しい顔をされていたので」

看護婦さんは未だにニコニコ顔だ。真宏は少しだけ考えてから「看護婦さん、仕事、楽しいですか?」と尋ねた。

彼女は暫くキョトンとした後、

「生きているって、感じはしますよ」

そう答えた。

深い笑みだ。

(あー、失敗した)

真宏は思う。

(この人、めっちゃしっかりしてる人だ)

己のように、仕事を「楽しい」とか「楽しくない」とか、そういうことで判断していない人だ、そう瞬時に理解した。

ちゃんと、意志をもって、この職に就いている人だ。

「カミナガさんは、お仕事、楽しいですか?」

やっぱりそうくるかー、と。真宏は、もう圧倒的に見飽きている病院の天井を仰ぐ。

「楽しい、っていうか……俺、なんとなく、できることをしているだけなんで……」

「プログラマーさん、でしたっけ」

「まぁ、はい」

「すごいお仕事じゃないですか」

「すごく、は、ないです。なんとなく、やってるだけなんで……」

そんなことを話していたら、検査室についた。真宏はホッと息を吐く。これ以上は話すほどに墓穴を掘ると思った。

「あら、先客がいた。ごめんね、カミナガさん、ちょっとここで待ってもらえる?」

「あ、はい」

先に検査室に入った看護婦さんが、驚いた声を出した。

真宏は廊下に並ぶ長椅子に腰掛けて、横目に様子を伺った。

検査室の扉はすぐに開いた。オレンジ色の明るい室内灯が廊下に光の筋を作る。

その光の中から、人影が、浮かび上がった。

「ありがとうございました」

やけにハッキリした声が聞こえた。高い声。でも、男の声だ。なんというか、瑞々しい感じのする声。

視線を扉に向けたままでいた真宏は、検査室から出てきたその人物とガッチリ目が合った。

(ありゃま)

出てきたのは、真っ黒な学ランを着た学生だった。

(高校生……?いや、中学生、かな……)

なんの検査だろうか、と真宏は目線だけで探った。一瞬だけだ。すぐにそれが不躾な視線だと気付いた。

が、しかし。

(……えっと、)

真宏が視線を外しても、学ランの少年の視線が外れることはなかった。

ジッ、と。

瞬きすら、忘れているかのように。ほんの少しの驚きも含まれているような、まんまると開いた瞳だ。

それは、不躾というよりも、もっと純粋な視線だった。真宏は、穴があきそうな程に見つめられながら、

(ぅわー……キッレイな目ぇしてんなぁ〜……)

そう、思った。

一見したら、普通の黒い瞳。

けれどよくよく見返せば、それは、深い青、水の色、のような。そんな瞳だった。

(……ハーフ、かな……?)

「さ、カミナガさん、どうぞ」

「え」

「検査室、どうぞ?」

「あ、はい……」

なんとなく名残惜しいような気になりながらも、真宏はだいぶ慣れてきてしまった検査室へ、足を踏み入れる。

(……あの子も、なんか、どっか、悪いのかなぁ〜……)

世知辛いなぁ、まだ若いのに……

自然とそう思って、そして暫くしてから、

(ああー……俺もか……)

気付いて少し、切なくなった。


 *

病院の夜を、真宏はナメていた。母がアレコレ世話を焼いて賑やかしくしていたからだろうか。

それとも検査に次ぐ検査で、思いの外、緊張していたのだろうか。

はたまた、昼に大層な時間昼寝をしてしまったからだろうか。

恐らく最後の説が有力だが、とにかく入院一日目、真宏は眠れずに病室の天井を見上げていたのだった。

(……天井も、床も、壁も、カーテンも……)

全部白いのが問題なんだ!

昼間、さんざんと光を浴びて明るく清潔に見えていた室内。

それが夜になると、わずかな月光やら街灯やらを反射して、淡く青く光って見える。

つまり、照明が落とされ、カーテンが引かれていても、完全に暗くならないのだ。

暗いけれど、ぼんやり見える。

絶妙なバランスで、それは真宏の心を余計にさざ波立たせた。

(いや、この歳になって、さすがに、その、幽霊とか、オバケとか、そういう、ね、ないない。ないって。ダサいにもほどが……)

言い聞かせている途中で、隣だか向かいだかのベッドからゴゾリと音がした。真宏は、ヒッと声が出そうになるのを寸での所で止める。

(ね、寝返り、かな……)

静かであるほど余計に浮き立つ他人の気配も、真宏の神経を刺激していた。

ウトリとも微睡めない。完全に、ギンギンに、目が冴えてしまって、頭が冴えてしまって、ただただ見えないものへの恐怖みたいなものだけが育ってしまっていた。

(もしかしたらベッドの下から女の顔が……もしかしたら天井から生首が……もしかしたら布団の中の裸足を冷たい手に掴まれるかも……もしかしたら……)

思いつく限りの怖いことを連想してしまっては、ゴクリと生唾を飲む。

時計の秒針が進む音さえも、時折大きく聞こえるほどだった。

それでも真宏は、馬鹿のひとつ覚えのように、もしかしたらを繰り返した。

要は、それだけ心が暇だったのだろう。怖いことを有らん限りで考えていくうちに、たどり着いた。

(もしかしたら、俺、もうすぐ、)

死ぬのかもしれない……?

その考えが過ぎった瞬間。

真宏の心はスンと涼しくなった。

今までの、それこそキャーキャー言い出してしまいそうな、お化け屋敷の興奮のような、そんなドキドキは一切なかった。

ただ真顔で、ベッドの中、首を傾げる。

(んー、それは……あんまり……怖くない……かも?)

そうして、そのことに気付いた瞬間。

死ぬのが怖くないのなら、幽霊もオバケも、別に怖くないんじゃないか? という結論に行き着いた。

行き着いて、それが、とんでもなくツマラナイ事に感じられて。

(……寝よ……)

なんとしてでも寝てやろうと、真宏は布団を被りなおした。

いや、被りなおそうとした、ら。

目が、合った。

カーテンの、隙間から、こちらを覗く、人間の瞳……

「ぅううああああっ!」

反射だ。

思わず、叫んだ。

思わずだったから、声は掠れたし、大声にはならなかった。けれど、布団からは這い出たし、シーツをギュウと握りしめていた。

「しー……大部屋なんですから、静かにした方がいいです」

真宏を覗く瞳は、丁寧に真宏を諫めると、ゆっくり、カーテンを引きあけた。

真宏の心臓は、爆発寸前のように鼓動している。

鼻から吸った空気がヒュッと鳴ったから、もしかしたら暫く息を止めていたのかもしれない。

カーテンをあけて真宏の目の前に現れたのは、人間だった。登場の仕方と場所と時間がちょっとアレだっただけで、ちゃんと人間だった。

それも、見覚えのある。

「あ、れ……キミ、昼間、すれ違った……」

「はい。そうです」

学ランを着ていなかったから、一瞬わからなかった。

しかし、瞳だ。

間違えようがない。

夜の光を携えて、昼間見たときより、よっぽど深い青に見える瞳。

検査室ですれ違った、あの、少年がそこにはいた。

「こんばんは、えっと、カミナガ、さん?」

「……こ、んばんは……」

キミは誰だ? とか、なんでこんな時間に? とか、なんの用? とか、オバケですか? とか、聞きたい事はたぶん真宏には山ほどあった。

けれど、真宏が口を開く前に、正確には言葉を発しようと息を吸い込む前に、少年が言った。

「はじめまして。あの、僕」

前世で、あなたの、兄だった者です


 *

吸い込んだ息に、鼻の変な所が刺激され。

「ハックショイ!」

真宏は大きくクシャミをした。

「なんだ、真宏。風邪はひくなよ? 病気に病気が重なると、若くてもポックリ逝っちまったりするんだからなぁ」

「ちょっと、やめてよお父さん。縁起でもない〜!」

昨晩、全くと言っていいほど眠れなかった真宏だ。

昼間のポカポカした空気―まぁ、空調なのだけれど―それに両親が見舞いに来ているというある種の安心感。それが余計に眠気を誘う。

「なぁに、アンタ、眠いの? せっかくお父さんが来てくれたのに」

仕事、休んできてくれたのよ

母の声が子守歌のように聞こえるのは何年ぶりだろうと、真宏は思った。

思ってから、この人、まさか隠し子とかいないよね、とぼんやり思った。

ついでに父の顔も盗み見る。

が、どこかで愛人を作っているようなタイプには決して見えない。

(昨日のあの子、生き別れの兄弟だったりして〜とか思ったけど……絶対ねーな、それは。似てないし……やっぱ、昨日のは、夢だったのかなぁ〜……それとも、新手のサギ、とか……)

ウツロいながら、昨晩の珍体験を思いだそうと思考を巡らせる。

「真宏、本当に寝るのなら、ちゃんと布団をかけなさいよ」

「真宏、買ってきて欲しいもんあるか? 本とか、マンガとか。欲しいのあれば、タイトル書いてくれよ。父さんあんま詳しくないから。それとも散歩でも行くか?」

空気の読めないことで一目置かれている父が、頓珍漢な事を言っているのを、母が慣れた調子でいなしている。

平和だなぁと思いながら、真宏はまるっきり子供に戻った口調で、

「ごめん、ちょっと寝る。昨日、あんまり眠れなくて」

素直に言った。布団をかぶる。

その布団の上に、恐らく父の、大きな手が触れた。ポンポンとたたかれ、きっと「おやすみ」と言われた。

(ああ、なんだろう……)

眠りに落ちる寸前、真宏は、何故だか無性に泣きたくなった。

遠い日の、懐かしい優しさが、じっくりと胸を焼いているようだった。

そうして、その切なさの中に夢をみた。

夢というのか。

それは、昨晩の追憶だった。

突然現れた少年。

彼の名は……

「天野(あまの)一(いち)蘭(らん)といいます。天井の天に、野原の野。数字の一に花の蘭」

「……天野、一蘭くん?」

「はい」

「……ラーメン屋?」

「それ、男子から、よく言われます」

真宏は、彼の言うところの「男子」という響きに懐かしさを覚えた。そういえば学生時代は、その呼称をよく使っていた。「男子」とか、「女子」とか。

「ちょっと〜男子ぃ〜ちゃんと掃除してよぉ〜!」

「うっせーよ女子ぃ〜!」

みたいな会話を、始終していたような気がする。

(いつから、女子とか、男子とか……言わなくなったんだろうなぁ……)

真宏は、彼にいぶかしみの瞳を向けながら、それでも心はだんだんと冷静さを取り戻していた。

「女子からはなんて言われるの?」

懐かしい言葉を、ちょっと使ってみたくて。真宏は尋ねた。

一蘭と名乗る少年は、キョトンとした後、「ああ」と話の流れに気がついたような声をあげた。

「女子からは、カワイイとか、そういう感じで……」

「へぇ。モテるんだ」

「モテませんよ。全然」

随分と早い回答だった。

「モテるだろ、ハーフ? その目の色。綺麗だなぁって、ほら、午前中。検査室の前ですれ違った時、思ってたんだ」

キミ、あの時の子だよね?

自分で言って、真宏はハタと気付いた。

(そういや、検査室ですれ違ったってことは、この子も、なんか、入院してるってことか?)

いぶかしむ視線に、検証の色を混ぜる。彼は少年らしい、薄水色のチェック柄パジャマを着ていた。

「ハーフじゃ、ないです。純日本人です」

「え、じゃぁ遠い親戚に外人がいるとか?」

「いませんよ」

今度も即答だった。しかし、キチリと答えた後。彼は左右に視線を動かし、口をハクハクさせはじめた。

「……なに?」

何か言いたいことがあるのだろうと思い、真宏は柔らかに声を出した。

もうすっかり警戒心は霧散している。何故だか知らないけれど、真宏は、この突然の来訪者を危険ではないと判断した。

相手が子供だからではない。

なにかもっと、本能的な部分で「この子はマトモだ」と感じていたのだった。

「あ、その、えっと……」

天野一蘭は、ここにきてはじめて、どもるような歯切れの悪さを見せた。

「さっき、の、話なんですけど……」

「なに? ハーフの話?」

「いえ」

「女子にモテるって話?」

「……僕が、前世で……あなたの兄だったって話、です」

一蘭は、意を決したような表情で、真宏の瞳を上目に見つめた。真宏は、彼の長い睫が震えているのを見た。

そして、彼がいつの間にか、ものすごく近くに寄ってきていたことに気付く。

「えっと、天野君」

「一蘭でいいです」

「じゃぁ、らんらん」

「やめてください。なんですかそれ」

あまりに彼の声が堅いので、可哀想に思えてフザケただけなのに。一蘭は、ムッと眉根を寄せて、唇を尖らせた。

(あれま。子供っぽい表情もできるのね)

ずっと、なんだか大人びた空気を纏ったように見えていた。

まだ高いけれど、落ち着いている声。

それにゆったりとした仕草や振る舞いが、そう見せていたのだろう。

けれど、今の一瞬で彼は真宏の中で、一気に子供になった。年相応、と言うべきか。

「じゃぁ、蘭ちゃん」

「……一蘭です」

「やだよ、腹減る名前だもん」

無礼をわかって、真宏は言った。恐らく、ものすごく離れているであろう歳の差を思って、茶化したくなったのだ。

(アハハ、俺、大人げないなぁ〜)

そう思いながらも、この瞬間、はじめて真宏は一蘭から主導権を奪えたような気持ちになっていた。

「じゃぁ、もう、いいです、それで……」

「あそ。じゃぁ、蘭ちゃん。なんだっけ? 前世?」

どうせ眠れない夜のことだ。暇つぶしに子供と遊んでやるのも、悪くはないだろう。

真宏は、その程度の気持ちでいた。

何故、この少年が自分を選んだのか。

なにが目的なのか。

そういう色々な疑問は、すべて飲み込むことにした。

そのくらい、真宏にとっては、ガン告知されてからの数日が非日常的であったのだった。

もう、今更なにを言われても、なにがあっても、割りと驚かないし、怖くない。

そんな心持ちだった。

一蘭は、話を聞く体勢になった真宏を、びっくりしたような顔で眺めている。

「なに? どったの、蘭ちゃん」

「……カミナガさん」

「真宏でいいよ」

「……真宏、さんは、僕のこと、変だって思わないんですか」

前のめり気味に一蘭は言った。何度も瞬きをしている。

彼が瞼を切り替える度、瞳の青が色合いを変えるような気がして、真宏はジッと見つめてしまう。

「あの……」

「あー、うん、変な子だなぁって思ってるよ、現在進行形で。蘭ちゃん今いくつ?」

「十五歳です。中三です」

「あー、中二病の歳、すぎちゃってんじゃん」

「……まじめに聞いてくれる気は、ないんですね……」

一蘭は、目に見えて落ち込んだ顔をした。実際に下を向いてしまって、その落胆は明らかだ。唇を、噛みしめているようにも見えた。

(あー、ヤベ……やりすぎた……)

まるで年下、それも自分より一回りも年下の相手だ。真宏は今年、二十七歳になる。

「あーっと、ごめん、蘭ちゃん。まじめに聞く。先生まじめに聞くから」

「そういうところがまじめじゃないって言ってるんですけど」

「ごめんてば」

こういう性格でごめんってば、という意味もこめて真宏は言った。

「前世? の話だっけ?」

「僕、検査でストレス性胃腸炎だって言われました」

「あれぇ、そういう話だっけ?」

一蘭は、強い口調で言った。真宏は、来るべき話題が逸れたことにガクリとする。

「……にしても、その歳でストレス性なんちゃら〜なんて、大変だね。長く入院すんの?」

「入院は今日だけです。検査入院なので」

一蘭は、話ながら真宏のベッド横にパイプ椅子を出した。ずっと立ちっぱなしだったのが疲れたのだろう。

丁寧にしてもガタガタ鳴る音に、真宏は内心ビクビクした。隣のおっさんが起きてしまうかもしれないとドギマギ思い、そして修学旅行の夜を思い出していた。

夜更けまで同級生とフザケては、先生の見回りに見つからないようにドキドキしていたものだ。

「僕がストレス性胃腸炎になったの、たぶんですけど、前世の記憶のせいなんです」

そんな真宏の懐古心など気付きもせず、現役中学生は続ける。

「僕が前世の記憶を持ち始めたのは、半年くらい前、秋のはじめの頃だったんですけど……」

一蘭は、パイプ椅子に腰掛け、両手をベッドの上に祈るような形に組んで置いた。

視線は、その手を見つめている。独り言のように、言葉は続いた。

一蘭、曰く。


秋のはじめ頃から、突然、毎晩同じ夢をみるようになったんです

同じ場面、同じ場所の夢

しかも、日を追うごとに、その夢は鮮明になっていきました

そして、鮮明になるにつれ、夢は僕の心の中を満たすようになっていきました

悲しい夢です

その悲しさが、すっかり僕の身の内に染み込んできてしまって

ある日から、激しい胃痛を覚えました


そうして病院に来てみれば、立派に病名がつく症状だったというわけだ。

「午前中、検査室ですれ違った時、僕、息が止まったんです。真宏さんを見て」

「生きてて良かったね」

「……無視して続けますけど、本当に、息がとまって、本当はすぐにその場で声をかけたかったんですけれど……なんて声をかけたらいいかわからなかったし、看護師さんもいたし、どうにもできなくて……ただ、看護師さんがカミナガマヒロさんって呼んでたの、聞いて……どうしても、真宏さんと話したくて……」

そうして、一蘭少年は夜になってから、一室一室、病室の前に張ってある名札を見て回ったのだそうだ。

「なんで、俺? 男相手に、まさか一目惚れとかじゃないでしょ?」

「真宏さんは、僕の夢の中にいた人だ」

「毎日見るようになったっていう、その、夢の中?」

「はい。夢の中で、僕はアナタの兄でした。そして、真宏さん、あなたは……兄である僕の目の前で……」

死にました

一蘭の青い瞳がユラリと揺れたように、真宏は思えた。が、それは心象ではなく、事実だった。

一蘭少年は、大きな瞳に涙の膜を張り、唇を、可哀想に、白くなるほど噛みしめて、真宏を見つめていた。


 *

目が覚めると、両親以外の見知った顔があって、真宏は大いに驚いた。

「よ、平日真っ昼間にオネンネなんて、随分贅沢な生活してんじゃねーの」

「……せんぱい、なにしてんすか、こんなとこで」

「なにって、見舞い?」

顔全体をくしゃっとさせて笑う男を、真宏は寝起きの顔で見上げた。

「あ、お母さんとお父さん、昼飯食ってくるって出てったぞ、ついさっき」

「あー、そうっすか……」

視線だけを動かして枕元の時計を見れば、午後一時を三十分ほどすぎたところだった。

「田島(たじま)先輩、あんた仕事は?」

「アンタとはなんだね、アンタとは〜」

「俺が引継ぎした案件、どーなってんすかって聞いてんすよ、センパイ」

真宏は笑った。

平日、昼休み過ぎの時間を狙って見舞いにきた職場の先輩。明らかにサボり目的だろう。

けれど真宏は、この田島という男を信頼している。爽やかなイケメン、妻子持ちの三十三歳。真宏は今の会社に入社してから、ずっと田島に面倒を見て貰ってきた。

少しずつ寝ぼけていた頭が覚醒してくる。そして、覚醒するにつれ、彼が見舞いに来てくれたことを思いの外喜んでいる自分に気がついた。

「ほれ、とりあえずこれ。見舞いの品。手ぶらだとサボりだって思われるからな」

田島はおもむろにカバンからブロックチョコレートを取り出して真宏に放った。

「いや、チョコって……」

「お前好きじゃん、仕事の時よく食ってただろ?」

「頭使う時は糖分必要じゃないっすか……ってか普通見舞いっつったら花とか果物とかー」

「お前に花買ってやるくらいなら嫁に買うわアホ。果物なら娘に買うわアホ」

田島には、今年二歳だか三歳になる娘がいる。会社のデスクは娘と妻の写真だらけだ。

真宏は「そりゃそーだ」と納得する。貰ったチョコレートの封を開け、一粒口に含んだ。

(あっま……)

チョコレートってこんなに甘いもんだったっけ? と険しい顔をしていると、田島がボソリ、言葉を発した。

「真宏、おまえ、大丈夫なんだろ?」

「なにがっすか」

「仕事、戻って来られるんだろって聞いてんの」

真宏はパチリと一度、瞬いた。

「突然電話口だけで引継ぎされたってこっちは迷惑以外のなにものでもないんだけど?」

田島は声こそ深刻なものではなかったが、真顔で言った。

「……すんません、ご迷惑、おかけします……」

自分の能力を過大評価するつもりはないが、確かに真宏が田島に引継いだ仕事は簡単なものではなかった。

例え不可抗力だとしても、それなりのボリュームがある仕事を突然押しつけるようなカタチになっているのは事実だ。

真宏が肩を落として申し訳なさそうにしていると、田島は困ったような声を出した。

「迷惑かけられて文句言いに来たってわけじゃねーよ。そこまで俺、冷たくねーぞ?」

クシャリ、真宏は頭を撫でられる。

歳の差にして六歳。

けれど、真宏にとって他人の中で一番頼りになる大人の男が田島なのであった。

「会社って、何日くらい休んだらアウトなんすかね」

「病気だろ。申請出せば大丈夫だよ。お前のせいじゃねーんだから」

給料はクソだけど、そういうことに関してはウチの会社は寛容だよ、と田島は付け加える。

「なら、良かったっす。この歳でもっかい就活とか、厳しいんで……」

「ああ、そうだな。でもまぁ、よかったよ。お前、死ぬような病気じゃねーってことで、良いんだよな? 会社、復帰するつもりでいるってことで」

田島は、慎重に確認するような口調になった。そこにきてはじめて、真宏は田島の言わんとしている真意に気付く。

(ああ、この人、マジでサボりに来た訳じゃねーんだなぁ……)

真宏が検査後に電話口で伝えたのは「胃ガンって診断されちゃって、入院することになりそーなんすけど、俺の仕事、引き継いでもらってもいいっすか?」ということだけだった。

我ながら、テキトーが過ぎるなぁと真宏は反省した。

加えて、電話で話した相手も悪かった。

真宏と田島の上司である人物だが、真宏の倍くらいテキトーで、真宏の父の倍くらい空気の読めないオッサンである。

丁度仕事が忙しい時間帯だったのだろう。

「はいはい、あーそう、おー、お大事にねー、あーうん、仕事ね。田島くんとか、やってくれんじゃないの? 知らないけど。あーところでさ、この間の案件なんだけど、やっぱり不具合出てるみたいだからさー、向こう様のとこに一応顔出しといて欲しいんだけどー」

「いやだから、俺、暫く休みますってば」

「あー、はいはい、そーだったっけね、じゃー、田島くんにね、言っとく言っとく。じゃーね、お大事にー」

そこで通話は打ち切られた。

本当に大丈夫かよ、と思いつつも、そこは真宏もテキトーな脳味噌で生きている。

誰かがなんとかしてくれるだろう。

そのくらいにしか、考えていなかった。

「田島先輩、俺の話、どんな感じに聞いてます?」

「なんかガンらしいから暫く休むらしいって聞いてる」

(らしい、らしい、って……やっぱりあのオッサン適当すぎんなぁ……よく役職就いてられる……)

真宏は心中盛大にため息を吐いた。

「俺、胃ガンらしいっす。まだ初期の方らしいんすけど、しばらく入院して検査して、それから手術? とか薬で治療? とか、決めていくらしいっす」

説明しながら、情けない。自分も「らしい」ばかりを連呼しているではないか。

(俺も、あのオッサンと、大して変わらないってこと、か)

失笑だ。

「胃ガンってさ、お前チョコとか食っていいの?」

「え、ダメっすかね?」

「俺に聞くなよ、知らねーよ」

「ですよね」

そういえば、食事についてはなにも説明を受けていない気がする。いや、受けているのかもしれないが、覚えていない。

ここ最近、なんだか上の空で、いろんな人の話が頭に入ってこないのだ。

「俺が聞きたいのは、お前が死なないかどうかってことだけだよ」

田島は悪戯っぽく笑って言った。冗談に聞こえるように、真剣にならないように、十分に注意された言葉だった。

こう言うところを、真宏は「大人だなぁ」と思うのだ。

「たぶん、大丈夫っす。なんていうか、自覚症状とかもないし、実感もなくて。少なくとも、今のところ、死にそうではないっす」

真宏は、出来うる限り、真面目に答えたつもりだった。が、田島は苦笑する。

「お前、もうちょっと、しっかりしろよ。自分のことだろ? まぁ、まだ嫁さんも子供もいねーからアレだけど……ああ、彼女もいねーんだっけ?」

「ウッサイっすよイケメン」

「真宏もイケメンだと思うけどね。とにかく、さ。もうちょっと、頭使えよ。自分の病気のこと。調べるとかさ。あるじゃん。嫁も子供も彼女もいなくても、お前には家族がいるだろ。お母さんもお父さんも、心配してるだろうよ。一人っ子なんだからさ」

「ウチの両親、あんなですよ? 心配とか、あんまりしないと思うんすけど……」

「ばーか。そういうところも、もっと頭使え。想像くらいしろよ。俺なんて娘がガンになった〜なんて、想像するだけで禿げ上がるわ」

フサフサの黒髪を撫でつけながら、田島は心底苦い顔をした。

(想像、ねぇ……)

想像だとか、妄想だとか……

現実すら曖昧な真宏にとって、非現実はもっと遠いものに思えた。

「あ、田島センパイ」

「なんだよ、俺そろそろ会社戻るぞ。お前の仕事、めんどくせーんだよ」

「……センパイって、前世とか、そういうの、信じますか?」

「ぜんせ?」

「あ〜、いや、すんません、忘れてください」

明らかにいぶかしむような顔をした田島に、真宏は発言を後悔した。そもそも聞いてどうするというのだろう。

なぜそんなことを聞いたのか、真宏は自分自身でもわからない。

「前世って、話とは、違うかもしれねーけど……ほら、名字って先代の職業とか地位とか? そういうの表すっていうよな、そういえば。そういう話じゃなくて?」

「名字、っすか。なるほど」

「田島、だと、あれじゃね? どっかの島の田んぼ」

「それ意味わかんねーっすよ」

真宏は笑った。笑いながら、考える。

なるほど、名字か。彼の名字は「天野」と言った。

「お前は変わった字、書くよな。カミナガ」

「面倒っすよね。カミナガなら神様の神に長いで良いって話」

「加えるに、美しいに長い? だっけ。加美長」

「それっす。それ、前世? 先祖? なんだったんすかねぇ」

「まったくわかんねーな」

田島は小さく笑う。

「お前、暇なんだから、考えてみたら」

小さい子供を慈しむような笑い方だった。

それからカバンを抱えて「また来るな」と手をあげた。

「その前に、俺が会社復帰します」

真宏は咄嗟に、田島の後ろ姿へ、そう言い投げた。

「是非、そうしてくれ」

今度こそ、田島は後輩にするみたいに笑って、帰って行った。

(あー、なんか……)

短い時間であったはずなのに、田島のいなくなった病室を、真宏は寂しく思った。

午後のまったりとした時間。カーテンで仕切られている他のベッドはどんな様子なのだろう。

真宏が寝ていたこともあり、きっちりと外界から遮断するように閉められている四方のカーテン。

(先輩にあけてってもらえば良かったな……)

真宏はちょっと億劫に思いながら、ベッドから這いだした。

(カーテン開けて、ついでに飲み物でも買いに……)

そう思って一歩踏み出したところで、ジャッと音がしてカーテンが開いた。

「ぉあっ!?」

「こんにちは」

「……キミ、俺を驚かすの、趣味なの……?」

「驚かせましたか? すみません」

今度は堂々昼間。目の前に天野一蘭が立っていた。

(とりあえず、オバケでは、なかったってことね)

明るい空間で見る一蘭は、色素が薄くて、海外の聖歌隊かなにかに所属している子供のように見えた。


 *

「さっきの、誰ですか?」

「さっきの?」

「なんか、スーツの人……」

一蘭は、少しむくれたような顔をして、カーテンの端っこを掴んでいる。ムニムニと、手先でカーテンをたぐり寄せたりしている。ああ、子供っぽいなと真宏は笑った。

「なに、蘭ちゃんヤキモチ?」

「どうしてそうなるんですか」

「なんかムッとした顔してるから?」

真宏は一蘭の頬を手の甲でペンペンと叩いた。

「蘭ちゃん、ジュース買いに行くけど、一緒に行く?」

「行きます」

一蘭の顔が、パッと一瞬華やいだように見えた。真宏は、田島との会話で喉が渇いていたから、予定通りに飲み物を買いに行くだけだ。別に一蘭のご機嫌取りをするつもりでもなかった。が、結果的にそうなったようだ。

(あー、母さんと父さん、昼飯に行ってるんだっけ……)

戻ってきた時、病室が空だと心配させるかもしれない。

どうしようかとぼんやり思っている所に、タイミング良く父と母が戻ってきた。

「あら、真宏。お友達? さっき、職場の方がいらしてたじゃない。どうしたの?」

真宏の母、雪代は、言いながらずっと一蘭の顔をしげしげと眺めていた。

「いやぁ、有名な学校の制服じゃない、キミ。真宏の友達か?」

父も一緒になって一蘭を覗き見る。今日の彼は、初めて擦れ違った時と同じ学ランを着ていた。まるでそれが普段着ですというような風に、様になっている。

「天野一蘭といいます。僕もこの病院に昨日から入院していて……すごく退屈していたところ、真宏さんが話し相手になってくれて……」

一蘭は、ジロジロと不躾にも思える視線をものともせず答えた。

真宏は、一蘭が「前世が」とか「僕はこの人の兄で」とか、言い出さなかったことに驚いた。

「あら、そうなの? 真宏あんた偉そうに年上ぶったこと言ったんじゃないでしょうねぇ?」

(いやいや、ひとまわりも上ですよ、あんたの息子は)

真宏は罰の悪い思いで明後日の方向を見た。

「いえ、その……お話していて、とても楽しかったので、また遊びに来てしまったのですが……ご家族がいらっしゃっているとは知らなくて……また出直します」

黙ってやりそごそうとしている真宏に対し、一蘭はゆっくりと丁寧に発言してペコリと頭を下げた。

「あー、いやいや、我々もそろそろ帰ろうと思っていたところだから。ゆっくりしていきなさい。天野君、だったかね? 検査とかは大丈夫なのかい?」

父が珍しく気の利いたことを言った。

「はい。大丈夫です。午前中のうちにほとんどの検査は終わっているので……」

「真宏、あんたは? 今日検査ないの? お母さん達、まだいた方がいい?」

「あるけど夕方から。大丈夫だよ、ひとりで」

真宏は、このやり取りを一蘭に見られていることが、やたらと恥ずかしかった。二十七にもなって、この過保護さは、ちょっとないのかもしれない。

中学生の一蘭はひとりでいるのに、アラサーの自分は両親からやたらと構われ囲われているこの状況が、どうしようもなく居心地を悪くさせた。

「俺、蘭ちゃんとちょっとジュース飲みに行ってくるから。父さんも母さんも、ありがとね。もう大丈夫だから」

昨日と同じ文言で、両親に帰宅を促す。なんだか一刻も早く、この場から抜け出したい気分だった。

「あ、真宏。じゃぁこれ、持って行きなさい」

そんな真宏の気持ちを露ほども汲めない父だ。ぎゅっと息子の手の中に千円札を握らせてきた。

(だーから、俺は何歳だっちゅー話ですよ!)

ゲンナリとした叫びをぐっと飲み込み「アリガトウ」と平たく言って。真宏は一蘭の薄い肩を押した。

午前中いっぱい使っていなかった足が、一瞬だけヒクリと震えた。


 *

「蘭ちゃん、お見舞いの人とか、家族の人とか、来てないの?」

真宏は、ラウンジの自販機に向かって言った。サッパリしたものが飲みたくて、炭酸飲料を選択する。

ピっとボタンを押してから

(あれ、俺って、こういうの飲んでいいんだっけ?)

と過ぎったが、既にガコンと音を立てて缶は落ちてきてしまっていた。

「あ、蘭ちゃん、なに飲む?」

振り向けば、一蘭少年は珍しくポケッとした顔をしていた。

「らんちゃーん?」

「あ、はい」

「なに飲む? 炭酸?」

「……ヨーグルトのやつがいいです」

「あれま。かわいいの選ぶね」

「真宏さん、僕がなんで入院しているか、忘れちゃったんですか?」

言われて、ああ、と思い出した。

(そうだ、ストレス性、のなんちゃら、胃腸炎的な……)

そして、またしても真宏は打ちひしがれた。中学生でさえ、自分の状態を自覚して、ちゃんと飲み食いするものを選択しているというのに。

(……俺、マジで、しっかりしないと、ダメなのかもなぁ……)

田島の言葉が時差で胸にグリっと刺さった。

「真宏さん」

「んー?」

自己反省をしながらも、一蘭と二人、窓際のソファーに座ってジュースを飲んだ。

乾いた喉に、ジュワっとした刺激が気持ちいい。

(これで、ガン、悪化したらどーしよ……って、んなわけないか、ただのジュースだし)

「あの、僕、うまく言い訳出来ていたと思います?」

「へ? なんだって?」

「だから、さっき! 真宏さんのお父さんとお母さん、変に思わなかったかなって聞いてるんです」

真宏は吃驚して目を見開く。

「だって、まさかあの場で、僕は前世で真宏さんの兄だったんですけど、なんて……言えるわけないし……なんて言い訳したら良いかわかんなくて……」

僕、上手に出来てました?

一蘭は悪戯を隠そうと一生懸命になっている子供の顔で、不安げに下を見たり、上を見たりしていた。

(あー、チュウガクセイ、だ……)

どんなにしっかりしているように見えても、中身は中学生だ。前世がどうであったとしても、今はこっちが年上、この子はかなりの年下なのだ。

真宏は、もう一度、心中「しっかりしなくちゃね」と自分に向けて唱えた。

「大丈夫だよ、ウチの両親、あんま細かいこと気にする質じゃないからね」

「そうですか……飲み物も、奢って貰っちゃいました」

「気にすんな。父さんが金出さなくても、俺が出すつもりだったし」

「真宏さんならいいんです」

「なんでなんで」

随分と懐かれたもんだなぁと真宏は笑う。

(一人っ子だったからかな……こういうの、なんか悪くない……)

弟が出来たみたいで、少しばかり楽しい気持ちになった。

「真宏さん、ご家族と仲良しなんですね」

「まぁ、仲悪いことはないけどね。過保護っちゃ過保護……だよなぁ……普段は俺も一人暮らししてっからさ、あんまり思わないんだけど……」

今回の入院を受けて、まさか両親がここまで干渉してくるとは思っていなかった。

思っていなかったが、実際、その過干渉を自然と受け入れてしまっている自分がいることを思えば、実は結構昔から、過保護に育てられていたのかもしれないと思った。

「俺、一人息子だからねぇ。そういうの、関係してるのかもね。蘭ちゃんは? 兄弟いるの? ってか、さっきも聞いたけど、ご両親は? お見舞いとか、来てないの?」

真宏は聞いてから。ハッとなった。

(……どうしよ、もし蘭ちゃんにものすごい暗い家庭の事情とかそういうのがあったとしたら……そしたら今の俺の質問、すげー不躾じゃね? そもそもストレスなんちゃらって病気になるくらいだから相当なストレスが……)

「真宏さん、面白い顔になってますよ?」

真宏が思考をグルグルと回している横で、一蘭がクスクスと女の子みたいな笑い声をあげた。

「真宏さんが今なに考えてたのかは知りませんけど……僕には姉がいます。それから両親も健在です。けど、両親共働きなので、昨日は姉に付き添ってもらって入院の手続きをしに来ました」

「あ、そうなんだ……」

真宏は一気に脱力した。無意識、肩に力を入れていたらしい。

「お姉さん、いくつ?」

「大学三年生です。……たぶん真宏さんの彼女にするには、ちょっと性格とか合わないと思うんですけど……」

「俺別にそういう意味で聞いたんじゃないけどね!?」

「あ、そうなんですか? 真宏さん、彼女いないんでしょ?」

一蘭はまったく悪気のない顔で首を傾げた。

「俺、そんなモテない感じに見える?」

「いえ、さっきスーツの人と話していたので」

「聞いてたの?」

「立ち聞きするつもりはなかったんですけど……」

「ってか、いつからいたの? 入ってくれば良かったのに……」

「なんか割って入れるような雰囲気じゃなかったです」

難しい話、していたでしょう?

と、一蘭は言った。恐らく仕事の話だろう。

「真宏さん、カミナガって、加えるに美しいに長いって書くんですね」

「ああ、名字な。そうだよ」

「神様の神に永遠の永って書くのかと思ってました」

「あはは。蘭ちゃんはそっちのが良かった?」

神様の神に永遠の永、なんて。まさしく輪廻転生とか、前世とか、そういうのに関わっていそうな字面だ。

「別に、そういうわけじゃないですけど……変わってるなぁって思っただけです」

一蘭は、チューとパックのヨーグルトドリンクを啜る。唇がヘの字になっていて、真宏はなんとなく一蘭の頭をポンポンと撫でた。

「なんですか?」

「いや、なんとなく……」

一蘭はムッとしたようだ。眉根が寄った。子供扱いがしゃくに障る年頃なのだろう。

真宏にはその顔も可愛らしく見えた。

「蘭ちゃん、お見舞いに来る人いないの? ほら、学校の友達とか、先生とか……っていうか、友達いる?」

もう散々無礼を働いた気がしてきて、真宏は率直に質問した。

一蘭は、見た目、はっきり言ってキレイだ。可愛いと言っても良い。頭は良さそうだけれど、細っこいし、ケンカが強そうにはとても見えない。

(イジメとか、あってないだろうね……)

やはり真宏の頭に「ストレス性胃腸炎」の言葉が踊った。

一蘭は毎晩見る悪夢がストレスの原因だというようなことを言っていた気がする。けれど、本当に夢見の悪さだけで胃腸炎になんてなるだろうか。

本当はもっと、別のところにストレスの原因が隠れていて、もしかしたら悪夢も、そのストレスが引き起こしている現象かもしれない。しかし、一蘭はケロリと答えた。

「友達なら、ちゃんといます。多くはないかもしれないけど。今はみんな学校に行っている時間ですし、それに、僕は明日にはもう退院しますから」

「あれ、蘭ちゃんもう退院なの?」

「検査と、点滴と……そんなもんですから。あとは自宅療養です」

真宏は少しガッカリしている自分に気付いて驚いた。まだ会って間もない少年だ。それも不可解な少年だ。

「じゃぁ、蘭ちゃん、すぐ学校復帰出来るんだね」

「そうですね」

「でも、ストレス性、なんでしょ? ストレスの原因とかをさ、どうにかしないと」

再発、とかさ

言い辛くてモゴモゴと発言した。

「だから、その原因を、なんとかしようとしているんです。原因、真宏さんですから」

「俺じゃなくて、夢でしょ? っていうかさ。本当に原因、それなの?」

「どういう意味ですか?」

「……蘭ちゃん、イジメられたりとか、してない? ほら、部活の先輩〜とかさ……先生と反りが合わない、とか……」

真宏は、先ほど自分の脳裏に浮かんだ事柄を、なるべく柔らかい声で伝えようと努力した。

「特に思い当たらないです。僕の学年、結構みんな仲良い方で。イジメとか、あんまりないです。あと、僕は帰宅部です。両親働いてるし姉も大学とアルバイトがあるし……僕が夕飯の支度とか、しないといけないんで……」

先生も優しいですよ、と一蘭は付け加えた。

「そう、なんだ……めっちゃイイ子だね、蘭ちゃん……っていうか、今時珍しいんじゃない? そういう学校。ほら、最近よくニュースとかでもやってるじゃん。イジメの問題がどーのこーのって」

「ああ、たぶん、学年によるんだと思います。僕のひとつ下の学年は、結構荒れているみたいなんで」

「え、イジメってそういうもんなの!? 学年ごとなの!?」

「他の学校は知りませんけど、僕のところではそうです」

真宏は「へ〜」と唸った。自分が中学生だった頃はどうだろうと思いを馳せる。

が、テキトーになんとなく生きてきたツケだ。ほとんどなにも、思い出せない。

「僕、帰宅部ですけど、色々、助っ人? みたいな感じで部活動呼ばれたりするんです。そこの先輩方もみんな、優しいですし。たぶん、一部の生徒だけなんだと思います、素行が悪いの」

真宏は、さすが有名校だなぁと思った。

「なに、助っ人ってなにすんの? 将棋とか? 囲碁とか?」

「真宏さん、僕のイメージそんななんですね」

一蘭はここにきて初めて少年くさく笑った。

「僕、こう見えて割りと運動神経良いので。バスケット部とか、野球部とか、サッカー部とか。そういう所の助っ人してます」

胸を張ってそう宣う少年は、よく見ると、確かに細いながらも首筋からスッと筋肉がついているように思えた。

「うーわ、もう一蘭くん、モテモテじゃないっすか……」

真宏の脳裏にキャーキャー言われる一蘭が浮かんだ。

「そんなことないです」

「またまた〜」

「ウチ、男子校なんで」

「……」

「中高一貫の男子校です」

「らんちゃん」

「はい」

「転校をオススメするよ」

「いやですよ。僕、学校好きですもん」

真宏の脳内で、今度は野太い声がキャーキャー言い出した。

やめろ、蘭ちゃんを汚すんじゃない!

「一蘭って名前、女子にかわいいーって言われるって言ってたじゃん」

「主に姉の友達に言われます」

「あー、なるほど」

次いで、蘭ちゃん彼女いんの? と聞こうとして、やめた。自分のためにやめた。

なんだかいろんなスペックで負けている真宏だった。

勝っているのは歳くらいなものだ。それも、前世では彼より年下だったというのだから、立つ瀬もない。

「蘭ちゃんが学校のストレスで変なこと言ってんじゃないってことは、わかったよ」

「よかったです」

「じゃぁ、なんでだろうね。夢、だっけ? 突然見るようになったの?」

「……」

「蘭ちゃん?」

一蘭は少し黙って、それからすくい上げるように真宏を見た。

「真宏さん、僕の言っていること、信じてくれるんですか?」

それは、「今まで僕が言ったこと全部、信じてくれているんですか?」という意味が含まれている言い方だった。真宏にはそう思えた。

「蘭ちゃんさぁ」

「はい」

「さっき、俺の両親の前で、わざわざ嘘ついたでしょう?」

「……すみません」

「いや、怒ってんじゃなくてさ。蘭ちゃんがマジな中二病の子だったとしたらさ、あそこでウチの親にも俺と同じこと言ってたと思うんだよね、俺」

「……どういう、意味ですか?」

一蘭の眉間にまた皺が寄った。

「えっと、つまり……蘭ちゃんは、蘭ちゃん自身が、自分は変なこと言ってるって自覚があって、信じて貰えない可能性が高いってこともわかってて、それでも本当のことだから、信じて欲しくて、理解して欲しくて、俺に話してるんだなぁって、思ったわけです」

伝わった?

今度は真宏の眉間に皺が寄っている。言語で説明することの難しさを思った。

普段、コンピュータ言語ばっかり相手にしているからかな、とも。

(あいつらは素直だ……ゼロかイチでいい。白か黒。イエスかノー。微妙なさじ加減なんて必要ない……)

だが、隣に座っている少年は、多感な中学生だ。

(頭使ってる、って感じ、する……)

「なんとなく、真宏さんが、一応、僕を信じているんだろうってことは、わかりました」

「あー、うん。まぁ、簡単に言えばね、蘭ちゃんが、嘘つくようなタイプの子に見えないって話でもある。そもそも嘘つくメリットもないだろ」

「……よかった……」

一蘭はフゥと息を吐くと、パックのジュースをズズと最後まで飲みきった。彼なりに、緊張していたのだなぁと、真宏はそこではじめて知る。

また頭を撫でてやりたくなって、でも、止まった。不機嫌な顔をされるのは嫌だなぁと思ったからだ。

「信じるしかないからさ、蘭ちゃん、とりあえず、聞かせてよ。いろんなこと。蘭ちゃんが見る夢の話とか、前世の俺? がどんなだったのか、とか……」

どうやって、死んだのか、とか

この少年は、はっきり言ったのだ。

兄である僕の目の前で、あなたは死にました、と。

(ぶっちゃけ、前世の俺がどうやって死んだかなんて、興味ないんだけど……)

それでも、真宏には今現在「死」という概念が必要だった。自分の病気がどういうものなのか、「死」の可能性がいかほどのものなのか、未だに曖昧なままにしている。

実感がないのだ。

ただ、病院にいるだけ、みたいな感覚。周りの人間ばかりが、なんだか少し「大変だ」みたいな動きをみせているのを俯瞰で見ている気分。

(なんか、きっかけになるかもしれない……)

この、少年の話が、なにかの取っ掛かりになるかもしれない。

真宏は、深刻ではなかったけれど、ある程度真面目に、一蘭の瞳をじっと見つめたのだった。


 *

「最初に夢を見たのは、秋のはじめでした」

暖かな日差しが大きな窓から入り込んでいる。二月の空気は澄んでいて、きっと外は寒いのだろう。

けれど、一蘭と真宏が並んで座っているラウンジは心地よく暖房が効いていて、オマケに天然光の暖かさが付随している。

真宏が買った炭酸飲料は、すっかりぬるくなってしまっていた。

「九月のはじめ、学校の、最後のプールの授業で……」

「へぇ、今時の学校って九月までプールするんだ」

「あ、その日は例外で……土曜日の課外授業だったんです。屋内プール施設に学年全体で行くっていう……まぁ、遠足みたいなものです」

「なるほど。さすが私立」

「受験、関係ありませんからね」

一蘭は品の良い笑顔を浮かべた。

「まぁ、遠足と言っても授業ですから、最初は普通に先生がついて、タイム計ったりとかするんですよ。でも最後の一時間くらい、自由時間になるんです。いろんな種類のプールがあるところで、ウォータースライダーとか……みんな残り時間でめいっぱい遊ぶんです」

「いいなぁー……楽しそう。プールなんてもう何年入ってないんだろ」

「結婚して、子供が生まれたら、また行くようになるんじゃないですか?」

「……言うねぇ、蘭ちゃん……」

真宏は苦い顔をしてみせた。実際、苦かった。最後に付き合った女の子と別れたのって、何年前だったかなと、思考が飛びそうになった。

「それで?」

寂しすぎる考えに捕らわれないように、真宏は先を促す。

「それで、最後の時間、僕、流れるプールにいたんですよ。友達と一緒に」

「うん」

「たしか、五人くらいで、ハシャいで、遊んで……そろそろ集合時間だからプールから上がろうって話になって。僕が一番最初にプールから出たんです。その後、残りの三人も」

そこで、少しの間があった。

「でも、最後のひとりが、足を、吊っちゃって」

溺れちゃったんです

その言葉は、小さく、真宏の耳に届く前に落ちて消えてしまいそうなほどだった。

足のつくプールで、でも足を吊った瞬間パニックになって、一度大きく水を飲んでしまい、そこからはもう、なし崩しで。

人工的に作られている水流にのって、その友達は流されたのだそうだ。

「幸い、すぐに監視員の人が気付いてくれて、その友達は無事だったんですけど……僕のほうが、無事じゃなくて……」

「蘭ちゃん、先にあがってたんでしょう?」

「そう、なんですけど、過呼吸みたいに、なっちゃって……パニック症候群とか、そんな感じのものらしいんですけど……」

思い出すのもキツい、みたいな顔をして言うものだから。真宏はこれ以上聞くのはやめようかと逡巡した。

しかし、一蘭は口を閉じることはしなかった。

「友達が溺れて、流された時。僕の頭の中にハッキリとしたイメージみたいな……いや、イメージよりも、もっと鮮明な、記憶、みたいなものが浮かんできたんです」

明らかに僕の記憶ではないのに、まるで僕の実体験みたいに、鮮やかな記憶でした

真宏は一蘭の言葉の真意を探る。先ほどから話はわかるが、意図するところがわからないでいる。

「真宏さん」

「うん」

「あなたは前世、僕の弟だった」

「妹じゃなくて良かったよ」

「弟でした。そして、兄である僕の目の前で、川に流されて、溺れて、死にました」

一蘭の声が、ひときわ高く、大きくなった。確かに、しっかりと、真宏に伝わるよう、賢明に投げられた言葉だ。

「川で、溺れて……」

「はい。たぶん、そのプールでの出来事が、僕の中のなんらかの……その、言い方がわからないんですけれど、前世の記憶? っていうんですかね……それを呼び起こしたというか、目覚めさせたというか……」

「その日から、夢見るようになっちゃったってこと?」

「そういうことです」

ひととき、沈黙が流れる。

真宏は別に、深刻に事を捉えたわけではなかった。ふーん、なるほどねぇ、くらいなものである。

なのに、何故か、頭の奥がジーンと痺れるようになって、少しの間だけだが、言葉が紡げなかった。

「その日から、僕は、僕と真宏さんが出てくる夢を見続けています」

「……今も、見てるの?」

「はい。毎日です」

「毎日は、キツいね……」

「あ、でも、毎日同じ内容っていうわけでもないです。いろんな場面の夢を見ます。僕と真宏さんが仲良く暮らしているだけの夢を見る日もあれば、ケンカしている夢を見る日もありますし、真宏さんが溺れ死ぬところを見る日も……」

「真宏さんって言わないで……前世のって付けて……そこ重要だから!」

「あ、失礼しました」

一蘭は棒読みで謝った。

真宏は「侮られているなぁ〜」と苦い顔をしたが、別にイラつくわけでもない。もともと、歳の上下を気にする質ではないのだ。

「あの、真宏さん」

「はいはい、なんでしょ」

「すごく、聞き辛いことを、聞いてもいいですか?」

「ダメって言っても聞くでしょ、蘭ちゃん。結構そういうタイプでしょキミ」

「そうですね。結構、僕の中で大事な問題なので……」

「そうですか。じゃぁ答えましょ。なに?」

「……真宏さん、……死なないですよね……?」

一蘭は、視線を床に落として呟いた。

「えっと、とりあえず、今は生きてるけど……」

「そうじゃなくて……病気。なんで入院しているのか、僕、なんとなくしか知らないんですけど……看護師さんが、その……ガンだって話しているのを聞いて……」

声は段々と小さくなる。真宏は、この心優しい少年が自分のことを心配してくれているのだろうと解釈した。

そう解釈したから、

「蘭ちゃんが心配するようなことじゃないよ」

と、言った。

『キミは気にしなくていいんだ、これはお兄さんの問題だからね』くらいの心意気で、大人ぶってみせた。

が、真宏のその回答に、一蘭は眦をつり上げた。

「心配なんてしてません」

「え」

キッパリと切り捨てる言い方だった。

「真宏さんに死なれると、僕が困るんです。正確には、真宏さんが元気でいないと、僕は困る」

「えっと……? なにそれ、どうしてそうなるの」

君と俺、昨日会ったばかりだよね?

「僕の中の、前世の僕は……目の前で、弟であるアナタが死んだことを悔いているんです。助けられなかったって。目の前にいたのに、助けてあげられなかったって」

「……うん、まぁ、そうだろうね、普通。俺一人っ子だから、兄弟のことはよくわかんないけど……」

「それに、前世の僕は、今の僕よりずっと考え方が古いんだ。年功序列で物事を考えてる」

「そりゃ前世だもん。当たり前じゃない? きっとその時代ではそういう考え方が当世風だったんだよ」

「兄より先に、弟が死んではならないって思ってる」

「まぁ、今の時代でもよく言うよ? 親より先に死ぬほど親不孝なことはないって」

「そう思っていたのに、でも、弟だった真宏さんの方が先に死んだ」

「でも」の語気が強かった。真宏は黙る。

「前世では、弟を先に死なせてしまった。前世の僕は、その後すぐに自殺しようとしたみたいだ。でも、母親だった人が泣いて止めるから……思い止まった……そして、胸に誓った……」

今度生まれ変わったら、俺が先に、死んでやらねば……

ゴクリと、一蘭の喉が鳴った。真宏は、まだ成長しきっていない喉仏が小さく揺らめくのを見ていた。

「なにそれ、理不尽」

「僕だってそう思いますよ。でも、うるさくて仕方ないんです。頭の中にガンガン語りかけられて……だから、真宏さんには元気でいてもらわないと……」

じゃないと、僕、真宏さんより先に、死ななきゃならなくなる

一蘭の瞳は、今までで見た中で、一番綺麗に輝いて見えた。

だけれど、それが、涙を堪えているせいだと知った時、真宏はどうしようもなく胸が潰される思いがした。そして、自分の大いなる勘違いに気付く。

(ああ、この子は別に、俺に懐いてくれているわけでは、ない……)

会ってたった二日だ。

懐くもなにもない。

それなのに、真宏は、それが一番胸に堪えた。

なんのことはない。

一蘭が真宏に懐いたのではない。

真宏が、この一回りも年下の中学生に懐いてしまっただけの話だったのだ。

しばらくの無言で対峙していた。

そして、気がつけば、真宏の検査時間が迫っていた。一瞬ハッとなって時計を見た真宏に、一蘭は、

「一気に、いろいろ話して……すみませんでした……」

と、浅く頭を下げた。そのまま、グシッと鼻を啜って、

「明日、僕、退院ですけど……午後なんで……出来れば午前中、また会ってくれませんか」

そう言った。

(そうだ、俺、まだ蘭ちゃんの質問に答えてねぇや……自分の病気のこと……俺自身でも、よく理解してねーんだった……)

真宏は「まいったなぁ〜」と胸で唱える。これはもう、向き合うしか、ないのだろう。

(俺、実は結構、ビビってたのかな……)

逃げていたのかもしれないと、思った。

現実から、逃避したかったから、この中学生のオモシロ話にも乗ったのかもしれない。

「うん、いいよ。明日の検査、午後にしてもらうから、おいで」

せめて大人の対応を、と思って、真宏は軽く笑って見せた。その顔を見て、一蘭は、そっと真宏の手に触れた。

いや、触れようとした。

『パチッ』

瞬間、小さな音が鳴ったように思えた。

「いって! ……静電気かな……そういや冬だもんなぁ……」

「……はい、そう、ですね」

静電気に阻まれたような気持ちがしたのだろう。一蘭は触れようとした手をそっと下ろしてしまった。

その手を、真宏が拾う。ぎゅっと握ってやった。

「真宏さん……?」

「あれ? こうしたかったんじゃないの? 違った?」

「あ、いえ……こう、したかったんですけど……」

一蘭は少し躊躇った後に、はにかむみたいにして笑った。

「僕、真宏さんが怖い人じゃなくて、良かったです。ちゃんと話を聞いてくれる人で……前世が兄弟だからってのも、もしかしたら原因としてあるのかもしれないんですけど……でも……僕……」

真宏さんと一緒にいる時、なんだかすごく、ホッとします

それだけ言うと、もう一度、一蘭は頭を下げた。

「ま、た、明日」

真宏の咄嗟の言葉に「はい」とだけ返事をして、彼はラウンジから出て行った。おそらく自分の病室に戻るのだろう。

(俺、蘭ちゃんがどこの部屋に入院してんのかも、知らないや……)

真宏はゆっくりと伸びをする。

飲み終わった炭酸ジュースの缶をゴミ箱へ入れると、なにも入っていなかったのか、カコンという音が、やけに広く響いた。


 *

「中学生が自殺へ追いやられる時の心情って、どんなもんだと思います?」

検査室の椅子にぼんやり座ったまま真宏は言った。なにやらガチャガチャと機材の準備をしていた看護婦さんがキョトンとした表情で固まる。

入院する前の検査から、ずっと真宏の担当をしている人だ。森山(もりやま)というネームプレートが白衣にくっついている。

「社会問題ですか?」

「いや、そういうわけでもないんですけど……」

「どうしたんです? 突然……」

自分で発言しておきながら、真宏は首を傾げる。言いたいことや考えたいことが、どうも上手にまとまらない。

(俺ってこんなにコミュ障だったっけ……)

今までの人生を振り返ろうとしても、なんだか朧気だ。

(どんだけテキトーに生きてたんだって話……)

ハァと、大きなため息が漏れた。

「……加美長さんが何を言いたいのかは、ちょっとわかりませんけど……自殺未遂で運ばれてくる中学生は、確かに増えましたよ」

看護婦さんは、淡々と言った。

「私、少しの間ですけれど、救命救急センターにいたことも、ありますから……」

真宏は、口内で「救命救急センター」と転がしてみた。馴染みがなさすぎて、つっかえそうになる。

真宏が無言でいることと、検査室に誰もいないことが彼女を饒舌にした。

「いろんな理由があって、子供達も子供達なりに一生懸命考えて……それで、選んだ道だってことは、わかりますけどね」

でも、本当に、本気で死にたかった子なんて、いないと思います

芯のある声に、真宏はじっと彼女を見つめた。彼女はその視線に気付き、ニッコリと笑う。

「本人じゃないので、本当のところは私にはわからないですけどね。でも、私は、そう信じることにしています。じゃないと、もう、世の中がおかしくなっちゃう」

真宏は、またしても彼女に負けた気になった。一蘭にも、彼女にも、会社の先輩にも。

真宏は負けっぱなしの気分だったし、そこにあまり悔しさや不満を感じないところが、なんとも情けなかった。

(蘭ちゃん、ほんとに俺より先に死んじゃうのかな。蘭ちゃん自身は望んでないのに? 頭の中で死ね、死ね、って、言われてるのかな……よくわかんないけど……)

それはものすごく、酷な事だと思った。きっと大人だって、そんなことになったら自分はノイロウゼなんじゃないかと疑うだろう。

(ましてや、蘭ちゃんはチュウガクセイだ……)

真宏は血圧を計るという彼女の横顔に、意を決して言葉を投げた。

「あの、俺って、死にませんよね」

もっと気楽に、気軽に聞くつもりだった。そんなノリで聞けると思っていた。

『今度一緒に映画とか行かないっすか?』とか聞くほうが、よっぽど勇気がいるだろうと思っていたのだ。

それなのに。

真宏の喉は、スーと渇いていく。あまりにカラカラになるから、唾を飲み込んだ。

それでも、すぐまた、喉がヒキツるように渇く。

(あ、今、俺……)

緊張しているのだと、やっと気がついた。

「加美長さん」

「……はい」

「血圧測ろうって時に……なんてこと聞くんですか」

彼女は眉を寄せて困ったように笑った。

「すんません……」

「先生から、説明ありましたよね?」

「はい、でも俺、なんか、あんまり聞いてなかったっていうか……いや、聞こうとはしてたはずなんですけども……なんか頭に入らなくてツーっと抜けちゃったーみたいな……」

授業を聞いてなかった中学生だって、もっとまともな言い訳をするだろうに。しかし森山看護婦はニッコリしながら、キチンとした声で言った。

「加美長さん、混乱していたんですね」

真宏はポカンとする。

混乱?

思考になかった言語だ。

「最初に先生から告知を受けた時、もう一度説明しますか? って聞かれませんでした?」

「あー、なんか、聞かれた……ような……」

「その時、もう一度って言わなかったんですね」

「……なんか、悪いなぁって思っちゃって……ほら、先生だってお忙しいだろうし?」

「患者さんに正しく説明をして理解して頂くのも医者の仕事ですよ」

「まぁ、そうでしょうけど……」

真宏は下を向いて口ごもった。自分の細腕に巻かれた血圧計が物々しい。

それに、段々と頭が整然としてきている。わかりたくなかった自身の本音というか、底に眠っていた本心が、洗い出されそうになっている。

「加美長さん、いろいろ、認めたくなかったんですね」

「いや、そういう、わけじゃ……」

「恥ずかしいとか思ってます?」

「……どう、なんでしょうか、ね……」

困ったような顔しか出来ないでいる真宏の肩に、森山看護婦の手が置かれた。

荒れていて、逞しい手だ。真宏より、だいぶ小さい、でも、戦う手だ。

「加美長さん、ガンの告知をされた方は皆さん、同じような反応をされます。まぁ、その患者さんの性格によって気持ちの揺れには幅がありますが……」

「えっと、」

「認めたくないんですよ、皆さん。当然のことです。告知を受けたその場では上の空になってしまって。先生からの説明も、言葉半分以下でしか聞けていない方がほとんどですから。だから、最後に受付で確認するようにしています。もう一度、説明を受けますか? って」

彼女の手に、力が籠もる。真宏の肩に重みが加わる。

「心の整理がついてから、もう一度説明する。それがセオリーです。だから、加美長さんの反応はおかしくありません。普通の人の反応ですよ」

「……普通、の……」

「はい。だから、安心してください。さっきみたいに、私に自分の体のことを尋ねるようになったのは、だんだんと心の整理がついてきている証拠です。良い傾向だと思いますよ」

最後にポンポンと慰めるみたいに肩を叩かれた。

(俺は……)

混乱していて、認めたくなくて、非日常すぎて、要は……パニクってたって、ことか……

真宏の心にストンと落ちるものがあった。ガンの告知を受けた時から、自分でもオカシイと思う程度にはボーっとしていた。

なにかを考えようとするたび、思考に靄がかかるような感覚だった。

仕事のこと、親のこと、入院費のこと、保険ってどうしてたっけ、とか。

色々と考えようとはしていた。

しかし、考えようとする度に、なんだか面倒になってしまって。いや、面倒だと感じていたのではないのだろう。

正しくは、考えたくなくなって。

思考を放棄していたのだ。

(自分が死ぬ病気なのかどうかってのも、なるべく、考えないようにしてた……)

出来れば、考えたくなかった。暗くなるのは性に合わないし、落ち込むのも得意ではないのだ。

いつでもテキトーに、うまいこと、楽しく生きていられれば。それだけで良いと思っていた人生だ。

(その上、蘭ちゃんの話が沸いて出てきた……)

そして真宏は、一蘭の話に食いついた。考えたくなかったからだ。ガンのことなど。

自分のカラダのことを考えるより、中学生の悩み相談に乗る方が、よっぽど気楽だと思ったのだ。無意識に、そうやって選択していた。

(蘭ちゃん、ごめんね……俺、怖い人じゃなかったかもしれないけど……)

それよりよっぽどタチが悪い。

(親身な振りして、逃げてただけかよ……ダッサイ……)

自嘲しようとしたけれど、顔が強ばって、うまくいかなかった。森山看護婦が、ゆっくりと優しい声色で真宏に言った。

「加美長さん、もう一度、先生から説明をお受けになりますか?」

もう、頷く以外の選択肢など、残ってはいなかった。


 *

抗うことも許されないほど、それは圧倒的な力を持っていた

普段穏やかそうな顔を見せていたソレは、認識の範囲を越えていて

身動きひとつ取れない

アっと思った時には、身ごと浚われていて

ただ、流される

とにかく息を吸わなくてはと思って手足を全力でバタつかせた

けれど、そんな微細な動きなど自然の力の前では無に等しい

息を吸うために大きく開けた口から、大量の水が入り込む

泥水だ

土臭く、そして、恐らく小石かなにかだろう

反射的に口内の水を飲み込んだ瞬間、喉をゴリッとなにかが削った

流されているという事実に混乱する頭

苦しい、息を吸わなくてはと慌てる心

それ以上に頭や心だけでなく、全身を覆い尽くすのは

死への恐怖

どうしようどうしようどうしよう

死にたくない

身を包む水は冷たいはずなのに、そんなの微塵も意識には入らない

もう一度息を吸おうとする

バタつかせた右手に大きくて重いなにかがぶつかった

焼けるような痛みが走った

腕の骨が折れたのかもしれない

けれどそんなこと、構ってもいられない

なんとか頭を水面にあげた

喘ぐように息を吸う

すると今度は足だ

右か左か、もうわからない

何かが刺さったような、激痛

木片か何かだろうか

突然の、衝撃とも言える痛みに、せっかく吸った息をブハッと吐いてしまう

痛みが痺れを呼び、うまく足が動かせない

水流に絡め取られて、体がもみくちゃにされる

頭が沈みそうになる

それだけは、なんとか阻止しなくてはと、ふんばる

視界が歪んでいる

自分は泣いているのだろうか

そんな無駄な体力使わないほうがいいのだろうに

自然と溢れて、恐怖が思考の全てを支配して

死にたくない死にたくない死にたくないと脳内で繰り返される

もう、息ができない

苦しすぎて、無闇に口を開く

タイミング悪く、顔半分沈んだ瞬間だったから、また大量の水が入り込む

飲み込みきれない量に、吐き出したいのにうまくいかず

鼻にまわって、鼻から出た

つんざくような痛みが顔面に広がる

喉の奥底まで土のにおいが染みる

痛い、苦しい、また口を開く

見上げた空は広く、しかし曇天だ

木々の緑が余所事みたいに風に吹かれている

もう、手も足も動かなかった

ただ、流されるまま

心臓が最後の頑張りのようにドクドクドクドク早鐘を鳴らしている

ああ、こんな状態なのに、もう絶望しかないのに

死にたくない

そう思っている自分に笑えてくる

誰か助けてくれ、誰でも良いから、誰か

なけなしの力をはたいて、腕を上げた

実際には、ぎりぎり水面に人差し指が浮き上がったくらいだった

けれど、その指先のさらに先

確かに見えた

必死に川沿いを走ってこちらに腕を伸ばそうとしている影

とっくに水が詰まってほとんど聞こえない耳にも伝わる

叫び散らすような声

ああ、助けて……

「あにうえっ!」

振り絞って出した声

それが最後だった

ゴツンと激しい衝撃

視界が不規則にブレる

後頭部にすごい熱さが広がる

キュウと狭くなる視界

暗転

下から上へ掬いあげられるように、スゥと意識がなくなった


 *

「ハァ、はっ……はぁ……」

心臓の音が直接脳内に響いているように感じた。真宏は見開いた目が乾くのを思って、何度か瞬く。

消灯された室内、ぼんやりと白く病院の天井が見えている。

(ゆ、夢……だよねぇ……?)

手も足も、緊張からかガチガチに固まってしまっていて、感覚が覚束ない。試しにゆっくり指を曲げてみたら、ピシッと腕の筋が痛んだ。

大きく鼻から息を吸って、口から吐く。

未だ心臓の音が煩い。

喉がカラカラに乾いていた。

(夢にしちゃ……リアルすぎ、だろー、今の……)

もう一度深呼吸して、それから今度は足を曲げてみる。右足だけがジンと痺れていた。

「あー……」

小さく唸る。

(蘭ちゃんの話、いろいろ聞いたからあんな夢見たのかな……それとも……蘭ちゃんのなんかが俺に移っちゃったってやつ? ……まさかとは思うけど……)

真宏はグルグルと混乱する頭を整理しようと躍起になる。

(まさか、ね。まさか、俺が蘭ちゃんに触れたから? 昨日……あー、肩触った……あと……手……静電気?)

まさかぁー、と大声で言いそうになった。

「俺のがよっぽど……」

中二病っぽいなぁと思って、少し笑えた。

「ずいぶんとまぁ、遅い発病だこと……」

固まったままだった頭をギギギと動かす。枕元の時計を見れば、深夜二時を示していた。横を向いた時、頬がくすぐったいなぁと思ったら、汗が垂れていた。

「あーらら……パジャマびっしょり……」

寝汗と言うにはいささか過ぎた濡れ方だ。真宏はひとつ身震いすると、起きあがった。

部屋は相変わらず薄暗く、慣れてきた目には全てがよく見えた。仕切りのカーテンがうっすら開いていて。真宏は無意識に一蘭の姿を探した。

(あー……今日も蘭ちゃん、来てくれれば良いのに……)

夜が明ければ、朝になれば、一蘭はまた真宏に会いに来ると言っていた。

退院する前に会いに来ると。でも、それを待つのも嫌だなぁと思うくらい、真宏は一蘭に会いたいと思った。

(蘭ちゃんが毎日見てる夢って……あんな感じなのかなぁー……)

それは、とんでもなくキツいことだなぁと思った。

「まだ、中学生だろー……」

あんなものを毎日見せられていたら、誰でもノイローゼみたいになるだろうと思う。

「蘭ちゃん、ツヨイなぁー……」

真宏の目に映る一蘭は、いつも毅然としている。多少は揺らいでいる姿を見せることもあるけれど、一貫して自分の問題をなんとか解決しようという意志を感じる。

ちゃんと向き合っている姿勢だ。

(俺も……)

ちゃんとしなくちゃなぁ……

真宏は、夕方に再度受けた医師との面談を思い出していた。

それから、一蘭の話を思い出した。

思い出して、実感する。

受け止めて向き合うということは、こうも大変なことなのかと。

そして、今までいかに自分が、受け止めずに流してきたのかという事実を思い知る。

(そんなつもりはなかったんだけどなぁー……そういう、性格なんだろうなぁ……)

苦笑する。

(俺、そういう自分、キライじゃないけどねぇ……普通に幸せだし)

それでも。

今回ばかりは。

「へっくしゅっ!」

ひとつクシャミをして、ああ、パジャマを着替えようと荷物を漁る。

(あー、パジャマの替えとか、明日母さんに頼まないとなぁ……)

母の雪代が持ってきた鞄には、キレイに畳まれた着替えが整然と入っている。

一人息子の入院に、父や母はどんな心境だったのだろう。今更だ。やっぱり今更、そんなことを思った。

そういう全部をひっくるめて。真宏は、色々と、覚悟は出来たと思った。

(とりあえず、今のところは……早く朝になんないかねぇーってとこで……)

とてもじゃないが、もう一度微睡めそうにはなかった。


 *

朝ご飯が終わるとすぐ、一蘭がひょっこりやってきた。いつも通り、カーテンの隙間から中を伺うようにして。

「真宏さん、おはようございます」

「おー! 蘭ちゃん! いらっしゃーい。待ってた! すげー待ってた!」

「……どうしたんですか……朝からテンションおかしいですね」

「ちょっとね、色々あったのですよ」

結局、あの時間から眠れなかった真宏は、退屈に夜を過ごした。静かな病室に、時折誰かのイビキが響くだけ。初日の夜はあんなに怯えていたのに。昨夜はいっそのことオバケでも出てきてくれないかとさえ思った。

だが、その代わり。

(色々、考える時間は出来ちゃったけどねぇ……)

「蘭ちゃん、ジュース、飲みに行こうか。今日は俺もヨーグルトのジュースにする」

「……僕は温かいお茶がいいです」

「えーお茶つまんなくない? 味が」

「美味しいですよ。ウーロン茶が好きです」

「渋いね」

真宏は笑って、それから、ちょっと怒られるかなぁと思いながら。ポンと一蘭の頭を撫でた。

「……なんです?」

「いーーや、なんでもない! 行こ。まだこの時間ならラウンジ空いてるよ」

ラウンジはやはり空いていて、そしてやはり日溜まりが出来て暖かだった。

「ここ、窓の向きがいいんだろうねぇ」

昨晩、散々朝日を待った真宏にとって、それはとても良いものに見えていた。対する一蘭は曇り顔だ。

「蘭ちゃん、ウーロン茶ホットでいいんだっけ?」

「はい」

「あとでジュースが良くなったらまた買ったげる」

「いや、そんな……」

「俺さ、一人っ子だから、結構蘭ちゃん、弟みたいで可愛いんだよね」

真宏のその言葉に、一蘭は明らかに渋い顔をしてみせた。

(ありゃ、嫌だったかな……?)

確か姉がいると言っていた。

兄弟がいる感覚というのはイマイチよくわからないが、使いパシリにされたりして、あまり良いイメージがないのかもしれない。

二人は、昨日と同じ窓側のソファーに並んで腰掛けた。

(……んんん……?)

真宏が座ってから、一蘭が隣に座る。が、その距離は昨日よりもグンと縮まっているように感じた。

「真宏さん?」

「あ、うん。えっと、近くない?」

「そうですか?」

一蘭は別段気にする様子もなく、ペットボトルの蓋と格闘している。

「あけたげる?」

「……すいません。力入れると、お腹痛くて」

なんでもないことのようにサラリと言った。真宏はキュっと唇を噛んで、蓋を開ける。

(早く良くなればいいのになぁ)

自分のことは棚上げで。

とにかくこの頑張ってる子が早く良くなりますようにと思った。

「はい、どーぞ」

「ありがとうございます」

そっと、受け取る手と差し出す手が触れあった。

(今日は静電気おこんなかったなぁー)

真宏は少し残念なような、おかしな気分になる。

「蘭ちゃん、今日何時くらいに退院するの?」

「十三時に姉が迎えにきます」

「お姉さんと仲良いんだ?」

「可愛がってはもらっていると思いますけど……」

一蘭ははにかむ顔をした。

「まだ時間、十分あるねぇ」

「真宏さん検査は?」

「お昼食べてからだから蘭ちゃんと同じくらい」

真宏は手元にあるジュースを転がして遊ぶ。手持ちぶさたな気分だった。どうやって切り出そうか、考える。

「真宏さん、今、元気ないです? さっきはテンション高かったのに……」

「……そう見える?」

「そう見えます。真宏さんが元気ないのは、僕が困るから……」

「あー、そうだったね」

一蘭の中の前世の記憶が、一蘭に死を促す。真宏より先に死ねと、促してくる。それがどんなに酷なことか。その声がどんなにリアルなものか。

真宏はもう知っている気がする。

「大丈夫だよ、元気だから」

「そうですか……なら、良いですけど……」

一蘭はまだ疑うような視線をさまよわせている。

「蘭ちゃん、俺、今日ね。蘭ちゃんに、良い話とボチボチ悪い話とふたつあるんだよね」

「悪い話から聞きたいですね」

「あ、そういうタイプ? 俺は良い話から聞きたいタイプ」

真宏は雰囲気を軽くしようと笑いかける。一蘭はもう、悪い話と聞いた途端から険しい表情だ。

ヨーグルトジュースにストローをさして、啜った。フワリと酸味が心地よく、真宏はゆっくり口を開く。決して慌てぬよう、理解を促すよう、ゆっくりと。

「蘭ちゃん、俺、昨日、ちゃんと先生から話聞いてきたよ」

俺の病気のこと

真宏がそう言うと、カッと目を見開いた。

「そっちが悪い話ですか。もうその時点で最悪じゃないですか」

「いや、ほら、ボチボチ悪い話だって」

「ボチボチってどのくらいですか!」

グイッと一蘭が真宏に近づいた。近づく前も十分近かった距離が、ほとんどゼロになる。手も足も触れ合っていて、オマケに顔も近い。

「ま、まぁ、まぁ……落ち着いて、蘭ちゃん」

「……僕……最近一人でいると、ボーッとすることが多くなって……気がつくと、オカシイんです。先の尖ったものを見つめていたり、刃物に触れようとしていたり、紐状のものを見るとグッとひっぱってみたり……無意識に……」

「何ソレ怖い」

「昨日も! 夜、ひとりで病室にいて。寝ようかなって時に……隣のベッドのおじいちゃんが、多分タバコを吸うんですけど、机の上に、マッチが置いてあって……」

「何ソレ怖い」

「……まだなにも言ってませんけど……」

「いやもう、すでに怖いってば」

「……まぁ、多分、火をつけようとしてたんだと思います……無意識なんです、そういうの全部。ただ、頭の中で、どうやって死のうかってことばかりが巡ってる。僕は別に、死にたくなんてないのに……」

一蘭は一息に言い切ると、少し青い顔をして、そっと前屈みになった。お腹の辺りを押さえている。

「蘭ちゃん? 大丈夫? ……おなかいたい?」

「大丈夫、です。ちょっとだけ、なので……」

慣れた様子で、ゆったりと自分の腹を撫でる一蘭に、真宏はどうしようもなく切なくなった。そして、せめてもと、その小さな背中を撫でる。

(お腹……ってか、胃が痛いってのに……背中を撫でるなんて……)

見当違いだとはわかっている。けれど、なにかせずにはいられなかった。

「とにかく、その、元気だから、大丈夫だよ」

「先生になんて言われたんですか、真宏さん」

「……先に良い話しようか?」

「いいから、大丈夫ですから……教えてください。曖昧なのが、一番キツイです」

一蘭が少し乱暴な口調で言うものだから、真宏は大きく深呼吸して、それからもう一度ジュースを飲んで、やっと、話し出した。

「えっとね。先生の話によると、胃ガン? には、なんかステージってのがあって……進行とか転移の度合いによって? そういうのがあるらしいんだけど……」

なんか俺、今微妙なところにいるらしくて

診る先生によって、見解が異なるくらい微妙なとこなんだって

初期段階ですっていう診断をする先生もいれば、第二段階ステージの入り口にいますって診断する人もいるんじゃないかって

とりあえず、内視鏡っていうの?

そういう簡易手術じゃダメだから、お腹は切る事になるみたい

あと抗ガン剤? みたいなのも、ちょっと使うって

これからの検査で、胃の他の臓器に転移がないか調べて……それによって治療方針が決まるからって言われた

だからまぁ、とりあえず……

「まぁ、あんまり死なない? とは思うよ」

「あんまりって……どのくらいですか……」

一蘭は真剣そのものだ。一言も逃すまいと瞬きもしない。

「えっと、ね……なんか初期段階だと、五年後の生存率が九十パーセントで……第二段階だと、確か七十パーセントくらいだって話だったと思う」

「七十パーセント……」

「まぁでも、ほら、半分以上? だし……」

「真宏さんは楽観的過ぎます」

「よく言われますけどもね……」

真宏は苦笑した。

場の空気を和ませようと「あー、お腹切るの痛そうだからヤだなぁ」と言ったら「麻酔するから大丈夫ですよ」と真顔で返された。

今の一蘭に冗談や与太事は通じないらしい。真宏は少し悩んだ。言おうかどうか、何度か脳内で唸った。

唸った後、ちょっとだけ一蘭から視線を外して言った。丁度彼の口元あたりを見ながら。

「ほんの少しだけ、悲しいお知らせがあるとしたら、まぁ、アレだね。若いからさ、俺もまだ」

若いと、進行が早いらしい

「昨日先生の話聞いて、俺的に気になったのはそこだけかな」

一蘭はその小さな口をうすらと開いて「そうですか」と落ちた声を出した。

「でもね、蘭ちゃん。俺のこと診てくれた先生が、なんかガン治療の権威? みたいなスゴイ人だったらしくてね? 森山さん……あ、看護婦さんね。看護婦さんに、運がいいですよって言われたから、多分、大丈夫だよ」

先ほどから、自分がどれだけ無責任な大丈夫を連呼しているか知れないと真宏は思う。

自分の語彙力の不足をこんなところで感じることになるとは、と。一蘭は暫く、考え込むように俯いていた。

相変わらずお腹をさすっているのは、痛みがあるからだろうか。

「真宏さん、は」

「うん、なになに?」

「ちゃんと手術、受けるんですよね?」

「まぁ、そうだね。受けろって言われたからね。そのために検査してるわけだし」

「じゃぁ、僕、手術終わるまで、たくさん会いに来て良いですか……? 今日で退院だけど……学校終わった後とか……会いに来てもいいですか?」

瞳の青が揺れている。

「いいよ、いつでも。俺どうせ暇してるし。彼女いないし。友達にはさ、言ってないし、入院してるって」

「言わないんですか?」

「言わないよ、格好悪い」

「死んじゃうかもしれないのに?」

一蘭はハッキリとした口調で言った。悪気のない顔だ。

「死なないもん」

対する真宏は子供のそれだ。でも、随分と擦れていない、素直な声が出た。

「……そう、ですか」

「うん。だから、蘭ちゃん、そんなに暗い顔しないでいいよ。良い方に考えよう。大丈夫だって。若いと進行早いって言うけど、その代わり体力もあるからって先生言ってたし」

まぁ、プログラマーの体力なんて、タカが知れてるけどなぁ、というのは心の中でだけ呟いた。

一蘭は未だに、納得しきってはいない顔をしていたが、渋々といった様子で「そうですね」と言った。

「良い話の方、聞かせてください。それでテンション上げます」

「そーね。なんか蘭ちゃんお通夜みたいな顔になってっからね」

真宏は再度、一蘭の頭をポンポンと撫でた。今度は嫌な顔をせず、彼はツッと一瞬だけ視線を泳がせた。

「さっそく、良い方の話だけど……俺、蘭ちゃんと同じような夢を見るようになっちゃったかもーって話」

真宏は努めて明るく言った。が、言った途端だ。

一蘭の目が、今まで以上に、それこそ今まで見たことがないくらいに、カッと見開かれた。

おいおい、そんなに開いたら、目、落っこちちゃうんじゃないのかい!? と言いたくなるほどに、だ。

「ら、蘭ちゃん?」

「真宏さん」

「はい?」

「それ、嘘だったらぶっ殺しますよ」

突然、一蘭から出た、その物騒で、しかし子供っぽい、中学生っぽいセリフに。真宏はポカンとしてしまう。

「本当、なんですか? 真宏さん、昨日僕の話を色々聞いちゃったから、それで、なんか、なんとなくそういう夢を見ただけなんじゃないんですか!?」

真宏が呆然としている間に、一蘭は見開いた瞳をそのままに詰め寄った。鼻先と鼻先が触れそうなくらいの距離に、無駄に心臓が高鳴った。

「お、ちついて、蘭ちゃん……どーどー……」

真宏は一蘭の両肩を優しく撫でてやって、若干の距離を取った。

「どうなんですか、真宏さん!」

「いや、確証はないし、俺も蘭ちゃんと同じようなこと考えたよ? 寝る直前に考えてたことの夢を見るってよく聞く話だし……」

でも、あれはそんなんじゃなかったと思うよ

すごくリアルで、本当に、苦しくて

もがいて、あがいて……

死ぬ直前まで……

ハッて目が覚めた時に汗だくでさ

夜中に着替える羽目になっちゃったよね

真宏が語るその言葉全てを飲み込んだ一蘭は、信じられないという顔をして、

「溺れている夢を、見たんですか? 溺れている人を見る夢ではなく……」

「うん。俺が溺れてる夢だったよ。そんでさ、なんか、死ぬ直前? 意識が途切れる直前? にさ……多分、蘭ちゃんなのかな……川辺に誰かいて……その人、一生懸命に手を伸ばしてくれてるのに、俺、手を上げらんなくて。多分なんか折れてたのかな、なんか流されてる間にいろんなものにぶつかったりぶつけられたりしてたから。感覚なくて……それで、最後の最後、苦し紛れに叫んだんだよね」

「兄上って、叫びました……?」

一蘭が、興奮を押さえられないように、唇を戦慄かせている。真宏も、これには驚いた。

「そう、それ。そう言って、そんで、なんか岩? なんかに頭ぶつけて。それで終わり」

「……僕が見ている夢と……」

「同じ?」

「同じ、じゃ、ないです。視点が違う。僕は追いかけて、真宏さんを助けようと走って……声が、喉が掻き切れるくらいに何度も名前を叫んで……手を、伸ばして……」

暫くの沈黙が流れた。

真宏も、一蘭に負けないくらいに興奮していた。いや、興奮というよりは、昂揚だろうか。よくわからない、わき上がるものが確かにあった。

「なんで、突然そんなことになったんでしょう……」

「俺もそれ、考えたんだけどさ。昨日、蘭ちゃんに触った時……」

「静電気!?」

一蘭が大きく声をあげた。真宏は、一蘭がそんなに大きな声を出せるものなのかと吃驚したし、一蘭は一蘭で、自分の声量が予想外だったようでハシッと両手で口元を押さえた。

「……すみません、つい……」

「いや、気持ちは、わかるよ。まぁ、確証はないし、そんな、なんか魔法? みたいな話、信じがたいし……」

でも、そうとでも考えないと、説明がつかなかった。

「まぁ、理由はどうあれ……多分、俺もそういう、前世の記憶? だかわかんないけど、なんかに目覚めちゃったくさいことだけは確か。今夜もまた同じような夢を見るかどうかも、わかんないけどね」

「……そうですよね……。もしかしたら、昨晩だけかもしれないし……」

一蘭の表情がまた曇るので、真宏は言った。

「いやぁーでもさ、昨日ほんとに怖くて。目が覚めちゃったあとも、もちろん全然眠れなくてさ。あー、今晩も蘭ちゃん遊びに来ないかなぁ〜ってずっと思ってたんだよ」

実際、かなり真剣にそう思っていた真宏だったが、それを悟られるのはあまりにも恥ずかしいし、なにせ男同士だ。気持ち悪がられたら嫌だなぁと思って、茶化して言った。

しかし、一蘭はその言葉に、

「行けば良かった」

とキッパリ言った。

「真宏さんが怖い思いをしていたのなら……僕は側に行けば良かった」

悔しそうに下を向く。

(おいおいおいおい……)

とんだ事だと真宏は思う。

造形の綺麗な顔をした子だ。

そんな風に言われると、男同士でもドキドキしてしまう。

「蘭ちゃん、そういうのはね、彼女が出来た時に言ってあげなさいな」

これからの人生、たくさんの女の子からモテるんだろうなぁ、とちょっとだけ妬ましい。

「僕は真宏さんを守りたいんです。女の子は関係ありません」

「それは蘭ちゃんじゃなくて、蘭ちゃんの中の人の気持ちでしょうに」

中の人、という表現は合っているのだろうか、とチラリ思った。

「どうでしょうか……わからないですけど……でも、この先真宏さんがまた夢を見て怖い思いをするのであれば……なるべく側にいたいと思います。真宏さん、ガンになっちゃったのに、その上ストレスで胃炎とかになったら笑い事じゃ済まされないし」

「確かに、同じ『胃』だしね」

それにしたって、言い方ってもんがあるだろう、とか。色々言いたい真宏だった。

その後、一蘭は、退院の時間である十三時を待たずに病室へ帰って行った。

正確には、真宏が一蘭を帰した。

一蘭の胃痛が結構酷くなってきてしまったようで。真宏は、とにかく薬を飲んで少し横になった方が良いと説得した。

せっかくの退院が先延ばしになってしまっては大変だ。それを言うと、彼は少し青い顔をしながら、

「退院、延びれば、毎晩真宏さんの側に行けるのに」

と膨れていた。

やはり、とんでもないことである。

真宏はまたしても、この一回りも歳下の少年にドギマギさせられたのだった。


 *

その晩、真宏は随分早くに眠りについた。一蘭に話すべき事を話して、どこかホッとしたのかもしれない。

昨夜に見た恐ろしくリアルな、苦しい夢を、また見てしまうかもしれないという恐れはあった。けれど、それよりも先に眠気が来てしまったのだ。

(睡眠導入剤、だっけ……すげー効くんだなぁ、これ……)

それが最後に思った事だった。

そこからストンと眠りに落ちている。


夕方の検査後のことだ。

眠そうにしている真宏に、森山看護婦が、

「夜、ちゃんと眠れていますか?」

そう尋ねてきた。

真宏はちょっと悩んだが、嘘をついても仕方ない。

「いやぁ、毎晩夜中に目が覚めちゃって……実は入院してからこっち、あんまし眠れないんですよねぇ」

世間話の一環みたいに軽く、言った。森山看護婦もいつも通りだ。ニコニコ笑って「そうですかー」と間延びした声を出す。

「少しだけ、睡眠導入剤出しときましょう。たくさん寝て、体調を整えることも治療の内です。免疫力を高めるには睡眠って大事なんですよ」

それから、と森山看護婦は続ける。

「適度な運動も大切ですからね。なにやら毎日ラウンジで天野君と日向ぼっこしてたみたいですけど」

「ありゃ、バレてた」

「看護師は結構なんでも知っているんですよ」

看護師間ネットワーク舐めないでくださいね、と彼女は悪戯っ子みたいな顔をして笑った。

「天野君、さっきお姉さんと退院されましたけど……最後までお父さんお母さんはいらっしゃらなかったなぁ……」

「あー、なんか共働きだって言ってましたけど」

「それにしたって、自分の子供が入院したっていうのに……でもお姉さんは良い感じの人でした。天野君とも仲良さそうで……」

「美人でした?」

「あーやだやだ、男の人ってすぐそういう事、聞くんですからねぇ」

真宏としては、蘭ちゃんのお姉さんは蘭ちゃんに似てるのかな? とか、お姉さんも目の色が青いのかな? とか、そういうことが聞きたかったのだけれど。

やはり、そうは捉えてもらえなかったようだった。

(俺は、お姉さんより、ずっと……)

蘭ちゃんに興味あるんだよねぇ

真宏は自分の思考が変な方向にシフトし始めていることを、見て見ぬフリをすることにしている。


 *

アレ? と思った時には、暖かな日差しの縁側みたいな場所にいた

ポカポカと日だまりが気持ちよく、ゴロンと横になれば、床がじんわり温もっていた

青い青い空が見える

なんにも隔てるものがない、広い空だ

遠く、鳥が飛んでいる

結構大きな鳥だ

逆行で黒くしか見えない

それでも悠々と空を泳ぐ姿は、心を穏やかにさせた

微睡むな、という方が無理な話だった

日のまぶしさに目を細めるついでに、そのまま閉じてしまう

瞼の裏が残光でキラキラしている

気持ちが良い

ひたすら、気持ちが良い

トロトロと意識が浮いたり沈んだりしている中、不意に誰かの気配がした

よく知る気配だ

安全だとわかっている

目を閉じたままでいると、その誰かは、そっと近くに寄ってきた様だ

覗き込まれているのか、顔の前に影が落とされたような気がする

億劫だったが、いい加減に目をあけようと思った瞬間だ

唇に、優しく、柔らかく、甘い感触

あ、と思ったが、別段心は驚かない

ゆるりと瞼を上げれば、青い瞳とかち合った

「こんなところで寝ていると風邪をひくぞ」

まろやかな、慈しむ口調

「うん」

甘える子供の声で答える

「あにうえ」

「ん?」

「もう一回、してください」

彼は、仕方ないなぁという風に、でも満更でもないように笑って、もう一度顔を寄せてきた

段々と近くなる

息づかいが絡み合う距離

瞳は互いに開いたままだ

決して視線を逸らさない

そのまま、唇が重なった

最初はただ、重ねるだけ

互いの温もりを分け合う

しばらく擦り合せてから

薄く開いた唇の隙間

舌と舌が、ねっとりと絡んだ

唇だけではない

頬を包む大きな手

背を撫でるもう片方の手

触れ合う鼻先や額

その全てが優しく、温かかった


 *

真宏はチュンチュンと雀の鳴く朝に、どんよりと目を覚ました。ぐっすり眠れたはずなのに、スッキリ目覚められるはずなのに。

(なんだ、この……罪悪感……)

思わず「あああ」と嘆いて頭を抱える。

「あれ、ぜってー蘭ちゃんだった……前世の蘭ちゃんだった……」

そして、自分は、夢の中で。

前世の一蘭となにをしていたのだという話だ。

「弟って、言ってたよなぁー……妹じゃないよなー……いや、妹でも大問題か……」

だって、兄弟なんだろう?

家族なんだろう?

家族と、あんな、あんな……

(ある意味昨日の夢より酷い……)

ぐったりと項垂れて、そして、暫く固まってから、己の半身の違和感をそっと覗いた。

真宏の下半身、男の象徴がそっと頭をもたげている。

(……いや、ね。ほら、生理現象ってやつ? あんなエッチなベロチューかまされちゃ、仕方ない仕方ない……仕方ないっすよ……)

真宏は自分が男である不自由さと、ここが病院であるという不自由さを同時に感じていた。

「びょーいんって、どこで抜けばいーのよ……トイレ? この状態でトイレまで歩けと?」

あああ、と再度嘆いた。

(宥めよう……なんか余所事考えて……)

真宏は白い天井を仰ぎ見ながら、今日の朝ご飯なんだろうと考えた。それから、今日は蘭ちゃん来るのかな、と考えた。考えて、また、夢を思い出した。

(……まさか、蘭ちゃんも、ああいう夢、見てんの……)

ヒクリ、頬が不自然に動いた。


 *

「真宏さん、なんか今日も元気ないです?」

「え、いや、そんなこたーないよ!」

「嘘つくの、すごい下手なタイプですよね、真宏さんって」

学校の帰りらしい一蘭が、夕方に遊びに来た。今日はいつものラウンジではなく、二人、屋上に出る事にした。

「ちょっとは運動しなさいって、森山さんに怒られちゃったからさー」

広い屋上を、話しながらグルグルと歩き回る。二月の空は昨晩夢で見たように晴れ渡っていたけれど、寒さがとんでもなかった。

真宏は午前中に母が持参した厚手のセーターを着込み、コートとマフラーまでつけている。

対する一蘭は、学ランにコートをひっかけただけの格好だ。

「蘭ちゃん、それ寒くないの」

「そうですね……耳が冷たいかな、くらいです。真宏さんすごいモコモコですね」

馬鹿にした感じではなく、身内にするみたいに一蘭は笑った。

「蘭ちゃん、今日、学校楽しかった?」

「はい。久しぶりだったので。まだ激しい運動は出来そうにないから、体育は見学でしたけど……」

「蘭ちゃん運動出来るんだっけね。まぁ、学校が楽しいのは良い事良い事」

真宏は、自分の学生時代を思い出す。あまり覚えていないけれど、冬の体育が寒くて嫌いだったのは覚えている。

「真宏さん、あの、昨晩は、眠れましたか……?」

ビュっと目の前を風が通り過ぎた。

真宏は寒さに身震いする。同時に絶対来るとわかっていた質問が早速飛び出したことに身震いした。

(あー、なんて言えばいいのよ、これ……)

眉根を寄せて苦い顔をしていたせいだろうか、一蘭が不信な顔をしている。

「やっぱり……この間はたまたまそういう夢を見たってだけだったんでしょうか……やっぱり真宏さんが僕とおんなじような状況になったわけではないっていう……」

一蘭から重いため息が漏れた。おおよそ中学生のつくため息ではないような類だ。

「いや、その、夢は見たんだよ。また。前世っぽい夢」

これは誤摩化したり隠したりする方がよっぽど酷だと真宏は思った。思ったけれど、まだ躊躇する。

(ってか、もし蘭ちゃんが……僕はそういう夢、見た事ありませんけど、ってなったら……そしたらアレか? 俺が変態っていう結論になっちゃう感じ!?)

真宏は、一蘭から軽蔑の眼差しで見つめられる自分を想像する。

なぜかその一蘭の後ろに森山看護婦までもが、呆れたような残念そうな目でこちらを見ている図が浮かんだ。そこに、父と母、田島先輩までもが加わる。

(やめろ……そんな目で見んなってば……俺のせいじゃないって……不可抗力……)

真宏は脳内妄想で泣きそうになる。どうやって伝えたらいいのか、よくわからなくなってきた。

「まーひろさん」

「はいっ」

「なにを考え込んでいるんですか? どんな夢だったか、教えて下さいよ。また僕の夢とシンクロしているかもしれないし……全く、違う夢かもしれない……」

一蘭の瞳は、必死に仲間を探している様に見えた。

(……そりゃ、そうか……)

今までずっと一人で苦しんできたことだ。きっとわかってもらえないと、相談することも出来ず。一蘭にとって真宏は、唯一現状を分かち合える仲間なのだ。

その仲間が、本当の本当に自分の仲間なのかどうかの瀬戸際。真剣にならない方が可笑しい。

「蘭ちゃんってさ……」

「なんですか」

「彼女、いたことある?」

「ないです」

即答だ。

中学生だ。

珍しい話でもないだろう。

「じゃ、じゃぁ、ほら、友達同士で、そういう話になったこととか、ない?」

「そういう話って、どういう話ですか?」

「えーっと、だから、男同士の話、みたいな……」

純粋な瞳に見つめられているような気になって、真宏はどうしても口がうまく回らない。

それこそ男同士なのだから、もっとフランクに話そう! と思っていたのに。どうしたって中学生という一蘭の肩書きが、真宏に重く圧し掛かるのだった。

「男同士の話って……エッチな話とか、そういうことですか?」

「わぁあああああ!」

「っ!? な、え? どうしたんですか!?」

「蘭ちゃんがエッチって言った!」

真宏の心臓にドンとした衝撃があった。壁ドンならぬ、心ドンだ。

「可愛い子がそんな言葉使っちゃいけません!」

「……真宏さんが聞いたんじゃないですか……それこそ、そういうセリフは女の子に言って下さい。こんなでも僕、男なんで。しますよ、エッチな話」

まぁ、思春期ですから

一蘭は口の片端だけをちょいっと上げて、笑った。

「俺の中の蘭ちゃんがどんどん淫乱になってく……」

「勝手に決めつけないで下さい」

「すんません……」

真宏は、場所をラウンジから屋上に移して良かったなぁと思った。

もし万が一、うっかり立ち聞きされでもしたら、どう考えても歳上の真宏に立つ瀬がない。

「真宏さん、やっぱり今日、なんか変ですけど……もしかして……そういう夢でもみましたか?」

「……」

「見たんですね?」

「……蘭ちゃんも、見るの……そういう、その、……」

視線を彷徨わせていると、一蘭が少し考え込むような顔をした。探る様な、伺う様な。

「真宏さん、具体的にはどんな夢だったんですか。それを話してもらわないと、なんともコメント出来ないです」

「……ですよね……」

真宏は降参のポーズをとる。

渋々、それも、しどろもどろになりながら、なんとか昨日の夢を話した。途中、何度も顔から火が出そうになる。

一蘭は、顔色ひとつ変えずに静かに顛末を聞いていた。

「なるほど……やっぱり僕の夢とシンクロしてるみたいですね……僕は縁側で寝ていた真宏さんにキスする夢なら見た事あります」

「蘭ちゃん、ほんと、男前だよね……」

男同士のキスについても、それが恐らく兄弟であることについても。一蘭は特に嫌悪もしなければ、思春期らしく興奮もしなかった。淡々としている。

「真宏さんは、意外となんか……ウブ? ですね。……童貞ですか……?」

「違うわ! うっさいよ! ちょっとご無沙汰だけどねっ!」

ガーと叫べば、一蘭は楽しそうにクスクス笑った。入院していた昨日より、一蘭の顔色は良く見えた。

(やっぱ、家に帰って、学校行ってってすると、元気が出るのかもねぇ)

真宏は童貞云々のくだりは置いておいて、とりあえずホッと安心した。

「真宏さんは、そういう、男同士とか、そういうのに偏見のある人ですか?」

一蘭は笑ったままの顔形で真宏に問うた。けれど、それは別に茶化しているような風ではなかったし、純粋な質問の色を持っていた。

「いや、別に、多分偏見とかは……ないとは思うけど……」

「けど?」

「身近にそういう人、いたことないから、よくわからんってのが本音、かな」

偏見があるかどうかは、考えた事もないからわからなかった。が、確実にビックリたまげて、心臓止まるかと思った! っていうのは間違いない。いや、それも少し大袈裟か。

「ああいうの、衆道、っていうんですよね。男色? とか」

「ああ、まぁ、そうだろうね」

「僕、姉が、そういうの好きな人で」

「え、なに、そういうのって、衆道!? お姉さんだよね!? おネエさんってわけじゃ……」

「違いますよ」

遮るように一蘭は言った。その声は柔らかい。

「真宏さん、腐女子って言葉知ってますか?」

「婦人って意味の、ではないよね?」

「女のオタクの人達……みたいな感じの意味です」

なるほどと真宏は思った。プログラマーとして働いていると、それなりにオタク気質な人間が多い。生憎真宏の部署は男ばかりなものだから、生粋のアキバ系オタクやら、アイドルオタク、電車オタクがいるくらいなものだ。が、オタクはオタクを呼ぶのか、結婚した奥さんもオタクでした、という人は少なくない。

結婚式のスピーチで、そんな話を聞いた経験も少なからずあった。

「なんか、あれでしょ? 乙女ゲーム? やったり……執事喫茶とか有名だよね」

ドヤ顔で言ったら「ああ、そういうタイプじゃなくて」と一蘭は一蹴した。

「なんか、ホモが好きらしいです。マンガとか、描いてます」

「お姉さん漫画家なの!? すごくない!?」

「いえ、趣味で描いてるだけで……なんかスルーされてますけど、ホモが好きなんですよ、姉は」

「……それは、アレだよね、お姉さんは女の人なんだから、えーっと、その、男同士のニャンニャンを見るのが好きってこと?」

「ニャンニャンって可愛いこと言いますね」

「もう、ごめん、混乱してて何言ってるか自分でよくわかんなくなってきた」

真宏は頭を抱える。

(ホモが好き、とは……)

「特殊な性癖だとは思いますけど、僕は身内だからか、そんなに嫌悪感はありませんけど……真宏さんは、やっぱり理解出来ないって思います?」

「いや、うーん……どうだろ……人それぞれだから、良いと思うけど……あれかな? 男が、女の子同士がわちゃわちゃしてるのが可愛い〜って思うのと同じ様な感じ?」

それならまだ、真宏にも理解できる。

アイドルオタクの友人がそのようなことを言っていたことがあった気もする。

「まぁ、そういう感じでしょうね。僕、結構手先が器用なんで、姉のマンガの手伝いとかした事あるんですけど。だから、あんまり、ああいう夢見ても、抵抗はなかったです」

ってことが、言いたかったんです

一蘭はそう締めくくった。彼も彼で、なかなかに説明に窮していたようだ。

二人して、なんの話をしているのか、よくわからなくなってきている。

「っていうかさ、蘭ちゃん」

「はい」

「その、夢の中の、キスの相手、俺だったわけだけど……前世の、俺だけどさ」

「はい」

「……恥ずかしくなったりしないの」

真宏は自分の顔が熱いのが気になった。赤くなっているのならもっと恥ずかしい。手扇子でパタパタと顔面を扇いだ。

「まぁ、それなりに……でも、嫌じゃ、なかったんで」

「うぇ!?」

「真宏さん、嫌でした?」

真宏は一気に頭の中で、夢を思い出す。唇が触れた感覚まで全部。克明に覚えているものだから。

「……い、嫌じゃ、なかったけどさ……」

「多分、前世の僕と真宏さんは、そういう関係だったのでしょうね。その夢を見た日の僕は、目覚めても、とても幸せな気持ちでしたから」

「……それは、まぁ、確かに……」

真宏も、驚きこそすれ、勃起反応を起こすくらいには気持ちよく、そして幸せな夢だったと思う。

「前世の僕は、真宏さんの兄であり、恋人で……だからきっと、こんなに……」

こんなに未練が、残ってしまっている

一蘭の言葉に、真宏は妙な納得を覚えた。

(確かに、な。好きな人に、あんな風に死なれたら……しかも身内でもあるわけだし……)

その上、前世の真宏が死んだのは、自分のせいだと思っているらしい。それはもう、永遠に続く地獄のような……そんな心持ちに違いなかった。

(どうにか、なんねーのかねぇー……)

そんな無限地獄に、終わりなどあるのだろうか。そして、その終わりが来なければ、一蘭は一体、どうしたら良いのだろうか。

一体、いつになれば、煩わしい前世の記憶から、解放してもらえるのだろうか。それとも一生、そんなものに付き合っていかなくてはならないのか。

考えても答えは出ない。

この現象には説明がつかないのだから。けれど、考えないという選択肢はない。答えのない答えを、探さねばならない。手探りで。

(こういうのって、一番苦手なんだよなぁ〜……)

真宏はウンザリ思ったし、面倒くさく思った。けれど、一蘭をこのままにしておくことは、出来なかった。


 *

段々と真宏は、夢の中にいることを自覚出来る様になってきた。

病室で眠った記憶はあるが、今はどこか、薄暗い場所にいる。

右手がヒタリと触れている床は、湿り気を帯びていて冷たい。

(あー、多分、木、だな……木製の床……)

己の手の肌色が、薄闇には仄かに発光しているように見えた。

(俺ってば、結構色白だったんじゃないの、前世では)

(美少年だったりして)

(そうしたら、アレだな)

(男を誘惑しちゃうのも、仕方ない事なのかもしれないね)

周囲に誰も人の気配がしないものだから、クルクルと思考が回る。今回の夢は、夢の中だというのに、真宏は真宏の思考を続けられていて、それがなんだか新鮮だった。

今までの夢は、リアルでこそあったけれど、真宏の存在など丸ごと無視していた。ただただ流れていく記憶のような夢だった。

(静かなとこだな……ここ、どこだろ……明かりは……)

周囲を見渡す。段々と夜目がきいてきた。

(あれま)

真宏は自分の体を見て驚いた。

(着物だ)

麻のような素材の、軽やかな装いだ。

自覚したとたん、ブルリと震えが走った。

(え、もしかして、すんごい寒いのかも……?)

夢の中で、寒いとか暑いとか、そんなのアリだろうか。それとも、真宏の中の前世の記憶が、少しずつ少しずつ、当時を思い出して再現を始めているのだろうか。

真宏は両手で自分自身を抱き締めた。腕を擦る。

(……なんか、聞こえる……)

もっとよく周囲を伺おうと気をたてたら、微かに音が聞こえてきていた。目を閉じ、集中する。

(……水、の音か……? 川……?)

パチリ、目を開く。

(……なるほど。川が近いから、ここ、床がちょっと濡れてるんだ……濡れてる、ってか湿ってる……)

もう一度、木目にそって床に触れた。やはりそこは、しっとりと冷たい。

(なーんか、嫌な感じ……)

あの時、あの瞬間の夢を見た時から、真宏にとって「川」というのは、ちょっとしたトラウマになっている。出来れば近付きたくないと思わせるくらいには、嫌な気持ちになってしまう。仕方ないことだ。

(溺れて死ぬことに、なるんだもんなぁ……)

真宏は出来る限り、悪い方向には考えないようにしようと、頭を振る。意識して、別の事を考える。

(ここ、どこだろ……)

どうやら真宏は、この場所で寝ていたらしい。

(寝ていたのか、寝かされていたのか……)

真宏は周囲を見渡して、ある一点で、ヒクリと頬を引き攣らせた。

(寝かされていた、だったら、最悪のパターン……)

真宏の目に映ったのは、さして大きくはないが、立派な仏像だった。

(……お堂、ってことで、合ってんのかな……)

木造の、それなりに古い堂のようだった。仏像の背面、天井の近くに小さな光取りの窓が付いている。

(夜だ……)

窓の向こうは星空だった。

(こんな寒い日の夜に、こんな薄着で、おそらく美少年の俺を、こんなお堂にひとり、ポツンと置き去りにするなんて……)

真宏は宗教的な話には、めっきり疎い。両親ともに無宗教だ。けれど、こういう状況をなんと言うかは、なんとなく知っている。

(……生け贄、とか、ほら、そういう……)

オマケに川の近くだ。意識すれば、水の独特な香りすらしてきそうだ。

(川の、氾濫を防ぐための、人柱、とか……)

しかし、そうなれば、そうなったで。

真宏は思う。

(それ、蘭ちゃん関係ないじゃん。なんかほら、村人? とか、そういう生け贄にしようって決めた村長? とかさ。そういう人のせいじゃん、そうなったらさ)

一蘭のせいではないことがわかるのなら、それはそれで良いのではないか。

そう、前向きに思考を回した瞬間だった。

「ごめん、待たせたね!」

お堂と思われる場所の扉がガタっと開いた。真宏は一瞬クラリとする。

星空と穏やかに流れる川を背に、青い瞳の青年が立っていた。

(あ、らんちゃんだ)

真宏が考えられたのは、そこまでだった。

意識がポンと外側に放り出される。

そしてまた、いつもの通り。

真宏は、ただ、夢に流された。


 *

「寒かっただろう」

「ううん、平気。誰にも見られなかった?」

「大丈夫だよ。心配性め」

チュッと頬に唇が触れる

それを熱いくらいに感じたから、実際は結構冷えてしまっていたのだろう

「頬がこんなに冷たい。やっぱり冷えていたんじゃないか。こんな薄着でいるから」

「だって、寝間着のまま抜け出したのだもの。仕方ないでしょう?」

「ほら、こっちにおいで。あたためてあげよう」

青い瞳の青年は、腕を大きく広げ、フワリ、真宏の体を包んだ

はじめは優しく、次第にその腕の力は強まった

ギュウと抱き締められる

(あったかい……)

真宏は、頬を彼の胸板に擦り寄せる

ウリウリと懐いて、首筋あたりに鼻を寄せる

汗と、土埃と、夜露と、それから水の匂いがした

暖を取ることに夢中になっていると、スルリ、帯を解かれた

緩まった合わせから、カサついた手のひらが忍び込む

「……せっかち」

「仕方ないだろう。母上や父上に見つかったら……勘当どころでは済まないかもしれない」

「……うん」

二人、見つめ合って、そのまま口付けた

舌先が歯列をくすぐる

それを合図に唇を開けば、遠慮なく舌と舌が絡んだ

上顎をなぞってくる彼の舌を、真宏の舌が撫でる様に舐める

角度を変えて、今度は舌同士を吸い合った

ジュプ、チュプ、と耳元に響く

夢中で貪る合間に、彼の手のひらは真宏の肩から着物を剥ぐ

晒された肌に、寒さがしみた

「可愛いな、乳首が立っている」

「……寒いからでしょう」

「どうかな?」

青い瞳を細めて笑うと、彼は真宏の胸元に吸い付いた

ピンと立っていたものを、舌で押しつぶすようにする

押しつぶした後は、そこをグリグリと舌先で力を込めて抉られた

「ァッ、んっ、は、ぁっ……」

真宏は、兄であるのだろう、彼の肩口を強く掴む

そうでもしなくては、覚束なかったのだ

「お前は本当に、ここをいじめられるのが好きだな」

「ち、が……」

「違わないだろう? そら、こちらは手で捏ねてやろうな」

片側を唇で吸い、舐めまわし、もう片側は指の腹で円を描くように捏ねられた

「ぁっアッ……っ、ぅんんっ……ぅぁっ、ア……」

「ほら、気持ちがいいだろう」

「にい、さんの、せいだ……」

兄さんのせいで、こんなになったんだ

真宏は足の裏からゾワゾワと這い上がってくるナニかに負けないように言葉を紡いだ

けれど、声は震えて、もうグズグズになっている

兄はクスクスと笑っている

笑って、頭を撫でてくれた

「お前は、本当に、こんな俺に……よく懐いてくれた……」

「あにう、え……」

「こんな、化け物のような目をした俺を……愛してくれるのは、お前だけだ」

先ほどまで笑っていた瞳は、冷ややかな、ガラス玉のような色に変わっていた

それを見た真宏がそっと、彼の髪を撫でる

「美しい瞳です、兄上」

その言の葉を聞いた彼は、くしゃりとした顔で笑った

そして、なにやら懐をゴソゴソとすると、小さな貝合わせを取り出した

「ほら、今日はお前が痛がらないようにな、油薬をくすねてきたぞ」

これできっと痛まないからな、と彼は指にたっぷりと油を絡ませた

「兄上が丁寧にしてくだされば良い話なんですけど」

「まぁそう言うな。お前のココが、俺を誘ってくるのがいけない」

ニマリと笑って、彼は、真宏の両足をグンと割った

そして、油まみれの手のひら全体で、真宏の陰茎を包んだ

ついでに後ろの穴にも

全体をテラテラと油まみれにされて、真宏は身震いする

皮膚の薄い部分だ

感覚も冴えている

単純に、寒い

「すぐ、熱くなる」

彼はそう、耳元で囁くと、油のぬめりを借りて、真宏の陰茎を上下へ扱いた

抱き締められた時と同じだ

最初は緩やかに

次第に、強く……

裏筋の血管をグングン押し出すようにされると、たまらず右足がビンと伸び上がった

「ア、ぃあっ……! ぅっ、ひンっ……!」

「良いだろう? ほれ、一度出してしまえ。こんなに重くしているのではな」

後ろから抱き締めるように体勢を変えて、彼は陰茎への刺激をはやめる

時折、先端の穴をグリッと親指の腹で押してくるものだから

真宏は背筋の全てが神経路になってしまった気になった

ゾクゾクと迫り上る快楽に、腹筋が震えている

足指が丸まって、ピンと張った甲が月の光に薄らと白く浮き上がる

「ァあ、も、だめ、で、る……っ、出ちゃ……っ!」

仰け反る喉に、青年がカプリと噛み付いた

瞬間

弾ける

「ぅああ、アぁ、あっ、ハっ……!」

ネトリとしたものが、木目の床を濡らす

射精する寸前まで、息を詰めて我慢していたせいか

その瞬間、気持ち良さと、酸欠で、一瞬視界が白くなったようにすら感じられた

「はぁ……ハぁ……っぅ、……はぁ……」

「おい、気を遣るなよ。まだ前戯なんだからな」

「だ、ったら……あんまり、いじめないで、はやく……」

「どっちがせっかちなんだかなぁ」

彼は慈しむように笑った

そうして真宏を四つん這いにさせると、腰をそっと支える

再び油に濡らした手のひらで尻全体を撫でられた

「ン、ふっ……」

一度達して敏感になっているからか、触れる手指の動きを追うだけで快楽が押し寄せる

「いれるぞ」

ツ、と、後ろの穴に違和感を覚える

けれどそれは一瞬だった

ズッと一気に奥へ入り込まれると、入り口の奥はその指を歓迎した

キュッと内側が締め付けているのがわかる

「力を抜いてくれないとな」

「……わ、かってる……」

浅く呼吸する

それだけでも、少し違和感は消えた

「まだ一本だ」

彼は言うと、その一本をゆっくりと前後に動かし始める

「ぅ、ん……んん……」

痛みは、ない

しかし、快楽は拾えない

彼はまた、油を足したようだった

チュク、クチュ、チュボッ……

静かな堂に、粘度を持った水音が響く

時折、空気を含んだのか、グポっと派手に音がするので、真宏はそれが死ぬ程恥ずかしい

「大分良い具合か、増やすぞ」

真宏の返事を聞かず、指は二本になった

そして、今度はその二本指で、かき混ぜる様にされる

水音が酷くなった

「もっ、や……音っ、が……」

「気にするな。誰もいやしないさ。何の為にいつも大人の目を盗んで、こんなとこまで来ていると思ってる……なぁ?」

彼は動かす指を早め、もう片方の手で、真宏の陰茎を緩く揉んだ

与えられた直接の刺激に、ビクンと体が震える

「一緒にされると、良いだろう?」

「ア、はっ……ま、た……ぁう……また、でちゃ……っ」

「駄目だよ。今度は俺と一緒にでないとな」

ギュッと射精口を抑えられた

「ぃっあ、あに、うえっ……」

沸き上がり、射精する準備の整った精子が、陰茎に留まってグルグルと熱く渦巻いている

玉も重く、垂れ下がる

真宏はポロポロと泣いた

悲しいわけでも、苦しいわけでも、痛いわけでもない

精液の代わりに、涙が出た

「泣くなよ、ほら」

ちゅっ、ちゅっ、と慰めるみたいに口付けられる

「さて、もう、俺も限界だからな……」

入るぞ

彼は言うと、自分の陰茎にも油をまぶした

赤黒いとは言わずとも、雄々しいソレが油を纏い、生々しく照り輝いている姿は圧巻だ

真宏はゴクリ、と、喉を鳴らす

後口に充てがわれたソレは、ドクドクと脈打ち、熱かった

「ゆっくり、呼吸するんだ……いつもみたいに……いいね」

腰を撫でられる

四つん這いのまま、支える腕が震えている

「腕、楽にしていろ。尻を突き出していれば良い」

「恥ずかしいよ……」

「何を今更」

彼は茶化すみたいに笑った

けれど、その顔には汗が滲んでいる

相当我慢をしているのかもしれない

気がつけば真宏も寒さなんてどこかへ吹っ飛んでしまっていて

手のひらまでしっとり汗ばんでいた

「いくぞ」

言いながら、もう挿れられていた

指と同じだ

最初だけ、圧迫感

あとはもう、熱い塊が、固く、真宏の内側、壁を、掻いていく

「アっ、やあぁ、んぁっ、ぁヒっ、ぁっ、あつ、いっ……」

「んんっ……ァ、くっ……ハァ……はぁ……お前、も、熱い、な……」

ズッ、ズッ、グチュ、グプッ……

何度も腰を打ち付けられる

その度に、痒い部分を思い切り掻き毟られているような

圧倒的な快楽が全身に広がるのだ

「も、っと、もっとぉ……掻いて、そこ、おくぅ……っ!」

「ハッ、……こ、の辺り、だろう……お前の、イイ所は……!」

グッグッとある一点を狙って、何度も細かく抜き差しされた

「いっぃ、ひっィい……ヒぅッ……だ、め、きも、ちっ……も、ァ……気が、へんに、なっ……」

唾液が真宏の頬を伝う

もう、視界が定かでない

快楽だけしか体に残っていないみたいだ

息が出来なくて、喘ぎ喘ぎ、口が閉じられない

「こっちも、も、限界だ……っ、くっ……」

グルリと視界が反転したかと思えば、今度は正面から抱き締めるようにされた

繋がったままの半身がグリュっと捻れるように回って、

「ンぐぅっ!」

真宏は変な声を出して、少し射精した

「まだ、我慢、しろって……」

彼は眉根を寄せて、苦しそうにしながら、息を切らして言った

そして、真宏をまるでそのまま潰し殺すみたいにギュウウと抱き締めて、足を開かせ、ガツガツと腰をぶつけた

もう、真宏のことなんて、ほとんど無視したようなやり方だった

それでももう、なにをされても気持ち良くて、真宏は喘ぐ

「ヒぃ、ア、も、やっ……でちゃ、うっ、も、ひもちぃ、きもち、ア、あァンっ、んぅうう!」

最後は、自分でも腰を振っていたような気さえする

真宏は盛大に二度目の射精をした

ほとんど同時に、後口に熱いものが弾けるのを感じる

それがやけに気持ちよかった

快楽ではない

内側から、温められているような、ほっこりとした気持ち良さだ

安心感、のような

そして、遠のく意識の最後

もう一度、真宏は彼とキスをした

生臭い、生きている人間の体液

においが充満して鼻をつく……


 *

(セックスでイくのと、死ぬのって、もしかしたら、結構似てんのかも……)

晴天の朝だ。

今日から暦は三月になる。

真宏はボーッと病室の白い天井を眺めていた。

(この光景も、見飽きたもんだなぁ〜)

そう思うけれど、実際、もう、天を仰ぐくらいしか、出来る事がなかった。というか、ただ単に、下を見たくないだけだった。

(もうね、わかるよねー、この感覚。確実にやっちゃってるよね)

もちろん、漏らしたのではない。

(齢二十七歳……入院先の病院で夢精……)

ハァアアアア……

盛大なため息が漏れた。

「どーすんのよこれー……洗濯機回しに行くにしてもさー……なに、一回トイレで洗ってから行けって? もうさー、絶対バレるってー……森山さんとかにさー……」

ハァアアアアアアア……

先ほどよりも、長いため息が漏れる。

真宏を落ち込ませているのは、なにも、今、自分が置かれている状況だけではないのだ。

(男同士って……)

はっきり言って、エグい、と思った。

ないわーとも、思った。

けれど、その頭の端っこで、

「蘭ちゃん相手なら、まぁギリギリ、アリ!」

とか考えてる自分に今こそ「アリじゃねーよ! 異議あり!」と唱えたい。

「ってか、この夢……中学生には刺激強すぎんだろぉぉ……」

おそらく同じ様な夢を、おそらく兄の目線で見ているのだろう一蘭を思う。

そうして気付いてしまう、もうひとつの事実も真宏を落ち込ませた。

(俺が……下……女役……)

蘭ちゃんに、掘られるなんて……

もうどんな顔をして、一蘭に会えばいいのか、わからない真宏だ。

(蘭ちゃんも……夢精とか、したのかなー……なんて……)

「加美長さーん、おはようございまーす」

「うひっ!?」

「うひ?」

ウジウジと考えていたら、仕切りのカーテンがシャッと開かれた。森山看護婦が清々しい朝の顔で真宏を見ている。

「なにかやましいことでもしていたんですか?」

思わず変な声を出した真宏だ。森山看護婦はスンとした顔で口元だけ笑った。

「や、ましいことってなんすか……」

「さぁ? でも男の人ってやましいこと、いくらでもあるでしょう?」

セリフは痛烈だが、どこかチャーミングに聞こえた。森山看護婦は、この病院で結構人気のある看護師らしいが、こういうところが人気の秘訣なのだろうか。

「さ、加美長さん! 朝ご飯ですよ。もりもり食べて体力付けちゃいましょ」

彼女はカタカタと軽快な音を立てて、ベッドに食事用の机を取り付けた。

「……」

真宏は。

はっきり言って食欲など皆無だった。

(野郎同士のセックス見た直後に食事って……)

どんな嗜好だ、と思う。

おまけに、本日、朝食。

(……なぜ、このタイミングで……ソーセージ……)

顔は引き攣るし、その上、底から吐き気のようなものが込み上げた。

さすがに油まみれのソーセージというわけではなかったが、十分にそれはアレを連想させた。

「あの、すんません……シャワーとかって……」

「シャワーですか? ああ、寝汗、かいちゃいましたかね?」

森山看護婦は、なんの悪気もなく真宏の肩に触れた。ビクリと震える。

真宏は無意識に、ぎゅっと布団を握りしめた。

(今、布団ひっぺがされたら俺はオワル……)

冷や汗が出そうになる緊張感。それに加えて先ほどからの吐き気。

入院してはじめて、本当に具合が悪いような気がしてきた真宏だ。

「シャワーは夕方の決まった時間にしか使えないので……体、拭きましょうか。手伝いますから」

「いや、大丈夫っす! 自分で、自分で、出来るんで!」

「背中とか大変でしょう」

「いや、もう全然、全然平気っすから……その、タオルだけ、下さい……」

必死すぎていつもの倍くらい口が回る。森山看護婦はなにを思ったのか、なにを察したのか、それ以上は真宏を追求しなかった。

「わかりました。じゃぁご飯終わったら持ってきますね」

「……あの、」

「はい?」

「ついでに、言うと、ですね……あの、食欲なくてですね……食べられそうに、ないんですけど……」

今なにか、一口でも含んだら、それこそ盛大に吐いてしまいそうだった。

「加美長さん……確かにちょっと顔色も悪いですね。先生呼んできましょう。吐きそうな感じですか?」

「森山さん……」

「はい」

彼女はキリリと答える。真宏はもう、自分が情けなさを極めているのを再確認しながら。

「ほんとすんません……あの、先に、タオル、貰ってもいーっすか……」

森山看護婦はそれで確信したらしかった。

半笑いみたいになりながら「お手洗い、行きますか?」と聞かれた。

(あーー、死にてぇーー……死なないけどぉー……)

真宏はそろそろ、病室の天井と親友になれそうだった。


 *

「真宏さん、死なない……?」

今日も今日とて健気に病院通いをしてきた一蘭だ。真宏の顔を見るなり、開口一番そう言った。

泣きそうな顔のオプション付きだ。

「死にたいくらい恥ずかしい思いならしたけど、死なないよー……」

真宏は、疲れた顔で笑う。精神的な疲れだ。

朝からいそいそ看護婦さんに付き添われて、着替えを持ってトイレに行った。

そこで粗相をした下着を軽くすすぎ洗いし、新しいパンツを履いて病室に戻った。

戻ったら戻ったで、体中を拭かれて。

そこから先生を呼んでの検査だった。

途中から「もうどうにでもして〜」くらいの気持ちで虚空を見つめていた真宏だ。

現在、食欲不信から、点滴を打っている。

真宏の体に刺されたソレを見て、一蘭は青い顔をしているというわけだ。

「ちょっと食欲なくてさ。点滴してるだけだよ」

「なんで食欲ないんですか……病気のせいですか……?」

一蘭は真宏の腕にそっと触れる。パジャマの上から触れられているだけなのに、じんわりと伝わる人の体温。

(あー、なんてこった……)

あんな夢を見て、正直一蘭にはあまり会いたくない気がしていた真宏だ。けれど、会ってしまえば、なんだろう。妙に心が落ち着いて。触れられれば、その温もりが増々安心を呼んだ。

「森山さんに触られた時は、なんかヤな感じしたのになぁー……」

当然だが、森山看護婦は女性で、一蘭は男の子だ。

(なんてこったー……)

真宏はもう一度、心の中で項垂れる。実際に項垂れたりしたら、一蘭が心配する。

「なんの話ですか? 森山さんって看護師さん?」

「こっちの話ー。なんか蘭ちゃんの顔みたらお腹すいてきた」

「元気になってきたってこと?」

「そうそ。そういうこと。ジュース飲みに行こ? ちょっと歩かないとね。体力落ちちゃうし」

カラカラと点滴を持っての移動は、慣れない真宏には難しかった。

絡まったり引っかかったりするたびに、一蘭がちょこまか動いて助けてくれる。

それが次第に楽しくなってしまい、二人でクスクス笑いながら、ふざけながらラウンジへ向かった。

「蘭ちゃんウーロン茶?」

「今日は僕が買います! お小遣い持ってきたんですよ」

「いやいや、飲み物くらい俺に買わせてよ。蘭ちゃん、学校の友達と遊ぶ時間削って病院来てくれてんだからさ」

時間はお金じゃ買えないんだよ、なんて。カッコいい事を言おうとした真宏だ。

けれど、その言葉は自分に一番痛い言葉だった。

(今まで……)

なんで、どうして、テキトーな感じで、生きてきたのだろうなぁと。入院してから、何度か考えた。

(後悔したって、なんも変わらないんだよねー……)

前世の一蘭と同じだ。いくら後悔したところで、その時代の真宏が、あの場で死んでしまった事実は変わらない。

例え、こうして、一蘭の意識と真宏の意識を借りてやり直そうとしたところで。一蘭は今の一蘭だし、真宏も今の真宏だ。

それを、どうやって彼に説明したら良いのだろう。元兄である彼に。恋人でもあった彼に。

「日本語って、むつかしいね、蘭ちゃん」

「僕には英語のがムズカシイです」

「外人みたいな顔してんのに?」

「だからハーフじゃないですってば」

一蘭が優しい顔で笑う。その、穏やかな笑顔が、夢の中の彼と重なった。

互いに熱を高め合って、達した後の、汗に濡れた優しい顔。

「……蘭ちゃんさー」

「はい」

「変な事聞くよ?」

「僕たちの会話、たぶん、いつも変だから、今更ですよ」

一蘭は、どんな話題を振られても、受け止めるようなドシリとした構えだ。だから、真宏は自分だけが気負うのも恥ずかしくて、サッパリと言った。

「蘭ちゃん、夢精したことある?」

「あります」

即答だ。

「いつも思うけど、その男気、どっから沸いてくるの……」

「口籠って赤面するとでも思いました? 前にも言いましたけど、僕だって思春期の男ですから。エッチな事とか、興味ありますし」

「夢で、さ……」

「真宏さん、結構可愛かったです。いや、かなり、可愛かったです」

ブフォ、と口にしていたジュースを吹き出しそうになった。

実際には、喉の変なところを使ってゴクリとしてしまっただけで済んだのだが。

本日はイチゴミルクだ。退院する頃には、ここの自販機を制覇してしまいそうに思う。

「蘭ちゃん、ドヤ顔やめて……」

「僕、そんな顔してます?」

「してます……抱いてやったぜ! みたいな顔してます……」

「まぁ、仕方ないですよ。実際、そうだったわけですし……」

真宏は一蘭を恨めしく見遣る。

(くっそー……攻める方はいいよなぁ……男役だもんなぁ……相手が男でも……まぁ、ショックは少ないんだろうなぁ……)

そして、真宏は、自分がもし、攻める側だったらどうだろうと考えた。

もし、自分が一蘭を抱くのだとしたら。

真宏は、隣でウーロン茶を飲んでいる一蘭の喉元を見つめた。

コクリと小さく動く喉。白い肌。青い瞳に、睫も長い。

学ランの内側にある、細い体躯を思った。次いで、その体躯を震わせて、涙目で快楽に耐える顔を想像する。

やめて、と小さく呟く彼の、細い手首を掴んで床に押し付ける。

形の良い、綺麗な桜色の唇をこじ開けて、柔らかく熱い舌に吸い付く。

縋る様に、腰あたりに押し付けられる彼の膝小僧。

一蘭の勃起したものが、真宏のヘソあたりにツゥと触れる。

(あ、ヤベ……)

思考を強制終了させた。それ以上は、駄目だった。

実際、ムクリと下半身の暴れん坊が目覚めそうになっていた。

「真宏さん、ヤらしいこと考えてるだろ」

「え」

真宏はビックリして、股間を確認してしまった。アウトだったか!? と焦るが、そこはまだ平穏を保っている。

「そっちじゃないよ。顔が。顔が、ヤらしい顔してた」

一蘭はケラケラ笑った。それこそ中学生の男子らしい笑い方だ。

「……そんなにヤバい顔してた? 俺……」

「うーん……なんだろうね。多分、僕だからわかるんだよ」

元々兄弟だったから、わかるんだと思うよ

一蘭は嬉しそうに言った。

「僕、姉の考えてることとか、結構わかるもん」

アレがさ〜とか、アレ取って〜とか、アレ買ってきて〜とか。そういうの、なんとなく兄弟だと伝わるらしいよ、と一蘭は言った。

「へぇ……兄弟ってそんな感じなんだ……」

「他の人はどうだか知りませんけど……僕と姉はそんな感じです」

真宏は、羨ましいなぁと思う代わりに、少しだけ、まだ見ぬ一蘭の姉に嫉妬した。

(蘭ちゃんは、俺のお兄ちゃんなのに〜……なんつってー……)

大分毒されている事を感じる。もう、起きている間、ほとんどの時間。真宏は一蘭と、前世の彼のことばかりを考えている気がする。

「あ、真宏さん。あのね、僕、今日図書館でこういう本、借りてきてみたんだ」

一蘭が思い出したように、鞄からゴソゴソと本を取り出した。

「ずいぶん重そうな鞄だなぁ〜って思ってたら、そんなの入ってたの」

勉強熱心なのかと思った、と真宏が笑う。

一蘭は「僕、成績も悪くないよ」とニヤリとした。

「いるよね〜クラスに一人か二人くらい。なんか全部が完璧な奴」

真宏はゲェ〜という顔をして、一蘭から本を受け取った。分厚い本が数冊。

全てが『前世の記憶〜』とか『輪廻転生の〜』とか、そういう本だ。

「僕はもう、全部読んだので……もしよかったら真宏さんも……」

入院、暇でしょう?

ずっしり重い本達だ。

「蘭ちゃん、これ、もう全部読んだの?」

頭が良いのは速読が出来るからか!? と真宏は目を剥く。一蘭は笑った。

「いえ。僕がこれ読んだのは、真宏さんに出会う前です。去年の年末くらいに」

ああ、なるほど、と合点がいくと同時に、真宏は一蘭が一人で悩み苦しんでいた期間を思った。

(体感してわかるけど……ほんと、よく、頑張ったよなぁ、蘭ちゃん……)

真宏は最初から一蘭が側に居た。今日はどんな夢だった〜とか、そっちはどうだった〜とか、こんな夢見た事ある〜? とか。

真宏はすぐに一蘭に話せた。

(蘭ちゃんは、誰にも話せなかったんだよなぁ……仲良しの、お姉さんにも……)

そうして、胃を痛めて、入院をするハメになったのだ。

(それすらも、俺と巡り合う為の『運命』とか言うんだったら……)

結構、運命なんて残酷なもんだなぁと真宏は思う。

「ありがと、蘭ちゃん。読んでみる。なんか、わかるかもしれないもんね」

「僕はちょっと、難し過ぎて、わからない言葉が沢山あったんですけど……真宏さんならわかるかも……」

「あ、駄目。それは期待しないで。俺、結構アホな方だったから。学生の時とかも。クラスでも成績、中の下って感じだったし」

ブンブンと頭を振る真宏に、一蘭はまた、ケタケタと年相応に笑った。最近よく笑うようになった一蘭に、真宏はただ、嬉しかった。


 *

物事というのは、本当にそう上手くは運ばないものだなぁと、真宏は思う。

全身がダルく、腕のひとつを動かすのもしんどいほどだ。いつもは余所余所しい程に白くつまらない天井も、今は目を開けるとグルグル回って見えるものだから、瞳はキツく閉じた。

一蘭に本を借りた日から、真宏は一心不乱にそれらを読んだ。その本は国立図書館から借りて来たものらしく、彼の言う通り、内容がかなり難解だった。

(いや、もしかしたら、一般の成人男性なら、こう、もっと、すんなり読めるのかもしれない……)

真宏は大学時代の自分を呪った。

カラオケ行ってる暇があったら、彼女とよくわかんないパンケーキかなんかの行列並んでる暇があったら、もっともっと、授業料分勉強しとけよ!

(けど、あの時の、あの時間は……)

あの瞬間だけのものだった。

真宏は、その大切さくらいは知っている。もっとこうしておけば、とか、ああしておけば、とか。今思えば色々あるけれど、けれど、当時は当時で、精一杯なのだ。

精一杯、その時を生きていたはずなのだ。

(過去の自分を呪っても、仕方ないってねー……)

そして、一息ついて、また本を読み進める。そんな風に毎晩夜更かししていたものだから。

そして、夜更かしした日に限って、前世の一蘭とセックスする夢を見たりするものだから。

真宏は毎日寝不足だった。

加えて、食欲も戻らない。

(せめて……せめて、平和な夢を見せてくれ……愛し合ってんのはわかったから……もっと、こう……ジャレ合う程度の軽いやつを……)

己が受け身になっているセックスの夢だ。連続してそんな夢を見るものだから、もう真宏は自分のアナルが心配になった。

(なんか最近モゾモゾする気がする……もうやだ……)

いろんな意味で涙目だ。そうして、睡眠不足、栄養不足に、精神的なダメージが加わった。

「加美長さん、今から個室に移動しますからね」

いつも明るい森山看護婦が、険しい顔でそう言ったのは、朝だったか、昼だったか。

たまたま来ていた母も、慌てた様子で荷物をガサガサやっていた。

真宏はただ、自分の体がめちゃくちゃ熱いということだけを感じていた。

ぼんやりしていて思考が上手くまとまらない。森山看護婦は、真宏が状況をよくわかっていないことを察してか、はたまた真宏の母への説明か、淡々と言った。

「加美長さん、熱が出ちゃったので……風邪だと思うんですけどね。他の患者さんにうつると大変なので、今日からしばらく個室ですよ」

母がひたすら「あらまぁ」とか「ちょっとも〜」とか言っている。結構焦っている時に言う台詞のラインナップだ。

(あー、俺、風邪ひいちゃったのかぁ〜……)

先ほどまで真宏は、またあの夢の中にいた。何度も見ているせいか、最近では夢精をするようなことはなくなった。

けれど、今の自分の体の熱さが、現実のものか夢のものか、あやふやになって。そのせいか、酷い熱のはずなのに、不思議と苦しくはなかった。

そうして、個室に隔離されて早三日だ。

真宏は閉じていた瞳をゆっくりともう一度開いた。

やはり天井はまだグルグル回っている。

解熱剤と睡眠薬みたいなもので強制的に眠らされていたからか、真宏は発熱してからの夢を飛び飛びでしか覚えていない。

(それでもやっぱり、夢は見るんだなぁ……)

逃げられないような、呪縛のような、そんな気迫を感じて。真宏はゾッとした。もしかしたら、その寒気は風邪のせいかもしれないけれど。

(もう三日も蘭ちゃんに会ってない……)

真宏は一蘭が心配だった。自分のことなど、大した事はないと思える程に、心配だった。

(また胃炎とかになってないといいんだけど……)

願わくば、一蘭がたまたま、この三日、病院に来ていなければいいなと思う。

友達と放課後、学校で遊んでて、それから宿題も沢山あって、病院、来られなかったんですよ〜という感じに、笑ってほしいと思った。

僕が三日も来なくて、真宏さん、寂しかった? とか生意気言って、笑ってほしいと思った。

(あー、俺、蘭ちゃんのこと、)

すごく、大事なんだなぁー

それこそもう、本当の兄弟のように。

それこそもう、本当の。

そう、恋人のように。


 *

その日は、星も月も出ていなかった

生暖かく、強い風が、嵐を予感させる

目の前に、兄がいる

「お前だって、気付いていたのだろう」

風にしなる木々の葉が煩くて、兄の声はこちらに届く前にどこか遠くへ飛ばされてしまいそうだった

「お前だけじゃない……みんな、とっくに知っていたのだろうな……」

なんの話なのか、読めない

真宏が口を開く前に、兄が投げ捨てるように言った

「どうせ俺は、拾われた子だ! それも、異人の! バケモノの血が混じっているっ!」

息を飲んだ

兄が、泣いている

青い瞳が、泣いている

「この淀の川に捨てられていた! それを子のなかった両親が拾い育てた! それが俺だ……! 俺は……お前と……血なんて繋がってなかった……!」

震える叫び声は、温風を孕んで天へ駆け上るように舞い上がる

兄の怒号が目には見えない龍のように思えた

真宏は舌が乾いていくのを感じた

ずっと、口を開きっぱなしにしていたようだ

その、開いた口を、動かす

率直に、思ったことを、口にした

「よかった!」

兄に、キチンと伝わるように大きく言った

彼は歪んだ顔を、さらにクシャリとさせた

伝わったようだ

同じだけの声量で真宏は続ける

「血の繋がりがなければ! 後ろめたさは半分になるっ!」

兄は驚いた顔をしている

「私は! 兄上を、そんなことで兄上を! 嫌いになったりしないっ!」

彼が唇を噛んでいる

いつも優しい睦言を囁いてくれる唇が、白く掠れている

「兄上は、兄上です……」

真宏は、自分も泣いていることに気がついた

どうしようもなく、目の前の人を抱き締めたかった

一歩、近付く

彼は動かない

もう、一歩

彼は少し、後退った

もう一歩で、一気に距離を詰めた

出来る限りの力で、兄を抱き締める

冷たい体だった

けれど、首筋に感じる彼の息は熱かった

「私は、兄上を慕っています……血筋も、容姿も、そんなものは関係ない……兄上が兄上であるから……その魂を尊敬しているのです……」

ただただ、されるがままだった兄の腕が、真宏の体を抱き返した

ギュウと密着すれば、強風の中、世界でふたりぼっちになったみたいな気になった

兄が言う

耳元で、いつもの優しい声を出す

「俺も、お前を、愛しているよ」

お前を、お前だけを、ただひとり、生涯、お前だけを

何度も繰り返し言った

そうして見つめ合った

真宏は、彼の瞳をまっすぐ見つめる

彼は一瞬だけ、居心地の悪い顔をしたけれど

すぐに正面から向き合った

唇を重ねる

涙の味がした

「明日、いつもの場所で落ち合おう……今日はどうにも萎えてしまっていて……使い物になりそうにないからな……明日……」

いいか? と甘く囁く兄の声

真宏は頬が熱くなるのを感じる

同時に幸せが胸に込み上げた

「……はい……」

視線を彷徨わせて、小さく頷く

「明日は嵐になるというからな。誰も外へなど出ないだろう。誰にも見つからない……気をつけておいで」

「いつも通り、皆が、寝静まってから……」

「ああ。俺はまた、油をくすねてから行く。お前は先に行って待っていてくれ。この間みたいに寝るんじゃないぞ?」

「兄上が早く来てくれないからですよ」

「あはは、悪かったって」

兄はすっかりいつもの調子を取り戻していた

その姿に、真宏はホッと胸を撫で下ろしている

風が遠くでゴオオと地鳴りのように唸っている

兄は遠く、その方角を眺めながら、ポンポンと真宏の頭を撫でた

そして、言い含めるように言う

「俺は、今の両親を恨まぬ。ここまで育ててくれた恩もある。お前の実の親でもあるしな。けれどな、きっと、今まで通りとはいかないよ」

「兄上……」

「偶然とは言え、俺はもう、知ってしまったのだからな。両親の態度が変わらなかろうが、俺は、きっと、もう彼らを父だと、母だと、思えないのだろうよ」

真宏は、彼の言葉を悲しく聞いた

しかし、それを、事実を、どうこう出来る力など、持ち合わせていない

誰にも、どうにもできないことだ

ギュッと、兄の手を

自分とあまり変わらない大きさの、彼の手を

かさつく男の手を

握った

「なぁ」

「はい」

「俺はな、お前がいてくれて、良かった……お前がいてくれるから、一人じゃないと思える。お前が、俺の、存在する意味を、与えてくれているんだな」

ありがとう、と彼は笑った

真宏は思う

ああ、なんて、なんて、純粋なんだろう

本物の愛とは、支え合いとは……

こういうことを、言うのかなぁ、と


 *

「淀の、川……」

個室に移って、記憶が飛び飛びのまま、五日目のことだ。五日目だと、思っている。

真宏は起き抜けに、ある事を思いついた。思いついたらもう、最後だ。早く実行したくて、たまらなくなった。

(蘭ちゃん、蘭ちゃんに、会いたい……)

どうしようもなく、そう思って、ムクリとベッドから半身を起こした。

起こした途端に、グラリと世界が回る。急な動きに脳が反応しきれなかったのだろう、もう一度パタリと寝転ぶハメになった。

「あー……いつんなったら治るの、これ……」

半端に痛むような頭を両手で抱えた。

点滴がツンと引かれて「いてて……」と呻く。

すると、個室のドアがコンコンと鳴いた。

(あ、そういや、個室に移ったんだっけか……)

目が覚めてから天井しか見ていなかった。それに、個室に移ってからずっと、熱にうなされていたものだから。真宏は新鮮な気持ちで、そう広くはない個室を寝転んだまま眺め回した。

「失礼しまーす……って、加美長さん、起きてるじゃないですかー」

返事して下さいよー、と森山看護婦がニッコリした。

「あー……なんか、お久しぶり? な気分っす……」

「そりゃーそうでしょうね。ずっとうなされてましたよ。目が覚めたり、寝ちゃったり、繰り返しで……」

「薬、強過ぎるんじゃないっすかね……」

「そんなこともないですけどね。ちょっと、体力落ちちゃってたんでしょうね。なににしても、お喋り出来る様になって良かったです」

喋るのって、結構体力必要なことなんですよ?

森山看護婦は目を閉じて、ゆっくりとそう言った。

(ほんと、人間って、生きてくのって、体力使うことばっかりなんだなぁー……)

真宏も森山看護婦の言葉をしみじみと聞き入る。実体験ほどに説得力のあるものはない。

「あの、今日で、五日目、ですよね? 個室に移って……合ってます?」

「正確には今から六日目スタートです。今、朝の七時ですよ」

点滴変えますね〜と、今日も森山看護婦はきびきび働いている。

(この人、いつ休んでんだろ……ずっといる気がする……)

真宏はハタと自分の仕事を思い出した。入院のせいで、もう随分長く休んでしまっている。

(田島先輩、元気かなー、なんて……)

入院してから、お見舞いに来てくれたのは田島だけだった。メールや電話は沢山もらった。

けれど、友人はほとんど会社の同僚だし、昔なじみも皆当然のように働いている。真宏は突然に、世界の流れから取り残されているような気持ちになった。

(病院って、変なとこだな……)

もの凄く、生とか死とか、そういう空気を感じる場所なのに。生きている人達が働き動いている世界からはスッと一線引かれた所にいるような気になる。

真宏がボケっとしている間にも、森山看護婦は淡々と仕事をこなす。カルテであろうか、なにかボードに色々と書き込んでいた。

「はい、加美長さん、起きてるなら、脇で熱計りましょうか」

「はいっす」

差し出された体温計を受け取るために持ち上げる手も、凄く重く感じた。

「あの、森山さん」

「体温計ってる時は安静に。シー、ですよ」

すぐさま人差し指を立てて注意された。しばしの沈黙が流れる。

決して長い時間ではないはずなのに、その沈黙は真宏にとってえらく長く感じられた。ピピピと軽快な音がやけに大きく、しかし救いのように聞こえたものだ。

「天野くん、毎日来てますよ、加美長さん」

「え」

「天野くんのことでしょう? 聞きたかったの。違います?」

森山看護婦には、本当になんでもお見通しであるようだ。真宏は意味もなく恥ずかしくて視線を揺らした。

「なんかカルガモ親子みたいだねって、結構話題だったんですから。加美長さんと天野くん」

彼女はクスクス笑って「懐かれましたね、加美長さん」と言った。

真宏は苦く思いながら「違いますよー」と間延びした声を出す。先ほどから少しずつ、喋る事に慣れてきた。

しんどさを、だんだんとやり過ごせるようになってきている。

「蘭ちゃんが俺に懐いたんじゃなくて、俺が蘭ちゃんに懐いちゃったんです」

「あら。そうだったんですか?」

「俺、一人っ子なんで……なんか、蘭ちゃんといるの、楽しくなっちゃって」

真宏は意味もなく、自分の手のひらを閉じたり開いたりした。関節のひとつひとつになんとなく違和感が残る。これは完全復活するまで、結構かかるなぁと思った。

「それじゃ、ますます早く治さないとですね。加美長さん、自覚ないかもしれないですけど、インフルエンザだったんですよ?」

「え、マジすか……?!」

「マジです。だから今のところ、面会謝絶って状態なんですよ。実は」

「えーー……」

多少の衝撃は受けながらも、真宏の心はストンと納得した。どうりでシンドイわけだと思う。

「でも、この調子で行けば、明日か明後日には、また大部屋に戻れそうです」

「面会、出来る様になります?」

「なります。お母さんもお父さんも心配されていましたよ。会えなくてもいいからって、何度もいらっしゃっては様子を尋ねていらっしゃいました」

「……」

「病気、全部。はやく治してしまいましょう。ね!」

「……はい」

体が弱っているからだろうか、真宏はちょっと、情けなくも涙ぐんだ。特別厳しくもなく、特別口煩くもない両親だ。今まで両親になにかを反対されたことなどない。激しく怒られたことも、おそらくないだろう。

同じ様に、心配されたことも、あまりなかったように思う。

(でも、それって、もしかして……)

勘違いなのかもしれないと。

(この歳になって、気付くとかさ……ほんと、アホか、俺は……)

真宏が「入院することになった」と、両親に連絡をした時。あの人達は、一体どんな気持ちだったのだろう。そして今、どんな気持ちでいるのだろうか。

(人間って……)

真宏は、自分の人生なんて、全部まるっと自分のものだと思っていた。

自分で決めて、自分で実行して、勝手に成功したり転んだりしながら、楽しみながら、悲しみながら、自分の道を進むもんだと思っていた。

(そりゃ、一人きりで生きてるなんて、カッコイイこと思ったこと、ないけどさ……)

けれど、こんなにもか、と思う。

自分の人生は、こんなにも。

真宏は、本筋では、自分の為に病気を治すのだ。けれど、それ以上に。

(父さんと、母さんを安心させるため、それから、蘭ちゃんを安心させるため。ついでに田島先輩とか、友達とか、そういう、みんなのため……)

そういう周囲からの気持ちのほうが、よっぽど重かった。

「あー……病気になるって……シンドイんですねぇ……」

個室を出て行こうとする森山看護婦の背に、真宏は思わず投げかける。彼女は顔だけで振り向いて、

「それがわかっている人は、絶対大丈夫なんですよ」

と笑った。人って、結構、人の為にだと、頑張れる生き物なんですよ、と。

(森山さんも、そうなんだろうか……)

人の為だから、仕事、頑張れるのだろうか。

真宏はそんなことを考えながら。

とにかく寝ようと目を閉じた。

寝て、栄養をとって。

とにかく早く、早く。

(もう、大丈夫だよって……)

伝えなくては。

大事な人達に。

 

 *

熱が下がって、大部屋に戻ってすぐ。

両親が会いに来た。散々小言を並べられたけれど、真宏は素直に「はい、はい」とその全てを聞いた。

その様が随分シュンとして見えたらしく、母は「素直すぎて気持ち悪い」と変な顔をしていた。

「早めに、元気になりますんで……その、あんま、心配せんで、下さいよ」

真宏は気恥ずかしくて、それを言うのが精一杯だった。絶対言わなくてはと思っていたから、気合いをいれて言ったのだけれど。

その声はどうしても、拗ねた様な、ムクれた様な、そんな声になってしまった。

真宏の言葉に、母は笑った。父も笑った。

「心配すんのが、親の務めってもんだから、まぁ、義務だから、気にしなさんな」

ワハハと笑いながら、大らかな言葉だった。大きい人達だと、真宏は思った。

(俺、やっぱ、まだまだ結婚とか、父親になったりとか、無理っすわ……)

そう確信したのだった。まるで敵わない。

側で聞いていた森山看護婦もニヤニヤと笑っていたから、もう本当に、世の中偉大な人ばっかりだと真宏は思うのだった。

そして、それから暫く。再検査の日々だった。なにをそんなに調べる事があるのだろう? というほどに。

転移の状況だとか、風邪を引いていた間に進行がなかったかどうかとか。

そういうことを丹念に検査した。だからと言い訳するわけではないが。なんやかんやで、真宏が一蘭に会えたのは、それから更に五日後のことだった。

「真宏さんのこと、三回くらい殺してやろうと思ってました」

「わーー……蘭ちゃん怖い顔ー……」

久しぶりに会った一蘭は、随分と剣呑な顔をしてムクれていた。

けれど、見た目には元気そうで、顔色も良い。真宏は、とりあえず顔を見て、ホッとしたのだった。

「ごめんってば蘭ちゃん……あ、そうだ! 蘭ちゃんから借りた本、読んだよ! ってかまだ返却日間に合う!? ごめんね、長いこと借りちゃって……」

「真宏さん、頑張って本読んだから風邪ひいたんじゃないかって、僕のせいで、風邪ひいたんじゃないかって……」

「いやいやいや、そんなことないって。なにそれ、全然違うよ! そりゃ、夢中になって読んだことは読んだけど……それが原因じゃないって」

真宏は全身全霊で大丈夫をアピールする。真宏が死ぬ前に、死なないとならないと思っている一蘭だ。正確には、一蘭の前世の魂、だが。

「とにかく……蘭ちゃんが生きてて良かった……」

「それはこっちの台詞です」

「……ごめんなさいでした……」

真宏の謝罪に、一蘭は「ハァー」と大きく、溜め息、というよりは深い呼吸みたいに息を吐いた。

いつものラウンジではない。真宏はベッドで上体を起こしていて、一蘭がベッド脇のパイプ椅子に座っている。

隣り合わせに座ってお茶を飲んでいた時の方がよっぽど距離が近かった。

今はなんだか、無意識に触れ合える距離ではない。触れようと思わなければ、ちっともどこも、触れ合えない。

真宏はそれが、寂しいと思った。

(蘭ちゃんに、触りたいって思ってるのは、俺なのか、それとも、夢の中の前世の俺なのか……)

「真宏さん」

「なぁに」

「手、繋いでもいい?」

真宏はドキリと心臓が跳ねるのを感じた。

ビックリした。同じ事を考えていた。

「いいよ」

真宏が言えば、一蘭はなんの躊躇いもなく、スッと真宏の手を取った。

「外、寒かった?」

一蘭の手は細く、冷たい。

「真宏さん、あのね」

「うん」

驚かないで、聞いてね、と一蘭は言う。それから少し考えて、驚かないかもしれないけど、と付け加える。

「なに?」

「僕、養子だったんだって」

「……んん?」

「真宏さんが個室に移って、その翌日、だったかな……はじめて知ったんだ。その日、僕、誕生日で。両親が、僕が十五歳になったら言おうと思ってたんだって、教えてくれた」

「ちょ、待って待って。えーと、情報が多過ぎた……とりあえず、誕生日、おめでとう?」

「あはは、とりあえず、ソコなんだ。ありがとう真宏さん」

「遅生まれなんだね、蘭ちゃん」

「うん。本当の誕生日なのか、わかんないけど……なんかその日が誕生日だってずっと思ってた」

「えーっと……」

真宏は多発的に思考が巡っていた。夢の中の、一蘭の前世の彼。夢でも、たしか、そんなことを。同じ様なことを、言っていた。

そんなところまで、運命まで全部、そんなに前世に引き摺られてしまうものなのか。

(どんだけ、業が深いんだよ……)

「真宏さん、夢で見たことある? 僕がさ、拾われた子だったーっていう場面」

「この間、ついこの間、見た……」

「そっか」

「蘭ちゃん……」

大丈夫かな、と心配になって。全然表情を変えないでいるものだから、心配になって。握る手に力を込めた。

「真宏さん、僕ね、あの夢を見た時から、なんとなく気付いていたんだ」

「なんとなくって……」

「ほら、初めて会った時、真宏さんも言ったじゃない? ハーフ? って。聞いたじゃない?」

「……」

「僕だって、変だなって思ってた。ずっと。僕だけだもん。こんな目の色も、髪の色も」

「染めてんじゃないの?」

「中学生だよ?」

「ソウデシタ……」

真宏さんって変なとこ抜けてるよね、と一蘭は笑う。その笑顔に、偽りは感じられなかった。

「なんとなく、予感はしてたから、実際に言われてもあんまりショックじゃなかったんだけどね、でも、姉さんが泣いてた」

「お姉さん、は……知ってたの?」

「ううん。一緒に、聞いた。姉さんもずっと、僕を本当の弟だと思ってたみたい」

「そか……」

「うん」

真宏は、夢の中の自分を思い出す。一蘭が本当の兄ではないと知った時の気持ちを。

「夢の中の僕もそうだったみたいに、やっぱり僕も、両親とは今まで通りにはいかないかもしれない」

一蘭は真宏の手の甲を親指で優しく撫でた。真宏は少しくすぐったかったけれど、やりたいようにさせておく。

「でも、たぶん、姉とはこれからも、うまくやれると思うんだ」

「そっか」

「うん。だから、良かった。けど、それを知った日、誕生日だったし、やっぱり真宏さんに会いたかったよ」

もう完全に恋人の言葉だった。滲み出ている雰囲気も、もう、中学生だとは思えなかった。

真宏の心にも、温かい、けれど家族に対するソレよりは、きっともっと温度の高い、なにか、そういう気持ちが沸き上がっている。

「ごめんね」

信じられないくらいに、優しく甘い声がでた。一蘭はなにも言わずに、顔だけで笑った。

「生きるって難しいね」

「まったくだね」

真宏も笑う。そして、気付く。

沸き上がる、もうひとつの気持ち。

(あー、俺、マジで死にたくないなぁー……)

心の奥底からの、渇望のような、想いだった。

入院当初は微塵も感じていなかった想い。それどころか、今までの人生で、こんなことを思ったのは初めてかも知れない。

真宏は、一蘭と繋いでいない方の手で、そっと己の胃の辺りに触れた。

「真宏さん? 痛いの? 具合悪い?」

一蘭が真宏の背に触れる。真宏はゆっくり首を振ると、風邪を引いていた時、ずっと一蘭に言いたかったことを思い出した。

「蘭ちゃん」

「はい」

「お願いがあるんだけどさ」

一蘭は不思議そうな顔をして、首を傾ける。

「なんですか?」

「大阪……かな、大阪らへんのさ、旅行の本、買ってきてくれないかな」

「大阪……?」

真宏の突然の発言に、一蘭は意味がわからないという顔をする。

「ね、蘭ちゃん」

一緒に、旅行しない?


 *

一通り再検査が終わって、真宏の手術日程が決まった。

その後。

真宏は一時退院が認められた。

三月の中旬から、少しだけ下旬に足を突っ込んだような時期だった。真宏は退院中も仕事は休むつもりだったし、一蘭は春休みだ。

新幹線乗り場で待ち合わせをして、一泊、弾丸大阪旅行を決行することになった。

「あ、蘭ちゃん! こっちこっち!」

世間的にも春休みシーズンだからか、新幹線乗り場は混雑していて。待ち合わせ場所には不向きだったなーと真宏は思っていた。

けれど、思いの外、真宏は一蘭をすぐに見つける事が出来た。

一蘭の薄い色素の髪。それに白い肌、綺麗に整った顔は、人混みの中にいると余計に目立った。

「真宏さん……っ」

真宏の声は、ちゃんと一蘭に届いたらしい。キョロキョロしていた視線がハッとこちらを向いて絡んだ。

人の波を器用に掻き分けて、小走りに寄ってくる様は子犬のようで。

(私服、かーわいー……)

真宏は頬のあたりがムズムズとした。

「よかった、たくさん人がいるから……会えなかったらどうしようかって思ってました……」

無意識なのか、会うなり一蘭は真宏の服の裾をぎゅっと握った。自分が頼られているように思えて、真宏は嬉しい。

(中学生に頼られて喜ぶとか、どんだけだよって話だよなぁ〜……)

真宏は一蘭の頭をポンと撫でる。

「行こっか、蘭ちゃん。まだ時間あるけど、改札入ってお弁当買おうよ」

「あ、はい! あの、新幹線って、切符どうやって買えば……」

「ほい、蘭ちゃんの分」

「え」

「買っといたから。これで入れるよ」

真宏は鼻高々に指定席のチケットを取り出した。事前にインターネットで購入していたチケットだ。

(父さんに感謝……!)

新幹線のチケットを前に「おお〜」と目を輝かせている一蘭を見て、真宏は心中、父に頭を下げた。

一時退院が決まった時、父と母に旅行のことを話した。

反対はされないだろうけれど、変な心配はかけたくなかった。

入院前の真宏だったら、

「そんな些細なことをわざわざ……この歳になって……」

と、両親に話す事はなかっただろう。

けれど、今はそうはいかないと思っている。事前にきちんと話しておくべきだと、そして、了承を取るべきだと。そういう風に考えるようになった。

一蘭にも、キチンとご両親に話しなさいと言い含めている。

しかし、話すにあたって、真宏は両親に反対されやしないかと不安にも思っていた。

あちらもあちらで、今まで通りの放任主義とはいかない心持ちになっているのではないか、と。けれど、それは杞憂に終わった。

「あのさ、一時退院の期間でさ……蘭ちゃんと大阪まで遊びに行きたいんだけど」

「あら、旅行? 良いわねぇ〜大阪美味しいものたくさんあるじゃない」

「え、いいの」

「好きにしなさいよ旅行くらい。ねぇ、父さん」

「あー、春休みの時期だから、新幹線とかチケット取った方が良いぞー。お前、大阪まで立ちっぱなしとか、無理だろう、体力的に〜」

最後の「体力的に〜」の所は、完全に笑いながら言っていた父だ。真宏は拍子抜けしてポカンとしてしまう。

「え、あ、うん。わかった。新幹線で行くから、チケット取る……」

「今はなー、便利だから、窓口行かなくても取れるんだよ〜」

「お父さん、真宏だってそんくらい知ってますよー」

「え、嘘。父さんこの間知ったよ〜便利だなぁー……携帯でも取れるのか?」

スマートフォンじゃないと出来ないのかなー、と父が唸り出したから。真宏も、もう笑った。

(あー、なんかもう、俺、父さんと母さんの子供で良かったなーなんて……)

この、のんびりした人達の家族で良かったなぁと思った。

「お土産、買ってくんね。なにがいいか考えといて」

真宏はその日のうちに、さっそく新幹線のチケットを取ったのだった。

「蘭ちゃんさ、家族に反対されなかった?」

「されました」

「……え、マジで」

「はい。でも、姉が……姉さんが庇ってくれて。一泊くらい良いじゃないって。あの、真宏さん、新幹線のお金は……」

「ああ、良いよ別に。全部俺が出すつもりだったし」

「駄目ですよ、そんなの!」

一蘭は慌てた様子で、背負っていたリュックをガサゴソしはじめた。改札前だ。

「蘭ちゃん、それ、乗ってからにしよっか。ここだと人の邪魔になっちゃうから」

「あ、はい……そうでした……」

真宏の言葉に、一蘭は恥ずかしそうに赤くなった。

「旅行、あんまりしない?」

「去年は修学旅行に行きました」

「そっかー」

家族では? と、喉元まで出かかったけれど、飲み込んだ。きっとその話題は鬼門だ。

「真宏さんは、旅行、よく行くんですか?」

一蘭は真宏の後に続いて、新幹線の改札をビクビクとくぐった。

「んー、旅行ではあんまりだけど、仕事してた時は出張があったからなー……新幹線はよく使ってたかも。飛行機はあんまり」

「出張……なんかカッコイイですね……」

一蘭はポカっと口をあけて、相変わらず瞳がキラキラしている。

(おー……これは、もしかして)

結構、旅行、楽しみにしててくれたのかな?

真宏は誘って良かったなぁと思った。本当は、誘った時、突然すぎたかなぁと反省したのだ。旅行するほどに親しくなったのか、と言われると、自信はなかった。自分はそのくらい親しいつもりだが、一蘭がどう思っているのか不安にも思っていた。

「蘭ちゃん、今日、来てくれてありがとね」

いろんな気持ちをこめて言ったら、一蘭は不服そうに唇を尖らせた。

「真宏さん、僕がすっぽかすって思ってたんですか?」

「いやいや、そういうことじゃなくてね」

人でさざめく構内を歩きながら。お弁当と一蘭の好きなウーロン茶を買いながら。

真宏は久しぶりに心が弾んでいた。

(入院してた時、実は結構、退屈だったのかもなー)

入院している最中、暇ではあるが、それはそれで良いか、などと思っていたのに。

いざ外に出てみると、外の世界は楽しいなぁと思った。

「蘭ちゃん窓側行く?」

「良いんですか?」

「どーぞどーぞ。昔から子供は窓側って決まってんですよ」

「……子供扱いしないで下さい」

そう言いながらも、一蘭はストンと窓側に座った。すぐさま窓の日差し除けを開けていたから、やっぱり楽しそうで何よりだと思う。

「あ、そうだ。お金! 真宏さん、お弁当のお金も!」

「あー、別にいーってば。そもそも蘭ちゃん、お金どうしたの? お小遣い?」

「……姉さんが貸してくれた……」

「あらま。じゃぁやっぱり駄目だよ。それはお姉ちゃんにそのまま返しな。それかお土産買うのに使いなさいな」

「でも……」

「じゃぁ、今回のお金は、俺が蘭ちゃんに貸しといてあげるから。蘭ちゃんが働くようになったら返して」

ね? と笑えば、一蘭はまた曇った顔をする。

「僕、中高一貫だから」

「ああ、そうだったね」

「高校に上がっても、バイト禁止なんです……」

なにを言い出すかと思えば。真宏は盛大に笑った。

「いいってば、別に。急がないって。蘭ちゃんが大学生になってからでも、社会人になってからでもいいよ」

「何年後ですか、それ……」

一蘭は不服な顔をした。けれど、真宏は遠い約束が嬉しい。

「だいじょーぶ。ちゃんと俺、生きてるから。生きてて、待ってるから。だから、蘭ちゃんが自分でお金稼いだらさ、それで返してよ」

新幹線が動き出す。

「あ、蘭ちゃん。座席、少し倒したら? その方が楽ちんだよ」

「……約束、します」

「うん」

一蘭は、肘掛け部分にあるボタンを一生懸命いじりながら。

「必ず、全額お返ししますから」

決意の籠った口調で、そう宣言した。その、若さ溢れる強い想いに、真宏は希望を見る。

約束は、真宏にとっても大きな光だ。それだけで、もう既にこの旅行には意義があったとさえ思えた。

(なにか……)

なにか、変われば良いと思って、真宏は一蘭を旅行に誘った。なにか、ほんの少しでも……良い方向に。


「大阪、ですか……?」

旅行の話を持ち出した時、一蘭は最初、不思議な顔をした。

けれど、真宏が、

「淀川を見に行こう」

そう言った途端、合点のいった表情に変わる。夢の中、前世の一蘭は確かに言った「淀の川」と。

「現地に行って、なにが変わるとか、そういうのはないかもしれないけどさ」

それでも行ってみようと真宏は思った。前世の自分が、死んだかもしれない場所に行ってみたいと、思った。

「もしかしたら、成仏してくれるかもしれないしね!」

その言葉に一蘭は吹き出した。

「幽霊じゃないんだから」

それから二人、ハタと小首を傾げた。

「幽霊じゃないのかな?」

「幽霊なんですかね? 取り憑かれている的な……?」

「いや、でも前世の記憶だけだもんな。本人が出てくるわけじゃないし……」

今更すぎる討論に、結論は出ず。

結局その日は、だいぶ遅くなるまで話し込んでしまったのだった。


大阪につくと、その足で淀川へ向かった。地図を見て、当たり前だが、あまりに範囲が広くて唸ってしまう。

「海側にホテル取ったからさ。なんとなく、川沿い歩こうか」

「淀川の河川公園みたいなとこがありますけど……」

「じゃぁ、その辺から歩こう」

「テキトーですねぇ」

「そういう性格なもんで」

真宏の台詞に真面目な一蘭は怒るかなぁと思ったけれど、彼はクスクスと笑って「知ってます」と言った。

電車で公園のある最寄り駅まで向かうと、もう、すぐに川が見えた。

「淀川デッカ!」

「真宏さん、感想が小学生みたいですよ」

河川公園は広く、広く、ただ広く、川沿いに永遠と続いているように見えた。

春の入り口、うららかな日和だ。まだ肌寒くも、確実に冬の匂いは消えている。

「これ、全部桜ですかね」

「あー、ほんとだ。ツボミが……もうちょっと遅めに来てたら満開だったかもねー」

残念だなぁと真宏が言えば、一蘭から「そしたらきっと、すごい混んでますよ」と冷静な突っ込みが入った。

「いやーしかし……夢の中ではもっとこう、昔ながらの川〜って感じで……それがまぁ、こんなにも綺麗に整備されちゃうもんなんだねぇ……」

「真宏さんがオジイちゃんみたいなこと言ってる」

「蘭ちゃんもそう思うでしょうに」

「はい。まぁ、今のこの川で溺れて死ぬようには、あんまり思えませんね」

「だよねぇー」

二人して奇妙な会話をしながら、ぼんやりぼんやり川沿いを歩いた。

時折、本当に春風を思わせるような暖かな風が通り過ぎ、真宏は深呼吸した。

「入院した時、真冬ーって感じだったのになぁ〜」

季節の移り変わりなんて、今まであんまり意識していなかったなぁとしみじみ思う。

川の流れは穏やかで、サラサラと小さく水音が聞こえるだけだ。

光を浴びて反射する水面は美しいし、公園の、芝生と水の混ざった匂いは休日を思わせる。

「自然って、怖いね」

真宏の呟きに、一蘭は頷くだけの返事をした。

「夢で見た時、あんなに怖かったのにさ。実際の川見たら、泣いちゃうかもって思ってたのにさ」

全然そんなことないや

一蘭がぎゅっと真宏の小指だけを掴んだ。小さな子供が父親にするようなやり方で、真宏は一蘭の方へ顔を向ける。

「真宏さんが泣いちゃったら、僕が慰めてあげますから大丈夫ですよ」

真宏は、全然大丈夫だったのに、その言葉に少しだけ目尻が苦しくなった。

「蘭ちゃん!」

「はい。なんでしょう」

「遊園地行こ! あの、大阪の! おっきいやつ!」

「は?」

真宏は一蘭の手をそっと解いて、グンと大きく伸びをした。

「せっかく大阪来たのに! 川を眺めてお散歩して終わりじゃつまんないでしょ!」

「いや、なんのために来たんですか真宏さん……」

「もう目的達成ー! 今の淀川はこんなに穏やかで素敵なところでした! 以上!」

「以上って……そんな適当な……」

呆れた声を出す一蘭だ。

けれど真宏はもうグングンと歩き出していた。一蘭も当然のようにくっ付いて来る。

「このまま歩いてくと遊園地着くんだよ、地図によると!」

「はぁ、そうですか……」

「ホテルもその辺なんだよ」

「はぁ……」

「ねぇ、蘭ちゃん」

真宏は、今度は自分から一蘭の手を握った。ぎゅっと繋ぐ。一蘭は、驚いた顔をしたけれど、振りほどきはしなかった。

「思い出つくろ! 前世のなんとか〜じゃなくて、今の俺と蘭ちゃんの思い出つくろ! 病院以外の思い出! 楽しいやつ!」

遊園地とか何年振りだろう! とはしゃぐ真宏だ。一蘭は仕方ないなぁという顔をしたけれど、繋いだ手を握り返してくれた。

「あんまり、はしゃぎ過ぎないで下さいよ。まだ体力、そんなに戻ってないんでしょ、真宏さん」

「わーかってるって!」

どちらが歳上かわからないのは、いつものことだ。淀川の穏やかな流れに沿って、二人はトコトコと歩いていった。

遊園地で何に乗りたいか、夕飯にはなにを食べようか、そんなことを相談しながら。


 *

「真宏さん、本当に子供ですか」

「すみません……」

ホテルに着くなり、真宏はぐったりとベッドに横たわった。

あの後、遊園地に到着してすぐ、パレードだ! アトラクションだ! と遊び回り。すっかり日が落ちた頃、真宏の電池がプツリと切れたのだった。

急にダルくなって、気付けば発熱していた。

「いやぁー……こんな風に思い切り外で遊んだのって久しぶりすぎて……思いの外楽しかった……です……」

「それはよかった」

一蘭は真宏の額にペタンと冷却剤を貼付けた。途中コンビにで購入したものだ。

「蘭ちゃん冷たいー」

「そりゃ冷却剤ですから」

「違くて。蘭ちゃんが俺に冷たい」

「自業自得です。まったく。真宏さん、ルームサービスでお粥ありますけど」

「たこ焼き」

「怒りますよ?」

ニヒヒと真宏は笑った。本当は食欲なんて皆無だった。

川沿いにとったホテルだ。窓を開ければ、すぐ側に河口付近の淀川が流れている。

その先は海。真宏が瞳を閉じると、サラサラと耳に感じる水の音。

(あー、夢でも、こんなとこ、あったな……)

古いお堂。

近くに川。

そこで、真宏は、一蘭とセックスしていた。

「真宏さん」

「んー?」

「やっぱ、薬飲んだ方が良いと思うので、お粥食べて下さい」

「うん。そだね。解熱の薬、必要ないって思ってたけど、万が一にって持ってきといて良かったなぁー」

一蘭は「お湯、沸かしますね」と、淡々、看病の体勢に入っている。

「あ、蘭ちゃんもなんか頼みなさいな。食べたいのある? なんか買ってくる? ……いや、もう暗いし危ないか。ごめんね、せっかく大阪来たのに」

甲斐甲斐しい一蘭に、真宏は申し訳ない気持ちで一杯だ。いつもこうなっちゃうなーと自分で自分に失笑した。

「平気です。それに、僕も楽しかったです。遊園地も、散歩も、全部、楽しかった」

一蘭は不慣れな様子でホテルの電話から、お粥を二つ注文した。

「蘭ちゃんもっと違うの食べなよー」

「嫌です。真宏さんと一緒のがいい」

わざわざやってきた大阪の地。

真宏と一蘭は、ホテルのベッドで行儀悪く、一緒にお粥を食べた。

「なんか美味しい気がする」

「ホテルのだからじゃないですか?」

「んーん、蘭ちゃんと一緒だからだ。駅弁も美味しかったもん」

「病院食じゃないからですってば」

一蘭は照れたのか、少し早口で言って、お粥をちゃんと噛んで食べていた。

「蘭ちゃん、明日も川沿い、歩いてから帰ろ?」

「真宏さんの熱が下がったらね」

ポン、と。いつも真宏がするみたいに、一蘭は真宏の頭を撫でた。



 *

誰かが、泣いている

大声で、泣いている

あまりにもその声が悲痛で

大丈夫だよと抱き締めて上げたいのに

俺には腕も足も、なにもなかった

体の全部がなくなっていて

意識だけがそこにあった

ああ、せめて声が出せたのなら

ああ、せめて存在だけでも認識してもらえたなら

そうしたら、ほんの少しだけでも

彼を、癒してあげられるのに

俺にはもう、なにもなかった

僕にはもう、なにもなかった

兄上

あなたのせいじゃない

ないはずの瞳から涙が溢れて止まらなかった



 *

「ハッ……はぁ……」

真夜中だ。

目が、いつも通りバチリと覚めた。

もう、この展開にも慣れてきている。

胸が痛かった。

呼吸を整えながら、ゆっくり瞳を瞬かせていると、ポロリと涙が溢れた。

「……まひろさん……」

か細い声が、暗い室内に響く。

「あら、起こしちゃった? ごめんね、イビキ、うるさかった?」

真宏はそっと、気付かれないように涙を拭って、隣のベッドを覗いた。

「いえ、僕も、ほとんど同じタイミングで、起きたので」

「そっか」

「はい」

相変わらず、外からは穏やかな水音がしている。

換気をした方が良いと、一蘭が少しだけ窓を開けていたのだ。

「まひろさん……」

「んー……?」

寝ぼけている一蘭の声は、いつもよりもっと幼く聞こえた。

「……そっち、行っても良いですか……」

真宏の心臓がトクンとひとつ、大きく鳴いた。

「風邪、うつっちゃうかもよ」

「へいきです」

「じゃ、おいで」

真宏は自分の布団をペロッと捲ってやる。一蘭はストンと自分のベッドから下りると、ゆっくり真宏の方へ近寄った。

ホテルの浴衣みたいな寝間着が、もうほとんどはだけてしまっていた。

「蘭ちゃん寝るの下手くそね」

真宏が笑うと、一蘭はグイグイと裾を無理矢理合わせようとしながら「だってこんなの普段着ないもん」と言い訳た。

「どれ、なおして進ぜよう」

真宏もムクリと起き上がると、一蘭へ手を伸ばした。

シュルリと、一度、浴衣の紐を外す。

白い肌が、薄闇に綺麗だった。

「真宏さん」

「んー?」

彼の肌に見惚れていたことを悟られぬよう、真宏はスッと浴衣を合わせた。

「前世の真宏さんが死んだの、やっぱり僕のせいです」

「そんなことないって」

「いえ、そうなんです。あの、僕、ずっと言えなくて……」

あの日、あの、風の強い日

「僕が、前世の僕が、捨て子だったってわかった日……その翌日、大きな嵐が……」

「ああ、そういえば、そんな事、言ってたような……」

その日も、待ち合わせをしたのだ

あのお堂で

嵐の夜だから、誰も出歩かないだろうと

だから、先に行って待っていろ

そう言った

俺は後から、後から行くから、と

「僕が向かった時には、もう、川の氾濫が始まっていました」

一蘭の瞳に涙が溢れる。

ごめんなさいと、掠れた声が真宏の耳に届いた。

「お堂ごと、丸ごと、川に飲み込まれて……それを、僕はただ……唖然と見ていた……」

ごめんなさいと、もう一度。

「僕のせいで、あなたは死んだ……」

とうとう目元をグシグシと両腕で拭いながら泣き出してしまった一蘭だ。ヒックと、しゃくりあげる度に、目の前の体が不自然に揺れる。

真宏は、まだ紐を結んでもいないのに、合わせから手を離した。

そのまま、一蘭の体を抱き締める。

肩口が熱い。

噛み締めた泣き声が、くぐもって伝わってくる。

「蘭ちゃん」

「ごめんな、さい……」

「蘭ちゃん、の、せいじゃないよ」

真宏は、先ほど見たばかりの夢を反芻する。

ああ、伝えたかったのだなぁと思った。

前世の自分は、伝えたかったのだ。

あなたのせいじゃないと、兄に、愛する人に、伝えたかった。

「兄上、あなたのせいじゃない」

一蘭の中の、体の中の、頭の中の、心の中の、どこの中だかわからないけれど、そこにいる前世の一蘭へ届けと、祈りを込めて。

真宏は一蘭の耳元で囁いた。

「俺の中の、人は、そう、言っておりますけれども……」

どうでしょうか

最後は、少しだけ、一蘭を笑かそうという祈りを込めて。

一蘭は、じっと真宏の瞳を、濡れた青い瞳で見つめた。見つめて、泣き笑いみたいな顔をして、

「僕の中の人に、そう、伝えます」

と、笑った。

笑って、二人して笑って、でも、抱き合ったままで。それがもう、夜だったし、そういう空気にさせて。

ああ、と。

思った時には。

キスを、していた。

真宏は、どうしたもんかと、頭の隅っこで冷静に思考を働かせながら。

(リアルの世界でキスしたの、すんげー久しぶりな気がする……)

なんて考えて、気持ちいいなぁと、思っていた。

 *

お互いに男だったのが、マズかったのかもしれない。

それも、入院生活で欲求不満の、まぁ青年と、思春期真っ只中の少年だ。

止める人間が、誰も、いなかった。

「ん、はっ……んむっ……」

唇を合わせるだけのキスは、ほんの一瞬で終わった。すぐに、互いの舌を欲して、唇を、歯列を、開いた。

相性が良いという言い方は、正しくはないのかもしれない。

けれど、もう、何度もそうしてきたかのように思えた。

真宏は一蘭が次にどうするのかがわかったし、一蘭も真宏がどうして欲しいのか、直感的にわかっていたようだ。

柔らかく、互いの唾液で濡れた唇は心地よい。真宏が上唇を吸って、一蘭が下唇を吸って。

チュプっ、と離れる。

それからまた、顔を少しだけ傾けて、触れ合う。

今度は舌先同士を押し付け合うようにして滑らせた。

「んぅ、む、ぅ、ふ、……」

「ん、ぁ、らんちゃ……んむ……」

合間に一蘭の名を呼べば、細い体がピクリと跳ねた。抱き合っている、互いの体が熱い。

真宏は、下半身がジンジンと重くなっていくのを感じていた。

「らん、ちゃ……」

「まひろ、さ……」

唇を離して、額を擦り合せる。

名を呼んで、甘い声で。

互いの手で、背を弄った。

「えっちな顔してる、らんちゃん……」

「まひろさんの、せいです……」

一蘭のペニスも真宏と同じ様に勃起して、窮屈そうに浴衣を持ち上げていた。

真宏は、そっと、そこに触れる。

「っ……」

一蘭はギュッと目をつむって、耐えるような顔をした後。同じ様に、ゆっくり、真宏の半身に手を伸ばした。

「あついね」

「……ん……」

真宏の言葉を上の空のように聞き流して。

一蘭は、少しずつ、揉む様に、真宏のペニスを撫で始めた。

「ぅ、ん……らんちゃん……」

先手を取られてはならぬと思い、真宏も一蘭を擦り撫でる。

互いに、無言だ。

無言で、ただ、粘着質な水音と、それから熱く籠るような息づかいを漏らす。

真宏は一蘭のペニスを手のひら全体で擦りながら、亀頭の先端を親指で擦ってやった。

尿道がヒクリと指先で動いて、その感覚が真宏を興奮させる。

もっと弄ってくれと言われているみたいで。

「ゃっ、まひ、ろさ、それっ、……だ、めっ……!」

一蘭は、パッと真宏のペニスから手を離す。

慌てたように、自分のペニスを弄る真宏の手を止めようとする。が、その手はもう既に快楽に震えていて、ほとんど力など入っていなかった。

真宏は、一蘭を無視して愛撫を続ける。優しく円を描くように擦っては、グリグリと強めに抉るのを繰り返した。

「ぁ、ぃ、アッ……んっ、ぅ、ま、ひろさっ、ぼく、もっ……だ、でちゃ……っ」

ダメ、イヤ、を繰り返しながらも、一蘭は真宏にキツく抱きついた。足がピンと張って、でも足指はぎゅっと丸まってしまっている。

「も、イ、くっ、でちゃ……まひ、ろさ、ッ……!」

ぶんぶんと頭を振って耐える一蘭の肩口に、真宏はキスをした。

それから一蘭のペニスを擦る動きを早める。ついでにもう片方の手で自分のモノも擦り上げた。

「んァあ、ァ、ア、アッ……っ!」

一蘭が顔を仰け反らせる。

掴まれていた肩は痛かったし、反った首筋が美しかった。

ビュクっと吐き出された一蘭の精液が、真宏のペニスにひっかかる。

真宏は、それを塗り広げるみたいにしながら。自分の方も限界を迎えられるようにと扱いた。

ぐったりと弛緩した一蘭を抱き締め、その首筋から匂いを嗅ぎながら、体温を感じながら、達した。

声はなんとか、大人の矜持で食いしばって耐えた。

真宏の吐き出した精液も、同じように一蘭のモノを濡らして。テラテラと光る陰茎の淫猥さに、真宏は達したばかりだというのに、また欲が沸く。

「まひ、ろさ……」

「ん、へいき?」

「へいき、ですけど……あの」

「なに?」

「……もう、いっかい……」

真宏はゴクリと喉を鳴らす。

未だにはだけたまま、一蘭に引っかかっている浴衣をはぎ取った。

そのまま、ベッドに押し付ける。

もっと、そっと、横たえるくらいの気持ちでいたのに。

結果的に、ボンと布団が鳴る程に強く、押さえつけてしまった。

「あの、真宏さ、」

「現世ではさ、」

俺のが、お兄ちゃんだから

だからごめんね、と真宏は言った。

一蘭がパチリと目を見開く。

けれど、すぐに真宏の浴衣の紐を引っ張った。

「どっちでも、いいです」

「蘭ちゃん、ほんと、男前」

「あ、でも、挿れるの、なしです」

あれ、すごい、痛そうだもん

真宏は笑った。

元よりそのつもりはない。

一蘭を、傷付けるつもりなど、毛頭ない。

ただ、愛おしいのだ。

「了解です」

真宏は優しく、安心させるように、一蘭に口付けた。


 *

朝日に罪悪感を覚えたのは初めてだった。

「あーーーー……」

「真宏さん、いつまで唸ってるんですか。朝ご飯、食べに行きましょうよ」

真宏の熱は、朝方すっかり下がっていた。

「適度な運動と汗をかいたのが良かったんですかね?」

サラリと言い放った一蘭に撃沈した真宏だ。

「ちゅ、中学生に……なんてことを……」

「春休み終わったら高校生です」

「蘭ちゃんごめん、それ、あんまり罪は軽くならない……」

うだうだと、未だにベッドに寝転がっている真宏を他所に、一蘭はすっかり着替え終わって荷物の整理なんかをしている。

蘭ちゃんアッサリしてんな〜、とか、はじめてだったんだよね……? とか、真宏は余計に思考が混乱する。

そして、そういう思考の合間合間に、昨晩の一蘭を思い出しては心臓がギューっとなって。またジタバタとベッドの上で暴れるのだ。

一蘭は、転がっている真宏を見遣って、ほとんど綺麗なままの自分のベッドに腰掛けた。

自分が使う予定で、結局は最初の方しか使わなかったベッドだ。

「……真宏さんにとって、昨日のアレは、罪なんですね」

「へ?」

「魔が差した、ってことなんでしょう?」

そこまで広くもない部屋だ。

ベッドも近く、隣り合わせている。

真宏は寝転んだまま、一蘭の顔を仰ぎ見た。

逆光であったけれど、明るい朝だ。

表情はキチンと見てとれた。

無表情にちょこんとベッドに座っている一蘭の、その表情の奥底に。寂しそうな顔が見え隠れしている。

「ちがうよー」

真宏は情けなく眉を下げながら、でも一蘭の瞳をキチンと見て言った。

「一応、魔が差したーみたいな感じで、ああいうことをするほどのクズではないつもりー……」

言い訳みたいに聞こえるかな? と思ったけれど、思ったままを言った。

「じゃあ、前世の真宏さんが、今の真宏さんをそそのかしたんだ」

一蘭は尚も、頑なな表情で。視線は真宏から外れて、今では下を向いている。

膝から下をパタパタと揺らして、その動きを見ているようだ。

真宏はそこではじめて思い至る。

一蘭は、整理がついていないのだと。

どういう解釈をして良いのか、多分、わからないでいるから。

だからもう、普通にするしかないのだろう。

(……平気なわけ、ないよねー……平気に見せるのが、得意なだけだー……)

「蘭ちゃん、悲しいこと、言わないで」

「なにがですか」

「俺、ちゃんと、俺が蘭ちゃん好きだから、したんだよ」

告白めいた台詞に、年甲斐もなく自分で赤面してしまう。

「さっき罪だって言ったくせに」

「世間的には、ね。どう考えても不純異性交遊……」

「同性ですけど」

「ぅあーーーー……」

真宏に五十のダメージだ。

顔を覆って、唸る。

それには一蘭も笑った。

「別に、お金を貰っているわけではないんですから……あ、貰ってました。旅費も、食費も、真宏さん持ちでした」

「うぉおおおおおおおお……!」

真宏は瀕死だ。

昨日今日の出来事を、なんらかの理由で一蘭が訴えたとしたら。真宏は入院手術どころではない。一発でお縄だ。状況としては、そういうことだ。

真実は、もっとロマンチックだけれど。

「蘭ちゃん、俺のこと、訴えないでね……」

「なんで訴えるんですか」

「いや、なんかの拍子に……」

「なんの拍子ですか。それに、お金は僕が働くようになったら返すって約束しました」

一蘭は「からかい過ぎました」と笑った。

「らんちゃーん」

「なんです? ほら、もう早く着替えて下さいよ。朝ご飯終わっちゃいますよ」

朝はバイキングがくっ付いているプランにしていた。

昨日の晩ご飯がお粥だったものだから、育ち盛りはお腹が減っているのだろう。一蘭は、真宏の寝転がっているベッドの横で、仁王立ちした。

「はやく、起きて下さい」

肩を揺さぶってくる一蘭の手を真宏はキュウと握った。

「真宏さん?」

「蘭ちゃん、すきだよ」

この子の中で、この思い出を、曖昧なものにしたくないと思った。

思ったから、もう一度、念押しみたいに真宏は言った。

一蘭は一瞬固まって、それから真宏に掴まれていない方の手で口元を覆った。

「真宏さん、そういうこと真顔で言わないで」

「本気の時は真顔で言わないと、俺、いつもヘラヘラしてっから信じて貰えないんだよねぇ〜……」

「……」

一蘭は黙り込んで、視線をウロウロと彷徨わせている。

「言っとくけど、前世の蘭ちゃんじゃなくて、今の蘭ちゃんが好きってこ……」

好きってことだからね、と言おうとした。

けれど、一蘭の手が真宏の口を塞いだ。

「ま、ひろさん、ちょっと黙って……」

「やら」

口を塞がれたまま、無理矢理喋ったら、一蘭の手のひらに唇がぶつかった。

一蘭は、それにビクっとして、手を離してしまう。

「昨日はあんなに積極的だったのに、どーしたの、蘭ちゃん」

「うっさい、です……」

「恥ずかしがってんの?」

「うるさいってば!」

いよいよ真っ赤な顔をしはじめた一蘭だ。

真宏は可愛くって仕方なくて。

そのままギュウと抱き締めた。

「もうやだ、真宏さん嫌い……」

「俺はすきー」

「そういうとこが嫌いです」

言いながらも、一蘭は真宏の背に腕を回した。互いの体温が肌寒い朝に心地よい。

まだ窓は開いたままだ。

「あー、人間って、こんなあったかいんだねー……」

「真宏さん、彼女いたことあるんでしょ? だったら……」

「んー、なんか、忘れてた。他人の体温とか、そういうの、意識してなかったんだろうなー……今は、なんかこう、生きてるって、感じ、するねー……」

真宏は心の隅っこで、手術のことを考えた。

自分の病気のことを。

一蘭がそっと、真宏の髪を撫でる。

「真宏さん、ご飯行こうよ。元気でいないと、ダメでしょ。ご飯、大事だよ」

心配そうな瞳が真宏を見つめている。

「そだね。美味しいもの、たくさんあるといいね」

真宏はチュッと一蘭の頬にキスをすると、朝の支度をはじめた。

そして、着替えながらハタと思った。

(そういえば、昨日、なんの夢も、見なかったなぁ……)


 *

朝ご飯を食べて、荷物をまとめて。

二人、また淀川沿いをゆっくりと歩いた。

「疲れるまで歩いて、そこから電車乗って、新幹線乗り場まで行こう」

そういうプランだ。

昼前の河川公園は、犬の散歩をする人や、ゆっくり読書する人が中心で、静やかだった。

今日も今日とて、川の水は穏やかにきらめいている。

真宏も一蘭も、特になにも話さず、ただただ川を見ながら歩いていた。

昨日よりも気温が低く感じられて、お互いに手はコートのポケットに突っ込んでいる。

けれど、心の距離は昨日よりもグッと近い気がしていた。

「蘭ちゃん」

「はい」

「あそこの河川敷でちょっと休憩しない?」

「疲れました?」

「んーん、なんか、もうちょいじっくり見ておこうかなって思って」

自分が死んだっぽい川を、もうちょっと

一蘭は無言で頷くと、真宏の後をついてきた。

「バーベキューとか出来そうなとこだねー」

「そうですね」

真宏と一蘭は、川の水が触れるほどの場所にしゃがみ込んだ。

チロチロ流れる水に、真宏は手を伸ばした。

「うひー冷てーっ!」

手のひらを濡らして、眉根を寄せる。

一蘭はその様子を見て、それからそっと、自分の人差し指だけを水につけた。

「あ、ほんとだ。冷たい」

「蘭ちゃんズルいぞー! 蘭ちゃんも手のひら全部いきなさいよー」

「ヤですよ。めっちゃ冷たいじゃないですか」

今日寒いのにー、と笑った。

(平和だー……)

真宏は、遮るものの、なにもない空を見上げる。

「病院では、上を見ても白いばっかりだったからなー」

「そうですね」

「もうね、白い天井と友達になれる気がしてたからね」

「真宏さんって、発想が、変」

普通そんなこと、思いませんよ

「そっかー……」

真宏の気のない声。

そしてまた、沈黙。

真宏は瞳を閉じた。

瞼の裏に太陽の光を感じる。

深呼吸をする。

肺に冷たい空気が入って、体の中が綺麗になった気がした。

風が吹いている。

水の音。

遠くで犬の鳴き声。

人と人の、話す声。

(働いてた時は……いや、もうそれよりずっとずっと前から……)

こういうなにか、ひとつひとつ、意識することを、忘れていたように思う。

(せっかく、健康に、生きてたのになぁー……勿体なかったなぁー……)

ゆっくり瞼を持ち上げると、肉眼には眩し過ぎて、下を向いた。

太陽の残像が水面に影を落としている。

横で大人しくしている一蘭を覗くと、体育座りをして、川の全体を見つめていた。

「手術ね、四月の二週目に決まったよ」

「そうですか」

真宏の言葉にも、一蘭は視線を川から逸らさなかった。

なんとなく気まずくて、真宏は明るく「応援してね」と言った。

「応援ってなんですか」

「え? あー、成功を祈ってて〜的な……?」

「僕、そういうの信じてないです」

「あーそう……」

「頑張るのは、真宏さんですから」

一蘭は強い声で、キッパリと言った。

「手厳しいなぁ〜」

「事実です。僕は真宏さんに、なんにもしてあげられない。それだって結構、辛いことなんですよ」

真宏は、この少年に、一体どれだけのことを学んだのだろうと思う。

何度、敵わないなぁと思えばいいのか。

それほどに、自分は子供だったと。

歳ばかりをくって、大事なことを全部おざなりにしてきたのかもしれないと。

「らんちゃん」

「はい」

「今から俺が言う事、全部、忘れてくれる?」

「……努力します」

真宏は、今まで、自分の人生を不幸せだと思った事は一度もなかった。

病気になった今でも、だ。

病院の先生も看護婦さんもみんな、優しくて良い人だ。

母や父も時間を作ってはお見舞いに来てくれる。

一蘭にも出会えた。

検査でキツいことはあっても、それを不幸だとは思わない。

だから、真宏は、人生をもう一度やり直せると言われても、きっとそれを望まない。

今のままで、十分満足です、と。

そう言い切る自信がある。

それほどに、恵まれていると思っている。

幸せだと。

これ以上は別に、望みませんと。

「でもね、俺、俺ね」

「はい」

「……死にたく、ないなぁ……」

「……はい」

「だってさ、まだ、まだ、二十七歳なんだけど。そりゃ、蘭ちゃんよりはずっと歳上だけどさ、でもさ、俺、まだ、まだ若いじゃん。まださ、死ぬには、ちょっと早すぎるっていうかさ、まだ全然、そういう、準備出来てないっていうか……」

自分で言っていて、情けなくも涙が溢れてきた。

大阪に来てから、どうにも涙もろくていけない。

一度溢れた涙は、止まらなかった。

外だし、一蘭の前だし、格好悪いし、止めよう止めようと思っている。

思っているのに、全然、止まってくれない。

ついでに鼻水まで出てきてしまって、もう大決壊だ。

頭を下げて、両手で顔を覆った。

「らんちゃ……おれ、……しにたくない……まだ、まだ、楽しいこと、たっくさん、したい……し、おいし、いもの、……たくさん、たべたい……」

一蘭はそっと、真宏との距離を詰めた。肩が触れ合う距離で、もぞもぞ座り直して、真宏の背を、ゆっくりと撫でた。

一蘭が無言でいるものだから、真宏が黙ると鼻を啜る音としゃくり上げる音だけが響く。

落ち着かねばと、真宏は何度も深呼吸した。

「……らんちゃん、人間ってさ……みんな死んじゃうじゃんね」

一定のスピードで撫でられる背が、優しい。

夢の中で見た、前世の兄である彼の気配を感じる。

「蘭ちゃん、見て。あそこで散歩してるお爺さんとお婆さん。あの人達だって、いつか死んじゃうでしょ?」

「……真宏さん……」

「ほら、あっちの若いカップルも、あそこで立ち話してるおばちゃん達も、散歩してる犬も、飛んでる鳥も。みんな、いつか死んじゃうんだ」

俺も、蘭ちゃんも、いつか死ぬよね?

真宏は、涙を手の甲で拭った。

スン、もう一度、鼻も啜る。

「みんな同じだから。産まれてきたら、もう、死ぬしかないから。だから、本当は、死ぬ事ってあんまり、怖い事じゃないんだ。どんな感じか知らないから、怖い感じがしちゃうだけで本当はあんまり怖い事じゃないんだって……そういう風に、思ってた、ずっと。元気な時は」

一蘭は黙って頷いた。

無茶苦茶な事を口にしているのは、わかっている。

だから、理解してもらえていても、もらえていなくても、どちらでも良かった。

ただ、頷いてもらえたことが、真宏は嬉しかった。

「でも、俺、まだ、死にたくない……死にたくないって、思っちゃう。これって矛盾してるよな。わかってる。わかってるけど、もう、理屈じゃないんだなぁって」

真宏は、再び溢れようとしている涙を、唇を噛んで我慢した。

一蘭の手がそっと背から離れる。

変なことを言い過ぎて、呆れられたかなぁと思って真宏はチラリと視線をやった。

「真宏さん、ずっと、そんなことを考えてたの?」

「え?」

「真宏さん、入院してても、検査してても、ずっと平気そうな顔してたから。強いんだなぁって思ってた。けど、そうじゃなかったんだ」

一蘭はツンとした顔をして真宏を見ていた。

「がっかりした?」

言わなきゃ良かったかなぁと、真宏は思った。けれど、一蘭はキッパリと「安心しました」と言った。

「真宏さんが、ちゃんと人間ぽくて安心しました」

「……え、なにそれ……俺、人間ぽくなかったってこと?」

「んー……人間ぽくないっていうか……なんでも受け入れちゃうから、感情の起伏が大きくないのかなぁって」

「それ蘭ちゃんに言われたくない」

「え、僕は結構、感情的ですけど……?」

「うそだー」

「えー」

お互いに言い合って、同時に吹き出した。真宏は、なんだか少し、落ち着いた気になって、ゴロンと河川敷に横になった。

「真宏さん、服汚れるよ」

「洗えばいいよー」

「これから新幹線乗るのに」

「あ、ヤベ」

「もー」

そこでまた、ひとつ笑う。

一蘭は真宏の背中をパタパタと払いながら「真宏さん、泣けて良かったね」と言った。

「泣くとちょっと、すっきりしない?」

「する」

「じゃぁ、よかった」

真宏はもう一度、自分の目元を拭うと、背伸びをして立ち上がる。

「前世の俺も、死ぬ直前、怖いって思ってたみたい。死にたくないって、思ってた」

「そう、でしょうね」

「手術、頑張るね」

「当たり前です」

強く、青い瞳に見つめられた。

その若く、生命力に溢れる瞳が、真宏には心強かった。

「帰ろっか、蘭ちゃん」

「はい」

「駅弁、なににしようかなぁ〜」

「僕、アレがいいです、肉がいっぱい入ってるやつ」

「若いねぇ〜」

またゆっくり歩き出す川沿いに、真宏は「またね」と心の中で唱えた。

手術が終わって、元気になったら、またここに来たいと思った。

「真宏さん」

「んー?」

「また、旅行しましょう。真宏さんが治ったら」

真宏は一蘭の顔を見て、ニヤけてしまった。

「なんです? 僕、なんか変な事言いました?」

「んーん。やっぱり前世で兄弟だっただけあるなーって思っただけ」

「なんですか、それ……」

「秘密」

真宏は、この世の全てをなんとなく、愛おしく思った。

自分の中にあった、前世の記憶も。

この世界に生きている全ての命も。

もちろん自分自身も。

なにもかもを愛おしく思った。

大袈裟な話だ。

調子の良い話でもある。

自分が弱って、はじめて思い知る愛おしさなんて。

けれど、それを知ったから、真宏は心を強く持てると思った。

愛おしい、この世界に、まだまだ自分は立っていたいと強く思った。

そして、愛おしい人達と、まだまだ共に生きていたい。

生きていきたい。



*****

三月のはじめに、無理矢理休みを取った。

「年度末のこの忙しい時期に……」

と、上司には苦い顔をされたけれど、どうしてもその日でなくてはダメだった。

後輩にも先輩にも迷惑をかけながら。

そうして一蘭は、大阪へ、淀川の河川敷に来ていた。

幾年の春をこえて。

「あー、ここ、変わらないなぁー……」

独り言は風に舞うこともなく、地に落ちるようだ。一蘭は先日の誕生日で二十七歳になった。

「出会ったころの真宏さんと、同い年だー」

一人きりの呟きは続く。

あーあ、なんでこんなとこに来てるんだろう

ひとりでさー

むなしいよなー

誰も聞いてはいない。

「あの頃……」

あの人の言っていたこと、どこまで本当で、どこまで嘘だったんだろう……

あの日、一緒にこの場所に来た。

あの時、彼は言ったのだ。

もし俺になにかあったとしても

蘭ちゃんは大丈夫だよ

強い意志があれば、前世の声に負けたりなんかしない

大丈夫

蘭ちゃんは、絶対大丈夫

「大した事ないよ、とか、初期段階だから大丈夫、とか、嘘ばっか」

けれど、それ以上に、見抜けなかった己の幼さを呪いたい

「ほんと、酷い人だよね、真宏さん」

一蘭は、あの日、二人で大阪に来たあの日の夜から夢を見ない。

夢でさえ、もう、会えないのかと。

あれだけ煩わしく悩んでいたのに、そう思った。

あの日と同じような晴天の元。一蘭は川沿いをただ歩く。生きているから、歩いていくしかないのだ。もう悲しい時期は過ぎている。

ただあるのは、

『蘭ちゃんは大丈夫だよ』

という甘やかな言葉の反響だけだった。

(恨みますからね、真宏さん……)

そう心の中で唱えると、一蘭はそっと唇を噛んだ。

風が、春の柔らかく優しい香りを孕んで、そっと通り過ぎていった。

生きている全ての生き物を、そっと慰め、包み込むように。

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