三畳一間

藤宮史(ふじみや ふひと)

第1話

 前歯が無かった。上の歯五本が、歯の根元だけ残して無かった。

 その頃は、昭和の終焉おわりから平成にかけての時代であったから、世間では、空前のバブル景気に湧きあがり狂喜乱舞して、私の窮乏きゅうぼうぶりは前時代的で信じられぬ程であった。

 二十四歳であった。若かった。希望にあふれて、まぶしい青春時代、のはずであった。しかし、私の前途は、かすみがかかったように茫洋ぼうようとしてつかみどころのない毎日だった。

 十九歳のとき、奮起して単身上京。偉い芸術家、美術史に名を残す画家になる筈であった。併し、実際のところ五年経ち、私の心のなかに残ったものは落魄らくはくの思いだけで、まったくもって失意のなかにいた。

 私は、日常の生活に負けたのだろう。食って生きてゆくために、日雇ひやといアルバイトは出るが、仕事に出ると絵ができず、絵ばかり描いていては飯が食えなくなる。その日々の繰り返しのなかで段々疲弊ひへいしていった。


 その頃、私は阿佐ヶ谷の、三畳ひと間の木造アパートの二階に、ひとりで住んでいた。

 いや、安住を意味する言葉である「住む」を使うよりは、この場合は逼塞ひっそくと言った方がしっくりとくる。

 そこは陋屋ろうおくと言って差支さしつかえがないほどの独居房のごときあばら家で、併し不思議と水道と瓦斯がすが出窓のように部屋の壁から外に小さく突き出ていた。

 部屋は、広さの割に大きすぎる硝子窓がらすまどがあり、扉を開け、部屋に入るたびに、何度、違和感を覚えたことであろう。そして、結局部屋を立退きになるまでの三年間、到頭そこに馴染めずに終わった。

 この部屋の、私の印象は、断崖の絶壁の、壁面を薄く抉った窪みのような印象で、そこに居ると、どうかすると、ずり落ちて崖下に真っ逆さまに墜落してゆくような気がしたものである。

 それから部屋のなかの様子であるが、窓際に沿うように縦に、赧茶色あかちゃいろに焼けた畳一枚分に薄く湿っぽい万年床が敷かれ、蒲団ふとんの、頭の横には、低い天井に届く程の寸法の、ほとんど本のない安物の簡易書棚があり、その横に前の部屋の住人が残していった小型の蒲団なしの炬燵こたつがあり、その横に背凭せもたれのある椅子いすの上に小型エッチング版画プレス機がっていた。蒲団の足元には中型の濃緑色の冷蔵庫があった。天井からは部屋にもともとあった細長い旧式のびた蛍光灯がさがっていた。

 あとは、部屋の扉は、これ以上薄くなれない3ミリ厚のラワンベニヤ板で造られて、扉の木枠も頑丈がんじょうと言うには程遠い代物しろものであった。しかし、唯一ゆいいつの長所と思われるところは、扉の意匠にあった。私は、この意匠が気に入ったのである。アパートは戦後の建築であると思われるので、それほど古風と言うわけではない。併し、大正モダンや昭和初期の影響が感じられ、扉はこげ茶色のニスが塗られ、扉は目の高さのところに菱形の嵌込はめこ硝子がらす小窓が付いて、ドアノブも華奢きゃしゃ真鍮製しんちゅうせいで出来ていた。それから鍵穴が、例の、穴をのぞくと部屋の中が見えるとうあれで、懐古趣味的かいこしゅみてきではあるがうれしくもあった。そう、あの頃の私は大正、昭和初期にあこがれていたのであった。

 だから、このときからしばらくして現代のにおいのする家具やら何やらを捨ててゆき、到頭、緑色の冷蔵庫も捨ててしまったのであった。そうう具合であったから、私の部屋には電話がなかった。

 私は、その時代の、八十年代末頃の妙に近未来的志向に気負った意匠の電話機が我慢ならなかったのである。

 


 暁闇ぎょうあん驟雨しゅううのあと、あてもなく部屋を出る。六月の初旬であるが早朝は冷える。

 だらりと垂れた汚れた蓬髪ほうはつ隙間すきまから、アスファルトの路面に落ちている一本のながい煙草が見える。おもむろに近づいて、雨に濡れていないのを確認して、路面から拾いあげ、そのままくわえて、火をつける。

 ちょっと前なら、煙草のフィルターにちぎった紙片を巻いてから口にはこんでいたが、この頃では、それも面倒で直接躊躇ためらわずくわえている。もし、何かしらの他人の病気が感染したらとの危惧きぐもあったが、もう、どうでもいい、とう自分を卑下ひげした自棄やけの気持ちが支配的であった。

 もう何日も、まともな飯を食っていなかった。ひと袋1キログラム詰めのABCビスケット(百九十八円)で二・五日間をり過し、即席ラーメン一袋を半分ずつ作って一日を遣り過していた。・・・・・いくら腹がすいても、即席ラーメンだけを三日たべ続けてゆくと、胃のにラーメンの悪い脂が膜を張り、毛穴から悪い脂の匂いが漂ってくる気がした。

 満腹であること、また食事の内容に満足した記憶の方が少なかった。このときも所持金が五百円を切っていて、しかも、金の入るあてはなかった。勿論、私に貯金の類いも財産といえる物もなく、唯一、金目の物と言えた電気扇風機や電気スタンド、小型カセットデッキ、古書四十冊程二袋分は、既に阿佐ヶ谷の松坂屋質店に質草として入って、質札五枚に化けていた。

 空腹にニコチンはこたえるが、腹の中がカラなら、せめて肺の腑だけでも何かしら詰めておきたい気持ちであった。


 もえるゴミ、もえないゴミ、のゴミ出し日なら、種類は問わず前日でも当日でもいい。併し、ゴミ収集車より先に行かなくては駄目だ。

 古新聞、古雑誌、文庫本、単行本などの古書籍、レコード、カセットテープ(ダビング自家用品)、まだ充分使えるコップ、皿、鍋、ヤカン、こまごまとした調理器具類、上着、下着の古着、皮靴、スニーカー、それに粗大ごみのカラーボックスやステレオデッキ、スピーカー、姿鏡なども区別なしに生ゴミの袋のよこに一緒に捨てられていた。

 とくに、私がねらっていたのは、雑誌、古書籍で、雑誌は大手の漫画雑誌は金にならなかったが、雑誌の定価が一冊五百円、千円と云う大人が読む趣味関係の物なら一冊五十円、百円と売れることがある。またハードカバーの単行本でも、人気作家の村上春樹、よしもとばなな、はたくさんの重版でほとんど売れず、大御所の吉行淳之介も売れなかった。

 雨あがりのゴミ置場で、ひと目も気にせず古書、雑誌の選別をする。手提げ紐のついた頑丈な紙袋はあらかじめ持参していたが、ときとして古書が紙袋に入れられて捨てられていることがあり、時間帯によっては、中身を一瞥して古書店へと直接持って行くこともできた。

 今日は、持参の紙袋をひろげて、古書を一冊ずつ点検してゆく。大概、古書は綺麗なまま捨てられることが多かったが、なかには本文に派手な線引きがしてあったり、切抜きのページの物もあり、折角部屋に運び込んでも、また捨てに行かないとならなくなる。そう云う憂き目のないように点検はおこたれない。


 紙袋一杯に詰め込んだ古書二袋を、ながいこと掛って部屋まで運ぶと、手だけでなく両肘の関節も筋が伸びたようにキチキチと痛んだ。赤くなった両手のひらを揉みながら、先刻の煙草の呑み残しを上着のポケットから出して、火をつける。

 本来、私は、煙草はメンソール系の、とくにセーラム・ライトを愛煙して、その一箱二百五十円の煙草を買っていた。併し、経済的に行き詰まる頃になるとメンソール系以外の安価の物でも我慢して吸うようになり、そして、だんだん更に値段の安いショート・ホープやピース、ゴールデン・バットなどにも手をだすようになっていった。それから、仕舞いには自分の部屋の灰皿からシケモクを拾って吸うようになり、とうとう外で、他人の吸った残りかすを拾って吸うようになってしまった。

 拾ってきた古書のページをぱらぱら捲ってみる。毎回であるが、古書の束からは元の持主の人物像が浮かびあがってくる。それに因ると、どうも私は世間の人たちとうまく遣ってゆけない、適合しないと、この古書の束からも、それがうかがわれて、暗澹あんたんとした思いに沈んでしまうのであった。しかし、そのことを努めて気にしないように自分の気持ちを別の方へと向けてゆくのであったが、実際、今の私は、古書から知らされるまでもなく窮地に居ると云うことにはかわりなかった。

 私は、三畳ひと間のくすんだ土壁にB4サイズの紙を貼りつけ、たくさんの短い文章を書きつけていた。その言葉のひとつに、

〈ひとり 三畳間から悲しみが一望できる〉

があった。いつの頃からか、そう云う習慣ができ、ノートなどに書き留めておく方法もあったが、ノート代を節約して、こうしておいた。否、それだけではない。もう今は、何を遣ってもどうせ結果はでないから、駄目だからと、しっかり何かを作ることが出来なくなっていた。


 昼頃の、古書店の開店時刻を見計って部屋を出る。高円寺まで歩いて行くので、持参する古書をあらためて選別したが、一回の買い取りに遠路たくさん提げて行っても莫迦ばかをみるのは経験済みなので、一店舗での、一回の売り込みは紙袋ひとつ分がよかった。気負って多く持参しても買い叩かれるだけで、古書店の親爺は品物が良くても知らぬふりして買い叩こうとするので、それが古書店の商売であるが、こちらはこちらで百円、二百円の金額が死活問題ではある。

 何気なく、私は袋を提げて古書店に這入るが、ピリッとした店内の空気が痛いほど伝わってくる。私が、一歩店内に入ったところから古書店の親爺は真剣勝負の雰囲気で、こちらをにらんんでいる。おもむろに、私は、店の奥の机のまえに進んで、

 「買い取り、いいですか?」と、それだけをしわがれた声で言う。

 親爺は、こちらに目を合わせることもなしに、あごで、袋を机にと指図するのであった。

 古書を検品する親爺の節くれ立った染みだらけの手の動きは、そのまま言葉を発しているようにも看取かんしゅされた。

 事実、ある古書に親爺の手が止まり、手が戸惑いと逡巡しゅんじゅん、決断の表情を見せ、ページをり、ページを繰って、奥付おくづけを見る。そして、背表紙を見て、しずかに古書を机の右側に置くのであった。

 よく観察すると、机の右側、中央、左側にふり分けているようで、優、良、可、不可を即決しているようである。不可は紙袋のなかに戻されてゆく。

 検品は、ものの五分間と掛らず終わり、「六五〇円」と告げられた。それは、絶対的な神の御託宣ごたくせんごとき重さを秘めていた。私は、首肯しゅこうするほかない。売買は終了である。二十冊以上持ち込んで、この値段では情けないが仕方がない。手持ちの金三百二十円と合わせて九百七十円。これで、どうにかしないといけない。


 ひさしぶりに、煙草の自動販売機でセーラム・ライト一箱を買う。二百五十円である。この前は、いつ煙草を買ったのか覚えていないぐらい記憶は古くなっていた。ひと月、否、ひと月半以上は買っていないだろう。

 私は、どうして、こんなに今の生活が窮乏しているのか、自分でもたしかな原因は判らない。多分、カール・サンドバーグの詩篇が関係しているようで、それは詩篇しへんの労働者側に立った視点が、私の神経に影響したわけで、その詩篇の意味が骨身にみてしまったのがいけなかったのだろうと思う。働けなくなってしまったのである。何故なぜか、働くのが、ほんとうに嫌になってしまったのであった。

 アパートの家賃も、既に二ヶ月分とどこって、近所に住む大家おおやの顔をまともに見られなくなり、また他にも不義理のようなサラ金の借金が四社合計五十万円程あり、利子の支払いだけでもひと月一万五千円の金がいるのであった。働けないうえに借金があるのでは貧乏するのは当りまえであった。


 高円寺駅の西側にピンクサロンが軒を連ねる通りがあり、そのピンサロのおしまいの所にニューバーグは在った。このハンバーグを専門と看板を掲げる店は、店構えこそ立派だが、肝心のハンバーグがハンバーグ業界のなかで最低級品に位置する××××ハンバーグとビリを争うもので、併し、かく、どちらのハンバーグも不味まずいが、癖になる味で、私にとっては忘れられぬ食品だった。

 パンのような食感のハンバーグであるが、私は、それをダブル(二枚)にして、ハンバーグの上にとろけるチーズ二枚をのせて食べるのを定番にしていた。併し、今日は、三十円足らずにチーズは一枚のせるだけにする。最後の晩餐ばんさんの気分になってゆっくり味わって食べるのである。明日はなんとしても、日雇いの土工仕事に行かねばならぬのであった。



 目覚まし時計のベルが鳴るまえに、目が覚めてしまうのは何故なぜだろうか。大概たいがい、ここ一番の緊張状態にあるときに、そううことが起きているが、便利であるよりも切なさの方が先にきた。

 午前五時半頃には起床して、ズボンを穿き、シャツを着て、歯ブラシを数秒間動かして、部屋を出る。顔は洗わない。どうせ数時間後には工事現場で嫌と云うほど土埃にまみれるので洗顔しても仕方がない。

 電車に乗って、阿佐ヶ谷駅から高田馬場駅へと向かうが、百五十円の電車賃を使うと残金は二十円だけになった。

 早朝であるので電車内は混まなかったが、私のからだはかるくひと月以上銭湯に行かず、また下着を着替えることもほとんどなかったので、私自身には判らないが、多分、軀からは発酵した汗やあかえた匂いを発散させていたことと思う。併し、私には、もはや他の乗客を気遣きづかうような心の余裕はなかった。ただ私は、私が臭い汚いと他人から指弾され迫害されるのを恐れるだけで、他人から私がどう見えるか、どう思われるかなどは、もうどうでもよかった。

 午前六時前には、高田馬場駅前に到着する。改札口の前にはいつもの胡麻塩短髪ごましおたんぱつ短軀たんく、手配師の親爺が立ちんぼをして、人夫にんぷの選好みをしている。

 この親爺は、これはと思う人夫に、その場で百円玉を握らせてつばをつけてゆくのである。人夫の心変わりを防ぐ算段であろうが、ることは下衆げすである。そして、親爺は人夫たちを駅前から移動させてゆくのであるが、これも他の手配師の手から自分の人夫を遠ざける策略で、駅から随分離れた所まで人夫を歩かせてゆき、結局、建築現場に行くのに同じ駅に戻って電車に乗って現場へ行くので二度手間であった。まったく人夫たちの苦労など毛の先程も感じない勘定で、一事が万事人夫たちに皺寄せがくるようになっていた。

 早稲田通りの舗道の脇に建っている薄い建物が親爺の仕切り場だった。このビルディングと冠してある建物は極ごく薄く切った西瓜のような按配で、建物全体の敷地も狭く、最大幅が五メートルあるかないかと云うもので、広いところから狭いところへと向かうと刃物の刃先のように尖っていた。

 ガラガラとシャッターを開けると仕切り場が現れる。併し、狭すぎるそこに居る者などひとりもおらず、皆人夫たちは仕切り場前の舗道のガードレールの上に腰をおろして煙草を吸っていたり、路面に蹲んで缶コーヒーを飲んでいたりした。

 もともと他の手配師から人夫たちを遠ざけるのが目的だから、舗道で屯している人夫たちが小雨に濡れようが強風にあおられようが一向に気にしない。仕切り場が狭かろうが親爺には問題ではなく、要は舗道だけで人集めをしていると近隣からの苦情もでるので、薄い建物は言い訳の見せかけだけのインチキにすぎなかった。

 親爺の思いつきで、いい加減な建築現場への人夫選びで、その日、私は乞食こじきの男とおなじ現場に行くことになった。

 建築現場は東急グループの現場で、高田馬場にあり、今日の現場は歩いてゆける距離に在った。もっとも、乞食と一緒であるので、まさか混み合うラッシュの電車には乗れないだろう。

 午前七時半頃、現場に着くと、現場監督の訓示、朝礼、体操はなしで、いきなり建築資材の片付けとガラ出しが始まった。そこは出来上がり直前の現場で納期が迫っているらしく、また人夫の予算も残りわずかなようで、妙に仕事量が多くキツい現場であった。

 それでも、昼飯まえには予定の仕事をこなし、そして、予想外であったのは、私よりも乞食の方が真面目に働いていたことであった。その日の私は乞食以下の働きぶりであったが、案外監督のうけはよかった。

 昼飯は、私は電車賃で残金二十円になり、手配師の親爺から百円貰っていたが缶コーヒーを飲んだので、やはり二十円しかなかった。併し、私同様に乞食も持ち金がないようで、現場から離れて食堂に行ったり買い食いをするふうでもなく、また、私も現場の仮設トイレのよこにある糞尿臭のする水道の蛇口から、口をつけるようにしてがぶがぶ水を飲んで凌いでいた。

 私は、建築会社の社員たちの出入りする詰所を避けて、コンクリート剥き出しの建築現場のなかに居た。尻にひいたガラ袋をふたつに折って坐り直し、封を切ったばかりの煙草の箱をあけ、一本とりだして口に啣える。私同様、詰所に居場所のない乞食も現場の建物のなかをうろうろしているようで、彼を呼びとめて、煙草を勧めてみる。ふたりして紫煙くゆらしながらいろいろと話をしてみると、乞食はとても気さくな人柄であった。つい私は、いま自分がおかれている境遇や、いかに、今も仕事がしたくないかを力説してみたが、これは話をする相手を間違えている。私の気持ちは、もっともな話と同情され、私は乞食から頑張れと励まされるのであった。

 仕事が終わり、手配師の自宅へ向かう。そこで今日のデズラの九千円を貰う。私は九千円と云う金を手にするのは、実に久しぶりで、妙な緊張感があった。紙幣を手にするのもひと月ぶりである。

 空腹であったが、飯のまえに意気投合した乞食と共に高田馬場駅前の公園でカップ酒の酒盛りになった。私は、長い髪が幾つもの棒状に汚れ固まった乞食を相手に、彼が酒をあおる姿をさかなにしながら、来るところまできたと云う悲愴ひそう感慨かんがいと世間を傲然ごうぜん嘲笑わらおもいが一時錯綜さくそうしていった。

 

 阿佐ヶ谷に帰り着いたときには、午後八時を回っていた。ぼんやりと部屋のなかで、壁にもたれ、安酒の酔いにまかせて万年床に坐していた。

 〈貧乏はあきたからと言って やめるわけにいかない〉

 と、地の底からのうめき声のごとく心のなかに反響するものがあった。とうにの沈んだ窓からは、なんの光も差し込まぬようであった。(完)


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