三畳一間
藤宮史(ふじみや ふひと)
第1話
前歯が無かった。上の歯五本が、歯の根元だけ残して無かった。
その頃は、昭和の
二十四歳であった。若かった。希望に
十九歳のとき、奮起して単身上京。偉い芸術家、美術史に名を残す画家になる筈であった。併し、実際のところ五年経ち、私の心のなかに残ったものは
私は、日常の生活に負けたのだろう。食って生きてゆくために、
その頃、私は阿佐ヶ谷の、三畳ひと間の木造アパートの二階に、ひとりで住んでいた。
そこは
部屋は、広さの割に大きすぎる
この部屋の、私の印象は、断崖の絶壁の、壁面を薄く抉った窪みのような印象で、そこに居ると、どうかすると、ずり落ちて崖下に真っ逆さまに墜落してゆくような気がしたものである。
それから部屋のなかの様子であるが、窓際に沿うように縦に、
あとは、部屋の扉は、これ以上薄くなれない3ミリ厚のラワンベニヤ板で造られて、扉の木枠も
だから、このときから
私は、その時代の、八十年代末頃の妙に近未来的志向に気負った意匠の電話機が我慢ならなかったのである。
だらりと垂れた汚れた
ちょっと前なら、煙草のフィルターにちぎった紙片を巻いてから口にはこんでいたが、この頃では、それも面倒で直接
もう何日も、まともな飯を食っていなかった。ひと袋1キログラム詰めのABCビスケット(百九十八円)で二・五日間を
満腹であること、また食事の内容に満足した記憶の方が少なかった。このときも所持金が五百円を切っていて、
空腹にニコチンはこたえるが、腹の中がカラなら、せめて肺の腑だけでも何かしら詰めておきたい気持ちであった。
もえるゴミ、もえないゴミ、のゴミ出し日なら、種類は問わず前日でも当日でもいい。併し、ゴミ収集車より先に行かなくては駄目だ。
古新聞、古雑誌、文庫本、単行本などの古書籍、レコード、カセットテープ(ダビング自家用品)、まだ充分使えるコップ、皿、鍋、ヤカン、こまごまとした調理器具類、上着、下着の古着、皮靴、スニーカー、それに粗大ごみのカラーボックスやステレオデッキ、スピーカー、姿鏡なども区別なしに生ゴミの袋のよこに一緒に捨てられていた。
とくに、私が
雨あがりのゴミ置場で、ひと目も気にせず古書、雑誌の選別をする。手提げ紐のついた頑丈な紙袋はあらかじめ持参していたが、ときとして古書が紙袋に入れられて捨てられていることがあり、時間帯によっては、中身を一瞥して古書店へと直接持って行くこともできた。
今日は、持参の紙袋をひろげて、古書を一冊ずつ点検してゆく。大概、古書は綺麗なまま捨てられることが多かったが、なかには本文に派手な線引きがしてあったり、切抜きのページの物もあり、折角部屋に運び込んでも、また捨てに行かないとならなくなる。そう云う憂き目のないように点検は
紙袋一杯に詰め込んだ古書二袋を、ながいこと掛って部屋まで運ぶと、手だけでなく両肘の関節も筋が伸びたようにキチキチと痛んだ。赤くなった両手のひらを揉みながら、先刻の煙草の呑み残しを上着のポケットから出して、火をつける。
本来、私は、煙草はメンソール系の、とくにセーラム・ライトを愛煙して、その一箱二百五十円の煙草を買っていた。併し、経済的に行き詰まる頃になるとメンソール系以外の安価の物でも我慢して吸うようになり、そして、だんだん更に値段の安いショート・ホープやピース、ゴールデン・バットなどにも手をだすようになっていった。それから、仕舞いには自分の部屋の灰皿からシケモクを拾って吸うようになり、とうとう外で、他人の吸った残り
拾ってきた古書のページをぱらぱら捲ってみる。毎回であるが、古書の束からは元の持主の人物像が浮かびあがってくる。それに因ると、どうも私は世間の人たちとうまく遣ってゆけない、適合しないと、この古書の束からも、それが
私は、三畳ひと間のくすんだ土壁にB4サイズの紙を貼りつけ、たくさんの短い文章を書きつけていた。その言葉のひとつに、
〈ひとり 三畳間から悲しみが一望できる〉
があった。いつの頃からか、そう云う習慣ができ、ノートなどに書き留めておく方法もあったが、ノート代を節約して、こうしておいた。否、それだけではない。もう今は、何を遣ってもどうせ結果はでないから、駄目だからと、しっかり何かを作ることが出来なくなっていた。
昼頃の、古書店の開店時刻を見計って部屋を出る。高円寺まで歩いて行くので、持参する古書をあらためて選別したが、一回の買い取りに遠路たくさん提げて行っても
何気なく、私は袋を提げて古書店に這入るが、ピリッとした店内の空気が痛いほど伝わってくる。私が、一歩店内に入ったところから古書店の親爺は真剣勝負の雰囲気で、こちらを
「買い取り、いいですか?」と、それだけを
親爺は、こちらに目を合わせることもなしに、
古書を検品する親爺の節くれ立った染みだらけの手の動きは、そのまま言葉を発しているようにも
事実、ある古書に親爺の手が止まり、手が戸惑いと
よく観察すると、机の右側、中央、左側にふり分けているようで、優、良、可、不可を即決しているようである。不可は紙袋のなかに戻されてゆく。
検品は、ものの五分間と掛らず終わり、「六五〇円」と告げられた。それは、絶対的な神の
ひさしぶりに、煙草の自動販売機でセーラム・ライト一箱を買う。二百五十円である。この前は、いつ煙草を買ったのか覚えていないぐらい記憶は古くなっていた。ひと月、否、ひと月半以上は買っていないだろう。
私は、どうして、こんなに今の生活が窮乏しているのか、自分でも
アパートの家賃も、既に二ヶ月分
高円寺駅の西側にピンクサロンが軒を連ねる通りがあり、そのピンサロのおしまいの所にニューバーグは在った。このハンバーグを専門と看板を掲げる店は、店構えこそ立派だが、肝心のハンバーグがハンバーグ業界のなかで最低級品に位置する××××ハンバーグとビリを争うもので、併し、
パンのような食感のハンバーグであるが、私は、それをダブル(二枚)にして、ハンバーグの上にとろけるチーズ二枚をのせて食べるのを定番にしていた。併し、今日は、三十円足らずにチーズは一枚のせるだけにする。最後の
目覚まし時計のベルが鳴るまえに、目が覚めてしまうのは
午前五時半頃には起床して、ズボンを
電車に乗って、阿佐ヶ谷駅から高田馬場駅へと向かうが、百五十円の電車賃を使うと残金は二十円だけになった。
早朝であるので電車内は混まなかったが、私の
午前六時前には、高田馬場駅前に到着する。改札口の前にはいつもの
この親爺は、これはと思う人夫に、その場で百円玉を握らせて
早稲田通りの舗道の脇に建っている薄い建物が親爺の仕切り場だった。このビルディングと冠してある建物は極ごく薄く切った西瓜のような按配で、建物全体の敷地も狭く、最大幅が五メートルあるかないかと云うもので、広いところから狭いところへと向かうと刃物の刃先のように尖っていた。
ガラガラとシャッターを開けると仕切り場が現れる。併し、狭すぎるそこに居る者などひとりもおらず、皆人夫たちは仕切り場前の舗道のガードレールの上に腰をおろして煙草を吸っていたり、路面に蹲んで缶コーヒーを飲んでいたりした。
もともと他の手配師から人夫たちを遠ざけるのが目的だから、舗道で屯している人夫たちが小雨に濡れようが強風に
親爺の思いつきで、いい加減な建築現場への人夫選びで、その日、私は
建築現場は東急グループの現場で、高田馬場にあり、今日の現場は歩いてゆける距離に在った。もっとも、乞食と一緒であるので、まさか混み合うラッシュの電車には乗れないだろう。
午前七時半頃、現場に着くと、現場監督の訓示、朝礼、体操はなしで、いきなり建築資材の片付けとガラ出しが始まった。そこは出来上がり直前の現場で納期が迫っているらしく、また人夫の予算も残り
それでも、昼飯まえには予定の仕事をこなし、そして、予想外であったのは、私よりも乞食の方が真面目に働いていたことであった。その日の私は乞食以下の働きぶりであったが、案外監督のうけはよかった。
昼飯は、私は電車賃で残金二十円になり、手配師の親爺から百円貰っていたが缶コーヒーを飲んだので、やはり二十円しかなかった。併し、私同様に乞食も持ち金がないようで、現場から離れて食堂に行ったり買い食いをするふうでもなく、また、私も現場の仮設トイレのよこにある糞尿臭のする水道の蛇口から、口をつけるようにしてがぶがぶ水を飲んで凌いでいた。
私は、建築会社の社員たちの出入りする詰所を避けて、コンクリート剥き出しの建築現場のなかに居た。尻にひいたガラ袋をふたつに折って坐り直し、封を切ったばかりの煙草の箱をあけ、一本とりだして口に啣える。私同様、詰所に居場所のない乞食も現場の建物のなかをうろうろしているようで、彼を呼びとめて、煙草を勧めてみる。ふたりして紫煙くゆらしながらいろいろと話をしてみると、乞食はとても気さくな人柄であった。つい私は、いま自分がおかれている境遇や、いかに、今も仕事がしたくないかを力説してみたが、これは話をする相手を間違えている。私の気持ちは、もっともな話と同情され、私は乞食から頑張れと励まされるのであった。
仕事が終わり、手配師の自宅へ向かう。そこで今日のデズラの九千円を貰う。私は九千円と云う金を手にするのは、実に久しぶりで、妙な緊張感があった。紙幣を手にするのもひと月ぶりである。
空腹であったが、飯のまえに意気投合した乞食と共に高田馬場駅前の公園でカップ酒の酒盛りになった。私は、長い髪が幾つもの棒状に汚れ固まった乞食を相手に、彼が酒を
阿佐ヶ谷に帰り着いたときには、午後八時を回っていた。ぼんやりと部屋のなかで、壁に
〈貧乏はあきたからと言って やめるわけにいかない〉
と、地の底からの
三畳一間 藤宮史(ふじみや ふひと) @g-kuroneko
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2011.6.5~10.27/藤宮史(ふじみや ふひと)
★0 エッセイ・ノンフィクション 完結済 64話
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