第19話

 一枚の招待状が届いた。その招待状に書いてある名前はとても懐かしい名前で、字を見るだけでいろいろな思い出が浮かんだ。


 大学を卒業してかなりの時間が経った。今思えば、あのころはもう少しいろいろなことをやっておいたほうが良かったと思う。中学、高校と部活も何もせず、大学に行ってもサークルにも入らずに過ごして、そのまま卒業した。


 それでも、その中で彼女と出会ったことは大きな経験だったと思う。彼女が選んだ道はぼくとは一緒ではなかったけれど、それでもあの真夏の東京で彼女のピアノの音をもう一度聞けたことは、ぼくが今歩いていくための大切な支えになっていると思う。


 既に着慣れたスーツを来て、家を出る。就職して、ぼくは実家がある町よりも少しだけ仙台の中心地に近い二つ隣の町に住むことにした。新しい住まいは実家よりもずっと狭くて、窓から見える景色もマンションが周りに立っていて空が狭かったけれど、ぼくはこの景色を気に入っていた。土曜日の朝の電車は平日ほど混んでいない。


 仙台駅で、新幹線に乗り換える。彼女に会いに行ったときは、行きだけが新幹線で帰りは夜行バスだった。バスの中でのエアコンに乗って届くかび臭いにおいと気怠いマットは、今も背中にへばりついていていつでも思い出せる。とにかくあの頃は必死だった。


 駅のホームで10分くらい待っていると、ホームに紅い色をした新幹線が滑り込んできた。指定された席に着くとゆっくりと進む。よく晴れた宮城野の空に浮かぶ太陽に照らされて、稲穂が揺れているのが見える。あのとき、ぼくは今のような余裕がなかったかのように思う。彼女に会いたいけれどいざあった時には何を話せばいいのかよくわからなくて、結局ぼくよりもずっと大人になっている彼女に助けられていた。思えば、出会っていたころからずっと、ぼくは彼女よりも子どもで、ぼくに何の余裕もないことが分かっていたのかもしれない。


 それでも、彼女はぼくにとても丁寧に、かつ優しく接してくれていた。その優しさを辛く感じることがあったのも、ぼくがまだ子供だったからだと思う。


 あの頃はあまり慣れることのなかった新幹線も、東京への出張を重ねるたびに特別感を感じるものではなくなっていった。人が多くて苦労した東京駅も、今では一月に一回は仕事で訪れる。


 手元の招待状をもう一度確認した。代官山にあるカフェで行われる、小さなコンサート。おおそらく客数は多く見積もっても20人くらいになるだろう。1000人入る大ホールで行われるようなコンサートではないにせよ、彼女にとってはとてつもなく大きな第一歩になる。それを是非見届けて欲しいという彼女の願いを断る理由もなかった。


 招待状をかばんにしまうと、新幹線の規則正しい揺れに意識が遠のいていった。なにか昔のことを夢に見ていたと思う。目が覚めると周りの景色は山と田畑ではなくビル群になっていた。車窓からすぐ近くに見える高層ビルのガラス窓に太陽が反射してぼくの瞳孔を刺激した。


 東京駅で降りると、べっとりとした熱気がぼくを包んだ。さすがに上着は来ていないが、半袖の白いYシャツにもすぐに汗がにじんできて、容赦なく夏であることをぼくに感じさせる。アスファルトとコンクリートが熱せられてサウナのようになっている。そそくさとエスカレーターを降りてエアコンの効いた駅中に入る。


 東京駅の人混みの数はずっと変わっていない。小学生のときに初めて東京に出かけた日も、大学生に彼女に会いに行った日も、ずっと道行く人々はいつだってお互いが無関心で、ただ己の目的地に向かって進んでいった。あのときはまるでロボットのように行き交う人々に戸惑ってそれを避けるのに精いっぱいだったけれど、いまなら避けるのは当たり前のようにできるし、惑わされることもない。


 待ち合わせ場所の指定は、八重洲口のマクドナルドだった。もう社会人になったのにわざわざマクドナルドにしなくてもよいではないかと思ったが、あえてこの場所にしたのだろうと思う。新幹線と在来線の改札口をそれぞれ一回通り抜けて、八重洲の一番南側に向かう。そこにあるマクドナルドの二回は大きめの食事スペースになっている。


 階段を上がるってあたりを見渡した。乗り換えを待っていると思しきサラリーマン、勉強道具を広げながら雑談に花を咲かせている制服を着た学生たち。これから地方に帰っていくと思われるファミリー。それぞれが個室でハンバーガーを食べたり、飲み物を飲んだりしながら過ごしている。


 その中の、一番端の席に彼女が座っていた。手元に文庫本を広げて、それに目を落としている。前にあったのは半年前だったが、そのときよりもより背中がまっすぐに、大人びて見える。真っすぐの髪は肩にかかるくらいには伸びていて、それが昔の記憶と違っていた。


 久しぶりと声をかけた。話しかけるのに、もう今までのように一呼吸置く必要はない。文庫本に走らせていた顔がこちらに向き、みるみるうちに笑顔に変わっていく。天真爛漫という言葉を与えるには少々落ち着いてきているから似合わないような気がするけど、それでもその笑顔にはこれまで覚えている彼女の10年の笑顔を丸ごと思い出せるほど愛おしいものだった。


「久しぶり、高瀬くん」


 時が再び動き出す。



<了>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

真夏のピアノソナタ 四宮 式 @YotsumiyaS

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ